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〔34〕存在者は、一回的・単独的・唯一的な歴史性をもってあらわれる。
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私たちが一般に『他者』と呼んでいるのは、私たちとその他の者たちとの間にある同質性に基づいた、区別と差異化によって見出されているものである。
それに対して、『他者性(alterity)』に基づいて見出される他者は、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれる。それは、『機会』としての一回性、『状態』としての単独性、『価値』としての唯一性というそれぞれの位相で、『歴史性』という「自立した『意味』」を持つ。
また、この『歴史性』は、存在者各々が有限かつ不十分であるからこそ獲得することができる、存在者各々の本質である。この、存在者の本質としての『歴史性』は、その存在者があらわれるのと同時に、すでにその存在者に獲得されていることにより(なぜなら、その『あらわれ』こそが『歴史性』であるから)、その存在者の本質であると言いうるものなのである。
私と他者との「区別」は、この『歴史性』に基づいてなされる。だがしかし、私も他者も、この区別において、いや、この「区別自体」に対して、いずれも依存することはない。なぜなら、この区別の基底となる『歴史性』は、一回的・単独的・唯一的なものとして、他の何ものに対しても「自立している」からである。
私と『他者』は、それ以前には存在せず、そしてそれ以後には存在しなかったことにはけっしてできない、また同時に同じものとしてはけっしてあらわれることがないような『この人』としてそれぞれにあらわれ、そしてそのような『この人=存在者』が、無限多数にあらわれ続ける。『この人=存在者』が、一回的・単独的・唯一的な「『歴史性』を持ってあらわれること」において、その『歴史性』は、「この人=存在者にとっての『唯一性=uniqueness』」と言いうるものとなり、またその、他の何ものに対しても自立している『他者性=alterity』は、「この人=存在者の『固有性=singularity』」と言いうるものとなる。それは、「その者」が一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持つ者、アレントの言い方では「その者自身=who」としてあらわれたことを証拠づけるものである。また、この『唯一性=uniqueness』や『固有性=singularity』は、その者が「いかなるもの=what」としてあらわれたのかという、「出来事の差異性」による判断において見出されるような『個性』とは、全く無関係である。
一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持つ『存在者=この人』は、それ以前にはその存在が考えられえず、それ以後にはその存在をなかったことにできない者として、また、同時に同じものとしてあらわれることがない者としてあらわれる。ゆえに、私が目撃する、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれる『この人=存在者』は、私にとっての『他者』であり、彼らに目撃される、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれた「存在者である『私』」は、彼らにとっての『他者』なのである。そして、私にとっての『他者』も、『他者』である私も、互いに取り換えることのできないものとして、「自立して」存在している。
そのような『他者』が、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った「自立した存在者」としてあらわれることにおいては、しかし「どの者においても共通している」のである。そこで、アレントの言う「存在する一切のものがもっている奇妙な質」(※1)とは、言い換えると次のようになる。「存在する(あるいは存在した、もしくは存在することになるであろう)一切のものたち」が、「その存在において、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った存在者であること」は、その「あらわれの形式」においては互いに共通している。だが、逆にまさしくその、「一回的・単独的・唯一的な、他の何ものからも自立した『歴史性』を持ってあらわれること自体」としては、互いに取り換えることのできないものとして、それぞれに異なっている=自立している。この、一見して背反するような二重の構造を、あらゆる存在者がもれなく持って存在しているというのは、たしかに「奇妙なこと」なのだと言えるだろう。
◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第五章24
それに対して、『他者性(alterity)』に基づいて見出される他者は、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれる。それは、『機会』としての一回性、『状態』としての単独性、『価値』としての唯一性というそれぞれの位相で、『歴史性』という「自立した『意味』」を持つ。
また、この『歴史性』は、存在者各々が有限かつ不十分であるからこそ獲得することができる、存在者各々の本質である。この、存在者の本質としての『歴史性』は、その存在者があらわれるのと同時に、すでにその存在者に獲得されていることにより(なぜなら、その『あらわれ』こそが『歴史性』であるから)、その存在者の本質であると言いうるものなのである。
私と他者との「区別」は、この『歴史性』に基づいてなされる。だがしかし、私も他者も、この区別において、いや、この「区別自体」に対して、いずれも依存することはない。なぜなら、この区別の基底となる『歴史性』は、一回的・単独的・唯一的なものとして、他の何ものに対しても「自立している」からである。
私と『他者』は、それ以前には存在せず、そしてそれ以後には存在しなかったことにはけっしてできない、また同時に同じものとしてはけっしてあらわれることがないような『この人』としてそれぞれにあらわれ、そしてそのような『この人=存在者』が、無限多数にあらわれ続ける。『この人=存在者』が、一回的・単独的・唯一的な「『歴史性』を持ってあらわれること」において、その『歴史性』は、「この人=存在者にとっての『唯一性=uniqueness』」と言いうるものとなり、またその、他の何ものに対しても自立している『他者性=alterity』は、「この人=存在者の『固有性=singularity』」と言いうるものとなる。それは、「その者」が一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持つ者、アレントの言い方では「その者自身=who」としてあらわれたことを証拠づけるものである。また、この『唯一性=uniqueness』や『固有性=singularity』は、その者が「いかなるもの=what」としてあらわれたのかという、「出来事の差異性」による判断において見出されるような『個性』とは、全く無関係である。
一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持つ『存在者=この人』は、それ以前にはその存在が考えられえず、それ以後にはその存在をなかったことにできない者として、また、同時に同じものとしてあらわれることがない者としてあらわれる。ゆえに、私が目撃する、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれる『この人=存在者』は、私にとっての『他者』であり、彼らに目撃される、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持ってあらわれた「存在者である『私』」は、彼らにとっての『他者』なのである。そして、私にとっての『他者』も、『他者』である私も、互いに取り換えることのできないものとして、「自立して」存在している。
そのような『他者』が、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った「自立した存在者」としてあらわれることにおいては、しかし「どの者においても共通している」のである。そこで、アレントの言う「存在する一切のものがもっている奇妙な質」(※1)とは、言い換えると次のようになる。「存在する(あるいは存在した、もしくは存在することになるであろう)一切のものたち」が、「その存在において、一回的・単独的・唯一的な『歴史性』を持った存在者であること」は、その「あらわれの形式」においては互いに共通している。だが、逆にまさしくその、「一回的・単独的・唯一的な、他の何ものからも自立した『歴史性』を持ってあらわれること自体」としては、互いに取り換えることのできないものとして、それぞれに異なっている=自立している。この、一見して背反するような二重の構造を、あらゆる存在者がもれなく持って存在しているというのは、たしかに「奇妙なこと」なのだと言えるだろう。
◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第五章24
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