花の名前

はなの*ゆき

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 瞬間、頭に血が上った。

 起き上がって、カズの手を払い除ける。
 途端に、腕に痛みが走り、無意識に点滴の針をむしり取った。針の跡が血で滲むのを見つめながら、唇を噛み締める。
 そのままベッドを下りようと、カズに背中を向けた所で、強い腕に引き寄せられた。

「っ、離してよっっ」

 咄嗟に振り回した腕が、カズの顔に当たる。思わず怯んだ隙に、ベッドに押さえつけられた。

 のし掛かる重みに、戦慄が走る。

「いっ、や―――!!!」

 悲鳴を上げて仰け反る体を、カズが抱き竦めた。
 包み込まれる温もりと、香り。

「…産めばいいよ。」

 耳元で、低い声が呟く。
 何を言ってるんだろう?
 抱き締めるカズの腕が更に強くなる。

「産めばいい。」
「っ、勝手な事、言わないでっ」


 ドンッ―――


 拳を握って、背中を叩いた。

「出来る訳無いじゃないっっ、仕事だってっっ」
「辞めればいい。」
「バカな事言わないでよっっ」


 ドンッ、ドンッ―――


 立て続けに叩き付ける。カズの胸越しに衝撃が響く。
 なのに、少しも腕を緩めてくれないどころか、ますます強くなって、息をするのも苦しい。

「辞めればいい、こんなに痩せて。あんな目にあって。」


 ドンッ―――


 それでも、辞める事なんて出来る訳無い。
 教会の事だけじゃない、そんな簡単に諦められるものじゃない。
 きっと、社長もまた、言うに決まってる。
 これだから、“女”は―――


 ドンッ―――


「っふ―――」

 こみ上げるものを、もう止めることが出来なかった。
 酷いと思う。あんまりだと思う。
 好きだと言うなら、どうしてわかってくれないんだろう。
 ぎゅっ…とカズの服を握りしめた。
 肩に顔を押し付けて、嗚咽を堪える。
 その髪を、大きな手の平が撫でた。

「もういいの?」

 そう言って、カズが体を動かして抱き直す。

「気が済むまで、殴ればいいよ。その代わり…」

 カズの手の平が、髪を握り込む。

「堕ろすのは、無しだから、絶対。…諦めて」

 俺の、子供を産んで―――

 一瞬、息が止まった。
 無意識に顔を横に動かすと、カズが少し顔を上げてこっちを見る。目を細めて、泣きそうな顔で。
 手の平が、頰に触れた。

「カズの…」

 続く言葉は、言えなかった。
 塞いだ唇は温かくて、そっと差し込まれた舌が、探るように舌先に触れる。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 奪うような激しさでは無く。

 撫でるように
 搦め取るように
 請うように

 吐息を交わすように、何度も離れては触れてを繰り返して。

 ようやく離れた唇が目頭に触れ、それで、自分が泣いていた事に気が付いて、目を開けた。

 滲む視界の先で、カズが微笑んでいた。
 指先で、頰を、唇を、撫でるようになぞり、コツンと、額に額を押し当てる。

「…知ってた?」
「え…?」
「あの歌…」

 目を閉じて、カズが呟く。
 ―――色をも香をも、知る人ぞ知る。

「上の句はね、“君ならで 誰にか見せむ 梅の花”…っていうんだ。」
「君、ならで…?」
「あなた以外の、誰に見せようかっていう意味だよ。他の誰でも無い、“あなただけ”に。」

 思わず目を見開いた。

「…知らなかった。」
「だろうね。」

 そう言って、クス…と微笑む。

「メールを見て、何で花なんだろうって、気になって…咄嗟に家を出てた。トーコさんの会社の窓が、まだ明るかったから、居るんだろうと思って。」
「…いたの?」
「うん、電話して……嬉しかった。きっと、知らないんだろうとは思ったけど、それでも。」

 ポツ…と、瞬きしたカズの瞳から、雫が零れ落ちる。
 拭おうと伸ばした手を摑んだカズが、手の平に唇を押し当てた。

「忘れればいいと思った。多分、あの時、トーコさんを許す自信は無かったよ。滅茶苦茶にして、傷付けて、結局、失う事になってたと思う。」

 家に帰ったらいなかったから、それでいい―――そう思った。
 大した事じゃない。直ぐに忘れられる。

「なのに思い出すんだ、どうしても。それが悔しくて、辛かった。」

 明け方の空に光る星。
 ゆっくりと落とす、コーヒーの香り。
 身を切るような冷たい風に、雪を感じて。

 その度に思い出しては、胸が痛んだ。

「トーコさんと、一緒にいたい。俺の、子供を産んで。俺と、家族になって欲しい。」

 目を閉じて、首筋に腕を伸ばした。
 応えるように抱き締められ、その肩に顔を伏せる。

 カズの子供じゃないかもしれない。
 でも、カズの子供かもしれないなら、堕ろす事なんて出来ないと思った。

「…また、星を見に行く?」
「…うん…。“みんな”で、行こう。」

 うん、と答える代わりに、強くしがみついた。

 もう2度と、離れずに済むように。
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