雨に薫る

はなの*ゆき

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1.Cape jasmine

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 そのビルは繁華街の、いわゆるスナックとかいう年配サラリーマン御用達のお店が立ち並ぶ様な場所にあった。
 シンプルな寄せ木をあしらった扉を開けると、店内はカウンター席とボックス席が一つしか無いこじんまりとした造りで、やっぱり木を使った温かみのあるインテリアになっている。

 こんな場所って言ったら悪いかも知れないけど、立地的にちょっと意外な気がしつつ中に入ると、カウンターに居たグラマラスな美女がにっこりと微笑んだ。

「いらっしゃい、久しぶりね」
「こんばんわ、“亜衣子さん”」

 その言葉に目を見張った。
 今、何て…?

 母よりもちょっと年上っぽいその女性は、どうぞ、と奥のカウンター席へと誘っておしぼりを出してくれる。

「目元がカズ君そっくりね」
「…そうね、どっちかっていうとあっち寄りかな」
「雰囲気は同じだけど」

 亜衣子さんの言葉に、母が私の方を見て苦笑した。

「今日、あのコにも言われたよ。…感じが似てるって」
「あのコ…?」
「コイシ君」

 話したのは今日が初めてと言っていいほどだったのに、ずいぶんと強烈な印象を残した、一見いい人そうに見える先輩を思い出して、無意識に眉を潜めた。そう言えば、一緒に家を出てたっけ。

「何話したの?」
「別に、親子ですねって」

 胡散臭そうな顔になったんだと思う。母がまた苦笑した所で、目の前にスパークリングミネラルウォーターらしきグラスが置かれた。

「ゴメンね、うち、お茶は置いてないんだけど、ジュースにしようか?」
「あ、いえ、これで大丈夫です」
「そ?ならいいけど。サラダとパングラタンと…、後は何にしようか?」

 と言われたものの、近くにメニューらしきものが置いてない。母は慣れてるのか、おしぼりで手を拭きながら聞いた。

「何かいいのある?」
「今日はイベリコ豚とエリンギかな。後、今月から冷製パスタ始めたけど」
「あ、それ食べたいです」

 思わず言うと、母が驚いた顔になった。

「パスタ食べるの?」
「え…、うん、好きだけど…?」

 いつの間に…と言うけど、そんなにおかしいかな?パスタ位、普通食べるよね?冷めると美味しくないから、晩ご飯で作った事は確かに無い…けど?

「昔作ったとき、全然食べなかったのに…」
「え、私?」

 戸惑っていると、亜衣子サンが微妙な顔で母に聞いた。

「本人が覚えてないぐらい昔って事?」
「かな?」
「トーコちゃん、まさかと思うけど、幼児に“アルデンテ”で出したんじゃないでしょうね?」
「…どうだろう?」

 とぼける母に、サラダを出していた亜衣子サンがヤレヤレ、と首を振った。

「結婚するって聞いたときは、一体どんな奇跡が起こったのかと思ったけど…」
「いやホント、何かの間違いだとしか思えないよね。まさか自分が結婚するとは。」

 ふふっとさも可笑しそうに言う母に、サラダを取り分けていた手を止めた。

「…結婚、したくなかったの?」
「んー、それ以前?結婚っていうカテゴリが自分に無かったのよ。…仕事もあったし。」

 でも、出来ちゃったからね―――と言われて。

 今度こそ、本当に固まって、動けなくなってしまった。だって、その言い方だと、まるで…
 言葉を無くした私に、母はグラスから一口飲んで頬杖を突くと、体を心持ちこっちに向けて手を伸ばし、私の頬にかかっていた髪を、そっと耳にかけて微笑んだ。

「泣かれたんだよね…―――家族になりたい、だから産んで欲しい、って。」

 その顔はとても優しかったけれど、でも。
 ものすごく居たたまれない気持ちになって、でも聞かずにはいられなかった。



「ホントは、産みたく、なかった?」



 私の言葉に、母は微かに睫毛を伏せて、唇を曲げるように笑った。

「そうだね、産みたくなかったのかもしれない。少なくとも、産んで育てる覚悟みたいなものは無かったと思う。だから―――、 バチが当たったんじゃないかな…」
「…バチ?」

 辛うじて小さな声を出した時、こんっと、伸びてきた手に母の頭が小突かれた。

「こーら、まだそんな事言って」

 腕を組んだ亜衣子さんが呆れたように言うと、母が肩を竦める。

「だって…」
「妊娠初期の流産はね、妊婦が原因じゃないのよ」

 流産…?
 何の事か分からず戸惑っていると、母が困ったように眉を下げた。

「妊娠しててもほら、仕事はしてたのよ。結構大きな物件とかあって…それで、…4ヶ月になって、カズに強引に連れて行かれた病院でね、言われたの。心臓動いてませんって」


 痛みも出血も無かった。
 いつそうなったのかもわからないまま、お腹の中で、そのコは一人、命を終えてた…

「初期の流産はね、染色体異常とかそういうのが理由なの。妊婦のせいじゃないのよ?」
「うん、わかってる。カズも、あたしのせいじゃないって、でも、それでもね、思うわけよ。ちゃんと検診行ってたら違ってたかな?って」

 唇に笑みを浮かべたまま視線を伏せて、母は手に持ったグラスからまた一口飲む。
 シュワシュワと弾ける泡をしばらく見つめてから、顔を上げた。

「だから、後悔はしてなかったのよ?仕事を辞めて、あんたが出来た時はホントに嬉しかった。産まれたあんたを抱きしめたカズが、泣き笑いでありがとって。それなのに…」

 言葉を切った母が、また・・微笑む。


「どうして諦めなかったんだろうね…」
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