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第29話 「『何が本当?』」
しおりを挟む「コーヨーさん、お風呂どうぞー」
コンロの火が強くなり過ぎないように、かといって消えないように注意しながら見守っていたところに、サカイさんがテラスのところから声をかけてきた。
「じゃあこっち代わってもらっていいかな。シャワーすぐすませてくるから」
「いいですよーゆっくりしてください。温泉はいれない分、一人風呂満喫しないと!」
快活なサカイさんの物言いに、思わず苦笑してしまう。
ようやく日が暮れて、あたりが暗くなってきた中、コンロの火がばちばちと燃えている。
夜になって、少し涼しくなってすごしやすい気温になった。そんな中、網を外したコンロは焚火のようなあたたかさがある。
バーベキューが終わった後で誰からともなく「せっかくだからこのまま外で飲もう」と言い出したのも納得だ。
焚火のように、コンロを囲んで宴会をするというのはまさに夏のイベントらしい。ほとんどのメンバーが乗り気だった。
ただ、問題はお風呂だった。
日中は陽ざしが暑く、みんな汗をかいてたし、なおかつバーベキューの煙もあいまってさっぱりしたいのは全員共通の思いだ。ただ、ここのコテージの風呂はほとんど一人用で、湖のほうにある温泉にいかないといけない。
さすがに火のついたコンロを放置して無人にするわけにはいかない。留守番役が必要だった。
当たり前だけどどうせなら温泉に行きたい、という人がほとんどだ。
「あ、じゃあ私残りますよー」
一番最初に言い出したのはサカイさんだった。
サカイさんは他の女子メンバーから「本当にいいの?」と聞かれていたけど、彼女たちに何ごとかを言ったら女子たちは納得したようだった。
温泉に行きたそうなグループを見ながら、僕も手を挙げた。
「僕も火の番しますよ。サカイさんだけじゃ炭の用意とか大変だろうし」
「お土産に温泉饅頭買ってきてください」と冗談交じりにお願いして、結果、二人で留守番をすることになった。
青葉先輩は、一瞬なにか言いたそうにこちらを見たけど、すぐにケイタさんや他の同級生に話しかけられて、会話することなく温泉のほうへ向かった。
「炭は調整してあるから、見てくれてるだけで大丈夫。もし消えそうになってたら、そっちの小さい炭いれといて」
「了解です! 何かみんなでワイワイするのもいいですけど、こうやって静かに火を囲むのっていいですね」
楽しそうにビールを持ち出しながらサカイさんがアウトドア用のチェアに座る。泊っているところはコテージではあるけれど、気分はすっかりキャンプのようだ。
入れ替わりにコテージの浴室に向かう。内装はなかなか綺麗だった。
シャワーのコックをひねって、煤で汚れた肌を洗い流す。
そうして、体を洗いながら、薄くて、面白みのない体を再認識する。
温泉のほうに行かなかったのは、青葉先輩の前で裸になるのはイヤだったというのもある。いまだに、先輩にどうしようもなく男の体でしかない自分をさらけだす勇気はない。
今はなおさら、ナツメさんという存在がいるのだから。
温泉に向かうときも、三年生グループはかたまっていて。自然と、先輩とナツメさんは一緒にいて。
他の人ももちろんいた。だけど、仲よさそうに二人で話す二人の後ろ姿を見ると、過去に見た光景を思い出してしまう。
青葉先輩が、当時付き合っていた彼女と並んでいる姿。
いつだって僕は、それを後ろから見ていた。だから青葉先輩の昔の彼女たちのことは、顔も覚えているけど、後ろ姿ばかり思い出す。
後輩の顔をして、僕はそれを何もないようにふるまって見ていた。衝動的に開けたピアスの穴がどれだけ痛みを覚えても、絶対に自分の手が届くことのない光景に浅ましくも羨んで、自己嫌悪で吐きそうになっても。ただの後輩として、それを眺めていた。
誰に隠すことなく、堂々と並んでいられる、男女の恋人。
男同士でつきあうのとは、まるで違う。
秘密にして、友人に嘘をついて、二人だけの約束事で成り立っているような、脆い恋人関係とは。
青葉先輩はナツメさんの写真を見た時に、特に惹かれた様子はなかったけれど。実際に会ったナツメさんは美人であること以上に、決して奢らす周りに親し気で、それでも凛として立つその姿勢には内に秘めた自信が表れていて。
女性をそういう目線で見ることができない僕でも魅力的な人だということはわかる。
だから。
今、たまたま、僕に優しさを向けてくれる青葉先輩がナツメさんに気持ちが向いても仕方ない、と思う。むしろ、それは、いつかくると思っていた、先輩の戻るべき姿だとすら思っている。
だって。
男同士で付き合うなんて、ノンケにとってメリットなんてほとんどない。周りに隠して、もしもバレたら詰りを受けるかもしれない。セックスだって女性相手とするよりも何倍も面倒だ。
だから。
先輩が、もしも、あるべき姿に戻ろうとしても、それは、最初からわかっていたことなのだから、短い間でも『恋人』という扱いをしてくれたことに感謝をすべきだ。
だから。
僕は。
――だけど。
「っ、痛っつ」
気づけば左耳のピアスを握りしめすぎていて、耳たぶから血がにじんでいる。
指に付着した血の赤色。
無性に叫んで暴れたい衝動と、全てを忘れて倒れてしまいたい虚脱感に襲われる。
泣き出しそうな気持ちはピアスに収まらなくて。
癇癪を起した子供のような感情がぐるぐると身体の中を駆け回っている。
だって。
オレのものだって、独占欲だって、キャップやパーカーをくれて。
触りたい、って言って、実際たくさん触って、キスだってたくさんして。
他の人の前で泣かないでって言っておいて、自分はわざと泣かせてきて。
だから。だけど。だって。
ぼくのものだって言ったのは、先輩、じゃない、か。
そうやって沢山、ずるいことをしてきたから。
わかっているのに、本当は僕といるほうが先輩にとって間違いなんだってわかっているのに、早く覚悟を決めなきゃいけないってわかっているのに。
もしも、という淡い夢遊病者みたいな期待は消えなくて、すがりたくなる。
わかっていても覚悟も決められなくて、現実をつきつけられるのが怖くて逃げるような臆病者の自分が、反吐が出るほど情けない。
視界が滲んで、目からなにかが出る前にシャワーを思い切り頭からかぶる。それから適当に洗うのを切り上げて、着替えを済ませて、テラスの外に出る。
涼しい風が濡れた髪をかすめる。
「ごめんサカイさん、任せっきりで」
「全然平気ですよー。むしろ焚火しながらビール片手に天体観測は贅沢でした」
夜空は少し灰色の雲がかかっていた。それでも街中では決して見られないほどの数の星が藍色の空に広がっている。
夏の夜空。
ふいに、先輩の指で触られながら、染め上げられてしまいそうになったことを、思い出す。
「おーい、おつかれさーん」
少し離れたところから、こちらに呼び掛ける声が聞こえた。
振り返れば二人分の人影。
ラフな格好で、肩にタオルをかけた青葉先輩。
それから、その横には、化粧を落としてもキレイな、髪をまとめたナツメさん。
温泉から帰ってきた様子の二人が、こちらに近づいてくる。
「あれ? 青葉さんとナツメさん、早いですね」
「二人に任せっぱなしも悪いしな。あ、これお土産の温泉饅頭と地ビール」
「私はもともとのぼせやすいたちだから、早めにあがったんです」
「わー! ビール! ありがとうございます!」
サカイさんは嬉しそうに青葉先輩が差し出すビールを受け取る。
僕は、何の心の準備もできていなくて。間抜けのようにつったっていた。
「コーヨー」
青葉先輩の髪はまだ湿っていて、じわりと汗がにじんで、顔はほのかに紅潮している。薄手のシャツが身体のラインを際立たせるようにはりついていた。
さっきシャワー中で考えていたいろんなことはいまだに脳から喉元、心臓から胃までぐるぐるずるずると暴れまわっている。
なのに、正直、すぐ近くにきた青葉先輩は目に毒過ぎて、なんといえばいいのかわからなかった。
「また、ちゃんと髪乾かしてないだろ」
先輩は自分の肩にかかっていたタオルを僕の頭にかぶせる。
また、という言葉で、青葉先輩の部屋に、はじめて『準備』のために行った日のことをさしていると気づいた。もっと言葉が出なくなる。
あの時と、同じように、丁寧に僕の頭を包んで、優しくタオルで水分をとっていく。
身体を駆け巡っている不安と焦燥と、タオル越しでも触られている羞恥に溺れそうな中、なんとか口を開く。
「だいじょうぶ、ですよ。夏だし、すぐに乾きます、から」
「夜は急に冷え込むんだから、気をつけたほうがいいだろ。……ああ、やっぱ、コーヨーの髪の毛、やわらかくて、きもちいいな」
後半の声は僕にしか聞こえないような、ささやくような音量だった。
どくん、と心臓が跳ねる。こんなにも持て余した感情でいっぱいっぱいなのに僕の心臓はいつだって正直だ。
ナツメさんとサカイさんからは、世話焼きの先輩が後輩にかまっているようにしか見えないだろう。けど、タオルに隠れて先輩の指は僕の髪の毛を梳く。
それに紛れて先輩の指が、僕の耳たぶに触れる。
その感触は知っている。触られるたびに翻弄されたことを身体はすぐに思い出す。熱が、顔に、耳へと集まろうとして。
けれど、それはいぶかし気な先輩の声で消えた。
「……コーヨー、これ、どうしたんだよ」
先輩の指がピアスの近くの肌に触れている。
そこは、さっき僕が握りすぎて、血を出したところだ。
集まる筈だった熱は逆流して冷気に代わる。
大したことのない出血だったけど、もしかしたらかさぶたか、まだ赤く濡れているのかもしれない。
「あー……、シャワーでピアス、ひっかけたから、そのときに、ちょっと」
へたくそな言い訳だった。
それでも、自分自身で血がにじむほど握っていたことなんて、なんでそうしたかなんてことを、青葉先輩本人にいえるわけなんてない。
「でも一応、髪、乾かしてきますね」
先輩は納得しているようではなかった。けれど、これ以上、こんなに近くで青葉先輩と一緒にいることはできなかった。それに、普段隠しているピアスが、見られたらまずい。
逃げるようにコテージの中に戻った。
いや、正しく、逃げた。
先輩の大きな手も、気遣いも、嬉しいのに。それなのに。
ナツメさんと二人で、二人きりで、暗い道を歩いて、ここまで来たのか、と醜い本音が心臓から割けて飛び出しそうだった。
◇
無駄に時間をかけて髪を乾かして時間をつぶしていたら、他の温泉組も戻ってきた。
みんな満足そうな顔をして、宴会の準備をはじめる。それからすまなそうにしながら、留守番をつとめたことに感謝の言葉をくれて、何人かの人がお土産と称してお菓子やお酒をくれた。
みんな好きなことをやることに忠実だけど、こういうところを忘れないから、居心地がいい。
「合宿初日に乾杯!」
誰ということもなく乾杯の声があがって、みんな、いくつかのグループに分かれてそれぞれコンロを囲んで、つまみを食べたり、お酒を飲んだりしている。
僕は同期のメンバーと一緒にビールを飲んでいた。
隣のコンロを囲んでいるメンバーの中に、青葉先輩がいる。ナツメさんも。
あえて視界にいれないようにしていいたけど、同期との会話もおざなりに、そっちの声を拾おうと勝手に耳が集中していた。
「大学生、キャンプ、湖っていうとさあ。正直あれ思い出すよな」
「『13日の金曜日』!」
「クリスタルレイク!」
「ジェイソン!」
腐っても映研であはるので、古典的名作の映画は一応観ている人が多い。「そういえばこの湖ってボートあったよな」と誰かが言って、笑っている。
「ナツメさんは見たことあります?」
「もちろん。ジェイソンで有名だけど、今観ると、有名なぶん、別の面白さがあるのよね」
「ああ、わかる。正直、オレもちゃんと観たのって大学入ってからだけど、すげえ驚いたもん」
「青葉くんも?」
「製作側が狙ったわけじゃないんだろうけど、やられた! ってなったな。木花さん、ホラー映画とか観るんだ?」
「そうね、演劇部だから舞台とか映画はよく見るし。演出とか空気の作り方とか参考になるから。ミステリーやサスペンス物も好きかな」
「えーっ、ナツメさんがそういうの観るのってなんか意外ですね。ギャップっていうか。俺もホラー好きです!」
ケイタさんがここぞとばかりにナツメさんの話に混ざろうとする。だけど、ケイタさんはホラーはあまり興味がないことは映研メンバーなら知っている。
「ナツメさんのおすすめとかありますか?」
「ホラーで? うーん……古いけど、『ローズマリーの赤ちゃん』とか?」
「あー、あれですね、う、うん」
ナツメさんがあげたのは有名なホラー映画だ。多分、観たことも名前も知らないケイタさんはあいまいに誤魔化している。
そこに静かに青葉先輩の声がする。
「ああ、あの映画すごいよな。主人公の女性の演技もすごくて、最後まで、一体『何が本当?』 ってわからなかった」
「そうそう! ずっと不安感をあおられて……」
「ホラーだったら、オレはあれが好きだなあ」
そういって何作か映画のタイトルをあげる先輩に、ナツメさんが嬉しそうに応じている。どれも観たことがあるらしい。
僕の手の中にあるビールはいつの間にかぬるくなっていた。勢いよく飲むと、苦い香りが鼻について、吐き気がしてくる。
吐き気がするのは、何杯も飲んだからと、ぬるくなったビールのせいだ。絶対、そのせいだ。
「ごめん、酔ってきたかも。ちょっと歩いて、酔いさましてくる」
同期に断りをいれて、宴会の喧騒から離れる。
コテージから湖のほうに通じている遊歩道を歩く。街灯はきちんと整備されていて、そこまで暗くはない。
賑やかなざわめきが遠くなる。道の途中に設置されているベンチに座って、ふっと一息つく。
街灯のせいで、星はよく見えにくくなっていた。
スマートフォンで時間を確認する。まだ夜中というわけではないけれど、そこそこ遅い時間になっている。
そういえば、合宿中も、『毎日電話する』っていう約束は、有効なんだろうか。
基本的に一緒のところにいるわけだし、電話なんて、意味ない。
必要があれば声をかけられる位置にいるし、お互いの姿が見える。
必要が、あるのだったら。
スマートフォンの画面をじっと見つめて、しばらくそのままでいた。
指を動かして、画面をタップしようとして、躊躇して。
はあ、と深く息をついた途端。
スマートフォンが鳴りだした。
「――っはい!」
「コーヨー? いまどこ?」
反射的に着信をとると、相手は青葉先輩で。
そのことに泣き出しそうなほど、嬉しくなった。
「えっと」
だけど。
電話の向こうで、「青葉くん?」と小さく、でも確かに、凛とした声が聞こえて。
「あ、すみません、今、ちょっと用事あるんで、切りますね」
先輩の返事を聞く前に電話を終わらす。
こんな無理矢理、電話を切るなんてこと、初めてした。
毎日電話する、っていう約束は守れたなあ、なんて思いながら。
先輩に嘘をついて誤魔化したことと、僕に電話しながら、近くにナツメさんがいたんだ、という気持ちが混ざって、心臓のあたりが急速に冷えていった。
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