りんごの花

深月カメリア

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第9話

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 体温を分け合うようにしていたが、ひんやりとした空気を感じて律は目を開ける。
 乱れた格好のまま、律は立ち上がろうとした。
 飯塚に手を取られ、振り返ると彼は真剣な顔をしていた。
「……もう少しゆっくりしようぜ」
 律は目をそらすと下を向く。
 飯塚の手の温もりが、手から全身に伝わってくるようだった。
 それが怖い。
 やはり、と律は首を横にふる。
「嫌なのかよ」
「……そうじゃないよ」
 カーディガンに腕を通し、飯塚に背を向けた。
 飯塚の手が離れ、律の腰をそっと撫でる。
「あんまり、優しくしないで」
「普通のことしてるだけだろ?」
「そうなら譲くん、罪深いな。女の子を勘違いさせたらダメ」
「勘違い?」
「カレー、煮込むだけだから明日でいいわよね。先にシャワー浴びるから……おやすみなさい」
 律は早口に言ってリビングを出た。
 浴室でシャワーを流し、曇る鏡を手で拭き取れば、うっすら肌を赤くする自身の姿が映り込む。
 何もしていないのにつやつやした頬はいつぶりだろうか、律は単純な体にため息をもらす。
 飯塚とのセックスが嫌なわけではなく、会話が嫌なわけではない。
 飯塚は一方的なことはせず、律をちゃんと見て受け止めている。
 かといって積極的になれないのは、ボーダーラインを引いておきたいからだ。
 彼とは同居人であって、恋人ではない、と。
 飯塚は名前のある関係は苦手なようだし、何かを期待するのは辛いだろう。
 今更ながらバーのマスターが言ったことが思い出される。
 友達なら良い、と。
 飯塚と男女の仲になったことを後悔はしていないが、傷つかないでいられるとは思えなくなってしまった。

***

 律と美穂が家についたのは昼前だった。
 美穂はいつものお団子ヘアではなく、おろしたまま。セミロングの明るい髪が太陽光に照らされて綺麗に輝いた。
「広いおうちですね」
「うん、工場跡だからね。荷物適当に置いてね。コーヒーと紅茶とどっちにする?」
「じゃあコーヒーで。あ、手伝います!」
 美穂はリビングの隅に鞄とコートを置き、キッチンへ入る。
 お菓子類、ティーポット、とテーブルまで運んでゆく。
「今日って同居人の先輩も来るんでしたっけ?」
「そうよ」
「どんな人ですか?」
「んー……私も会ったことないの。でも社交的な人だそうよ」
「なんか緊張しますね」
 と言いつつ、美穂は髪を整え始めた。鏡を取り出しチェックしている。
 出逢いのチャンスと思っているのかもしれない。
「ルームシェアって聞いたときはどうなのかなって思ってましたけど、これだけ部屋もあると確かに大丈夫そう。3人で住んでるんでしたっけ?」
 律は頷いた。
 流石に2人だとは言いづらく、飯塚と相談して決めたのだ。
 3人目は年かさの女性で、今日は仕事ということにした。
 律のスマホが振動し、見れば飯塚からだ。
 車で帰ってくるらしい。
「もうすぐ着くみたい」
「じゃあもう二人分のカップも出しておきますか」
「そうね。お願い」
 飯塚達が帰ってくるまでの間、二人でコーヒー、お菓子をつまんで待つこと15分。
 車の音が聞こえて外に出れば、飯塚ともう一人、眉のくっきりした顔立ちの男性が親しげな笑みを見せてやってきた。
「初めまして」
 と、挨拶もそこそこにバーベキューの準備を始めた。
 城島がセットを持ってきたのである。
 駐車場のスペースにそれを置き、炭に火をつける。
「火がつくまで時間かかるし、先にカレーを食っとこう」
 飯塚が律に言い、二人で台所に向かう。
 美穂はバーベキューに興味があるようで、城島を手伝い始めた。
「これ、軍手つけといて下さい」
「はーい、あっ、ぶかぶか」
「細かい作業は俺らでやるんで。適当に風送って火を回して下さい」
「はーい」
 楽しげな会話が聞こえ、様子を見に行けば美穂は城島の話に無邪気な笑みを見せていた。
「楽しそうだわ」
「先輩、なんのかんの女子に弱いんだよな」
「あら」
「まぁいいや、カレー温めたら入れていこう」

***

「それで仕方ないからその辺の枝を折ってさ、けずってけずって箸にしたんだけど、その間に料理さめたんだよな。燃料にって箸燃やして、の繰り返し」
「うそ~! それってちょっと盛ってません?」
「盛ってない、盛ってない! 人間焦るとああなるもんだって!」
 カレーも食べ終え、肉や野菜を焼きながら城島と美穂の会話は盛り上がる一方だ。
 飯塚と律は二人を横目に、焼き上がったものを食べていく。
 ジュース類もどんどん減り、片付けをする。
「あの二人相性良さそうだな」
「うん……なんか私たち、お邪魔みたいね」
 律の言葉に飯塚が頷く。
 二人でそっとその場を離れ、溜まった皿を洗って買い物の準備をする。
 このペースだとジュースが足りそうになかった。
「一人で行ってくる」
 飯塚がそう言って自転車を出した。
 律は頷いて見送る。
 バーベキューに戻ると、美穂が側にやってきてこそこそと話し始めた。
「城島さんって面白い人! 笑いすぎてお腹が痛くなってきました」
「良かったわね、気が合う人みたいで」
「はい! 先輩も飯塚さんと気が合うみたいじゃないですか?」
「……そうかな……」
 美穂は機嫌良く笑って城島の側に戻った。
「そうだ、高山さんいかがですか? 飯塚の奴、迷惑かけてません?」
 城島が律に話をふった。律は顔をあげて答える。
「それは大丈夫です。迷惑ならかけあってるのでお互い様ですね」
「そうですか? いや、あいつ最近落ち着いてきてるなって思ってたんですよ。前は野ざるみたいだったのに」
「の、野ざるですか?」
「そうそう。野生動物っぽいでしょ? 飯塚って。最初会ったとき日焼けかなんかで真っ黒だったんすよ。聞けばこっちの日差しがきついって」
「日差しがきつい?」
「東北の生まれらしくて、ちょっと南下したらすぐ日焼けするんだそうです」
 律は目を丸くした。
 すぐに日焼けするなら夏の間にホームレスは大変だったろう。
「家がない時どうしてたのかしら」
「あれっ、ご存じでしたか?」
 城島と律の会話に美穂が興味を惹かれて聞き返す。
「家がない?」
「ああ、うん。飯塚は一時ホームレスでさ」
「ええ? ど、どうしてまた」
 二人はため口で話している。よほど気が合ったのか。
 飯塚の説明をしていると、自転車の音が耳に入ってきた。
 噂をすれば影、飯塚が帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。冷蔵庫入るかね、これ。買いすぎた」
「クーラーボックスあったじゃない? それに入れたら大丈夫かも」
「どこにあったっけ」
「納戸にあったと思うけど……」
 律は飯塚と一緒に家に入った。

「……なんか夫婦みたい」
 美穂が二人の様子を見てそう呟く。
 城島がトウモロコシを美穂の皿に入れた。
「あの二人? 確かに」
「なんか意外。先輩ってああいうタイプと接点ないって思ってた」
「飯塚みたいなやつ? 高山さんてお嬢様っぽいもんな。確かにそもそも出会わなさそう。飯塚もああいうタイプは苦手って言ってたんだよ」
「へえ~。分からないもんですね。ケミストリーとか言うやつですかね」
「かもねえ。まあ、でも安心してよ。飯塚って誤解されやすいけど良いやつだから。仲間は何があっても守るタイプ。高山さんを傷つけたりしないと思う」
 城島が言い、美穂は頬を緩め頷き、あっと声をあげて家に入る。
「先輩、お土産あったんですよ! 忘れてました!」

 美穂の持ってきたクッキーをデザートにバーベキューは終了。城島と二人でバーベキューセットを片付ける。
 寒い。
 その一言に尽きる、と飯塚はぼんやり考えた。
「じゃあ、これ置いていくけど」
「あい」
「使いたい時使って」
「あい」
「でさあ、なんかお前良い感じになってきたよな。家持って落ち着いてきたのか」
「ですかね。まあ、焦りはなくなりましたね」
「頑張れよ」
「はあ。頑張ります。先輩こそ、美穂ちゃんと話せるの今日だけかもしれないっすよ」
 こ・の・ま・ま・じゃ、と飯塚は茶化して見せた。城島が半眼で睨んできた。

***

 城島と美穂を送り、家に帰るともう夜の8時だ。昼食券夕食のバーベキューのおかげで腹は減らない。
 飯塚と二人でスーパーに寄り、朝食分を買うとゆったり歩き出した。
「楽しかった。たまにはああいうのも良いね」
「バーベキュー? 手間はかかるけどな。やっぱ美味しくなるし」
「そうだね、全然違う。ねえ、譲くんって北国の出身なの?」
「ああ、うん。そうだけど。先輩に聞いた?」
「うん。日焼けして野ざるみたいだったって」
「野ざるかよ。見たことある? ちっさい奴でも見た目おっさんだよ」
「そ、そうなの?」
「そうそう。俺んちもやられたよな~りんご狙って降りてくんだよ」
「りんご?」
「そう。実家で育ててたりんごがさ、収穫間近ってなったら狙われる。美味いのを知ってんだよ、あいつら」
 座って食ってる姿がおっさんなんだよな、と飯塚は屈託のない笑みを見せて話す。
 飯塚の、どこか人を寄せ付けない気配が消えた笑みに、律もつられて笑ってしまった。
「りんご農家だったの?」
「ああ、うん。そう。青森でりんご。ベタだよな。野良猫が半分家猫みたいに寄りついてさ、何世代って続いて出産したり。こっちじゃ考えにくいことだよな。野良が野良らしく生きられるって」
 飯塚は機嫌が良さそうだ。
 ふと手が触れたかと思うと、飯塚の手はそのまま律の荷物を取ってしまった。
 突然軽くなった律が飯塚を見上げれば、彼は何も言わずにそのまま歩いている。
「譲くん。持つから」
「良いって」
 律は視線を下に向け、時々飯塚を見た。
(このままじゃダメになる)
 自分の中で何かがどろどろに溶けて、なくなってしまいそうだ、と律は感じる。
 このまま飯塚の優しさに甘えてしまえば。
 家に着くと冷蔵庫に買ってきた食料を入れてゆく。
 ふと飯塚の視線を感じて振り返れば、そっと髪を撫でられた。
 じんわりと芯が溶けそうな心地よさに息を震わせるも、先ほど感じたことを思い出して首を横にふった。
「今日は嫌?」
 飯塚が意図を察した。
「うん。今日は……」
「分かった。……俺、調子乗りすぎた。ごめん」
 おやすみ、と飯塚が背を向ける。
 律はおやすみ、と返すがその声は小さい。
 彼に聞こえただろうか。

***

 布団の中で律は震える体を抱きしめる。
 寒さのせいではない。
(譲くんは優しい。それが怖い)
 だが彼の温もりを拒むのも虚しく思う。
(でも付き合うとか無理だと言わなかった? 好きになっても恋人にはなれない。それを求めるのは虚しいだけ? でも、体だけ、同居人だけの関係って、それで良いのかな……)
 ぐるぐると答えの出ない問いかけが続く。
 彼もいつか、誰かと本気で恋をするかもしれない。
 自分自身もまた新しい恋をするのかもしれない。 そうなった時、この関係は一体どうなるのだろう。
 不誠実になるのだろうか。
 飯塚への好意は複雑だ。
 単純な恋とは違う気がした。
 傷の舐め合い。
 それがしっくり来るような気がする。
 ため息をつけば、冷たい風が窓を叩く音がやけに大きく聞こえる。
 すっかり防音が出来上がったためか、飯塚の歌声は聞こえてこなくなった。

***

 飯塚はバンドのメンバーと、副業を終えたあとに人気の少ないファミレスに入った。
 次の音楽の打ち合わせも兼ねての打ち上げだ。といっても自粛ムードの続く中、それほど派手なものではない。
 自前の楽器を宝物のようにソファに預け、食事を注文する。
 飯塚は久々の外食だった。
 家ではなかなか食べられない凝った料理を頼もうとメニューを見ていた。
「こういうお店って初めて来ます」
 そんな声が聞こえてきた。広い店内に、少ない人。
 思うより他人の会話が聞こえてしまうらしい。
 なんとなく顔をあげて見れば、いつか言い争った男の顔――佐竹のもの――が視界に入った。
 慌ててメニューを顔の前に持ち上げる。
「初めて? 本当に?」
 佐竹は穏やかな口調で返事している。最初の声はお上品な女性のもので、楽しげだ。
「はい! 色々あるんですね。イタリアンも中華も……デザートもいっぱい」
「気兼ねせずに楽しめるでしょ。最近は契約農家の野菜とかも使ってるから、味もかなり良くなってるんだよ」
 佐竹はデート中なのだろう、飯塚は無視を決め込んだが、意識は勝手に二人の会話を拾ってしまう。
(やべえ。席変えるか)
 と思ったが、次々に注文したものが運ばれてくる。
 メンバーも我先に、とフォークを使い始めた。
「秀彦さんの好きなお店に行きたいって思ってましたけど、良いなあ、どこも楽しい」
「そう? 普通だよ」
「普通ですか? プリクラは憧れでした。友達が皆やってて。これが普通なら羨ましいですよ」
「ならこれが普通になるくらい、色んなところへ行こうか」
「本当に? 嬉しい!」
 きゃっきゃ楽しむ様子の女性の声に、佐竹のどことなく甘い雰囲気。飯塚は胸焼けするのを感じてメニューを閉じる。
「食わねえの?」
「なんか気持ち悪いんだよな」
 横に座っていたベース担当の吉野が、飯塚の様子に気づいて声をかける。
 飯塚は正直に答えて「とりあえずお茶」と店員を呼んだ。
「めずらし。健康志向に切り替えた?」
「元々俺体いじめてねえし」
「嘘こけ」
 飯塚は佐竹に気づかれないよう体を前のめりに倒し、横を向いた。
 気にするな、気にするな、と自分に言い聞かせているのに、聞こえるのは遠くで鳴る金属音。
 佐竹のテーブルからだ。
 彼女がフォークを落としたのだ。
「ごめんなさい」
「良いから。次の使って」
「お店の方を呼べば……」
「あとで良いよ」
 と、佐竹のあやすような声がしたかと思えば今度は彼女の小さな悲鳴が聞こえた。
「大丈夫か? 火傷してない?」
「大丈夫です。あっ、セーター……」
 店員が駆けつける。どうやら飲み物をこかしてしまったようだ。
 彼女はどうも、そそっかしいのかもしれない。
 ふとドラム担当の棚田が呟く。
「ガキみてぇな女だな……」
「付き合う方も付き合う方だよ。でれでれしてよ」
「顔はいいんじゃないの?」
 と、キーボード担当の伊藤もまざって、飯塚を覗く3人でそんな事を言うと食事が再開だ。
 残念ながら彼女の顔は見えない。後ろ姿がかろうじて見える程度だ。
 少しふっくらした背中に、さらさらとした美しいセミロングヘア。
 黄色い声、というのがよく当てはまる女の子らしい声。
 それらは悪くない。反応も良くむしろ好印象だ。
 とてもおしゃべりで、佐竹は聞き手にまわっているがまんざらでもなさそうだ。
「それでね、この前……」
「私ったら……」
「私ね、この前の仕事場で……」
 こんな失敗をしたの……と、会話のネタに困らない程の失敗談が続き、最後には
「本当にダメダメ」
 と言ってしょんぼりしてみせる。
(ああ、これ慰めないでいられるかな)と飯塚は佐竹のお手並み拝見、と様子をうかがう。
 案の定佐竹は人好きのする笑みを浮かべ、彼女の頭を撫でると口を開いた。
「そんなことないよ。君は頑張ってる」
 棚田が鼻を鳴らした。
「バカップル」
「聞こえるぞ」
「別に誰とは言ってねぇだろ」
「それよか今回はこれで解散だよな。誰かの家行って飲まねえ?」
「飯塚んちどうなの」
 突然話をふられ、飯塚は言いよどむ。
「今は都合悪い」
「マジで? お前家ない時さんざん泊めたんだからな」
「分かってるって。リフォーム済んだし、ちょっとなら音楽活動出来るスペースあるから、準備出来たら呼ぶよ。あとは暖房対策すりゃいいし」
「マジで!?」
 吉野が目を輝かせた。
「やるじゃん、譲。合同練習出来るとこ限られてるもんな」
 飯塚は親指を立てて言った。
「借りは倍にして返す」
 律に話さねば、と頭の隅でメモを取りながら飯塚は頷いた。
 いつも仏頂面の棚田が珍しく笑みを見せる。
「助かる」
 合同練習が出来そうだ、と皆の声が大きくなったためか、佐竹の視線がこちらを向いた。
 タイミングが悪いのかなんなのか、飯塚が視線を戻すとばっちり合う。
 気まずくなり飯塚が表情を固めると、彼は会釈して視線を彼女に戻した。
「それでね、秀彦さん……」
 と、彼女の話にまた戻る。

***

 家の前で時計を見ると夜の十時だった。
 それほど遅い時間ではないが、飯塚は家の明かりがまだ点いていることになんとなくほっとする。
 慣れた消毒、慣れた足取り、慣れた空気。
 リビングに入ると律が電子ピアノの練習をしていた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま」
 音もしっかり出るようになっている。
 指も以前よりなめらかに動いていた。
「上手くなったじゃん」
「本当? 良かった。うるさいよね、すぐに戻すから」
「ここで良いって。あっちまだ暖房してないし、しばらくここで使えば」
 そう提案すると、律は頷いた。
 細い指が楽譜をぺらぺらとめくり、また音が流れ始める。
「譲くん、ギターにピアノに歌、他にも出来たりして」
「いや、そのくらいだけ。そんな金ないしさ」
「じゃあどうやって身につけたの?」
「歌は体があれば出来る。ギターはガキのころ、近所の兄ちゃんがくれた。ピアノは……」
 ――薄ピンクの風、ベージュのスーツ、耳にかかるショートヘア、オレンジ色の唇、甘い香り。
 ちくっ、と心臓に針が刺さったように痛んだ。
 以前は感じなかった痛みだ。
 飯塚は自身に戸惑い、そのまま黙ると冷蔵庫に向かう。
「……学校にあったんでね。適当に覚えたんだよ」
「なるほど……笛とかは覚えなかった?」
「歌えないじゃん」
「歌の方が好きなのね?」
「そうだな。まあ、楽器も良いけど……やっぱ歌ってる方が好きかな」
「良かった」
「何が?」
「譲くんの歌声って好き」
 律の言葉に耳がぴくりと反応した。
 側によって肘をつき、その顔を覗き込む。
「俺さぁ……」
「何? 発情期?」
「発情してもいいならするけど、違う。俺も律の仕事着より、普段着の方が好きだな」
 律が目をぱちくりさせた。
「どうして?」
「隙だらけで可愛い」
 そう言って唇をかすめ取る。
 律が頬を赤くして下を向いた。
「正直近寄りがたそうなお姉たまって苦手だったんだよ。人って見た目じゃ判断出来ないけど」
「外では気を張ってるもの。皆ね」
「皆?」
 飯塚は先ほどの「彼女」を思い出し、首を傾げて見せた。
「怖いもの知らずの無邪気な人もいるよ」
「あら……そうなの?」
「まあ類は友を呼ぶって言うし……そうすると律はまじめだからそういう人が周りにいるってことかもな」
「たまには変な人も寄ってくるわ」
「そりゃ……」
 そうだよな、と飯塚が言う前に、律の目が飯塚を示していた。
「変な人って俺かよ」
「どうかな」
 そう言っていたずらっぽく笑う律に、飯塚はつられて笑った。
「そういやさ、美穂ちゃんと城島先輩はどうなったのかね」
「まだ何も聞いてないわ。美穂は連絡したいみたいだけど、もう少し待つって」
「そうなの? 先輩何やってんだよ」
「急かしてもダメ。二人がその気なら二人の問題よ」
 なんてことのない会話と、時々ピアノの音色が交互にリビングに満ちる。
 肌を重ねなくても充分に満たされる思いだ。
 このまま、ゆっくり時間が流れていくなら、それはきっと「悪くない」――
 そんな考えが浮かんだ時、なぜか足下に穴が空いたように感じた。
 はっと息をのんで立ち上がり、「シャワー浴びねぇと」と言ってリビングを出た。

***

 ギターのコードを確認しつつ、まだ途中だった曲作りを再開させる。
 防音対策のために空気が密封されたかのような自室で、飯塚は額を抱えながら音を探っていった。
 ぼんやりマイナーコードが浮かぶのに、テーマが見えてこない。
 準備が出来ていない証拠だ。
 どういうものが作りたい、というのははっきりしているのに。
 深くため息をついてベッドに体を預けて目を閉じる。
 リビングで律がつたなく弾いていたのは亡き王女のためのパヴァーヌ。
 細い指が何とか鍵盤を押さえている。
 脳裏にちらつくのは薄ピンク色の小さなものだ。
 そして甘く爽やかな香り。
 なぜ突然に思い出すのだろうか、今まで無視出来ていた感覚だったのに、上手く消えてくれない。
 ――飯塚くんは音楽の才能があるよね
 明るい声が思い出される。
 振り払おうと目を開け、立ち上がると音楽CDをかけた。
 鍵盤を押さえる細い指の、桜貝のような爪。
 短い髪からのぞく形の良い耳。
 飯塚の初恋だ。
 そして本音と建て前を知った苦い思い出でもある。
 空気を変えようと窓から外に出て、サンダルのまま歩き出した。梅が満開だった。
 工場跡、住居スペース、夜の匂い。
 今となっては慣れた家だが、ふと遠くまで来てしまった、と感じてしまう。
 ここを家だと感じているから、古里を離れた実感が迫ってきたのだ。
 律の部屋の窓に目をやると、カーテンの隙間からまだ電気が明るいのが見えた。
 彼女はあとどれだけ、ここにいてくれるのだろうか。
 好きな男が出来たら?
「……」
 飯塚は髪をぐしゃぐしゃにかき回すとそのまま歩き出した。

***

 夜11時、律はそろそろ寝よう、とリビングの明かりを消して自室に向かう。
 このごろ飯塚の帰りが遅かった。
 干渉しない、と決めているため気にしてはいけないのだろうが、朝帰りの後に出勤している日もある。
 一体どうしたのか、と不安になった。
(言ってくれれば私が出ていくのに)
 とも思う。
 時々洗濯カゴから女性ものの香水が香るためだ。音楽室となった工場跡にも色々ものを運んでいるようで、全て一人でやっている。
 手伝う、と言うも軽くいなされて終わりだ。
 かといって顔を合わせても普通に話はしている。何かしただろうか、と思ったが、嫌われたわけではなさそうだ。
 梅の花が終わり、桜が控えている。
 今年も花見は自粛になるだろう。
 実家へ帰ることも考えたが、どうにも気が進まない。
 何を求めているのか、自分でもわからないまま今の生活に居場所すら感じているからだ。
 何となくため息が出て、歯磨きを終えるとすぐに布団の中に身を収める。
 鍵の音がして、飯塚かと思っていたがどうにも音がおかしいことに気づいて起きた。
 ガチャガチャとやかましく、鍵を持っていないのがよくわかる。
 カーディガンの前を握りしめ、スマホを持つと指が震えて落ちてしまった。
 ドアの向こうでそれに気づいた誰かが舌打ちした。その声は飯塚のものではない。
(泥棒?)
 さっと血の気がひき、口を押さえるとスマホを拾う。
 警察に連絡を、と冷たくなった指で番号を――「おい誰だ、何やってる!」
 芯の強い飯塚の声と、バイクの音が聞こえた。

***

 警察が男を連れて去って行った。
 飯塚が相対している間に、律がなんとか警察を呼んだのである。
 それから30分経つが、律は手の震えが収まらない。
「なんかこの頃頻発してたらしい。その犯人の可能性高いんじゃないかってさ」
 飯塚の説明を聞くが、半分も入ってこなかった。
 はあ、と息を吐くとその場に座り込む。脚も震えていた。
「あー……もう休むか?」
「うん……譲くん、大丈夫なの?」
「俺?」
「もみ合いになったんじゃ……」
「ちょっとだけな。5分耐えたら勝つの、ああいうのって」
「5分?」
「警察官駆けつけるまで大体5分だってさ。それに俺体力あるほうだよ。あんなおっさんに負けるかよ」
「そう……」
 律は立ち上がると、壁に手をついて支える。
 スマホを落としたために画面が割れていた。
「歩ける?」
 飯塚が近づいて手を差し出す。
 彼が帰ってきた安堵感から、手を出そうとし――ふわっとカクテルのような甘い香りが漂った。
 彼のジャケットにはファンデーションのあと。
 それが意味するものを察し、律は「大丈夫」と言うと背を向けた。
「律」
「大丈夫だから。譲くんもゆっくり休んでね」
「あ、……おう」

***

 翌日、仕事が休みだった律はスマホ画面を直そうとショップを訪れる。
 強化ガラスを選んで交換してもらっている間、そういえば佐竹の情報を残したままなのに気づいた。
 消さねば、と考えていると、ちょうど店員が「お電話です」と呼んだ。
 見ると佐竹の名前だ、律は出ないでいようと思ったが、店員から受け取る時に通話モードになってしまった。
 心臓が嫌な感じで跳ねたが、次には呼吸が止まるのを感じてしまう。
「もしもし」
 と挨拶するその声が、女性のものだったからだ。
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