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世界平和の少女(仮)
しおりを挟む遠くから、生徒たちの元気な声が聞こえてくる。
昼休みと言えど旧校舎に立ち入る者はほとんどいない。よほどの物好きか、雨の日にかくれんぼの舞台に選ばれる程度だ。
暗い校舎には、カツン、カツンと自分の足音ばかりが響いていた。
階段を上り、屋上への扉を開ける。
空から、風が吹き込んだ。
「ありゃ。先客かぁ」
ぼそりと呟く。
屋上には、空を見上げるひとりの女子生徒の姿があった。
一服しようと取り出していた煙草を胸ポケットへと仕舞う。俺のささやかな憩いのスポットは、今日は使用許可は下りなさそうだ。
仕方がない。俺はその子に近づいて注意をした。
「こら、ここは立ち入り禁止だぞ」
「えっ!? ダメなんだ!?」
女子生徒はやや青みのかかった黒髪を翻し、跳ねるように驚いた。
見覚えのない顔だ。背も低いし、一年生だろうか。
「あんまり知られてないが、この屋上はろくに手入れがされてなくてな。万一の事故を防ぐために封鎖になってる。まぁ、その鍵すら壊れてるんだが」
「えぇー。ひどいよー。迷惑かけないから、ダメ?」
「悪いな、決まりなんだ。さぁ、下りた下りた」
生徒の背後に回り、階段へ向かうようポンと背中を押す。少女が恨めし気な目で振り向いた。
「……でも先生いま、ここでタバコ吸おうとしてたよね?」
うぐ、と言葉に詰まる。どうやらしっかり見られていたらしい。そして俺の反応を読み取ったのか、少女はみるみるうちに笑顔になった。
「いーけないんだー。先生が隠れてタバコ。誰かに喋っちゃおうかなー?」
「降参だ、降参。やめてくれ。下手すると首が飛んじまう」
俺は即座に説得を諦めて、パタパタと手を振った。ルールを多少破っても『ごめんなさい』で済む子供と大人は違う。あまりに不利だ。
「黙っててあげるから、さ。それ、一本ちょーだい。吸ってみたいな」
「いや、悪魔かお前。なんて二択を迫るんだ」
首が飛ぶか、首に縄が掛かるかだ。思わず一歩引いてしまった。
少女は不思議そうに首を傾げると、俺の胸ポケットを指す手を降ろした。
「……もっと自分を大切にしろ。こんなもの、ただの寿命を縮める毒だぞ」
「なんで? 先生は吸ってるのに?」
「俺はいーんだよ。もう未来に夢もないからな」
「先生は、夢、ないの?」
一瞬、少女がひどく悲しそうな顔をした。俺はまた言葉に詰まった。
俺だって、夢ならあった。だが、空はあまりに遠かったのだ。
少女が空を見上げる。そして両手を広げ、空に向かって豪語した。
「私はあるよ! 世界平和!」
「…………は?」
「あっ! 今、馬鹿にしたでしょ!」
間抜けに口を開けていた俺を少女が咎めた。
予想外にスケールがでかかった。少々怯んでしまったが、ヒーローやヒロインというものに憧れる年頃なのだろうと思い直した。
「いや、すまない。驚いただけだ。良い夢だと思うぞ」
褒めてやれば少女は満足げに頷いて、勝手に続きを語り始めた。
「まずは手始めに、この学校を誰もが楽しいと思える場所にする。そのために、いろいろ企画を考えたり、使えるものがないか周囲を探検したりしているの」
「なるほど、それでこんな屋上まで来たのか」
「うん。それと、ある程度は悪いことにも触れておく必要があって……。一本だけ、ダメ? けっこう喉に効く銘柄だって聞いてて、興味があったんだよね」
「ダメだダメだ! もう昼休みも終わる。そろそろ降り……待て、何で銘柄と味を知ってる!? すでに吸ってたりしないよな!?」
「べー。教えませーん」
少女はこちらに舌を突き出すと、足取り軽く駆けてゆき、屋上から出ていった。
ハァと息をつき、俺も続いて階段へと向かう。
今日は一服できなかったな。
出口の扉から、屋上をふと振り返る。今日は天気が良く、青空が広がっている。
*
「慰労会をやります!」
そんな声が轟いたのは、放課後すぐの職員室の中だった。
そしてこれを叫んでいるのが誰かと思えば、昼休みに屋上にいた女子生徒だった。
「教員は原則全員参加、企画・運営は私がやります! 参加費は無料、場所は、私と仲良くしている、夜空の見える素敵な居酒屋があります! 日程は、再来週の土曜で……」
「長瀬君、長瀬君。ストップ。ここがどこだか分かってる?」
職員室の入口にいた少女に、教頭が止めに入った。よくやった教頭。ちょうど、頭が痛くなりそうな所だった。
少女は首を傾げて、再度口を開いた。
「えっと、職員室ですよね?」
「そうじゃなくて。ここは学校で、君は生徒。生徒の設営で飲み会したなんて、誰かが聞いたら……」
「委員長権限で箝口令を敷きます! だいじょーぶ! それとも、生徒が善意で企画した催しを、検討もなく無下にするんですか……?」
教頭が言葉に詰まった。言い負かされてんじゃねーよ。
「てかあの子、教頭と面識あったのか……」
「えっ、むしろ知らなかったんですね。あの子、一年生たちや教員の間で割と有名ですよ」
ぼそりと零した独り言に、隣の机の水野先生から言葉が返ってきた。
「そうだったんですか」
「ええ。クラスのムードメーカーで、内気で孤立気味な子や少し素行の悪い子とも仲が良くて。委員長らしく諫めたり、仲を取り持ったりもするんです。もう、学年のほとんどがあの子を中心に友達なんじゃないかしら」
「すごい子なんですね。恥ずかしながら、俺は今日初めて知りました。将来、大物になりそうな子ですね」
普段、同僚や生徒とのコミュニケーションをさぼっていたツケだろう。
ははは、と誤魔化すように笑いながら、俺は荷物を片付けるふりをする。
「――あっ、それ」
そして鞄の中にちょうどタイミング悪く、吸い損ねた煙草があった。なんてこった。
「あ、いえ、咎めたいわけじゃなくて。私もそれ、ちょっと前まで吸ってたんです。喉に響く感じが好きで……」
俺はあんぐりと間抜けに口を開けた。
「いや、意外ですね。まさか水野先生が喫煙者で、同じ煙草を吸ってたとは」
「ただ、値上げに次ぐ値上げで、手が出しにくくなっちゃって。安いタバコで我慢してます」
水野先生は気恥ずかしそうに苦笑した。
ふと教頭の方を見ると、飲み会の告知を職員室の掲示板に貼っていた。
「よかったら、一本どうです? さすがに校内だと怒られるから、慰労会の時にでも」
「いいんですか? ふふ、楽しみにしてますね」
水野先生は楽しそうにプリントの整理をしている。
件の女子生徒――長瀬の姿はすでにない。
「それにしても、上田先生って厳格で気難しい人ってイメージがあったんですけど、話すとガラッと印象変わりますね」
「厳格? 俺が?」
「あっ、気を悪くされたらごめんなさい。仲良くなりたいなぁって思ってたんです」
「あぁ、近寄りがたいとは思われてたかもな……」
実際、孤立気味だった。
そこに新しく友達ができそうなのは、嬉しいと思った。
窓から外を見る。
オレンジ色の夕焼けが、いつもより少し明るく感じた。
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