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第8話 「触りたい、って思ったりしないの」

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 最近、青葉先輩の機嫌がとてもいい。理由はわかっている。僕の泣き顔を見るという悪趣味にはまっているからだ。

 夏季休講にはいって、バイトが夜のシフトがはいっていないときは先輩の家に行って、だらだらと飲みながら映画を観ること数回。
 それだけだと、大掃除の時に号泣した恥ずかしさや二人きりという緊張でどうにかなりそうだけど、いや実際そこは毎回そうなんだけど、問題は先輩が選ぶ映画のチョイスだ。
 本当に悪趣味にはまったのか、わざと僕が泣くような映画を選んでくるのだ。

 最初はまったくその意図に気づかないで「ガチ班がおすすめしてたやつ」とマイナーなタイトルの映画を先輩がすすめて、僕は断る理由もなく一緒に観た。
 映画のために部屋を薄暗くして、ソファに二人並んで映画を観る、という行為がひどく気恥ずかしくて。本当はひとりで床に座りたかったけれどそのために使える理由がなく、致し方なく先輩とソファに並んで映画を観ることになった。先輩が片側のひじ掛けにもたれているのをいいことに、僕は僕で反対側に座って不自然にならない程度に最大限の距離をあけた。
 そうはいっても、お互い映画を観ている時に何か話すタイプではない。それに映画自体は面白くて、すぐにのめりこんだ。
 だけど、映画の後半になって。

 あ、これはまずい。

 と、自分の涙腺がゆらいでいるのを感じた、
 トイレにいくふりをしてそっと席を立とうした。けど。
 立とうとしたその瞬間、手首をつかまれて。
 驚いてつかまれたほうを見れば、ビールを片手に持っている青葉先輩の唇の片側がにやりとあがって。
 はめられた、と気づいた。
 結局僕は泣くのを見られないために逃げるということは許されず、ソファに縫いつけられたまま、映画の映像にあわせて、目から涙を出すしかできなかった。
 泣いてる僕を先輩は自分のほうに引き寄せて、あやすように僕の頭を撫でてきた。大きな掌が頭を包むような、長い指でゆっくりと髪を梳かれるのは、悔しいことに恥ずかしさよりも安心感と、なによりきもちよくて。泣かせた原因の張本人なのに逆らうことはできなかった。
 引き寄せられたせいで最初につくった距離はなくなってしまって、肩が触れそうなくらいに近い。熱の伝わる近さと、泣き顔を見せる羞恥と、映画による涙腺崩壊攻撃で、僕は僕はますます泣いた。
 せめてもと汚い泣き顔を見られないようにとテーブルのティッシュをひたすら目に当てて、先輩のほうを見ないようにした。
 ラストにまた涙腺を刺激すなシーンがあって、使い物にならなくなったティッシュがまた増えて、ようやく落ち着いたのはスタッフロールでアシスタントスタッフの名前が流れてるころだった。
 手はあいかわらず頭にのせられている。
 チラリ、と先輩のほうをうかがう。
 もう数十分くらい僕の頭を撫で続けていた先輩は、映画のほうを見ないで、僕の横顔を見ていた。
 照明を落とした部屋では、テレビの映画くらいしか光源がないから、青葉先輩の顔は影がかかっている。
 いつから見ていたのか。もしかして、僕がぐずぐずと泣いてるところをずっと眺めていたのか。
 映画も見ないで、泣いてる僕を。
 かあああ、っと顔が赤くなる。恥ずかしさといたたまれなさと、先輩の行動の理由がわからなくて頭がパンクしそうだった。いや、青葉先輩の行動や言葉で頭がパンクするのはいつものことだけど。

「……みないでくださいよ」
「ヤダ」
「やだ、ってそんな……」
「だって、コーヨーの泣き顔見られる権利はオレのものだろ?」

 頭を撫でていた手がするりと動いて、僕の頬を優しく撫でる。
 泣きすぎてボロボロの顔なんて見られたくない。だけど顔を逸らすことを許さないように、優しい力で顔に手を添えられて、先輩の視線から逃げられない。

「映研で飲んでるときも、泣きそうになるとトイレとか買い出しとか理由つけて、逃げてたろ」
「え、知ってたんです、か」
「そうかもなって思ってただけ。けど、コーヨーは、見られるのがイヤって以上に、本当に泣くの慣れてないんだな。無理に我慢しすぎて、息もうまく吸えてないじゃん」

 楽しそうに笑いながら先輩は僕の頬を撫でる。
 その指先は頬からさらに降りて、ぼくの、唇にそえられる。

「だからこれからは、こうやってコーヨーの泣く練習しようかなって」

 話している内容とはまるで関係ない、唇を先輩の指先がそっとなぞる。
 
「でも他のやつらの前で泣いてほしくないから、二人の時だけ。そのまま、オレに甘える練習もしてよ」
 
 唇にあてられた指も、見つめる視線も逃がさないといっているようで、射すくめられて体が動けない。
 楽しそうに微笑んだと思った後、その顔がゆっくりと視界に大きくなっていく。
 パンクした頭は、先輩の顔が近づいてきているのだと気づくのに遅れて。
 そして脳がその事実に気づくよりも、目の前の視界の映像と体の神経が勝手につながって、バッと後ろに体を跳ねさせて先輩から距離をとった。
 不意をつかれたような先輩の顔。
 バクバクバクうるさい不整脈な心臓を感じながら、僕はひたすら不満そうな声をつくって単語をつなげる。

「……それなら、ぼくだって、先輩のこと号泣させるような映画、見つけてくるんで」
「ん? いいよ。そのときはコーヨーがオレのこと慰めてな」

 軽快に軽薄に笑う先輩に、僕は「新しいビール持ってきますね」となんとか、ようやくソファから抜け出した。
 冷蔵庫をあけて、その中の冷気で顔を冷まそうとする。
 自分で自分の唇に触れて、さっきの先輩の、唇を撫でて、それから、顔を近づけてきたのを思い出して。


 あれはもしかして、キス、を、しようとしたんじゃないか。


 まさかそんなわけない。
 確かに、先輩は僕との関係を『恋人』と言っていて。よくよく考えれば、恋人、というものは、そういう、キス、みたいな行為をしてもおかしくない関係のはずで。
 だけど、まさか先輩が僕にキスをしようなんて、そんなこと。
 だって僕は男で。先輩がいままでつきあってきたのは女性で。つまり、先輩にとってそういう対象は女性で、ただのノンケのはずで。
 つきあおうと、言ってくれたのはきっと、あの時泣いた後輩に同情した先輩の気まぐれや優しさにすぎないはずで。
 先輩が、僕と同じ気持ちを持ってくれてるなんて、そんな甘い期待なんて持っちゃいけない。そんな期待を抱いて、やっぱり同じ男はムリだと拒絶されたら、立ち直れるわけなんかないから。
 先輩が僕を親しい後輩だと、思ってくれてるというところまでは自惚れられる。それなりの好意や友愛を持ってくれてるだろうとは、思える。だからこうして一緒に映画を観たり、『恋人』らしく電話したりそういうことを許してくれる。
 なのに。先輩は、僕に自分の服をくれたり、顔を赤くさせて部屋に誘ったり、『親しい後輩』以上の自惚れを悪化させることをしてくるから。
 先輩が僕にキスをしようなんてするわけない、という気持ちと、さっきの指の感触とまっすぐ見つめくるあの瞳が、否定したい気持ちと葛藤しあう。
 どちらの結論も出ないまま、そのあとは少し雑談をして、日付を超えるくらいに僕は自分の家に帰った。
 先輩の部屋着を借りて泊まる勇気は、その時の僕にはなかった。



 それから、同じように先輩の部屋に行って、先輩が用意した映画を観て、僕が泣いて、先輩があやして、というのを数回くりかえした。
 もう引っかからないぞと、意気込んでいたのに「ホラー映画だから」という言葉に、ホラーで怖くて泣かせる気だろうか、そんなんじゃ泣かないぞと挑んだら、まさか終盤は人間関係の機微が重視されていて、クライマックスで感動で泣く羽目になるなんて思わなかったけど。

 そうやっているあいだに、幾度か、最初の時のように「あ、キスされるんじゃ」というような空気と距離感があった。
 そのたびに僕は逃げた。

 逃げようと意識して逃げたわけじゃない。ただ、ふと急に沈黙が降りたり、先輩がじっと僕の顔を見つめてくるときに、いたたまれなくて、恥ずかしくて、考えるより先に話題をいきなり変えたりトイレだといってその場から離れてしまうだけだ。
 そんなことをしていたら、最近僕の泣き顔を見ることにはまって最近機嫌のよかった青葉先輩は、今日はどこか思案げな、僕の声に反応するのも少し遅れて、心ここにあらずのような風になっている。

「えっと、先輩? 今日は何観るんですか」
「あー、うん、今日はすなおに面白いやつ」
「……本当ですか?」
「ホントだって。『許されざる者』だよ」
「あ、それ、あれですよね、『最後の西部劇』っていう」
「そうそう。とにかくカッコよくて。内容がめっちゃよくて好きなんだよ。『保管庫』から借りてきた」

 『保管庫』というのは映研が所有している、古典から新作まで数多くの映画コレクションを置いてある映研メンバーの家だ。
 歴代のガチ班やOBたちの寄贈でプレミアものの映像から最新の映画までそろっている。僕たちが気楽に映画をみながら飲めるのはこの『保管庫』の存在が大きい。

「コーヨーの家が1階だったら、『保管庫』の予備にされてたろうな」
「本当にありそうだからやめてください……あの量の管理なんてしたくないです」

 ゆるい映研だけど、保管庫にあるものは管理されている。プレミアものは特に厳重だ。ただメジャーなものは『予備保管庫』として別のメンバーの家に置かれている。
 それでも保管庫のコレクションは大量なので、「『保管庫』の家は一階がいい。床がぬけるから」というのが映研の中では定説だ。

「そういえば、オレを号泣させるって言ってた映画はもう選んだの?」
「ばっちりですよ。絶対泣かせます。今日時間余ったら観てもいいですよ」
「そんなに感動ものとかで泣かないんだけどな。逆に楽しみ」

 じゃあとりあえず先にこっちを観るか、とソファに座って先輩の持ってきた映画をつける。
 本当にこれまでの泣かせる映画ではなかった。名作がなぜ名作と呼ばれているのかよくわかる、渋いけどひたすらかっこよくて、でも心が動かされる映画だった。心が動かされるのは、もしかしたら泣き所なのかもしれないけど、泣けるというよりしびれる、といいたくなる映画だった。
 エンドロールを最後まで見てから、ひとつ息をつく。

「……めっちゃよかったです」
「な? いいよな」
「こう……かっこよくて……でもそれだけじゃなくって……わー全然言葉がうまくでない」
「わかる」

 笑って先輩はビールを傾ける。
 その時の、顎から首にかけて斜めになるラインがきれいだった。そのままビールを嚥下して、それにあわせて動く喉ぼとけがやけに男っぽくて、眼が離せない。
 思わず見惚れていると、気づいた先輩が不思議そうにこちらを見つめる。
 ああそうだ、普段のような飲み会だったら、こんな一瞬の盗み見なんて気にも留められないけど、ここは先輩と僕しかいないんだった。今から目を逸らすにはあまりにも不自然だった。
 だからそのまま、二人とも視線が絡んだまま、動けないでいた。
 す、っと先輩の目が細くなる。さっきまでの微笑みは消えて、真剣な顔。視線はそのまま、空になったビール缶をテーブルに置いて、わざと距離をあけていたスペースをなくすようにこちらに近づこうとする。
 心臓がバクンと大きく鳴った。
 まずい。
 頭が理解する前に勝手に体が動いた。

「――ビール、新しいのだしますね」

 立ち上がってそのままキッチンのほうへ小走りで向かう。
 また、あの「もしかして」という空気から逃げた、が正しい。自意識過剰かもしれないけれどそれでも、体は反射的に避けてしまった。
 あまりにもわかりやすく避けてしまった。先輩は気を悪くしてないだろうか。いや、悪くする要素が本当にあるのか。それすらもわからない。真後ろのソファを振り返るのが怖い。
 冷蔵庫を開けて、ビールを取り出そうとするけど、その動作はやけに鈍い。
 冷えたビールを手にして、密かに深呼吸をして、いつもの後輩らいし顔を作ってから振り向こうとした。
 した、のに。

「せん、ぱい」

 いつの間にか先輩はソファじゃなくて、僕の後ろに立っていた。
 背の高い先輩がじっと僕を見下ろす。
 僕は片手にビール、もう片手は冷蔵庫の扉を閉めようとしてできないまま固まるという中途半端な格好で、先輩を見上げる。
 先輩はさっきと一緒で、笑ってなかった。怒っているわけでもない。ただじっと、まっすぐに、僕を見ている。

「コーヨーはさ」

 僕の後ろにある冷蔵庫に先輩は手をつく。
 そうすると、冷蔵庫と先輩の間にいる僕は、挟まれたような形になって。
 後ろに下がれない僕は、逃げ場がなくて。

「触りたい、って思ったりしないの」

 さわ、る?
 さわりたい、って、何を。誰を。
 僕を腕の中におさめた先輩はゆっくりと身をかがめる。
 先輩の顔が、拳一つもない距離まで近くなる。

「オレは思うよ。――触りたい、って」

 言葉の意味を理解するより前に先輩のほうが先に動いて。
 拳一つの距離は、紙の枚数を数えるくらいの距離になって。
 あ、と。呼吸も、反射で動こうとする神経も、すべて止まって。
 
 きす、される。

 そう自覚した瞬間、ぎゅうっと目をつぶって、身をこわばらせた。手にしていたビールを落とす。ごとん、と音が鳴る。
 視界を真っ暗闇にして、身を縮こまらせて。心臓が耳元で鳴ってるように自己主張して。
 そうしておとずれるだろう感触を、緊張と不安と少しの期待を混ぜて待っていても、いつまでたってもこなくて。
 おそるおそる目を開けようとしたら、予想外のところに感触があった。

「えっ――」

 左耳の、ピアスのあたりに、あたたかいなにかが、触れていて。
 開いた視界には、先輩の後頭部が見えて。
 え、じゃあ、今、この、耳に感じるものは。

 やわらかいなにかが、ピアスの表面を撫でるようにうごく。でもピアスの面積は小さいから、どうしたって、そのなにかは耳たぶにも触れて。
 左耳に全ての神経と熱が集まる。今、僕の機能はすべて、左耳に存在している。
 ふぅっと、かすかな風が、いや、息が耳にかかる。びくっと体が跳ねる。
 そして、ピアスの石とキャッチを包むように、やわらかくてしめったもので挟まれた。

 先輩の、唇が、僕の耳ごとピアスを食む。

 唇の裏側で石を撫でられて、先輩の舌先がピアスキャッチをゆるりと舐める。
 見えなくてもはっきり伝わるその感覚に、爪先から頭まで電流のような刺激が走る。
 そのまま遊ぶように、それでも丁寧に、ピアスを口にふくんで、ピアスの存在を示すように唇と舌先で輪郭をなぞられる。
 最後に、わざと音が鳴るようにリップ音を一つ立てて、赤くてまるいピアスの石にキスをしてから、先輩の体は離れた。
 何が起こったのか、何をされたのか、わかっているけど頭が追いつかないまま呆然と見上げる。
 そんな僕の様子を見て、先輩はふっと笑って、床に落ちたビールを持ってくるりと身をひるがえしてソファのほうに戻る。
 それを見送って、いま起きたことを必死に整理する。

 キスを、されると思ったら。
 口ではなくて、耳に、ピアスに。
 口づけられて。
 その前に、先輩ははっきりと「さわりたい」と言って。
 それは、だから、


「あ、やっべ、めっちゃ泡でた! コーヨー、ティッシュとって」
「あ、え、はいっ」

 ソファに戻った先輩がさっきの空気とはまるで違う声で叫ぶ。
 落としたビールを開けたから、先輩の両手は泡が出ているビールを抑えていて他のものをとれない。僕は近くに会ったティッシュをとって、それを先輩に渡そうと近づいた。
 その刹那。
 先に触れたのは額にあたった前髪。
 くすぐったいと感じるよりも先に鼻先が互いにぶつかって。

 くちびるとくちびるが、重なった。

「不意打ち成功。なーんてな」

 嬉しそうに無邪気に笑う顔は、なんの気負いもなくて。
 悪戯が成功したのを喜ぶ姿に、僕はただただ言葉を失って。

「あ、でも手がビールだらけで、抱きしめられないじゃん」

 失敗した、と残念がる先輩に、あえてティッシュは渡さないでこのままにしようかと、本気で思った。




 あと。
 「先輩を絶対泣かせる」と宣言した映画は成功した。
 まあ僕自身も泣く羽目になったけど。

「お前な……ロッキーは、ロッキーは……ずるいだろ………」
「はは……3まで持ってきてますよ……やばい、ティッシュ足りない」
「アイ・オブ・ザ・タイガーじゃん……そんなん泣くに決まってるだろ……」

 目元を赤くしつつも僕ほど号泣しているわけじゃない先輩に、「目、真っ赤ですよ」と反撃したら、むっとした顔をされたあと逃げる暇なくもう一度キスされた。
 「コーヨーの顔のほうが赤いじゃん」と言われて、僕は反論できなくて、悔しいから次のロッキーのディスクを無言でセットした。
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