りんごの花

深月カメリア

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手の届く距離

第14話

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 ステージでのリハーサル――といっても曲目の発表とバンドの位置、パフォーマンスの移動位置、ライトの色などの指定だが――を終えて、昼休憩になった。
 平日ということもあってかイベントのスタッフしかおらず、淡々と進む。
 圭はすっかりバンドメンバーと意気投合し、一緒に昼食を摂ると他愛もない会話を始めた。
 やれ結婚すると妻は強くなる、やれ子供の成長は早い、とスマホを見せられた。
 伊藤はいいっすね、可愛いっすね、と食い入るように見つめている。
 飯塚はさすがにそれを見る勇気は出ない。
 この日、律はお土産屋での仕事が入っているそうで、合流するのは午後からだ。
 腰痛を悪化させた婦人の代わりらしい。
「りっちゃんは東京に住んでたんですよ。だからこの地域のメリット・デメリットをある程度客観視出来てるんで、頼りにしてるんです」
「小山内さんはずっとこっちですか?」
 棚田が愛想良く会話する。
「そうです。いや、俺も都会に憧れた時期はあったんですけどね、大学出たくらいに父が体調崩しまして。それで家業だったコンビニを継いだんですよ」
「コンビニっすか。確か家族経営って意外と多いですよね」
「そうなんです。けっこう主婦業当てはまるシーン多いですしね。妻がいて助かってます」
 二人を横目に飯塚はステージの中央、自分の立ち位置から風景を見た。
 春とはいえまだどこかひんやりとした風がふく。
 曲目を確認し、演奏をイメージする。
 他にも民謡クラブ、子供会や高校の部活動生達も出し物に参加だ。続々とやってきて、ステージを確認していく。
 やがて薄紫色の雲がかかり、陽が傾いてゆく。
 影が伸びて、その先にヒールをはいた、スーツ姿のままの律がやってきた。
「お疲れ様です!」
 そう言ってステージに上がり、クロヒョウのメンバーにむき直る。
「どうぞ」
 と言って暖かい飲み物を手渡していった。
 飯塚は差し出されたお茶ではなく、記憶のままのその手を取る。
「ゆ……」
 律が顔をあげた。
 飯塚はすぐに手を離し、お茶を受け取る。
「ありがとう」
「いいえ……」
 視線を下に向けた律の顔を覗くように見つめると、ベースで頭を小突かれた。
「いてっ」
「何やってんだよ。そろそろ軽く音合わせ。ちゃんと曲目確かめたか?」
「確かめたって。ドラムは?」
「今運んでる」
 見ればドラムセットが棚田の指示で運ばれていくところだ。
 飯塚は頭をふってお茶を飲んだ。

***

「りっちゃん、俺のサポートやめとく?」
 圭にそう声をかけられ、律は顔をあげた。
「どうして?」
「いや、あの飯塚さん。りっちゃんに気があるみたいだから……」
「まさか。手がぶつかっただけ」
「そうかな。分かるよ、彼、俺が純を見るときと同じ目してる」
「何それ」
「下心。りっちゃんにもわかってるはずだろ」
 圭の一言に律は口を噤む。
 ステージ上で高校生が本格的な楽器群に興味をひかれたらしく、遠巻きに見ながらこそこそ言い合っている。
 子供達はすぐに帰宅だ。民謡クラブが最初に軽く歌い、高校生達も軽音や和楽器、吹奏楽を次々に練習してゆく。
 飯塚達がようやく出番となったころ、すでに空の色が紺色に近づいていた。

 いつか聞いた歌声に、どこか掠れたような響き。
 芯の強さは相変わらず、しかし柔らかさが増し、心臓に直接語りかけるようなものになっている。
 歌詞に合わせたトーンで、時折それにドラムが感情を足してゆく。
 隣に立つ圭が「生ってすごいな」と感心している。
 バーとは違う。
 しっとりとした雰囲気のバーとは違う、もっと開けた世界観。
 誰もに自慢したくなるようなそれに、律は誇らしい気持ちと、宝箱から一番のお気に入りが飛び出ていってしまったような寂しさを味わう。

***

 律の目がこっちを見ていた。
 飯塚をまっすぐに。
 隣には圭の姿があり、二人は何か話してはスマホに打ち込んでゆく。
 今回のイベントでのことだろう、そう思うもじりじりと鳩尾を焼かれる感じがした。
 諦めると決めたはず、と飯塚は自分自身に言い聞かせる。
 マイクをスタンドに戻し、終了する。
 音の具合は良い。
 青空に音が伸びてゆくのが気持ちよかった。
 ステージを降りると圭と律が拍手しながら近づいてくる。
「生ってすごいですね。腹に響く感じ」
 そんな感想を言いながら。
 ホテルに帰るため、圭の運転するバンに乗る。
 皆もそろそろ本気になったらしく、真剣に明後日のイベントでの行動を考え始めた。
 飯塚は助手席に座る律を見つめる。少し雰囲気が変わった。
 柔らかく、女性的で、触れれば暖かそうだ。
 青白い顔をしていたあの頃とは違う。
 違うのに懐かしく、たまらなく魅力的である。
 そうしたのは隣の男?
 そう考えた瞬間、飯塚は彼女を見ていられなくなり窓に目をやった。
 ホテルに着くと飯塚は一人外へ出た。
 気になる飲食店があり、そこを訪れたのだ。
 こじんまりとして、換気扇が油で黒く汚れている。
 中は湯気でぽかぽかと暖かそう、入るとふくよかなおばちゃんが出迎えた。
 岐阜の家庭料理を食べ、ネギの味噌汁を飲んだ。
 お腹が満たされ外に出れば、冷たい風が頬に気持ちよい。
 ホテルに戻ろうかと考えたが、ふとつま先が信号を向いて、その通りにした。
 適当に道を歩けば、素朴な人々が肩を寄せ合っているのが見えた。
 飯塚はうーん、と思い明るい駅ビルを目指す。
 地下に入るとここにも飲食店が。
 中にはイベント出店予定、と看板に書かれており、飯塚は一人親近感を覚える。
「お疲れ様でした」
「お疲れ、大変だね。おばちゃんの代役も兼ねてるんでしょ?」
「ああ、ええ。でも楽しいので、大丈夫です」
「無理しちゃだめだよ」
 聞き覚えのある声に振り向けば、イベント出店予定の店先で律とおばちゃんが話していた。
「ありがとうございます、じゃあ当日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。楽しみだね」
「はい」
 律が礼をすると振り返らないまま歩き出した。
 背中が遠くなる。
(追いかけてどうする?)
 そう弱気が顔を出し、しかし足が勝手に動き出す。
 地下だからか足音が反響する。
 飯塚は駆け足で律に追いつき、追い越すと彼女の行く先に腕をついて阻んだ。
「!……」
 律が目を見開き、息をのむ。
 飯塚は何を言えば、と言葉に詰まったが、額を押さえると何とか「よお」と言った。
「……譲くん」
「あー……えーと……久しぶり」
 それをひねり出すと、律は口をぽかんと開けて頷いた。
「うん。……久しぶり……」
「元気……そうに、見えるけど。なんか、あんま話す暇なかったから」
「うん……元気。譲くんは……?」
「まあ見ての通り。ぴんぴんしてる……」
 飯塚は頭をかくと、視線を逸らした。
 律も下を向いたが、すぐに顔をあげる。
「あの……来ると、思ってなくて……圭ちゃんと私、違うグループにいるから」
「知ってたらどうした?」
「……どうしたかな」
「今のなし、ごめん。意地悪した」
「謝る事じゃ……」
 店から客が出てきて、二人の側を通り抜けてゆく。
 会話が途切れた。
 が、律が飯塚を手招いた。
「ここの2階にバーがあるの。行かない?」
「あ、ああ。……行くか」
 律の後を歩き、2階のバーに入る。
 バーというよりは喫茶店という雰囲気だが、小さなカウンターに4人がけのテーブル席が3つとなかなか良い大きさだ。
 何より店の奥にはピアノがあり、飯塚の目をひいた。
「良い感じ」
「でしょ? 私もこっちに引っ越してから見つけたの」
「ふうん、なるほど」
 テーブル席に座ると、メニューを開く。
 飯塚はウィスキーを、律は日本酒を注文した。
「飲んで平気?」
「ここじゃ俺をだませないだろ?」
「ふふ。そうね」
 律はゆったりと笑ったが、ふと表情を曇らせた。
「ごめんね」
 そう謝られ、飯塚はぐうっと背骨を締め付けられた感覚に襲われる。
「何が?」
「あの日……勝手に出て行って。でも、太田さんに言われたでしょ? 私のこと、悪い夢でも見たんだと思って忘れろって」
「……何だそれ?」
 飯塚は首を傾げる。太田にそんな慰めるようなことを言われていない。どころか説教されたのだ。
「何だそれって……そのままだけど……」
「忘れろって? 律を?」
「そうよ」
「言われてねぇな。それに言われたとしても、忘れたりしねえよ」
 律の目をまっすぐに見て言えば、彼女はそっぽを向いた。その耳が赤い。
(よせよ、その態度。勘違いするぞ)
「俺の……クロヒョウのファンだって?」
「え?」
「小山内さんが言ってた」
「ええと……純……幼なじみに動画を見てみて、とは言ったけど」
「素直じゃねぇな」
「だって……」
「律は動画越しに俺を見てたわけだ。俺は何越しにも律を見れないのに」
 荷物は全てなくなっていたのだ。
「その……」
「なんで俺を見てた?」
 飯塚は律に体を寄せ、上目遣いに見つめる。
 律が困ったように眉をハの字にした。
「それは……」
 逃げようとする律の手をそっと包むようにすれば、その頬が赤く染まる。
 小さな手が飯塚の手の中で震えた。
(やべぇな。不倫ってこっから始まるのか)
 飯塚はぱっと手を離す。姿勢も戻し、ウィスキーを口につけた。
「その……動画、見つけて……元気かなって」
「なるほど。罪悪感か」
「違うわ」
「俺に謝ったじゃん」
「それは……」
 いよいよ律が困った顔をして下を向く。
 飯塚は自身の首を撫でると「ごめん」と謝った。
「こっち帰って、良かった?」
 飯塚が話題を変えると、律が何か言いたげな態度を見せるも、頷く。
「うん。ちょっとずつ、リズムを取り戻せた感じ」
「なら良かった。それが一番だよ」
「……ありがとう」
「礼言われることなんかねぇな。それで……」
「譲くんは?」
「ん?」
「譲くん、どうしてた? 本当に元気だった?」
「体はな」
 飯塚はそう答えると、天井を向いて続ける。
「律出てった後、色々考えた。太田のオヤジにも言われたよ、俺が甘ったれだから、お互いダメになるから出てったんだって」
 律がぴたりと表情を固める。
「そりゃ、最初はすぐ探しに行くつもりだったよ。でも、オヤジの言ったことが段々分かるようになってさ……なんつーか……本当に謝らなきゃいけないの、俺の方だろ」
 律が首を横にふる。
「そんなわけない。譲くんが謝る必要なんか少しも……」
「ならお互い様かな」
 そう言って律を見れば、目を真っ赤にして今にも涙がこぼれそうだった。
「……ごめんなさい」
 席を立とうとする律の手を取って引き留めれば、律は背を向けたまま袖で顔をぬぐった。座り直すと涙の影は消えている。
 飯塚は唇を噛み、手を離す。
「俺の前じゃ泣けない?」
 律は顔をあげた。まつげが濡れて、間接照明の光できらめく。
「俺は頼りにならないか?」
「そうじゃ……」
「あの人、いい人だよな。明るいし、社交的だし、優しいし、頼れる感じ」
 飯塚がそう言えば、律は目元を押さえて頷く。
「圭ちゃんのこと? そうね、圭ちゃんって昔からそうだった」
「昔からの知り合い?」
「うん。幼なじみと一緒によく行ったコンビニの店員さんで……毎朝声をかけてくれたの。一緒に何かするなんて思わなかったけど、楽しいわ。すごく頼れる人で、安心した」
 律は思いがけなく雄弁に褒めちぎる。
 飯塚は頬をひきつらせた。
 まさかとカマをかければ、のろけ話だ。
「前からいいお兄ちゃんって感じだったけど、子供が出来てより頼もしくなった感じ」
「そ、りゃあ、良かったな」
 子供、と聞いて飯塚はどきりとした。
「ええ。譲くん、ねえ、棚田さんが言ってたけど、新しい恋人が出来たの? フラれたって本当?」
 心配顔になった律にごまかしの笑みを見せる。が、律はすぐにごまかしと見抜いた。
「苦しかったの?」
「違う違う! あれは、棚田の嘘だよ」
「嘘?」
「俺が、つまり律をじっと見るもんだから、棚が気を利かせてフラれて調子悪いって嘘ついたんだよ」
「そうなの?」
「そう。第一、言っただろ、心底惚れたのは…………」
 それはつまり律を指す。律も気づいたはずだ、その証拠に顔を赤くして俯いた。
「……お客さんいないし、ピアノでも弾かせてもらおうかな」
 飯塚は立ち上がるとカウンターの奥で新聞を広げていたマスターに声をかける。
「どうぞ~」
 と緩い返事をもらうと、よく手入れされているピアノに触れた。
 音も悪くない、伸びの良い、女性的な音だ。
 椅子を引いて座れば、指を鳴らそうと「猫ふんじゃった」。
 マスターがちらりと見る。
 飯塚は律を手招き、横に座らせると連弾をした。
 いつかのようにきらきら星、乙女の祈りに、カノン。
 律は前よりも上手くなっており、例の曲を弾くよう言うと、覚えてる限りで、と弾いてみせた。
 中で演奏中だと知った人々が覗き、何人かが入店してきた。
 演奏が終わるとしんとした空気が流れる。
 律はテーブルに戻り、飯塚を見つめて微笑んだ。
(これで終わりだ。律は幸せなんだ、諦めよう)
 そう決意し、飯塚は言葉の代わりに大切なことを伝えようと決めた。
 作るには作ったが、まだ棚田達にも披露していない曲。
 律が残した亡き王女のためのパヴァーヌを聴きながら書いたものだ。
 飯塚は肩の力を抜くと、左手を鍵盤に置く。

 ――がらんどうになった部屋を見つめ
 君がいないのをこの目に焼き付ける
 側にあった笑顔に 温もりに
 甘ったれて いつしか君を追い詰めた
 泣くほど後悔しても 傷ついても
 それじゃ足りない 何か足りない
 君に追いつかなきゃ 後悔が俺をせき立てる
 君が必要なんじゃなく
 君が欲しいんじゃなく
 ただ笑っていて欲しいだけ
 流れるメロディーが
 導いてくれる――

 曲が終わると、いつしか満席だった店中から拍手が起きた。
 律の顔から笑顔が消え、目がきらめいている。
 目が合えば心は凪いで、まばたきをすると笑って見せた。
 律も、頷いて笑顔を取り戻した。

***

 バーを出て歩道を歩く。
 律は飯塚の隣を歩いて、時々彼を見上げた。
 体が芯から暖かいのは飯塚のせいだ。
 心が満たされ、喜びに震えている。
 飯塚は何も言わなかったが、再会の時よりもゆったりとした表情を浮かべている。
 それが嬉しかった。
 信号を前に、ぴたりと足が止まった。
「家まで送る。それか、タクシー? 電車?」
「家は近いの。心配しないで」
 飯塚が少しだけすねた表情を見せる。気を許してくれたそれに頬が緩んだ。
「ならもう少し歩こうぜ」
「うん」
 律が頷くと、飯塚は意外そうに目を丸くする。
「どうかした?」
「いや、素直だな~と思って。やっぱアレか、律はピアノに弱いんだな」
 信号が青になり、律は一歩踏み出したが、飯塚がついてこない事に気づいて振り返る。
「譲くん?」
「……なあ、やっぱ、もっかい言う。もうちょい自分のこと大事にしろよ」
 飯塚が真剣な顔をして言うので、律は目をぱちぱちさせた。
 よく見れば飯塚の顎には無精髭。
 出逢った時と同じだ。
 だが今はあの時よりも落ち着いて、大人の男だと感じさせる。
 今の飯塚があの日にいたら、律は近づこうともしなかったかもしれない。
「その、思わせぶりな態度っていうかさ……俺が今でも下心持ってるってのは、分かってるだろ?」
「譲くん……?」
 飯塚が一歩近づいた。
 瞳が黒く広がって、律を心まで覗こうとしてくる。
 律は今となってはそれを怖いと思わない。
 ただ受け止める。
「ダメだって。諦めようとしてるのに、そんな顔されたら。決意鈍くなる」
「どういうこと……?」
 飯塚は下唇を噛みしめると視線を空に向け、しかし律に戻した。
 こんな苦しげな表情を浮かべられては、律も苦しくなってしまう。
 思わず手を伸ばし頬に触れると、飯塚がその手を取って愛おしげに何度も口づける。
「今も、連れ去りたくて仕方ない」
 飯塚はまぶたを閉じたまま、喉の奥から引き絞るように言った。
 律は全身が熱くなるのを感じ、好きにされる手で、彼の手を握り返す。
「……ダメだろ。子供もいるのに」
「え?」
 飯塚の一言に律は周りを見渡す。
 人気は少なく、時間も時間なので子供の姿はない。
 体の熱は自然と下がり、小首を傾げると手を離した。
「譲くん、子供って?」
 まさか幽霊でも見えたのか。律が眉を寄せて聞けば、飯塚は目を開けて、深刻に律を見つめる。
「子供だよ、子供。小山内さんと……結婚したんだろ? まだ産まれたばっかみたいな……」
「へ? 小山内って、圭ちゃん? ちょっと待って」
 律は飯塚の口元に手を出し、待ったをかけた。
「圭ちゃんは私の幼なじみのダンナさんよ?」
「……は?」
「産まれたばかりなら、次女の綾ちゃんかな……。ああ、そうか。再会した日、私が綾ちゃん抱っこしてたから……」
 律はそう説明すると、左手を目の前に出してひらひらさせる。
「指輪もつけてないし」
 飯塚がその手を掴んだ。
「……」
 飯塚はそれをじっと見る。睨むような目だ。
 律は肩をすくめた。
「結婚してない?」
「してない」
「子供も?」
「産んでない」
「今彼氏は?」
「……いません」
「俺を嫌ってる?」
「……まさか」
「あの時、最後なんて言ったんだよ」
「それは……」
 ――大好きよ、忘れてね
 そう律が照れから言いあぐねていると、車のヘッドライトが近づいてくる。
 飯塚が律を庇うようにして、歩道に下がった。
 車はそのまま二人の近くに停車、助手席の窓が下ろされる。
「律!」
 顔を出したのは純である。
 運転席には圭だ。
「ねえ”やしま”のおばちゃんから連絡もらってさ、律が男の人に誘われてるんだけどって! 大丈夫?」
「あっ、飯塚さんこんばんは」
 圭が飯塚に気づいて挨拶する。
「こんばんは……」
「律、もう時間遅いんだから、気をつけてよ。ほら乗って」
「えぇ?」
「飯塚さんも良かったらどうぞ。ホテルまでお送りしますよ」
「いや、僕は……」
 迎えに来た二人の勢いに負け、二人は小山内家の軽自動車に乗り込んでしまった。
 狭い空間に隣に座れば、飯塚の体温と匂いが近づく。
 律はそれに心臓を跳ねさせ、目が合うと飯塚の誤解に頬が緩む。
 飯塚はなんだよ、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
「ねえ、じゃあ誘われてるってのはなんだったの?」
「やしまがイベントで出店するでしょ、それの話をしてたら、譲くんがいただけ。それでちょっと話を」
「なんだ、もう。すいませんね、田舎って人間関係狭くて。すぐ勘違いしちゃう」
「いえ……」
 飯塚はごまかすように鼻先をかいている。
「連絡しようって思ってたんだけど、ちょうどステージ見に行っててさ、そのまま走ってきたんだ。ステージ良い感じだね」
 純は話題をすぐに換えた。
 律が助手席の肩部分に手を乗せて頷く。
「夜のデート? 里乃ちゃんと綾ちゃんは?」
「デートぉ? やめてよ。姉妹なら実家実家! こっち外の空気吸いたいから圭ちゃんに無理言っただけ」
「素直じゃないなぁ。ねえ圭ちゃん」
「だよな。りっちゃん、もっと言って言って。俺子供は何人でも欲しい」
「下ネタ禁止!!」
 純がわめいた。気が立っている時期だ、律は反省した。
「肩でも揉むわ」
「もう。ほんっと肩こるんだから」
 圭がそれを見て目尻を下げ、飯塚に声をかけた。
「すいません、騒がしくて。この子ら、双子みたいにくっついてたから、再会するともうベタベタで」
「はあ。いや、仲よさそうで何より。ええと……小山内さんの、奥様」
「あっ、純です! ごめんなさいね、挨拶遅れちゃって。なんかユーチューブで見たのと変わらない感じで良いな。飯塚さんでしたっけ」
「見て下さったので?」
「律が見ろって言うもんだから。でも良かったです。なんか慰められる感じ」
「ああ、そりゃ、どうも……」
 純はマシンガントークだ。飯塚は繰り出される質問と話の内容に苦笑し、律と話す間もなくホテルの駐車場に着いてしまった。
 ドアが開き、飯塚は降りる。
「ありがとうございました」
 圭に言うと、彼は歯を見せて笑った。
「とんでもない。岐阜の夜はどうでした?」
「小さい店入りましたけど、美味かったです。飛騨牛だけじゃなくて野菜も美味い」
「そりゃ良かった。良かったら、拡散とかいうの? やって下さい」
「はは、伊藤に言っときます。あいつがユーチューバーなんで」
「じゃあ、ごゆっくり!」
 小山内夫婦が挨拶し、後部座席の窓が開く。
 律はゆったり微笑んだ。
「おやすみなさい」
「……おやすみ、お姉たま」
 そう茶化すように言われ、律は目を大きく開いた。
「もう!」
「あはは。冗談冗談! あんま怒るとおでこに皺寄るぞ」
 飯塚がそう言って額を突くと、律は半眼で睨んだ。
 指で突かれた部分をさする。飯塚が手をあげて背中を向けた。
 そのままホテルの玄関へ入ってゆく。
 前と身長や体格は変わらないはず、だがその背はとても広く見えた。
「じゃありっちゃん、帰るか?」
「うん、そうね。ありがとう」
 車が走り出す。
 ホテルをしばらく見つめ、やがてそれを背にするとシートに体を預ける。
 とてもあたたかい気分だった。

***

 律をアパートまで送った後、小山内夫婦は軽くドライブ中であった。
 ぽつんぽつんとある電灯のもと、黒い道路からわずかに見える田畑。
「ねえ、ああいう人ってやっぱ手が早いの?」
 純の突然の質問に圭は顔を強ばらせた。
「飯塚さん?」
 名前を出せば、純が頷く。
 圭自身も感じていたことだ。
「そうそう。バンドマンってそういうイメージあるよね」
 純がそう言う。どことなくトゲがあった。親友を”遊び相手”にされることが嫌なのだろう。
 フォローのつもりで圭は返す。
「イメージはイメージじゃない? 話し方も丁寧だし、いい人っぽいけど」
「それはそれ、これはこれ」
「飯塚さんが気に入らないんだ?」
「そういうんじゃないよ。たださ、なんか恋愛を軽く考えてる人なら嫌だなって」
「まあ、そうだな。でもりっちゃんもまんざらでもなさそうだし」
「……」
 純は押し黙った後、呟くように言う。
「あの人、律を守ったねぇ」
「ん?」
「あたし達が迎えに行った時。車寄せたら、飯塚さん、律を後ろに庇った」
「……そうだな」
「それに、律、彼のこと『譲くん』だってさ。親しげじゃない? ファンってそういうものかな」
「どうなのかな。分からんけど、やり取りが友達っていうか、親しげだなとは思った」
 純がシートに背中を預けた。
「お姉たま、ねぇ。律の方が年上? 年齢知ってるってこと?」
「りっちゃんはお姉さん属性じゃん」
「そうだけど。飯塚さんだって若いんだか老けてるんだか分からない人よ」
「褒めてる? けなしてる?」
「どっちでもない。別に嫌な人とは思ってないから」
 律を盗られた気分で嫉妬しているのか、と圭はようやく気づく。
 肘でつつけば、純がぷいっと顔を背けた。
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