花の名前

はなの*ゆき

文字の大きさ
36 / 54
あやなきもの

35

しおりを挟む
「初島さん、蒲田邸のサッシ図上がってきましたよ。」
「あー、ごめん、チェック頼める?」
「はい。あと、戸町ビルの所長から電話ありましたけど。」
「了解。4時から打ち合わせ行ってくるから、何かあったらメールもらえる?」
「了解っす…。」
「八木君、何なら今日は早く帰ってもいいよ。もう1週間―――」
「それは初島さんの方でしょう。」

 心なしか元気の無い声にかけた言葉を遮るように言われて、電話のプッシュボタンを押す手を止めた。
 見ると、八木君がパソコンのモニター越しに、睨みつけるようにこっちを見ている。

「今日は特に酷い顔してますよ?ちゃんと寝てんすか?」

 もちろん、とは答えられなかった。実際ベッドに入っていても、寝てるような寝てないような、そんな日が続いていたから。

「打ち合わせは教会でしたっけ、車は止めて下さいね。何なら俺、タクシー代出すんで―――」
「おいおい、どこのお嬢だよ。」

 声に振り向くと、部屋の入り口で腕を組んだ社長が、呆れ顔でこっちを見ていた。その後にいたスーツ姿の人物を見て、一瞬、体が強張る。いつの間に―――?

「じゃあ、今日はこれで…」
「ああ。」

 そう言って、背中を向けたシノ・・を見送った社長が向き直る。

「浜さんとこの改修図面、出来たか?」
「あ、はい。」

 ひとまず受話器を置いて、パソコン前に座り直し、ファイルを開いて印刷をかけた。かなり規模の小さい仕事だが、社長が古くからの知り合いに頼まれたものだ。
 高橋さんは主に大きい案件ばかりを持ち出し、こういった小さい仕事は全て放置していた。おかげでこの2週間あまり、毎日のように午前様になっている。

「タクシー使ったら、ちゃんと領収出せよ。」

 ざっと図面に視線を走らせてから、社長はそう言って部屋を出た。珍しい事が有るもんだと呆気に取られていると、八木君が苦笑した。

「アレでも一応、気を遣ってるんですよ。初島さん倒れちゃったらコトだし。」

 なるほど、と納得して再び受話器を手に取った。




 表通りに出て、タクシーを拾おうかバスにしようかと迷っていると、前の車道に車が停まった。高級ラインの国産車だ―――俺はこっち派だと、そういえば大学の頃言ってたっけ。

「…乗れよ。」

 高橋さんの事で話がある、と言われて、1つため息をついてから助手席に乗り込んだ。

「あの教会でいいのか?」
「うん、引っ越しの業者決まったから、契約書これ持って行って、ついでに幾つか確認をね。」
「コンクリート版を使うらしいな。」
「RCにするには予算と工期が足りないんだ。塗装で漆喰風に仕上げようかと思ってるんだけど、まだサンプルが届かなくってさ。」

 ふーん…と、気のない返事が帰ってくるのを、前を向いたままで聞き流す。しばらく沈黙した後で、シノがやっと・・・聞いてきた。

「―――体調は、どうなんだ?」
「ん?うん、まあまあかな。睡眠不足だけど。」

 やはり前を向いたままで、何でも無い事のように答える。
 シノがハンドルを苛立たしげに指で叩いた。

「そうじゃなくて―――」
「来たよ。」

 ひと言だけ告げて、微かに口角を上げてみせる。
 あれからひと月近く経っていた。そうか…と呟いたシノが、ため息をついたのを気配で感じる。

「…まだ、一緒に暮らしてんのか?」

 それをシノあんたが聞く?―――と、ひと月前なら言ってたと思う。でも、今はそんな元気がない。

「高橋さんの話じゃなかったの?」

 用がないなら降ろして欲しい。言外に告げると、シノが再びため息をついた。




「瀬尾さん、ってわかるか?」

 頷いて、顔を顰めた。入社してから1年間、お世話になった・・・・・・・先輩だ。忘れようも無い。
 あのご夫婦のパン屋も、瀬尾さんの名前で申請を出している―――彼自身は殆ど何もしなかったけど。まだ自分が建築士を持っていなかったから仕方なかった。

「辞めて、事務所開いてるけど…」
「どうも、そこ・・が思わしく無いらしい。」

 どういう事だろう? シノの方に顔を向けると、面白くなさそうな顔でハンドルを捌いていた。どうやら、社長に頼まれて、高橋さんの動向を探っていたらしい。一応、当事者の1人だからという事で。
 瀬尾さんは高橋さんのさらに3つ年上で、完全バブル世代だ。スーツも腕時計もクラッチバッグも高級ブランド品で固めていた事を思い出す。

「―――あの時代のヤツら…まあ、全員が全員じゃ無いだろうけど、勘違いしてるのが多いからな。建築士取ったら、すぐ辞めて事務所を立ち上げて。バブル期は建築業界が活気付いてたから、仕事は腐るほどあったんだろ。」

 バブル経済の元になっていたのは、土地の不動産売買だから、それに付随する形で、新しい建物がバンバン建てられていた。しかもタイルなどをふんだんに使った平米単価の高い物が多いと聞く。そう言えば瀬尾さんも、やたらと内装とかにお金を掛けたがっていたっけ…男子トイレの汚垂れ石に大理石とか…。

「何度も来てたらしいぜ、仕事回してもらえないかってさ。」
「ずいぶん虫のいい…」

 社長もそう思ったのだろう。でも、何度断ってもやって来るから相手にするのも煩わしくなったらしい。

「それで、高橋さんに追い返すように指示したらしいんだが…」
「逆に取り込まれちゃったって事?」
「まあ、そうだな。」

 何となく歯切れの悪い言い方をして、シノが車を停めた。

「バブルの残りカス―――って、言われたらしい。」
「…誰に?」
「社長だよ。人出が足りないから採ったけど、時期が違えば採らなかったってさ。」

 バブル期はいわゆる“売り手市場”というヤツで、学生1人に何社も求人があるような時代だった。当然、学生の方が会社を好きに選ぶから、思うような採用が出来ない企業も多かったのだろう。今から思うと贅沢な話だ。

「高橋さんのメール、見たか?」
「添付のは見てないけど…」
「…そうか…」

 シノはそう言って視線を落とすと、エンジンを止めた。いつの間にか、車通りの少ない、でも広い車道の路肩に停まっていた。他にも何台か停まっているから、営業マンがちょっとした休憩や、電話をかけたりするのにちょうどいいのかもしれない。

「シノは、見たの?」
「……」
「何か、書いてあった?」

 シノはハンドルに手を置いたまま、しばらく考えてから、静かに話し始めた。
 エクセルで書かれたそれは、支離滅裂で、要領を得ないような文章だったけれど、主に事務所に対する不満や恨みのようなものが書かれていたらしい。
 社長の暴言がきっかけではあったけれど、それ以前から色々溜まっていたようだ、と言ってから、シノが顔を上げてこっちを向いた。

「透子、お前、ホントにあそこ辞める気は無いか?」

 言うなり、逃げる間もなく、片方の手を取られる。

「営業やってたからな、割と顔利くようになったし、貯金もある。だから…」

 一緒に設計事務所を始めないか、と。前と同じ事を繰り返す。お前はやりたいようにすればいい、必要な事は全部俺が引き受ける―――そこまで言ってから、シノが視線を落とした。

「後悔してるんだ。あそこにお前をやった事。」

 ―――え?!

 思いがけない言葉に呆気に取られた。どういう事なんだろう?

「お前はずっと、設計が希望だっただろ?いけそうな求人の中では、あそこが1番、お前の希望に近いだろうと思ったんだ。」

 教授には悪いことしたけどな、と言って、微かに口角を上げたシノの顔を、呆然と見つめる。あの事務所には教授の推薦で、シノが断ったから・・・・・・・・、だから、自分に―――
 咄嗟に引き抜こうとした手を、シノが強く握りしめた。

「全部、お前の為だった。」

 言わないつもりだったけど―――そう言って、真っ直ぐに見つめるシノの眼差しに、微かな眩暈を覚えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...