雨に薫る

はなの*ゆき

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1.Cape jasmine

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




「じいちゃん、死んだんだってさ。」


 背中を向けたまま、ナオが、ポツリと呟いた。

 フローリングの床の上で、掃き出し窓の方を向いて胡座を組み、らしくも無く背中を丸めていたのを今でも覚えている。



 11月になって、だいぶ寒い日が続いていた。
 学校から帰って、制服を着替えてリビングに戻ってきたらナオがいつの間にか来ていて、それ自体は全然珍しいことじゃ無かったんだけど。
 部屋の中は薄暗く、ひんやりとした空気の中に、ナオの声がやけに低く響いた。

「結局、勝てなかったな…」

 ふう、とため息をついて、勝ち逃げかよ…と呟く。そっと、近付いて、後ろからナオを抱き締めた。





「かずさん、将棋の本持ってたよな?」

 それは、四月の初め頃だった。

 部活の後帰って来るなり、父の書斎になっていた和室に入ろうとしたナオが、ゴッッ―――と鴨居に頭をぶつけた。ナオの家はリノベーションする時に和室を無くしてるから、油断してたのかも。
 慌てて駆け寄り、見ると、額がちょっと切れていた。ずいぶん勢いよくぶつけたもんだなぁ…と、絆創膏を貼りながら感心してしまう。だって、ここにぶつけるということは、180を超えたって事だよね?

「将棋の本なんて、何するの?」
「あー、何か、認知症にいいとか言うから」

 認知症?、と首をかしげると、後ろの席のヤツがボケたじいちゃんと将棋を指す為に勉強してるのだと言う。
 初心者向けの本を渡すと、さんきゅと言って、パラパラめくっていた。きっとナオも見るんだろう、そう思ったら嬉しくなった。

 だってその本は、元々父が、ナオの為に買っていた本だから。

 体が弱かった頃は、室内で遊ぶ事が多かったから、たまに父もナオの相手をしていた。野球を初めてからはほとんど家に居なくなって、結局その本も渡さず仕舞いだったけど、こうしてナオの手に渡った事を喜んでくれるんじゃないかなと思う。

 もちろん、ナオには言ってない。

 だって、そんな事を言ったらきっと気にしてしまう。なんだかんだ言って、ナオは、優しいから。


 抱きしめたまま頭に頬を寄せると、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いがして、そのまま目を閉じた。


 引退して暇になったからだと言っていた。

 3年でナオが新しく仲良くなったケイマ君には、もうすぐ80になる“じいちゃん”がいた。去年ばあちゃんが亡くなってから認知になったとかでその対策か何かで将棋の相手をしていたそうだ。
 ナオは週末ホームに行くケイマ君と2人でよくじいちゃん対策をしていたけど、ケイマ君はじいちゃんに一回しか勝ててなかったらしい。
 それで今度は2人して、じいちゃんのいるホームまで対戦しに行っていたのだ。

 いつも楽しそうに今日もじいちゃんはオニだったと笑いながら言ってた。他のおばあちゃん達がくれたという、昔ながらのお菓子をお土産に持って帰って、不味いし、と言いながら、そのくせお茶を入れてあげたらちゃんと残さず食べるのだ。

 ナオは、そんなヤツだ。

 バカだなぁ…。
 自分の“じいちゃん”じゃないのに。

 唇を曲げて笑って、後ろから回した手でなだめる様にポンポンする。まだ小さかった頃、熱を出したナオによくしてた様に。

 それがまずかったのかもしれない。

 不意に腕を取られると、そのまま、身体を捻ったナオに腰を掴まれ引き寄せられて、あっと思った時には胡座を組んだナオの膝の上に、横向きで座らされていた。

 ふ、とナオが笑って。

「なんで、泣いてんだ?」

 言われて初めて気が付いた。

「なんでスミが泣くんだよ。」
「別にいいじゃん…」

 気まずさに目を逸らしながら、滲んだ目尻を拭おうとした、その腕をナオが掴む。
 え?と顔を上げた時には、ペロリ、と目尻を舐められていた。思わず悲鳴をあげた。

「何すんのっ?!」
「しょっば…」

 涙だからねっ!って、そうじゃなーい!!
 睨み付けて抗議しようと開いた唇は、次の瞬間、塞がれていた。

 すぐさま差し込まれた舌先に絡め取られて逃げ場の無くなった舌に、ナオの肉厚なそれが、今舐め取ったばかりの涙を擦りつけるように動く。

 何度も、何度も。
 擦りつけては、味わうように。

 しょっばいかどうかなんて、わかるわけない。息をするのも苦しいのに、ナオの舌はさらに奥深くを探るように絡み付く。

「ん、ぅんん…」

 抗議する様に首を振ると、ナオは仕上げとばかりにじゅっと音を立てて吸ってからやっと唇を離した。
 はぁ…と大きく息を吐いてナオの首元に顔を埋めると、ナオの匂いに頭がくらくらする。

 だめだ、これじゃ…

 自分を奮い立たせるようにナオのシャツの胸元をグッと掴むと、身体の震えを抑える様に大きく息を吸い込んで、その勢いのまま、ナオの首筋に噛み付いた。

っっ!!」

 そのままナオの腕から抜け出そうと身体を捻り、四つん這いで逃げようとしたのに、お腹に腕が回って引き戻される。
 再び胡座の上に乗せられて、覗き込んでくる顔を睨みつけた。

「落ち込んでるかと思ったのに」
「悪い」

 どう見ても悪いと思ってない顔で笑ったナオが、そのまま私を抱き込んで、頭の上に顎を乗せる。ふぅ…とため息を吐くから、仕方ない。お腹に回された腕をまたポンポンしてあげた。

「お葬式、行くの?」
「いや、今日だったから…」

 と言う声が酷く低い。
 行きたかったんだな、と思って。

「そうなんだ、じゃあ、お香典、とか」
「おこーでん…」
「うん、お母さんが会社とかで出してたよ。待って、袋…」

 言いかけた所で、部屋着のポケットに入れていたスマホがピコン…と鳴った。開いて見ると、かなちゃからのメッセージ。

「…じゃがいも買ってこいって、肉じゃがっってたのに何やってんだ?」

 覗き込んだナオが呆れている。かなちゃはナオがここに来てるの知ってるんだろうか…そう思うとちょっと後ろめたい気持ちになった。

「メークインならうちにあるよ。持って帰る?」

 そう言って立ち上がろうとしたのに、カクッと膝が抜けた。
 あれ?と思った時には脇を掴まれて、ぐるんと反転した身体をナオに抱き上げられる。

「何やってんだよ」

 鼻で笑う?

 むぅ…としている私を、ナオはそのまま荷物みたいに運んでソファに下ろした。その手でくしゃり、と頭を撫でて、ふぅ…ともう一度ため息をついてから、ベランダの掃き出し窓に向かう。

「こーでんは、いいよ」

 さんきゅ、と。
 向こうを向いたままそう言って、リビングから出て行った、その背中を見送って、それが境界壁の向こうに消えたのを確認してから、ぽすり、と、ソファに倒れ込んだ。
 ぎゅ…と、自分で自分を抱きしめる。微かに震える身体にため息を吐いた。

 ずるいな、と思う。
 こっちは立ち上がる事も出来ないのに、何、あれ。

 多分…うん、多分、そうだ。
 本命じゃないから、なんだろう。

 彼女には、きっと、もっと優しくするに違いない。

 そんな事を考えてツキン…と痛む胸に、もう笑う事しか出来なかった。
 
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