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第1部
46話
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「オレたちの故郷が狙われている。」
スミスが青い顔で戻ってきて告げると、オレに駆け寄る。
兵糧の乏しい男爵軍が伯爵の本拠地へと転進したのだ。どうやらがら空きの都市を制圧して立て籠り、春を迎えることにしたらしい。
そんな事をすれば、今は良くても春にはエルディー中から討伐軍が送り込まれて滅亡を免れない男爵。ヒュマス軍と合流できない以上、早いか遅いかだけの違いと割り切ってしまったのだろうか。
「なんとかならないか?すぐに全員帰せないか?」
それはもう懇願だった。奇跡にすがる。そういう顔だ。
男爵軍に制圧されれば都市は地獄に成り果てるだろう。そんな事にはさせたくないが…
「オレと軽いユキだけなら、雪崩を考慮しなければすぐにでも行けるが…」
「それでも…いや、ダメだ。オレたちが戻れないんじゃ意味がない。」
ここからは山の合間を縫うように進む事になる。かなり積もっており、大きな音や衝撃を与えると軽い雪崩が起きてしまいそうだ。
「英雄殿はいるか?」
「閣下!」
全員が立ち上がって拳を胸に当てるのでオレたちも倣う。
伯爵が直接やって来たのだ。
「貴殿はそのような真似しなくて良い。」
片手を上げ、しかめっ面で嗜めてくる。
普通なら苦笑いでも浮かべてそうだが、余裕がないのだろう。
「単刀直入に問う。都市一つ守り切れるか?」
「守るだけなら出来ます。」
「期間は?」
「一週間。それ以上は魔力が持ちません。」
今のこの国の兵が相手なら、守るだけなら余裕で出来る。数年は娘達の成長に注力出来るだけの報酬も貰えるというなら悪い話ではない。
「ただ、移動で雪崩の恐れがあるのですが…」
「そんなもの気にする必要はない。どんなに雪が深かろうと進軍する方法くらい備えている。
我らが動けねば、南部はお終いだからな。」
頼もしい答えだ。
そういう事なら遠慮無くやらせてもらおう。
「分かった。ペンを出してくれ。」
伯爵は紙に何かを書くと、丸めて封をしてオレに差し出す。
「これを城の者に見せれば良い。」
「わかりました。」
紙を預かり、亜空間収納に入れる。
「報酬は先日の五倍用意しよう。それでも足りぬとは思うが…」
「十分です。貰いすぎても使い道に困りますからね。
ユキ、案内頼めるな?」
「お任せくだせい。」
外に出て、荷物を抱えたユキを抱き上げる。見た目通りの軽さだ。
「しっかり掴まってろ。ぶっ飛ばしていくぞ。」
「わかりやしたー」
首に回す手に力が入るのを感じ、準備ができたと判断する。
【シールド・エア】
【エアストライク】
風の防御魔法を展開しつつ、自分に風魔法をぶちかますという方法で空を飛ぶ。
衝撃に、ユキの抱き付く力が増すのを感じた。
あっという間に伯爵軍の陣営から遠ざかり、白黒な風景の中を飛んでいく。
「旦那、正面の山を越えやしょう。」
「わかった。」
【エアストライク】
更に魔法を炸裂させ、高度を上げる。
分厚い雲を破り、山の頂より高く、青い空の見える高さに飛び出した。
【エアストライク】
十分な高さを稼いだ所で今度は背を押すように炸裂させた。
「山を越えて、高度を落とせば見えるはずでさぁ。」
恐らく、普通なら山間を迂回していくのだろう。一息で飛び越え、一気に短縮を果たした。
【エアストライク】
更に加速し、山を越えたところで一気に高度を下げる。
再び雲を突き抜け、眼下に吹雪に包まれる都市が見えてくる。
既に包囲されているな。
「悠長に外から入ってる場合じゃありやせんね。中央の城に乗り込みやしょう。」
「そのつもりだ。」
何度か方向を微調整し、最後に減速して静かに着地する。ドッスン着地は危ないからな。
「何者だ!」
「伯爵様から書状」
「構いません。早くこちらへ。」
奥方だろうか。素早く妙齢の女性が現れ、オレたちを中へ入るよう促す。
そのまま城内へ入り、改めて書状を渡す。
「ユキ。」
「あ、いけね。」
ぼんやりしていたユキがオレから降りて一歩下がる。
「…わかりました。伯爵様の指示に従いましょう。英雄殿。我々は何をすれば宜しいのでしょうか?」
城と一蓮托生の気持ちで居たのだろう。
すがれるならゴブリンの棍棒にだってすがるという気持ちのようだ。
「先ずは食事の出来る場所を。その後、城の中央を教えて下さい。」
「ユキ、オムツはあるな?」
「へ?へぇ、ありやすが…」
「オレが穿く。」
これは休むことなく戦う為に必要な物だ。必要なだけなのだ。
方法はなるべく都市の中央になる場所に座り、全体を覆うように全ての生き物を拒む防御魔法を展開するだけ。
ただ守るだけだが、軍隊相手に極力被害を抑えるとなるとこれしかない。外の男爵軍は伯爵達がなんとかしてくれる事に期待しよう。
「出来れば違う椅子でも…」
「いえ、これ以上に相応しい椅子はございませんので。」
気が引けるが仕方ない。
自前の木製椅子でも良いのだが、謁見の間の伯爵の椅子をそのまま使わせてもらう事になった。
宝石が鏤められた豪奢な権威の象徴。汚すのは忍びないが、後でしっかり洗わせてもらおう。
座り心地は最高な上、二度と経験出来る事ではないだろうし良い土産話になりそうだ。
「ユキ、後は頼むぞ。」
「わかりやした。」
目を閉じ、全ての感覚を疎かにしていく。
剣も盾も脇に置き、丸腰。誰かが近付いても気付く事は出来ない。この状況でユキがいるのは僥倖と言って良いだろう。人助けはするものである。
強度まで落ちない範囲で消費は抑える。それでいて限界まで緻密に。何者も受け入れない強固な防壁を。
【シールドスフィア】
都市丸ごと一つ覆う魔法の防壁をオレは展開する。
意識は完全に闇に沈み、MPが尽きるまでの一週間、オレはそのまま動くことは出来なかった。
「…な!旦那!」
ユキに頬をひっぱたかれて意識を取り戻す。
「お疲れ様でした。我々の勝ちですぜ。」
「…そうか。」
全身に力が入らず、声も上手く出せない。
とりあえず、体に洗浄を…ああ欠乏状態ですぐに回復出来ないのか…
「ポーションもダメですぜ。あっという間に廃人になっちまいやす。」
「そんなにひおいのか…」
「そりゃもうくせぇですし、やつれてしまってやす。体型までは変わってやせんがね。」
呂律が回らない。身体中違和感だらけで不愉快だ。
そうこうしてると入口が慌ただしくなる。
「英雄殿!英雄殿ー!」
伯爵がスミスを伴い、息を荒くしてやって来た。
「何と礼をすれば良いか…」
駆け寄り、オレの手を握る。
だが、感覚がおかしい。痺れたのか触られている感触がない。からだがなにかおかしい…
「閣下、旦那を褒めてくれるのは嬉しいですが、キレイにして休ませてやりたいんでさぁ。」
「お、おお。そうだな。すまなかった。ゆっくり休まれよ。」
「て、手伝うぞ。」
風呂場まで運ばれたのは覚えているが、そこまでだった。
目が覚めると傍で白い人がうとうとしていた。
頭がぼんやりしてどうも記憶が曖昧だ。
窓から差し込む光が白い人を映えさせていた。窓の向こうに見える白い光景に溶け込みそうだ。
「きれいだ。」
「う、ううん?」
白い人が目を覚まし、驚いた様子でオレを見ている。
「旦那、目が覚めやしたか。」
「…旦那?」
「ああ、後遺症で記憶がぶっ飛んで…」
頭を抱えるような仕草をしてからオレの左手を握る。触られている感触がない。
「あたしの名前はユキです。覚えてやすか?」
「ユキ…」
何か掴めそうだが霧を掴むような感覚になる。
「ごめん。」
「いえ、いえ、良いんです。ゆっくり思い出しやしょう。…ヒガンの旦那。」
ヒガン、それがオレの…
「それは名前?」
「いえ、偽名と聞いておりやす。
…ああ、なんて説明すれば。」
泣き出しそうな顔で頭を抱えるユキ。
「いえ、大丈夫です。時間が経てば記憶も戻る、かと思いやす。」
表情が晴れないまま、家の者に連絡してくると部屋を出ていった。
「オレは何を忘れているんだろう。」
動く右手を握ったり開いたりしながら自問するが、答えが出てくることはなかった。
更に三日経ち、体が少し動かせるようになったので城から退去することになった。あまり人に迷惑を掛けたくないので、ようやく落ち着けそうな気がする。
出発の際、城中の者が並び、オレに対し地面に片膝を着き、右手を左胸に当てて送り出してくれたのはとても印象深かった。それほどの事をした記憶はないのだが。
宿泊先は用意されているらしく、配慮に感謝してから城を後にした。
辿り着いたのはやたら高級そうなホテルのような建物。本当にここで良いんですかね?
「蓄えは十分ありやす。」
胸を張り、堂々と入るユキに従い、チェックインを済ませる。
オレの聞こえないところで受付と話をしていたけど、本当に大丈夫なんですかね?心配になってきた。
とりあえず、王都への道が通れるようになるまで、滞在する事にしたとの事。それまでに身体を治そうという話をした。
この三日で色々な事を思い出そうとしてきた。だが、取っ掛かりすら掴めない。家族がいるらしいが、顔も名前も思い出せないのだ。
家族の事を尋ねられる度に、ユキの表情が曇るのがとても辛かった。
春までに思い出せると良いんだが。
城でも度々会っていたスミスに連れられて、オレは軍の訓練所に来ていた。
体を動かすと違和感が凄い。全く体が思考に追い付いてこないのだ。
最初は持ち上がらなかった木剣も、今は右手なら持てる。だが、上手くは振れない。その様子にスミスは唖然とし、ユキは見ていられないとばかりに立ち去っていた。
「ごめんな。せっかく、連れてきて貰ったのにこんなで。」
「いや、良い。謝るな。謝らなくちゃいけないのはオレたちだよ…」
「なんだか恥ずかしいよ。体が全く思うように動かなくて。」
木剣を納め、オレはその場を離れる。周囲からの視線が痛い。
「お前、足も…」
「感覚がおかしいんだ。」
苦笑いをしながら言う。
正確には左半分の感覚がほぼ無く、転ばないように歩くのも一苦労だ。
「そうか…そうだったか…」
意を決した様にオレの手を握る。
「これから毎日訓練に付き合うぞ。完全に、とはいかんだろうが、春までに戻していこう。」
「オレ一人じゃサボりそうだったからな。そう言ってもらえると心強いよ。」
手を握り返し、スミスに感謝を伝える。
やはり力が入ってないのか、悲しそうな驚きの表情をされる。
これは元に戻るまで時間が掛かりそうだな。
「帰りも送るよ。オレも少し体を動かすから中で待っててくれ。」
中に入るとわぁわぁと凄い泣き声が聞こえてきた。
あまりにも周囲を憚らない泣きっぷり。何事かと近寄ると、
「あ、ダメです。こっちに来ないで下さい。」
女性の兵に阻まれて、オレは再び外へと連れ出されてしまった。
「いったい何が?」
「何でもありません。何もなかった。何も聞かなかった。良いですね?」
「はい…」
思わず気圧され、オレはそう答えるしかなかった。
雪が融けて春を迎えるまでの二ヶ月、オレは訓練所に通い続けたが、スミスが言うには元に戻る事はなかったようだ。
スミスが青い顔で戻ってきて告げると、オレに駆け寄る。
兵糧の乏しい男爵軍が伯爵の本拠地へと転進したのだ。どうやらがら空きの都市を制圧して立て籠り、春を迎えることにしたらしい。
そんな事をすれば、今は良くても春にはエルディー中から討伐軍が送り込まれて滅亡を免れない男爵。ヒュマス軍と合流できない以上、早いか遅いかだけの違いと割り切ってしまったのだろうか。
「なんとかならないか?すぐに全員帰せないか?」
それはもう懇願だった。奇跡にすがる。そういう顔だ。
男爵軍に制圧されれば都市は地獄に成り果てるだろう。そんな事にはさせたくないが…
「オレと軽いユキだけなら、雪崩を考慮しなければすぐにでも行けるが…」
「それでも…いや、ダメだ。オレたちが戻れないんじゃ意味がない。」
ここからは山の合間を縫うように進む事になる。かなり積もっており、大きな音や衝撃を与えると軽い雪崩が起きてしまいそうだ。
「英雄殿はいるか?」
「閣下!」
全員が立ち上がって拳を胸に当てるのでオレたちも倣う。
伯爵が直接やって来たのだ。
「貴殿はそのような真似しなくて良い。」
片手を上げ、しかめっ面で嗜めてくる。
普通なら苦笑いでも浮かべてそうだが、余裕がないのだろう。
「単刀直入に問う。都市一つ守り切れるか?」
「守るだけなら出来ます。」
「期間は?」
「一週間。それ以上は魔力が持ちません。」
今のこの国の兵が相手なら、守るだけなら余裕で出来る。数年は娘達の成長に注力出来るだけの報酬も貰えるというなら悪い話ではない。
「ただ、移動で雪崩の恐れがあるのですが…」
「そんなもの気にする必要はない。どんなに雪が深かろうと進軍する方法くらい備えている。
我らが動けねば、南部はお終いだからな。」
頼もしい答えだ。
そういう事なら遠慮無くやらせてもらおう。
「分かった。ペンを出してくれ。」
伯爵は紙に何かを書くと、丸めて封をしてオレに差し出す。
「これを城の者に見せれば良い。」
「わかりました。」
紙を預かり、亜空間収納に入れる。
「報酬は先日の五倍用意しよう。それでも足りぬとは思うが…」
「十分です。貰いすぎても使い道に困りますからね。
ユキ、案内頼めるな?」
「お任せくだせい。」
外に出て、荷物を抱えたユキを抱き上げる。見た目通りの軽さだ。
「しっかり掴まってろ。ぶっ飛ばしていくぞ。」
「わかりやしたー」
首に回す手に力が入るのを感じ、準備ができたと判断する。
【シールド・エア】
【エアストライク】
風の防御魔法を展開しつつ、自分に風魔法をぶちかますという方法で空を飛ぶ。
衝撃に、ユキの抱き付く力が増すのを感じた。
あっという間に伯爵軍の陣営から遠ざかり、白黒な風景の中を飛んでいく。
「旦那、正面の山を越えやしょう。」
「わかった。」
【エアストライク】
更に魔法を炸裂させ、高度を上げる。
分厚い雲を破り、山の頂より高く、青い空の見える高さに飛び出した。
【エアストライク】
十分な高さを稼いだ所で今度は背を押すように炸裂させた。
「山を越えて、高度を落とせば見えるはずでさぁ。」
恐らく、普通なら山間を迂回していくのだろう。一息で飛び越え、一気に短縮を果たした。
【エアストライク】
更に加速し、山を越えたところで一気に高度を下げる。
再び雲を突き抜け、眼下に吹雪に包まれる都市が見えてくる。
既に包囲されているな。
「悠長に外から入ってる場合じゃありやせんね。中央の城に乗り込みやしょう。」
「そのつもりだ。」
何度か方向を微調整し、最後に減速して静かに着地する。ドッスン着地は危ないからな。
「何者だ!」
「伯爵様から書状」
「構いません。早くこちらへ。」
奥方だろうか。素早く妙齢の女性が現れ、オレたちを中へ入るよう促す。
そのまま城内へ入り、改めて書状を渡す。
「ユキ。」
「あ、いけね。」
ぼんやりしていたユキがオレから降りて一歩下がる。
「…わかりました。伯爵様の指示に従いましょう。英雄殿。我々は何をすれば宜しいのでしょうか?」
城と一蓮托生の気持ちで居たのだろう。
すがれるならゴブリンの棍棒にだってすがるという気持ちのようだ。
「先ずは食事の出来る場所を。その後、城の中央を教えて下さい。」
「ユキ、オムツはあるな?」
「へ?へぇ、ありやすが…」
「オレが穿く。」
これは休むことなく戦う為に必要な物だ。必要なだけなのだ。
方法はなるべく都市の中央になる場所に座り、全体を覆うように全ての生き物を拒む防御魔法を展開するだけ。
ただ守るだけだが、軍隊相手に極力被害を抑えるとなるとこれしかない。外の男爵軍は伯爵達がなんとかしてくれる事に期待しよう。
「出来れば違う椅子でも…」
「いえ、これ以上に相応しい椅子はございませんので。」
気が引けるが仕方ない。
自前の木製椅子でも良いのだが、謁見の間の伯爵の椅子をそのまま使わせてもらう事になった。
宝石が鏤められた豪奢な権威の象徴。汚すのは忍びないが、後でしっかり洗わせてもらおう。
座り心地は最高な上、二度と経験出来る事ではないだろうし良い土産話になりそうだ。
「ユキ、後は頼むぞ。」
「わかりやした。」
目を閉じ、全ての感覚を疎かにしていく。
剣も盾も脇に置き、丸腰。誰かが近付いても気付く事は出来ない。この状況でユキがいるのは僥倖と言って良いだろう。人助けはするものである。
強度まで落ちない範囲で消費は抑える。それでいて限界まで緻密に。何者も受け入れない強固な防壁を。
【シールドスフィア】
都市丸ごと一つ覆う魔法の防壁をオレは展開する。
意識は完全に闇に沈み、MPが尽きるまでの一週間、オレはそのまま動くことは出来なかった。
「…な!旦那!」
ユキに頬をひっぱたかれて意識を取り戻す。
「お疲れ様でした。我々の勝ちですぜ。」
「…そうか。」
全身に力が入らず、声も上手く出せない。
とりあえず、体に洗浄を…ああ欠乏状態ですぐに回復出来ないのか…
「ポーションもダメですぜ。あっという間に廃人になっちまいやす。」
「そんなにひおいのか…」
「そりゃもうくせぇですし、やつれてしまってやす。体型までは変わってやせんがね。」
呂律が回らない。身体中違和感だらけで不愉快だ。
そうこうしてると入口が慌ただしくなる。
「英雄殿!英雄殿ー!」
伯爵がスミスを伴い、息を荒くしてやって来た。
「何と礼をすれば良いか…」
駆け寄り、オレの手を握る。
だが、感覚がおかしい。痺れたのか触られている感触がない。からだがなにかおかしい…
「閣下、旦那を褒めてくれるのは嬉しいですが、キレイにして休ませてやりたいんでさぁ。」
「お、おお。そうだな。すまなかった。ゆっくり休まれよ。」
「て、手伝うぞ。」
風呂場まで運ばれたのは覚えているが、そこまでだった。
目が覚めると傍で白い人がうとうとしていた。
頭がぼんやりしてどうも記憶が曖昧だ。
窓から差し込む光が白い人を映えさせていた。窓の向こうに見える白い光景に溶け込みそうだ。
「きれいだ。」
「う、ううん?」
白い人が目を覚まし、驚いた様子でオレを見ている。
「旦那、目が覚めやしたか。」
「…旦那?」
「ああ、後遺症で記憶がぶっ飛んで…」
頭を抱えるような仕草をしてからオレの左手を握る。触られている感触がない。
「あたしの名前はユキです。覚えてやすか?」
「ユキ…」
何か掴めそうだが霧を掴むような感覚になる。
「ごめん。」
「いえ、いえ、良いんです。ゆっくり思い出しやしょう。…ヒガンの旦那。」
ヒガン、それがオレの…
「それは名前?」
「いえ、偽名と聞いておりやす。
…ああ、なんて説明すれば。」
泣き出しそうな顔で頭を抱えるユキ。
「いえ、大丈夫です。時間が経てば記憶も戻る、かと思いやす。」
表情が晴れないまま、家の者に連絡してくると部屋を出ていった。
「オレは何を忘れているんだろう。」
動く右手を握ったり開いたりしながら自問するが、答えが出てくることはなかった。
更に三日経ち、体が少し動かせるようになったので城から退去することになった。あまり人に迷惑を掛けたくないので、ようやく落ち着けそうな気がする。
出発の際、城中の者が並び、オレに対し地面に片膝を着き、右手を左胸に当てて送り出してくれたのはとても印象深かった。それほどの事をした記憶はないのだが。
宿泊先は用意されているらしく、配慮に感謝してから城を後にした。
辿り着いたのはやたら高級そうなホテルのような建物。本当にここで良いんですかね?
「蓄えは十分ありやす。」
胸を張り、堂々と入るユキに従い、チェックインを済ませる。
オレの聞こえないところで受付と話をしていたけど、本当に大丈夫なんですかね?心配になってきた。
とりあえず、王都への道が通れるようになるまで、滞在する事にしたとの事。それまでに身体を治そうという話をした。
この三日で色々な事を思い出そうとしてきた。だが、取っ掛かりすら掴めない。家族がいるらしいが、顔も名前も思い出せないのだ。
家族の事を尋ねられる度に、ユキの表情が曇るのがとても辛かった。
春までに思い出せると良いんだが。
城でも度々会っていたスミスに連れられて、オレは軍の訓練所に来ていた。
体を動かすと違和感が凄い。全く体が思考に追い付いてこないのだ。
最初は持ち上がらなかった木剣も、今は右手なら持てる。だが、上手くは振れない。その様子にスミスは唖然とし、ユキは見ていられないとばかりに立ち去っていた。
「ごめんな。せっかく、連れてきて貰ったのにこんなで。」
「いや、良い。謝るな。謝らなくちゃいけないのはオレたちだよ…」
「なんだか恥ずかしいよ。体が全く思うように動かなくて。」
木剣を納め、オレはその場を離れる。周囲からの視線が痛い。
「お前、足も…」
「感覚がおかしいんだ。」
苦笑いをしながら言う。
正確には左半分の感覚がほぼ無く、転ばないように歩くのも一苦労だ。
「そうか…そうだったか…」
意を決した様にオレの手を握る。
「これから毎日訓練に付き合うぞ。完全に、とはいかんだろうが、春までに戻していこう。」
「オレ一人じゃサボりそうだったからな。そう言ってもらえると心強いよ。」
手を握り返し、スミスに感謝を伝える。
やはり力が入ってないのか、悲しそうな驚きの表情をされる。
これは元に戻るまで時間が掛かりそうだな。
「帰りも送るよ。オレも少し体を動かすから中で待っててくれ。」
中に入るとわぁわぁと凄い泣き声が聞こえてきた。
あまりにも周囲を憚らない泣きっぷり。何事かと近寄ると、
「あ、ダメです。こっちに来ないで下さい。」
女性の兵に阻まれて、オレは再び外へと連れ出されてしまった。
「いったい何が?」
「何でもありません。何もなかった。何も聞かなかった。良いですね?」
「はい…」
思わず気圧され、オレはそう答えるしかなかった。
雪が融けて春を迎えるまでの二ヶ月、オレは訓練所に通い続けたが、スミスが言うには元に戻る事はなかったようだ。
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