花の名前

はなの*ゆき

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思わぬ人

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 ドアに背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。

 肩から持ち手がずれて床に落ちたバッグの中には、あの教会の資料が入っている。元請けは西島建設うちになるけど、設計はお前がしろと言って渡された。社長には話をしてある―――と。

「だったら、なんで昨日―――」
「なんでだろうな?」

 そう言って、また片頬で笑った。

「何となく、もう一回顔見とこうと思ったんだよ。どうしてるかな、と思って。」

 専務の娘と結婚を勧められてる―――と、シノが言った。

「決まった相手がいないとなると断りにくいんだ。…色々お世話になってるしな。」
「…そう…」

 いきなり何でそんな話になるんだろう?―――そう思って、曖昧な相槌を打ちながらコーヒーをすすると、スクランブルエッグを掬っていたシノが、カタン、と音を立ててフォークを置いた。

「…決まった相手はいなくても、好きなヤツならいるって事だよ。」

 シノは前髪を苛立たしげに掻き上げると、ジロリとこっちを睨んだ。

「お前はいつもそうだ。ちっとも気付かない。こんだけされて、なんでわからないんだよ?大学の時からずっと、お前の事、守ってやってたのに…」
 剣呑な物言いに、呆気に取られる…いきなりそんなことを言われても。
 大学の時だって、今思い返しても、友達以上の感情なんてあるようには見えなかった。大体が面倒見のいいヤツだし、それに―――

「シノは、彼女いたじゃん?」
「諦めてたからな。…誰のものにもならないんなら、仕方ない。お前はそういう女だから仕方ないって。」

 そういう女って―――何だかだんだん腹が立ってきた。ずいぶんな言われようだと思う。大体“もの”ってなんだ。
 そもそもが来る者拒まずで、途切れる事無く彼女のいたヤツに、そこまで言われる筋合いは無い。しかも、シノが付き合ってた女の子達は、総じて女らしくて可愛い子ばかりで、小柄な上に華奢で、自分とは正反対だったから、こっちは対象外なんだと思うに決まってる。
 そう言うと、シノがくっと笑った。

「だよな、だから二人っきりでも誘えば飲みに行けた。酎ハイ3杯でご機嫌になってたんだから、そのままベッドに連れ込みゃ良かったんだ。」

 昨日みたいに―――言いながら、シノが目を細めて口許を歪めた。

「お前でも、あんな声出るんだな。感じてただろ?…俺で・・

 瞬間、カッと頭に血が上って、椅子を蹴倒しながら立ち上がった。入り口近くのクローゼットに向かって歩き出した腕を取られて、それを力任せに振り解く。

「離してよっっ」
「そのカッコでどこ行くんだよ。」
「帰るに決まってるでしょっっ、離せってばっっ!!!」

 振り解いても振り解いても、結局両の腕を摑まれる。近付いてくる顔に狙いを澄まして、思い切りよく頭突きをかました。

 ゴンッッ―――

 鈍い音に正直、自分もクラクラきたけど、シノが蹲るのを尻目にクローゼットに駆け寄った。扉が外れる程の勢いでドアを開ける―――無いっっ?!
 鞄とコート、靴はあるのに、スーツが無い。

「何で…」

 呆然としているうちに、後ろから抱き竦められる。

「離っ―――い、やっっ!!」

 胸を鷲摑みにされて悲鳴を上げた。反対の手がお腹を摩るように降りて腿の内側を撫でる。途端に肌が粟立った。

「透…」

 ぱたっ…と、シノの腕に雫が落ちて、腕の力が緩む。そのまま床に膝を突いた。

「ふ、う…」

 座り込んだまま、バスローブの胸元を握りしめる。あんまりだと思う―――情けなくて、悲しかった。言われなくても、世話になってる自覚ぐらいあった。だからこそ、信頼していたのに、こんな―――



「…何が、違うんだよ?」

 ポツリとシノが言った。
 あんなに興味無いって顔してたくせに、何でアイツならいいんだよっ、と吐き捨てるように言った時、ピンポン―――とドアのチャイムらしきものが鳴った。
 応対したシノが持ってきたのは、クリーニングのタグが付いた二人分のスーツだった。

「覚えてないみたいだけどな、吐いたんだよ、あの後。エレベーターん中で。」

 こういった高級ホテルには、宿泊者ゲスト向けのランドリーサービスがあるのだと言う。

「…それで、わざわざ部屋を…?」
「なわけねぇだろ、バカじゃないのか?」

 クローゼットにスーツを掛けたシノは、言いながらやって来るなり、脇を掴んで引っ張り上げた。そのまま膝裏を掬い上げられる。

「ちょっっ―――」
「黙れ」

 被せるように言って、さっきのテーブルに連れて行かれる。

「食えよ。昨日、胃液しか吐いてなかったんだぞ。」

 膝を突いて覗き込む真摯な眼差しに、思わず言葉を飲み込んだ。

「全くそんなつもりは無かったとは言わない。でも…」

 シノは視線を伏せると、すいっとバスローブの上から腿を撫でると、ギュッとローブを握りしめた。

「こんなもの…え、見なかったら―――」

 シノは絞り出すようにそう言って、膝に顔を伏せた。
 胸元にも、腿の内側にも、まだカズの付けた痕が残っていた事を思い出す。

 しばらくは何も言えないまま、ただじっと、シノのつむじを見つめていた。



 その後はろくな会話もせずに食事を済ませ、バスルームで着替えをした。部屋に戻ると、微かに柑橘系の匂いがする。

「…まだそれ、付けてたんだ。」

 覚えのある香りだった。いつだったかの誕生日に、シノがその頃付き合っていた女の子から香水をプレゼントされていた、それだろう。
 あの時は、香水なんてキャラじゃないと、誰かに押し付けようとしていたのに。

「お前が、好きだって言ったんだろ。」

 そう言われて顔を上げると、シノが真っ直ぐにこっちを見ていた。
 せっかくのプレゼントなのに、誰か要らないか?と声をかけまくり、挙げ句売ろうとしていた事に腹を立てた。問答無用で取り上げてパッケージを開け、軽く手首に付けて見せる。

「―――良い匂い。」

 柑橘系のさっぱりした香りが、シノによく似合ってる、勿体ないよ、と。
 だってきっと、その彼女は、シノの事を考えながら選んで決めたに違いない―――そう思っての事だったのに。

 後ろめたさに気を取られて、一瞬、動きが遅れた。
 キチンと糊付けされたシャツに顔を押し付けられ、きつく抱き竦められる。

「―――好きだ」

 そう、言われて、目を閉じる。

「…今さら…」

 呟くと、ふっ…とシノが笑う。

「そうだな、でも、昨日…」

 耳元で低く囁かれた言葉に、呆然と顔を見上げた。
 ―――今、なんて…?

「悔しかったんだ…ずっと…、アイツの名前を呼ぶから…」

 そう言って、シノが顔を歪める。

 ―――もし、子供が出来てたら、と。






 割開くように押し込まれた瞬間、声を上げた。

「っ…あ、や、抜い、て…」
「嫌だ」

 唸るように呟いて、シノが腰を掴む。
 ぐりっと抉るように押し付け、奥深く探るように蠢く。肩を掴み、逃れようと体を捩るのに、シノの体に押さえ込まれ、更に深く押し入ってくる。

「んっ、あっ、いやっ―――」

 そこは―――と、言うよりも早くシノが気付いた。
 一瞬、離れて。

 次の瞬間、激しく突き上げられた。





 好きだよ、と、何度も言ってくれた。
 耳元で、低く、囁く声も愛しくて。
 ほんの少しも離れたくなくて、首筋にしがみついた。


 何度も何度もキスをしたのに―――

 激しく揺さぶられながら、滲む視界の向こうに手を伸ばした。




 届かないと、わかっていても―――
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