花の名前

はなの*ゆき

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あやなきもの

寄物陳思

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「ああ、こちらにいらしたんですね。」

 後ろから呼び掛ける声と共に、小さな足音が近付いてくる。

「…あら、初島さん、お帰りになったの?」
「ええ、お忙しいようですよ。」
「まあ~、お夕飯をご一緒にと思いましたのに。ずいぶんお痩せになってらしたけど、大丈夫なのかしら…。」

 確かに―――と、つい先程までそこにいた、ほっそりとした姿を思い浮かべる。



 割と背の高い方だろう。スラリとした肢体と抜けるように白い肌、黒目がちで意志の強そうな切れ長の瞳が印象的な女性だ―――いや、だった、というべきか。
 ここ最近は電話でしか遣り取りをしていなかったせいで気付かなかったが、仕事の忙しさだけでは無いような気がする。
 あんなにも生き生きとしていた瞳の輝きが失せて、ちょっとしたきっかけで折れてしまいそうな、そんな脆さを窺わせていた。
 それでつい、出過ぎた真似をしてしまった訳だが…。

「あら、まあ…」

 ふふ、と隣で微かな笑い声が上がった。

「まだ、匂うんですねぇ。」
「ああ…。」
「あの時は、満開でしたかしら。」

 同じ事・・・を―――と、思わず苦笑した。



 あの日は、満開だった。
 ファンヒーターを焚くと、どうしても籠もってしまう湿気を逃がすために、開けておいた窓から良い匂いが入り込んでいた。
 同じ場所で、立ち止まって。
 礼拝の後だったから、明るい窓の外を、廊下から眺めていた。

 以前とは違う、どこか人を寄せ付けないような雰囲気を纏わせていたのに、その時だけは、何処か儚げ、とでもいうのだろうか。
 ジッと視線を向けたまま、立ち竦む姿に、声を掛けた。

「宜しかったら、差し上げましょうか?」

 何気ない風を装いながら言うと、彼は一瞬こちらを見て、直ぐに視線を伏せた。再び窓の外に視線を巡らせて、ぽつり、と呟く。

「いえ…、“知る人”は、もう、…いないので。」

 同じ顔をしていたように思う。彼女は何も言わず、ただ花を見つめるばかりだったけれど。

あやなきこと・・・・・・だ。」

 闇が姿を覆い隠しても、その香りを隠す事が出来ないように。詮無き事とは思うものの、つい老爺心が動いてしまう程にもどかしい。

「いずれ、“時”が来るものかな。」

 呟きに応えるように、ふふ、とまた隣から微かな声が上がった。目を凝らして、薄闇に溶けて姿を隠した花を見遣る。

 まだ春には少し早い風が、梅ではないのに梅の名前を持つ花の香りを散らした。
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