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〔14〕概念としての感情、利己心としての感情。
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仮に苦悩が『概念』であるような場合、同情者はもはや自らは何ら苦悩することがなくとも、その同情を向けるべき対象を見つけ出すことができるのではないだろうか?いや、その対象を自ら「作り出す」ことさえできるのではないだろうか?なぜなら対象とすべき苦悩は「そこにすでにある」のだから。誰もが知りうるようなもの、つまり一般的なもの、すなわち「概念的なもの」として。
そのように、同情者が苦悩者を「概念的な存在」として、つまり「苦悩という、先行された概念に基づいて対象化された存在」として見出すことにおいて、その対象に向けられる感情を、アレントは同情と区別して『哀れみ(ピティ)』と名づけている。
アレント曰く、そのような『哀れみ』という感情は、「…肉体的には動かされない悲しさ…」(※1)として表現されるという。
「…哀れみは、肉体的に打ちのめされることなく、その感情的距離を保っている…。」(※2)
対象と「感情的な距離を保たれたもの」として表現される『哀れみ』は、自らも痛みを感じるような「受苦的なもの」ではなく、そこでは「他人の痛みを自らの痛みに置き換える」ことはないし、「他人が傷つくくらいなら、自分が傷ついた方がましだ」などと考えられることもない。つまり、終始「他人事」であることが許されている苦悩である。
もし、哀れみにおいても苦悩があるのだとしたら、それは「苦悩せんと欲することにおいて欲する苦悩を、実際に苦悩する」ということになるのではないか?「欲する」ということは、「欲しているものが、自分自身には欠如している」ということであって、「欲した苦悩を実際に苦悩することにおいて、その欠如は埋め合わせられることになる」としたら、このような苦悩が「実際に苦しい」と言えるだろうか?
あるいは、たとえば哀れみに「悲しみ」というものがあるとして、「悲しいという概念」が先行するところにおいて、それに当てはまる対象に、悲しいという感情が向けられることになるだろう。それは言ってみれば、「悲しみたいから、悲しめるような相手を捜す」というようなものではないか?その意味ではたしかに、「…人は哀れみのための哀れみを感じることができる…」(※3)のだ、とも言える。
哀れみが同情と異なるところがあるとしたら、同情は「苦悩している人に同情する」のであるのに対し、哀れみは「哀れみたい相手を苦悩に追い込むこともある」のだ、と言える。なぜなら、哀れみにおいての苦悩は、「苦悩あれかし!」と欲し求めるような「欲望の対象」としてあるのだから。
哀れみは、哀れむべき対象を欲望する意識であるとすれば、「哀れむべきかわいそうな人々」を対象として、それを「助けたい」と意識する欲望は、その対象に対して「常にかわいそうであること」を要求し、その欲望の意に適うような「可愛げ」を要求することになるだろう。そして、その欲望に一致しない者に対しては、哀れみの意識は、その「無慈悲さ」においては、いっさいの際限をもたないだろう。それが誰であろうとも容赦しない。哀れむべき者に情熱を差し向ける欲望は、自らの望むような哀れさを、その対象が示そうとしないと見ると、今度は彼らに対する「敵対者」として、その庇護者として注ぎ込んだ以上の情熱を、彼らへの敵意と憎悪に転換して差し向けるところとなるのだ。「自分の思い通りにならない他人」に、自分の情熱が破綻させられたときの、反発と怒りの情熱は、そこに至るまでの情熱を「取り戻して余りあるものであるべき」と考えるから、その情熱はさらに輪をかけて際限のないものとなるのである。
同情も哀れみも、その対象に向けられた意識として、エゴイスティックでセルフィッシュなもの、つまり利己的なものだと考えることができる。
『利己心』は、自分自身のために有益であることを意識して社会的に関係する意識であると考えることができるが、しかしそれは「自分だけ」がそのように意識しているということによっては成り立たない。私ではない人=他人もまた私と同様に「自分のために」と意識していることが共通の前提としてあるところに、利己心ははじめて見出される。
それぞれが利己的な意識をもって社会的に生活している個人個人が、その「利己心を持っている」という点において、それぞれの利己心を互いに尊重し、承認する。その、利己心という共通した意識において「共感」する個人同士の関係が、「自由な社会」と言えるのではないかという見方もされうる。
もし私が、自分の利己心を放棄して、他人の利己心を受け入れるならば、あるいは相手にその相手自身の利己心を放棄させて私の利己心を受け入れさせるならば、私と相手を「異なる立場」において関係させるような、一方的な関係を作り出すことになる。つまりそれは「支配の関係」と何ら変わるところがない。しかしもし、私の持っている利己心を「相手も同様に持っている」のだというように、私が「相手の立場に立って想像することができる」ことを前提にするならば、利己心を「それぞれが同様に持っている」ということにおいて、またそのそれぞれが利己心を持っているという「立場」において、互いに「共感することができる」ようになるのだ。この意味での『共感』とはまさに、その「相手の立場に対する承認」であると言える。
他人も自分も「同様な人間である」という共通の前提があるからこそ、そこにはじめて「人間を利用する」ということが成り立つ。「利用」とは、ある対象を「自らの利益に適う対象」として捉える意識に基づく。人は、「人間を利用する」という意識において、他人を対象としているのと同様に、自分自身をも対象にする。「『社会的』な意識」とはそのように、「自分も他人も同様に対象として見る意識」としてある。それは言ってみれば「自分自身を他人として見ること」でもある。自分が他人と同様の人間であるならば、他人と同様の利用価値が、自分自身においてあるのかどうかを、自分自身で評価することになる。その評価の対象として、自分自身を見ることになる。その視線は、そのような利用対象としての評価を媒介にして、人を、すなわち「自分自身」を、社会的な利害を媒介にした、社会的な関係の中に導く。つまり「利害」は、自分にとっても他人にとっても「同様に利害である」ものとして、人を社会的に結びつけるものとなる。
◎引用・参照
(※1) アレント「革命について」第二章3 志水速雄訳
(※2)~(※3) アレント「革命について」第二章4 志水速雄訳
そのように、同情者が苦悩者を「概念的な存在」として、つまり「苦悩という、先行された概念に基づいて対象化された存在」として見出すことにおいて、その対象に向けられる感情を、アレントは同情と区別して『哀れみ(ピティ)』と名づけている。
アレント曰く、そのような『哀れみ』という感情は、「…肉体的には動かされない悲しさ…」(※1)として表現されるという。
「…哀れみは、肉体的に打ちのめされることなく、その感情的距離を保っている…。」(※2)
対象と「感情的な距離を保たれたもの」として表現される『哀れみ』は、自らも痛みを感じるような「受苦的なもの」ではなく、そこでは「他人の痛みを自らの痛みに置き換える」ことはないし、「他人が傷つくくらいなら、自分が傷ついた方がましだ」などと考えられることもない。つまり、終始「他人事」であることが許されている苦悩である。
もし、哀れみにおいても苦悩があるのだとしたら、それは「苦悩せんと欲することにおいて欲する苦悩を、実際に苦悩する」ということになるのではないか?「欲する」ということは、「欲しているものが、自分自身には欠如している」ということであって、「欲した苦悩を実際に苦悩することにおいて、その欠如は埋め合わせられることになる」としたら、このような苦悩が「実際に苦しい」と言えるだろうか?
あるいは、たとえば哀れみに「悲しみ」というものがあるとして、「悲しいという概念」が先行するところにおいて、それに当てはまる対象に、悲しいという感情が向けられることになるだろう。それは言ってみれば、「悲しみたいから、悲しめるような相手を捜す」というようなものではないか?その意味ではたしかに、「…人は哀れみのための哀れみを感じることができる…」(※3)のだ、とも言える。
哀れみが同情と異なるところがあるとしたら、同情は「苦悩している人に同情する」のであるのに対し、哀れみは「哀れみたい相手を苦悩に追い込むこともある」のだ、と言える。なぜなら、哀れみにおいての苦悩は、「苦悩あれかし!」と欲し求めるような「欲望の対象」としてあるのだから。
哀れみは、哀れむべき対象を欲望する意識であるとすれば、「哀れむべきかわいそうな人々」を対象として、それを「助けたい」と意識する欲望は、その対象に対して「常にかわいそうであること」を要求し、その欲望の意に適うような「可愛げ」を要求することになるだろう。そして、その欲望に一致しない者に対しては、哀れみの意識は、その「無慈悲さ」においては、いっさいの際限をもたないだろう。それが誰であろうとも容赦しない。哀れむべき者に情熱を差し向ける欲望は、自らの望むような哀れさを、その対象が示そうとしないと見ると、今度は彼らに対する「敵対者」として、その庇護者として注ぎ込んだ以上の情熱を、彼らへの敵意と憎悪に転換して差し向けるところとなるのだ。「自分の思い通りにならない他人」に、自分の情熱が破綻させられたときの、反発と怒りの情熱は、そこに至るまでの情熱を「取り戻して余りあるものであるべき」と考えるから、その情熱はさらに輪をかけて際限のないものとなるのである。
同情も哀れみも、その対象に向けられた意識として、エゴイスティックでセルフィッシュなもの、つまり利己的なものだと考えることができる。
『利己心』は、自分自身のために有益であることを意識して社会的に関係する意識であると考えることができるが、しかしそれは「自分だけ」がそのように意識しているということによっては成り立たない。私ではない人=他人もまた私と同様に「自分のために」と意識していることが共通の前提としてあるところに、利己心ははじめて見出される。
それぞれが利己的な意識をもって社会的に生活している個人個人が、その「利己心を持っている」という点において、それぞれの利己心を互いに尊重し、承認する。その、利己心という共通した意識において「共感」する個人同士の関係が、「自由な社会」と言えるのではないかという見方もされうる。
もし私が、自分の利己心を放棄して、他人の利己心を受け入れるならば、あるいは相手にその相手自身の利己心を放棄させて私の利己心を受け入れさせるならば、私と相手を「異なる立場」において関係させるような、一方的な関係を作り出すことになる。つまりそれは「支配の関係」と何ら変わるところがない。しかしもし、私の持っている利己心を「相手も同様に持っている」のだというように、私が「相手の立場に立って想像することができる」ことを前提にするならば、利己心を「それぞれが同様に持っている」ということにおいて、またそのそれぞれが利己心を持っているという「立場」において、互いに「共感することができる」ようになるのだ。この意味での『共感』とはまさに、その「相手の立場に対する承認」であると言える。
他人も自分も「同様な人間である」という共通の前提があるからこそ、そこにはじめて「人間を利用する」ということが成り立つ。「利用」とは、ある対象を「自らの利益に適う対象」として捉える意識に基づく。人は、「人間を利用する」という意識において、他人を対象としているのと同様に、自分自身をも対象にする。「『社会的』な意識」とはそのように、「自分も他人も同様に対象として見る意識」としてある。それは言ってみれば「自分自身を他人として見ること」でもある。自分が他人と同様の人間であるならば、他人と同様の利用価値が、自分自身においてあるのかどうかを、自分自身で評価することになる。その評価の対象として、自分自身を見ることになる。その視線は、そのような利用対象としての評価を媒介にして、人を、すなわち「自分自身」を、社会的な利害を媒介にした、社会的な関係の中に導く。つまり「利害」は、自分にとっても他人にとっても「同様に利害である」ものとして、人を社会的に結びつけるものとなる。
◎引用・参照
(※1) アレント「革命について」第二章3 志水速雄訳
(※2)~(※3) アレント「革命について」第二章4 志水速雄訳
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