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新しい日々
第4話
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休日を利用して不動産を回る。
律は駅から遠くても良いから、なんとか仕事場へ通うにも良さそうな部屋を見つけた。
家賃は多少かかるが、これ以上条件の良いものを探しても仕方ないだろう、ここで決めたい、と担当と話を進める。
平日になると格安ホテルから仕事場への日々。そろそろ体が辛くなってきた。
毎日違う環境での寝泊まりだ、知らず知らずのうちに緊張が溜まっていたのだろう。
従業員控え室で髪を整えていると、美穂が声をかけてくる。
「おはようございます、先輩。昨日はどうしてたんですか?」
「ああ、美穂。おはよう。昨日は漫画喫茶にしたの。泊まりは女性専用なお店だった」
「へえー。どんなでしたか?」
「うん、綺麗だった。雑誌もいっぱいあって、ハーブティーも飲めるの。今度行ってみる?」
「あ、行ってみようかな。コンビニで気になるやつあって……」
律が髪を結ぶのに苦戦していると、美穂がやりましょうか、と櫛を手に取った。
「ちょっと変わった髪型試しません?」
「変わった?」
「くるりんぱでお団子」
「くるりんぱ……」
律は眉を寄せる。はじめて聞く単語だ。
「分からないから、お任せする」
「はーい」
美穂が器用に髪を結びはじめた。編み込みをしたりするなら時間がかかるだろうと思っていたが、あっという間に三つ、四つ、と編んだような髪になっていく。
鏡を見ながら律は目を丸くした。
「すぐに出来るのね」
「そうですよ。髪の毛ひっくり返すみたいにするだけです。すぐ出来ますよ」
美穂にくるりんぱのやり方を教わり、律は顔を綻ばせる。
「これなら時短になりそう」
「朝って色々準備かかりますもんね。ていうか、先輩ほんと無頓着。髪が綺麗だからいいけど」
「うーん……やっぱりそう?」
律は新しい髪型に満足し、振り返って美穂からベルベット生地のヘアアクセを受け取る。お団子部分に差し込み完成させた。
「そうですよ。もったいないですよ、もっと楽しまなきゃ。女の子でいられるのは限りがあるじゃないですか?」
「……そうよね」
かさかさの指先、伸びたままの髪。
脳裏によぎる「彼女」のお見合い写真。
ちくりと針が胸に刺さったように痛んだ。
***
律はその日もその漫画喫茶に行った。
女性誌を何冊かテーブルに置き、一冊一冊を読み込む。
スキンケア方法、最新のメイクアップ術、ヘアスタイル。ファッションも季節ごとの新作が色鮮やかに一面を飾り、モデル達が美しく着こなしている。
夕方も6時半を回った頃、スマホが振動する。
相手は飯塚だった。
【今日の生存確認】
というタイトルに頬が緩む。開くとシンプルなメッセージが目に入ってきた。
【こっち仕事が終わった。今日はどうする?】
律はメッセージを見つめながら考え、返事を打つ。
【今日は漫画喫茶に泊まることにしました】
【俺今日は副業なし。寝床は良いとこがあるから大丈夫。晩ご飯一緒しよう】
と、あっさりと誘われている。
律は腕を組んで、背中を椅子に預けるとうーん、と唸った。
(飯塚さんと名前のある仲じゃないけど……このままずるずる続けていいもの?)
友人ではない。
名前と顔、仕事を知っているだけ。
知り合ったキッカケも複雑だ。
飯塚は律を無理に誘ったりはしない。
ナンパとも違う。
同類相哀れむというやつなのか、一緒にいて気楽でいられる部分もある。
律は色々考え、ふう、と息を吐くと断りのメッセージを入れた。
***
【今日は大丈夫。連絡ありがとう】
律から届いたメッセージを見つめ、飯塚は息を吐くと夜空を見た。
故郷では見える星座も、ここでは見えない。
さあ、と風が吹いて髪をくすぐる。
「あー今日はフラれた、寒っ」
そう言ってスマホを直すと、向かうのは太田の店だった。
勝手口から入り、料理を運んで片付けをする。
最後の皿洗いを終えると太田が話しがある、と飯塚をいつものカウンター席に座らせた。
「何」
「これ」
太田が差し出したのは封筒だ。
開いて見ると建物の写真が出てきて、飯塚はそれを見ながら首を傾げた。
昔の酒蔵のような、織物工場のような雰囲気だ。
小さな飲食店でも開けそうな広さで、写真を何枚か見ると人が住めるよう台所もリビングもある。
「何これ?」
と飯塚は目を見開いた。
太田は移転するつもりなのか、と思い「どこなの、ここ」と訊く。
「××駅から徒歩20分。大きめのショッピング……モールがあるだろ、あの近く」
「へえ、良いじゃん。ここで店すんの? あ、2号店?」
「何言ってんだ、お前の家にどうかって話だ」
「は? 俺の家?」
飯塚はこれ以上なく目を丸くさせるともう一度写真を見る。
フローリングの床、木目の美しい壁。リフォームしたのはここ数十年以内という感じだ。
広々とした工場跡らしき部分も、手を加えれば住めそうである。
だが広すぎやしないか。
「いや、ありがたいけどさ……」
条件も悪くない。徒歩で20分なら自転車なりを使えば良い。
「何とかなるって。最悪マンスリーのやつとか借りれば良いし、色々見て回ってるから」
「気に入らなかったか?」
「いや、良いと思うよ。色々工夫出来そうだし……でも、何、これどこで見つけたんだよ」
「知り合いの知り合いが田舎に引っ込むんだと。それで住居代わりに使ってたこの織物工場を手放すことにしたそうだ。引き取り手を探してたみたいで、タイミングが良かったし一度話を持ち帰らせてもらうことにしたんだ」
飯塚はへえ、と頷きながら写真を再び見つめる。
防音対策をし、工場跡で音楽の作業。
住居スペースはすでにあるのだからそのままで問題ないだろう。
あれこれとイメージが広がるものの、先立つものがないのだ、家を買うなどとんでもない。
やはり、と飯塚は断ろうとした。が――
「月々6万でどうだって話だ」
「乗った」
***
家を即決した飯塚は、週末に早速城島に車を借りてその物件を見に行った。
工場部分の天井は高く、古いはた織機の一部が残ったままのため、かなり広いのが分かる。体育館の半分ほどだろうか。
住居スペースはやや時代遅れを感じるものの、4人家族で暮らしていたらしくそれに見合う部屋数とリビングの広さだ。
台所はかろうじてアイランドキッチン。
水回りもトイレとお風呂場はリフォーム済みで、冷気を感じない作りだった。
家具は持っていく予定だということで、自分で新調する必要があるものの、飯塚の財布にはそれなりのお金がある。
「なんでこんなに安いんですか?」
「なんでって……まあ、色々ね」
家を手放す予定の家主が言葉を濁らせた。
「えーと、訳あり物件?」
「いや、そうじゃないよ。僕んちの誰も幻聴とか事故とかないし。ま、そのうち太田さんに訊いて」
「……?」
「で、どうなの? 本決まり?」
「俺としては今日からでもいいですね。いやー、ありがたいです。冬前には家見つけたかったし、ここ広いし雰囲気も良い」
インフラは最低限整っているし、マンションやアパートではなく一軒家。
中古の更に中古だが、家持ちになれるのは魅力的だ。
「本決まりです」
「良かった。家って住む人いないとダメになるしね、嬉しいよ、若い人が使ってくれるの」
「工場、リフォームしても良いですか?」
「良いよ、もちろん」
***
飯塚は契約を終えると太田の店に向かう。
人数制限のかかった店内はいつもに増して静かだ。
「おう。どうだった?」
「すげえ気に入った。話持ってきてくれてサンキュー。今日はタダで働くから」
「寝る場所は?」
「ホテル。今日は副業の日だから」
太田は頷いた。盛り付けの済んだ料理をテーブルに運び、一時間経つと外でメッセージを送る。
【今日の生存確認。今日は泊まるとこあるの? 俺は副業。前のバーにいる】
***
カプセルホテルの受付で、律は本日何度目かのため息をついた。
(人生思うようには行かないって言うけど……)
フラれて、家をなくして、家を見つけたと思ったら別の家族がそこを借りたのだ。
ウィルスの影響で共働きの奥さんの方が仕事を失い、収入が減ったためマンションより安い物件を探していたのだという。
幼い子供が二人。
冬が近づく中で家がないのは辛い。
律は不動産屋から連絡をもらった時、額を抱えると「そちらに譲ります」と言った。
それが正しいと思いながら、自分自身の意気地のない態度にも呆れた。
(その代わり別の部屋を早く紹介してって言えれば良かったのかな……)
その勇気が出ないのだ。
あと一歩踏み出す勇気が。
スマホが鞄の中で震え、メッセージが来たと知ると律は体を緊張させる。
見れば佐竹からのものだ。タイトルの文字がぶれて見える。
(老眼ってこんな感じ?)
などと思いながらスクロールさせる。
家を飛び出し1ヶ月以上経つ。メッセージの量は増える一方だ。
佐竹に悪いと思いつつも、見ようと思えるほどの気力が出ないのだ。
ぼやけて見えるスマホの画面が一瞬明るくなりメッセージの新着を知らせる。
【今日の生存確認。】
飯塚だ。
すっかり見慣れたその文字に、じんわりと胸が温かくなる感じがした。
「今日は泊まるとこあるの。でも……でも?」
なんとなく会いたい。
「……」
***
リクエストをくれた男性客が酒をおごりたい、と言うので飯塚はカウンターに座った。
ソーシャルディスタンスのため、彼は奥のテーブルを離れないままカクテルグラスを持ち上げた。
手元に運ばれる同じものを飯塚も持ち上げ、頭を下げると口に含む。
爽やかな風味とまったりした甘い風味が舌に広がった。
飯塚にマスターがグラスを磨きながら声をかける。
「お疲れ様」
「お疲れです。やっぱお客さん少ないですね」
「日本人のまじめさが出てるんじゃない?」
マスターはかなりのんびりとしている。飯塚はそんなもんかな、と首を捻った。
「ところで譲のお客が来てるんだけど」
「俺の客?」
マスターがちらりと目線をやった。
テーブル席で一人、ブランケットを膝に置いたブラウンのワンピースの女性の姿。
髪をおろしているせいかすぐには分からなかったが、目が合った瞬間に「あっ」と気づいた。
律だ。
飯塚は頬を持ち上げて笑うと彼女の席へ移動する。
「こんばんは」
律が肩をすくめて挨拶した。長い髪がさらさらと胸元に流れる。
膝丈のスカートから見える脚が照明に照らされて、白く光るようだった。
「こんばんは。今日も会えないかと思ってたけど」
「お酒が飲みたくなったの」
「俺に会いたい、じゃなくて?」
律は頬をわずかに赤く染めると首を横にふる。
どうやら嘘がつけないようだ。
「まあいいや。お姉さんをからかうと後が怖いもんな」
「からかってたんだ」
「そのつもりだったけど、高山さんは天然ぽいからからかっても効かないかもな」
「私って天然? 初めて言われた」
「初めて? やば、俺初めての男になっちゃった」
律は目を丸くする。
意味が伝わらなかったのだろうか。
飯塚はあまり調子に乗ると律を混乱させるだけだと気づき、咳払いをすると彼女とやや距離を取って座る。
「もう副業は終わったの?」
「一応ね。後片付けしたらそれで終了」
「寝るところは?」
「その心配? 今日はビジネスホテル。そっちは?」
「カプセルホテル。最近空きが多いの。お客さんが減ったんだって」
「状況が状況だからか。良いのか悪いのか複雑だな」
「私は仕事があるから、結局良かったのね。仕事をなくした人もいて……」
そこまで言うと律は表情を曇らせた。
「ねえ、部屋を見つけたの」
と、律は言う。
良い報告ではないか、と飯塚は眉を持ち上げたが、律の表情は暗いままだ。
「でも仕事をなくした奥さんのいる家庭がそこに決めたいって。お金もすぐに払えるから、不動産屋さんもやっぱり魅力的なお客だったのかな。私に譲って良いかって……」
「家庭? 子供がいるとか?」
「そう。二人姉弟ですって。まだ小学生にもなってないって……」
「で、譲ったんだ」
律は頷く。両手を組むとそこに目をやった。
「ごめんね、こんな話がしたかったわけじゃないけど……」
「良いよ。お互い似た状況だったし。こんな話誰にでも出来ないもんだよな。俺の方は何とかなりそう……」
飯塚はそこまで言うと、思いついたように目線をあげた。
「そうか、一緒に住めばいいじゃん」
「え?」
「俺と、あんたと、二人で。同じ穴の狢ってやつなんだし、この際ほんとに同じ穴に住みゃあいい」
飯塚は良い考えだ、と一人納得する。
しかし律はぽかんとした表情のまま、飯塚を見つめていた。
単なる顔見知りなのだ。確かに特殊な状況にあるという共通点はあるが、友人でも仕事仲間でも先輩後輩でもない。
飯塚もそれは分かっているが、彼女を招くことに何の違和感もなかった。
まるで昔からの知り合いのように感じるのだ。
飯塚にとってはそれで充分だった。
「でも……」
律は戸惑いを隠さず、口元に手をやると眉をひそめた。
「どうして」
「なんかほっとけないし、高山さんのこと」
「同類相哀れむってやつでしょ? 良いのよ、不動産はまだあるし……それに、もう少し疑った方が……私が泥棒か何かだったらどうするの?」
「それならラブホでとっくにやってる。あのさ、まず話すよ。知り合いの知り合いの知り合いが家手放すんだって。それで、知り合いが知り合い通じてそれ知って……」
「知り合いの知り合いの……」
「知り合いの家。で、俺にどうかって話が来たわけだ。月々6万で分譲。すっげえ好条件。で、元織物工場らしくて、広いんだよこれが。だから二人だろうが三人だろうが余裕しかない。高山さんさえ良けりゃ鍵付きの部屋に住めば良い。広いからプライベートは確保出来るし」
律は顎に手をやり、考えるようにしている。
先ほどの戸惑いとは違う表情だ。飯塚は写真を彼女に見せ、続けた。
「そこにいったん住んでさ、嫌なら新しい部屋なり家なり探せば良いよ。6万だから半々にすれば3万。すっげえ格安。リフォームと家具の新調は必須だけど、このままホテル泊まり歩くより安くつくはずだし、冬になるときちいよ? 冬のホームレスは未経験だけど、多分」
「……」
律は写真を見つめ、見つめ、見つめ――
「乗った」
と言った。
***
二人の引っ越しが決まった。
元々荷物は少ない飯塚は、空になった家にすぐに住めたが律は時間がかかるようだった。
太田の店に連絡を入れ、予約を取ると二人で金曜の夜に訪れる。
「二人で住む?」
太田が眉を寄せた。
「そう。彼女もホームレスっていうか、まあマンション出て部屋探してる最中でさ。けっこう条件厳しいから住める所にまず住んだらって」
「その、家賃はお支払いしますので」
律が姿勢を正して言うと、太田はこめかみをかいて唸った。
「結婚もしてないのに」
「そう。タダの同居人。ルームシェアってやつ」
「つきあってもないのにか? 姉ちゃん、あんたしっかりしてるようだけど、なんでまたこんなどこの馬の骨とも知れない奴と一緒に住もうって思うんだ?」
太田の容赦ない言い方に飯塚は顎をしゃくった。
律は飯塚をちらりと見て、首を傾げる。
「うーん……悪い人じゃなさそうですし……」
「そういう問題かい? もっと自分を大切にした方がいいと思うんだよな、俺は。若い男女が一つ屋根の下なんて、間違いが起きるに決まってる。起きないとしても周りはそう思うさ」
「でも、もうすぐ冬だし……」
「そりゃそうだけど……実家は? 事情が事情なら帰った方がいいんじゃないか?」
「仕事がやっと再開出来たところですし……向こうだと出来る仕事も限られるから、結局再就職も難しくて」
太田は腕を組むと大きなため息を吐いた。
「あの、迷惑になるようなら早めに家を出られるようにします。それからちゃんと自分で責任も取りますから」
「あのね、そういう問題じゃないんだよな。事情があるってのはわかるし、譲のことは俺がよく知ってるから良いんだよ。そうじゃなくて、そんな気軽に決めていいことなのか? そこなんだよ。名前以外よく知らないような男といきなり同居するってのが、俺にはよく分からん」
「はあ。私もわかりません」
太田の意見に律は頷いた。
律自身もなぜ一緒に住む決断をしたのか分かっていないのだ。
太田は頭をかくと言った。
「部屋がないなら知り合いを当たるよ」
「いいじゃん、オヤジさん。俺が知り合いだから」
「お前ね、お前もう25なんだぞ。そんな仲良しこよしで上手く行くような話じゃないんだ」
「分かってる分かってる。俺だって他の女の子や友人とかなら考えるさ。テリトリーに入れたくないし。けど高山さんなら良いかと思うんだよ、それだけだよ。実際知り合いが部屋ないって言って冬の外にいてるのに何もしない方がよっぽどダメだと思うけどな。工場の方リフォームしても良いって許可はもらってるし、お互いのプライバシーは確保出来る。そんな問題ないと思うよ」
「そういう問題か? あのな、お前考えてみろ。自分とこの大事な娘がどこぞの男とつきあってもいないのに同居するんだ。おかしいなと思わないか?」
太田の問いに飯塚は箸を咥えてうーんと唸る。
「確かにおかしい」
「だろ? 姉ちゃん、悪いことは言わねえ。困ってるなら俺が他の知り合いを当たってみるから、とにかく同居はやめといた方がいい。泣くことになって自己責任で済むと思えないんでね」
「俺が見境なく手ぇ出すって?」
「そういうことだ」
「ひどいな、俺だってわきまえてるって。実際泣く目に遭わせた子はいないって」
「わかったもんじゃない」
「本当だって! 疑ってたのかよ?」
「疑ってない! 信じてはいるが、それとこれとは話が別だろ?」
飯塚は眉をひそめて黙り込んだ。
律は二人のやり取りをおろおろと見ていたが、静かになったと見るや口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「あん?」
二人の視線が向き、律は視線を下に向けたが続ける。
「その……やっぱり迷惑みたいだから……」
やめるね、と口の中で何度も繰り返す。だが不思議とすでに心は決まっていて、なかなかひっくり返せない。
「……」
思わず黙り込んで、テーブルの木目を見つめる。
二人が言い争うのは自分のせいだ、と思うと情けないやら。
二人の視線から逃れるようにしたまま、なんとか口を開く。
「私……その、ご迷惑だとは分かってるんですが……ずっとホテルとかだったし、緊張が続いてて、外食続きで体の調子も気になるし……お財布もそろそろ切り詰めないとまずいかもってタイミングでの話だったから、すごくありがたくて。自分でもちゃんと家賃を払えば、多少は気持ちも救われます。だから……」
太田と飯塚が顔を見合わせた。
***
最後の荷物をリビングに入れると、飯塚が首を回した。
「あー、やっと終わった。今日は蕎麦食って終わり終わり!」
「お疲れ様。お風呂ならすぐ入れるよ」
「先入って良いよ。俺ちょっと寝る」
「ああ、うん。そうだね……」
飯塚は座布団やクッションを引っ張り出すとそれに寝転び、すぐに寝息を立て始めた。
すぐに寝られるようなのを羨ましく思いながら、律は風呂場に向かった。
浴槽は使われていないため綺麗なままだ。
さっと流すと湯をためる。
残念ながら律は入れない。
緊張から解放されたためなのか、2ヶ月近く止まっていた月のものが来てしまったのだ。
家を得たことと、体の調子が戻ってきた安心感で眠気がしてきた。
飯塚と話し合った結果、住居スペースの東側の個室が律の部屋、西側の個室が飯塚の部屋となった。
冷蔵庫の上半分は飯塚、律は下半分。冷凍庫や野菜室はケースバイケースとなる。
食事は各自で用意すること。
あくまでも同居人であるという事を忘れないこと。
そういったルールをまとめて書き出し、リビングに貼る。
重い腰を持ち上げ、リビングに戻ると荷物を自室に運び込む。
飯塚はよく眠っていた。
***
蕎麦を食べてシャワーを浴び、その日は終わる。
朝起きると、卵焼きとサラダ、味噌汁、と定番の朝食が並んでいた。
もちろん一人分だ。
「あ、おはよう。飯塚さん」
「おはよう……すげえね。料理出来るんだ」
「一応ね。お先に頂きます」
「あーい……」
「なんか体調悪いの?」
「いや……朝弱いだけ……」
飯塚は冷蔵庫から野菜ジュースを取り出すとそれを飲み始めた。
「美味そう……」
「味噌汁ならまだあるけど……」
足りるかな、と律が台所を見た。飯塚は首をふって止める。
「いいって。食事は各自で……さっそく破ったらかっこ悪いのなんの……」
「そう? ねえ、飯塚さん。私はいつも夕方には帰れるの。そっちはどんな感じ?」
「あー……日によるし、副業も詰まってるから、ま、どっちにしろ帰りは遅い方だよ。だから遠慮しないで良いから。帰るコールとかってした方がいいもの?」
「どうかな。時と場合によるよね? した方がいいかもってなったら、お互いにしようか」
律の提案に飯塚は頷いた。その時にぐうう、と彼の腹が鳴る。
「……やっぱり食べる?」
「……貸し一つってことで」
結局二人で食卓を囲むことになった。
「で、早速俺今日副業なんで……まあ別に気にすることないよな。そういうことです」
「うん」
「あとさ、飯塚さんっての、やめない?」
飯塚の言葉に律は目を丸くした。
そんな律に飯塚がウィンクして続ける。
「なんかすげえくすぐったいんだよな、さん付けされるの。俺も高山さんって呼ぶの、正直距離感じるし」
「だから良いような気もするけど……なんて呼べばいいの?」
「仲良くなった知り合いは譲って呼ぶよ」
律は飯塚をじっと見ていたが、そういえばと呟いた。
「飯塚さんって25歳なんだ」
「そうだけど」
「じゃあ私の方がお姉さんなんだ」
「へえ。まあ年上っぽいなとは思ってたけど……何歳?」
「26」
「おっ、丁度良いじゃん。金のわらじをはけってやつじゃないの?」
「かねのわらじ……。そうか、そうだね。じゃあ、譲くん。これで良い?」
「んー。まあいいか。お姉様」
飯塚がふざけて言えば、律は顔を赤くしてそっぽを向いた。
「それは、ちょっと……」
「だめ? お姉様、お姉さん、お姉たま」
「最後のが一番嫌……」
「じゃあ律。”りつ”って言いやすいよな。旋律、調律……どれも好きな言葉だ」
律は飯塚を見た。
凜々しく見える目元がまんまるになっている。
意外そうな顔つきだ。
「旋律……」
「旋律で思い出した。俺さあ、工場跡に防音貼ってちょっとした音楽出来るスペースにしたいんだよな。良い?」
「もちろん」
「律も何かしたいことあったら言えよ。半分は律の家なんだし」
「ねえ、それ思ってたんだけど、やっぱり知り合いの知り合いの……とはいえ、あっさり過ぎない? 簡単に家って渡そうって思うものなのかな……それに安すぎるよ」
律は家をぐるりと見渡してそう言った。
飯塚は都心とはいえ、中古であること、ちらほら畑も見えるような場所だからそんなものだろうと考えていたのだが、確かに相場よりかなり安いかもしれない。
「詳しくは太田のオヤジに訊いてくれって言ってたっけ……。まあ、落ち着いたら話に行く。律も来る?」
「うん。それから」
「まだあるのか……」
「その……誰か家に呼ぶなら、出来れば連絡して。泊まるとこ探した方がいいでしょ?」
律は両手をかざして、やや顔を赤くしている。
なんとなく意味は通じるが、飯塚は「なんのことでしょうか」とごまかした。
「だから、つまり……」
律は言いづらそうにした。
どうにも色恋に対して軽口をたたける様ではなさそうだ。
飯塚はつい口元をにやつかせた。
「お、女の子を招くなら……私出るようにするから……」
「俺は気にしないけど。従姉妹ってことにしたら?」
「ねえ、冗談でしょ? そんな嘘すぐにばれる」
「一夜限りならバレないって。そんな気にしなくて良いから。俺が向こうの部屋とか、ラブホを使うことの方が多いと思うよ。その場の流れによるし。ま、一応連絡します」
「一夜限り……」
「律ってそういうのしなさそ」
「飯塚さ……譲くんはしょっちゅうなのね」
「そうでもないけど。そうならホームレス生活ももうちょい恵まれてたかな」
「……そう」
律は呆れたのかなんなのか、視線を下に向けると首を横にふる。
「律も男連れ込んで良いから」
そう言うと、律の顔色がさっと変わる。
彼女がホームレスになった理由を思い出し、飯塚はすぐさま謝った。
「ごめん」
「……ごちそうさま」
律はそう言うと立ち上がり、食器類を流しに置いた。
***
出る時間が重なった。
律はヒールをはいて、ストールを肩にまくとドアを開ける。
飯塚が顔を覗き込んできた。
ヒールの分、顔が近くなる。
飯塚の、人なつこい表情ににどこか野性的な眼光。
律は内心で怖い、と思いつつも目を合わせる。
「さっきはごめん」
芯のこもった声だ。律は息を整えると眉を持ち上げる。
「いいの。気にしてないから」
「お詫びにさあ。休日に家具買いに行くけど、車借りるんで一緒に見に行かない?」
「家具……」
律は口元に手をやり、頷いた。
「うん。でも私、土日の方が仕事あるの。定休は水曜だけど……合う?」
「ああ、そっか。俺も土曜は仕事。そうだな……来週だったら木曜休みなんだけど……無理?」
「来週?」
律はスマホを取り出す。
丁度休みだ。
「来週なら大丈夫」
「おっ、ラッキー。じゃあ来週な」
飯塚は鍵を締めると裏にまわった。
バイクが出てくる。
「いいな、それ。私も自転車買おうかな」
「それも見に行くか。じゃあ気をつけてな」
「うん。譲くんも」
バイクが颯爽と走ってゆくのを見送り、律は歩き出した。
朝夕の冷え込みはどんどん増している。
髪をきっちりまとめたせいか耳が冷たくなった。
それを撫でる指先は、相変わらず乾燥していた。
***
仕事の帰り、新居近くのスーパーで食材を選ぶ。しめじが美味しそうだ。オリーブオイルや米油を入れ、カートを押す。
無塩バターも入れ、お肉類を見ていると「あー」と今や聞き慣れた声が前から聞こえてくる。
「お疲れ。時間重なったんだ。何か俺ら、同居してなくてもよく会うよな」
飯塚が弁当とビール片手に歩いてくる。
「お疲れ様」
「しかしスーツ似合うよな。キャリアウーマンって感じ」
飯塚は興味津々といった感じだ。
「仕事場ではこれに白手袋をつけるの」
「マジで? よりそれっぽいわ」
「ところで晩ご飯……それ?」
「これ? そうだけど」
焼き肉弁当と書かれたそれはボリュームもあり、20パーセントオフのシールが貼られているがお値段はそれなりだ。
体と財布にどうなのだろうか。
律は思わず心配顔になっていた。
「うーん」
「何、ダメ?」
「ううん」
飯塚の自由だ。
律はそれ以上何も言わないようにし、カートを押す。
「律って自炊派? 調味料買ってんの?」
「そうだよ」
醤油やみりん、味噌に日本酒が増えている。飯塚は首を傾げた。
「重くない?」
「ねえ、それならバイクに乗せてやるって言ってくれないの?」
調味料は一度買えばそれなりに保つのだ。
この日だけ頑張ればいい。
律は軽い気持ちで言ったが、飯塚はあっさり「良いよ」と言ったものだ。
「良いってば、冗談だから」
「は? 別にバイク乗せりゃいいだけだし。遠慮することでもないだろ」
「……」
「まあいいや。他に何買うの?」
「今日はもう終わり……」
律はカートを押してレジに向かう。
飯塚が隣のレジに並んだ。
律がまとめたものを飯塚は持ち上げる。
「ね、ねえ、本当に冗談だから。運動になるし、良いのよ」
「律、遠慮しすぎ。そんな大したことじゃないって。もう一個ヘルメットないから先帰るけど、気をつけろよ」
そう言うと飯塚は自身のヘルメットをかぶり、走って行ってしまった。
律は後を追うようにして歩く。
肩が楽だった。
***
荷物を運んでもらった礼に、と飯塚に白菜の味噌汁を渡せば、彼は満面の笑みを浮かべて飲み始めた。
苦手な食べ物はあるようだが、残さず食べている。
律はそれを見ると頬を緩ませる。
佐竹は苦手なものを残してしまう。
初めにこれは要らない、と言ってくれれば良いのだが、なんでも良いと言ったせいか、断りづらそうにしていたものだ。
ベッドを買うよりは安くつく布団に寝転び、律はほーっと息を吐き出した。
この頃佐竹の事を思い出す。
落ち着く場所を得たため、思考が向いてしまうのだ。
きっと心配している。
毎日届くメッセージ。
無視し続けている。
きっと心配させている。
(どうすれば良いんだろう。もうフラれたんだから、それで終わりなはずなのに……)
会って話をすれば良いのだろうか。
何の話をするというのか。
そこまで考えると胸が苦しくなり、気分を変えようとリビングに出る。
カーディガンを羽織ってもひんやりとする空気だ。早く飲み物を取って戻ろう、と決めた時、静かな音が聞こえてきた。
どうやらギターの音のようだが、くぐもった音で、それがとても心地よく響く。
飯塚の部屋からだろう。
芯が強く、どことなく柔らかい音色は歌声と同じ響きをしている。
律はそれに耳を傾け、胸がほぐれていくのを感じていた。
律は駅から遠くても良いから、なんとか仕事場へ通うにも良さそうな部屋を見つけた。
家賃は多少かかるが、これ以上条件の良いものを探しても仕方ないだろう、ここで決めたい、と担当と話を進める。
平日になると格安ホテルから仕事場への日々。そろそろ体が辛くなってきた。
毎日違う環境での寝泊まりだ、知らず知らずのうちに緊張が溜まっていたのだろう。
従業員控え室で髪を整えていると、美穂が声をかけてくる。
「おはようございます、先輩。昨日はどうしてたんですか?」
「ああ、美穂。おはよう。昨日は漫画喫茶にしたの。泊まりは女性専用なお店だった」
「へえー。どんなでしたか?」
「うん、綺麗だった。雑誌もいっぱいあって、ハーブティーも飲めるの。今度行ってみる?」
「あ、行ってみようかな。コンビニで気になるやつあって……」
律が髪を結ぶのに苦戦していると、美穂がやりましょうか、と櫛を手に取った。
「ちょっと変わった髪型試しません?」
「変わった?」
「くるりんぱでお団子」
「くるりんぱ……」
律は眉を寄せる。はじめて聞く単語だ。
「分からないから、お任せする」
「はーい」
美穂が器用に髪を結びはじめた。編み込みをしたりするなら時間がかかるだろうと思っていたが、あっという間に三つ、四つ、と編んだような髪になっていく。
鏡を見ながら律は目を丸くした。
「すぐに出来るのね」
「そうですよ。髪の毛ひっくり返すみたいにするだけです。すぐ出来ますよ」
美穂にくるりんぱのやり方を教わり、律は顔を綻ばせる。
「これなら時短になりそう」
「朝って色々準備かかりますもんね。ていうか、先輩ほんと無頓着。髪が綺麗だからいいけど」
「うーん……やっぱりそう?」
律は新しい髪型に満足し、振り返って美穂からベルベット生地のヘアアクセを受け取る。お団子部分に差し込み完成させた。
「そうですよ。もったいないですよ、もっと楽しまなきゃ。女の子でいられるのは限りがあるじゃないですか?」
「……そうよね」
かさかさの指先、伸びたままの髪。
脳裏によぎる「彼女」のお見合い写真。
ちくりと針が胸に刺さったように痛んだ。
***
律はその日もその漫画喫茶に行った。
女性誌を何冊かテーブルに置き、一冊一冊を読み込む。
スキンケア方法、最新のメイクアップ術、ヘアスタイル。ファッションも季節ごとの新作が色鮮やかに一面を飾り、モデル達が美しく着こなしている。
夕方も6時半を回った頃、スマホが振動する。
相手は飯塚だった。
【今日の生存確認】
というタイトルに頬が緩む。開くとシンプルなメッセージが目に入ってきた。
【こっち仕事が終わった。今日はどうする?】
律はメッセージを見つめながら考え、返事を打つ。
【今日は漫画喫茶に泊まることにしました】
【俺今日は副業なし。寝床は良いとこがあるから大丈夫。晩ご飯一緒しよう】
と、あっさりと誘われている。
律は腕を組んで、背中を椅子に預けるとうーん、と唸った。
(飯塚さんと名前のある仲じゃないけど……このままずるずる続けていいもの?)
友人ではない。
名前と顔、仕事を知っているだけ。
知り合ったキッカケも複雑だ。
飯塚は律を無理に誘ったりはしない。
ナンパとも違う。
同類相哀れむというやつなのか、一緒にいて気楽でいられる部分もある。
律は色々考え、ふう、と息を吐くと断りのメッセージを入れた。
***
【今日は大丈夫。連絡ありがとう】
律から届いたメッセージを見つめ、飯塚は息を吐くと夜空を見た。
故郷では見える星座も、ここでは見えない。
さあ、と風が吹いて髪をくすぐる。
「あー今日はフラれた、寒っ」
そう言ってスマホを直すと、向かうのは太田の店だった。
勝手口から入り、料理を運んで片付けをする。
最後の皿洗いを終えると太田が話しがある、と飯塚をいつものカウンター席に座らせた。
「何」
「これ」
太田が差し出したのは封筒だ。
開いて見ると建物の写真が出てきて、飯塚はそれを見ながら首を傾げた。
昔の酒蔵のような、織物工場のような雰囲気だ。
小さな飲食店でも開けそうな広さで、写真を何枚か見ると人が住めるよう台所もリビングもある。
「何これ?」
と飯塚は目を見開いた。
太田は移転するつもりなのか、と思い「どこなの、ここ」と訊く。
「××駅から徒歩20分。大きめのショッピング……モールがあるだろ、あの近く」
「へえ、良いじゃん。ここで店すんの? あ、2号店?」
「何言ってんだ、お前の家にどうかって話だ」
「は? 俺の家?」
飯塚はこれ以上なく目を丸くさせるともう一度写真を見る。
フローリングの床、木目の美しい壁。リフォームしたのはここ数十年以内という感じだ。
広々とした工場跡らしき部分も、手を加えれば住めそうである。
だが広すぎやしないか。
「いや、ありがたいけどさ……」
条件も悪くない。徒歩で20分なら自転車なりを使えば良い。
「何とかなるって。最悪マンスリーのやつとか借りれば良いし、色々見て回ってるから」
「気に入らなかったか?」
「いや、良いと思うよ。色々工夫出来そうだし……でも、何、これどこで見つけたんだよ」
「知り合いの知り合いが田舎に引っ込むんだと。それで住居代わりに使ってたこの織物工場を手放すことにしたそうだ。引き取り手を探してたみたいで、タイミングが良かったし一度話を持ち帰らせてもらうことにしたんだ」
飯塚はへえ、と頷きながら写真を再び見つめる。
防音対策をし、工場跡で音楽の作業。
住居スペースはすでにあるのだからそのままで問題ないだろう。
あれこれとイメージが広がるものの、先立つものがないのだ、家を買うなどとんでもない。
やはり、と飯塚は断ろうとした。が――
「月々6万でどうだって話だ」
「乗った」
***
家を即決した飯塚は、週末に早速城島に車を借りてその物件を見に行った。
工場部分の天井は高く、古いはた織機の一部が残ったままのため、かなり広いのが分かる。体育館の半分ほどだろうか。
住居スペースはやや時代遅れを感じるものの、4人家族で暮らしていたらしくそれに見合う部屋数とリビングの広さだ。
台所はかろうじてアイランドキッチン。
水回りもトイレとお風呂場はリフォーム済みで、冷気を感じない作りだった。
家具は持っていく予定だということで、自分で新調する必要があるものの、飯塚の財布にはそれなりのお金がある。
「なんでこんなに安いんですか?」
「なんでって……まあ、色々ね」
家を手放す予定の家主が言葉を濁らせた。
「えーと、訳あり物件?」
「いや、そうじゃないよ。僕んちの誰も幻聴とか事故とかないし。ま、そのうち太田さんに訊いて」
「……?」
「で、どうなの? 本決まり?」
「俺としては今日からでもいいですね。いやー、ありがたいです。冬前には家見つけたかったし、ここ広いし雰囲気も良い」
インフラは最低限整っているし、マンションやアパートではなく一軒家。
中古の更に中古だが、家持ちになれるのは魅力的だ。
「本決まりです」
「良かった。家って住む人いないとダメになるしね、嬉しいよ、若い人が使ってくれるの」
「工場、リフォームしても良いですか?」
「良いよ、もちろん」
***
飯塚は契約を終えると太田の店に向かう。
人数制限のかかった店内はいつもに増して静かだ。
「おう。どうだった?」
「すげえ気に入った。話持ってきてくれてサンキュー。今日はタダで働くから」
「寝る場所は?」
「ホテル。今日は副業の日だから」
太田は頷いた。盛り付けの済んだ料理をテーブルに運び、一時間経つと外でメッセージを送る。
【今日の生存確認。今日は泊まるとこあるの? 俺は副業。前のバーにいる】
***
カプセルホテルの受付で、律は本日何度目かのため息をついた。
(人生思うようには行かないって言うけど……)
フラれて、家をなくして、家を見つけたと思ったら別の家族がそこを借りたのだ。
ウィルスの影響で共働きの奥さんの方が仕事を失い、収入が減ったためマンションより安い物件を探していたのだという。
幼い子供が二人。
冬が近づく中で家がないのは辛い。
律は不動産屋から連絡をもらった時、額を抱えると「そちらに譲ります」と言った。
それが正しいと思いながら、自分自身の意気地のない態度にも呆れた。
(その代わり別の部屋を早く紹介してって言えれば良かったのかな……)
その勇気が出ないのだ。
あと一歩踏み出す勇気が。
スマホが鞄の中で震え、メッセージが来たと知ると律は体を緊張させる。
見れば佐竹からのものだ。タイトルの文字がぶれて見える。
(老眼ってこんな感じ?)
などと思いながらスクロールさせる。
家を飛び出し1ヶ月以上経つ。メッセージの量は増える一方だ。
佐竹に悪いと思いつつも、見ようと思えるほどの気力が出ないのだ。
ぼやけて見えるスマホの画面が一瞬明るくなりメッセージの新着を知らせる。
【今日の生存確認。】
飯塚だ。
すっかり見慣れたその文字に、じんわりと胸が温かくなる感じがした。
「今日は泊まるとこあるの。でも……でも?」
なんとなく会いたい。
「……」
***
リクエストをくれた男性客が酒をおごりたい、と言うので飯塚はカウンターに座った。
ソーシャルディスタンスのため、彼は奥のテーブルを離れないままカクテルグラスを持ち上げた。
手元に運ばれる同じものを飯塚も持ち上げ、頭を下げると口に含む。
爽やかな風味とまったりした甘い風味が舌に広がった。
飯塚にマスターがグラスを磨きながら声をかける。
「お疲れ様」
「お疲れです。やっぱお客さん少ないですね」
「日本人のまじめさが出てるんじゃない?」
マスターはかなりのんびりとしている。飯塚はそんなもんかな、と首を捻った。
「ところで譲のお客が来てるんだけど」
「俺の客?」
マスターがちらりと目線をやった。
テーブル席で一人、ブランケットを膝に置いたブラウンのワンピースの女性の姿。
髪をおろしているせいかすぐには分からなかったが、目が合った瞬間に「あっ」と気づいた。
律だ。
飯塚は頬を持ち上げて笑うと彼女の席へ移動する。
「こんばんは」
律が肩をすくめて挨拶した。長い髪がさらさらと胸元に流れる。
膝丈のスカートから見える脚が照明に照らされて、白く光るようだった。
「こんばんは。今日も会えないかと思ってたけど」
「お酒が飲みたくなったの」
「俺に会いたい、じゃなくて?」
律は頬をわずかに赤く染めると首を横にふる。
どうやら嘘がつけないようだ。
「まあいいや。お姉さんをからかうと後が怖いもんな」
「からかってたんだ」
「そのつもりだったけど、高山さんは天然ぽいからからかっても効かないかもな」
「私って天然? 初めて言われた」
「初めて? やば、俺初めての男になっちゃった」
律は目を丸くする。
意味が伝わらなかったのだろうか。
飯塚はあまり調子に乗ると律を混乱させるだけだと気づき、咳払いをすると彼女とやや距離を取って座る。
「もう副業は終わったの?」
「一応ね。後片付けしたらそれで終了」
「寝るところは?」
「その心配? 今日はビジネスホテル。そっちは?」
「カプセルホテル。最近空きが多いの。お客さんが減ったんだって」
「状況が状況だからか。良いのか悪いのか複雑だな」
「私は仕事があるから、結局良かったのね。仕事をなくした人もいて……」
そこまで言うと律は表情を曇らせた。
「ねえ、部屋を見つけたの」
と、律は言う。
良い報告ではないか、と飯塚は眉を持ち上げたが、律の表情は暗いままだ。
「でも仕事をなくした奥さんのいる家庭がそこに決めたいって。お金もすぐに払えるから、不動産屋さんもやっぱり魅力的なお客だったのかな。私に譲って良いかって……」
「家庭? 子供がいるとか?」
「そう。二人姉弟ですって。まだ小学生にもなってないって……」
「で、譲ったんだ」
律は頷く。両手を組むとそこに目をやった。
「ごめんね、こんな話がしたかったわけじゃないけど……」
「良いよ。お互い似た状況だったし。こんな話誰にでも出来ないもんだよな。俺の方は何とかなりそう……」
飯塚はそこまで言うと、思いついたように目線をあげた。
「そうか、一緒に住めばいいじゃん」
「え?」
「俺と、あんたと、二人で。同じ穴の狢ってやつなんだし、この際ほんとに同じ穴に住みゃあいい」
飯塚は良い考えだ、と一人納得する。
しかし律はぽかんとした表情のまま、飯塚を見つめていた。
単なる顔見知りなのだ。確かに特殊な状況にあるという共通点はあるが、友人でも仕事仲間でも先輩後輩でもない。
飯塚もそれは分かっているが、彼女を招くことに何の違和感もなかった。
まるで昔からの知り合いのように感じるのだ。
飯塚にとってはそれで充分だった。
「でも……」
律は戸惑いを隠さず、口元に手をやると眉をひそめた。
「どうして」
「なんかほっとけないし、高山さんのこと」
「同類相哀れむってやつでしょ? 良いのよ、不動産はまだあるし……それに、もう少し疑った方が……私が泥棒か何かだったらどうするの?」
「それならラブホでとっくにやってる。あのさ、まず話すよ。知り合いの知り合いの知り合いが家手放すんだって。それで、知り合いが知り合い通じてそれ知って……」
「知り合いの知り合いの……」
「知り合いの家。で、俺にどうかって話が来たわけだ。月々6万で分譲。すっげえ好条件。で、元織物工場らしくて、広いんだよこれが。だから二人だろうが三人だろうが余裕しかない。高山さんさえ良けりゃ鍵付きの部屋に住めば良い。広いからプライベートは確保出来るし」
律は顎に手をやり、考えるようにしている。
先ほどの戸惑いとは違う表情だ。飯塚は写真を彼女に見せ、続けた。
「そこにいったん住んでさ、嫌なら新しい部屋なり家なり探せば良いよ。6万だから半々にすれば3万。すっげえ格安。リフォームと家具の新調は必須だけど、このままホテル泊まり歩くより安くつくはずだし、冬になるときちいよ? 冬のホームレスは未経験だけど、多分」
「……」
律は写真を見つめ、見つめ、見つめ――
「乗った」
と言った。
***
二人の引っ越しが決まった。
元々荷物は少ない飯塚は、空になった家にすぐに住めたが律は時間がかかるようだった。
太田の店に連絡を入れ、予約を取ると二人で金曜の夜に訪れる。
「二人で住む?」
太田が眉を寄せた。
「そう。彼女もホームレスっていうか、まあマンション出て部屋探してる最中でさ。けっこう条件厳しいから住める所にまず住んだらって」
「その、家賃はお支払いしますので」
律が姿勢を正して言うと、太田はこめかみをかいて唸った。
「結婚もしてないのに」
「そう。タダの同居人。ルームシェアってやつ」
「つきあってもないのにか? 姉ちゃん、あんたしっかりしてるようだけど、なんでまたこんなどこの馬の骨とも知れない奴と一緒に住もうって思うんだ?」
太田の容赦ない言い方に飯塚は顎をしゃくった。
律は飯塚をちらりと見て、首を傾げる。
「うーん……悪い人じゃなさそうですし……」
「そういう問題かい? もっと自分を大切にした方がいいと思うんだよな、俺は。若い男女が一つ屋根の下なんて、間違いが起きるに決まってる。起きないとしても周りはそう思うさ」
「でも、もうすぐ冬だし……」
「そりゃそうだけど……実家は? 事情が事情なら帰った方がいいんじゃないか?」
「仕事がやっと再開出来たところですし……向こうだと出来る仕事も限られるから、結局再就職も難しくて」
太田は腕を組むと大きなため息を吐いた。
「あの、迷惑になるようなら早めに家を出られるようにします。それからちゃんと自分で責任も取りますから」
「あのね、そういう問題じゃないんだよな。事情があるってのはわかるし、譲のことは俺がよく知ってるから良いんだよ。そうじゃなくて、そんな気軽に決めていいことなのか? そこなんだよ。名前以外よく知らないような男といきなり同居するってのが、俺にはよく分からん」
「はあ。私もわかりません」
太田の意見に律は頷いた。
律自身もなぜ一緒に住む決断をしたのか分かっていないのだ。
太田は頭をかくと言った。
「部屋がないなら知り合いを当たるよ」
「いいじゃん、オヤジさん。俺が知り合いだから」
「お前ね、お前もう25なんだぞ。そんな仲良しこよしで上手く行くような話じゃないんだ」
「分かってる分かってる。俺だって他の女の子や友人とかなら考えるさ。テリトリーに入れたくないし。けど高山さんなら良いかと思うんだよ、それだけだよ。実際知り合いが部屋ないって言って冬の外にいてるのに何もしない方がよっぽどダメだと思うけどな。工場の方リフォームしても良いって許可はもらってるし、お互いのプライバシーは確保出来る。そんな問題ないと思うよ」
「そういう問題か? あのな、お前考えてみろ。自分とこの大事な娘がどこぞの男とつきあってもいないのに同居するんだ。おかしいなと思わないか?」
太田の問いに飯塚は箸を咥えてうーんと唸る。
「確かにおかしい」
「だろ? 姉ちゃん、悪いことは言わねえ。困ってるなら俺が他の知り合いを当たってみるから、とにかく同居はやめといた方がいい。泣くことになって自己責任で済むと思えないんでね」
「俺が見境なく手ぇ出すって?」
「そういうことだ」
「ひどいな、俺だってわきまえてるって。実際泣く目に遭わせた子はいないって」
「わかったもんじゃない」
「本当だって! 疑ってたのかよ?」
「疑ってない! 信じてはいるが、それとこれとは話が別だろ?」
飯塚は眉をひそめて黙り込んだ。
律は二人のやり取りをおろおろと見ていたが、静かになったと見るや口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「あん?」
二人の視線が向き、律は視線を下に向けたが続ける。
「その……やっぱり迷惑みたいだから……」
やめるね、と口の中で何度も繰り返す。だが不思議とすでに心は決まっていて、なかなかひっくり返せない。
「……」
思わず黙り込んで、テーブルの木目を見つめる。
二人が言い争うのは自分のせいだ、と思うと情けないやら。
二人の視線から逃れるようにしたまま、なんとか口を開く。
「私……その、ご迷惑だとは分かってるんですが……ずっとホテルとかだったし、緊張が続いてて、外食続きで体の調子も気になるし……お財布もそろそろ切り詰めないとまずいかもってタイミングでの話だったから、すごくありがたくて。自分でもちゃんと家賃を払えば、多少は気持ちも救われます。だから……」
太田と飯塚が顔を見合わせた。
***
最後の荷物をリビングに入れると、飯塚が首を回した。
「あー、やっと終わった。今日は蕎麦食って終わり終わり!」
「お疲れ様。お風呂ならすぐ入れるよ」
「先入って良いよ。俺ちょっと寝る」
「ああ、うん。そうだね……」
飯塚は座布団やクッションを引っ張り出すとそれに寝転び、すぐに寝息を立て始めた。
すぐに寝られるようなのを羨ましく思いながら、律は風呂場に向かった。
浴槽は使われていないため綺麗なままだ。
さっと流すと湯をためる。
残念ながら律は入れない。
緊張から解放されたためなのか、2ヶ月近く止まっていた月のものが来てしまったのだ。
家を得たことと、体の調子が戻ってきた安心感で眠気がしてきた。
飯塚と話し合った結果、住居スペースの東側の個室が律の部屋、西側の個室が飯塚の部屋となった。
冷蔵庫の上半分は飯塚、律は下半分。冷凍庫や野菜室はケースバイケースとなる。
食事は各自で用意すること。
あくまでも同居人であるという事を忘れないこと。
そういったルールをまとめて書き出し、リビングに貼る。
重い腰を持ち上げ、リビングに戻ると荷物を自室に運び込む。
飯塚はよく眠っていた。
***
蕎麦を食べてシャワーを浴び、その日は終わる。
朝起きると、卵焼きとサラダ、味噌汁、と定番の朝食が並んでいた。
もちろん一人分だ。
「あ、おはよう。飯塚さん」
「おはよう……すげえね。料理出来るんだ」
「一応ね。お先に頂きます」
「あーい……」
「なんか体調悪いの?」
「いや……朝弱いだけ……」
飯塚は冷蔵庫から野菜ジュースを取り出すとそれを飲み始めた。
「美味そう……」
「味噌汁ならまだあるけど……」
足りるかな、と律が台所を見た。飯塚は首をふって止める。
「いいって。食事は各自で……さっそく破ったらかっこ悪いのなんの……」
「そう? ねえ、飯塚さん。私はいつも夕方には帰れるの。そっちはどんな感じ?」
「あー……日によるし、副業も詰まってるから、ま、どっちにしろ帰りは遅い方だよ。だから遠慮しないで良いから。帰るコールとかってした方がいいもの?」
「どうかな。時と場合によるよね? した方がいいかもってなったら、お互いにしようか」
律の提案に飯塚は頷いた。その時にぐうう、と彼の腹が鳴る。
「……やっぱり食べる?」
「……貸し一つってことで」
結局二人で食卓を囲むことになった。
「で、早速俺今日副業なんで……まあ別に気にすることないよな。そういうことです」
「うん」
「あとさ、飯塚さんっての、やめない?」
飯塚の言葉に律は目を丸くした。
そんな律に飯塚がウィンクして続ける。
「なんかすげえくすぐったいんだよな、さん付けされるの。俺も高山さんって呼ぶの、正直距離感じるし」
「だから良いような気もするけど……なんて呼べばいいの?」
「仲良くなった知り合いは譲って呼ぶよ」
律は飯塚をじっと見ていたが、そういえばと呟いた。
「飯塚さんって25歳なんだ」
「そうだけど」
「じゃあ私の方がお姉さんなんだ」
「へえ。まあ年上っぽいなとは思ってたけど……何歳?」
「26」
「おっ、丁度良いじゃん。金のわらじをはけってやつじゃないの?」
「かねのわらじ……。そうか、そうだね。じゃあ、譲くん。これで良い?」
「んー。まあいいか。お姉様」
飯塚がふざけて言えば、律は顔を赤くしてそっぽを向いた。
「それは、ちょっと……」
「だめ? お姉様、お姉さん、お姉たま」
「最後のが一番嫌……」
「じゃあ律。”りつ”って言いやすいよな。旋律、調律……どれも好きな言葉だ」
律は飯塚を見た。
凜々しく見える目元がまんまるになっている。
意外そうな顔つきだ。
「旋律……」
「旋律で思い出した。俺さあ、工場跡に防音貼ってちょっとした音楽出来るスペースにしたいんだよな。良い?」
「もちろん」
「律も何かしたいことあったら言えよ。半分は律の家なんだし」
「ねえ、それ思ってたんだけど、やっぱり知り合いの知り合いの……とはいえ、あっさり過ぎない? 簡単に家って渡そうって思うものなのかな……それに安すぎるよ」
律は家をぐるりと見渡してそう言った。
飯塚は都心とはいえ、中古であること、ちらほら畑も見えるような場所だからそんなものだろうと考えていたのだが、確かに相場よりかなり安いかもしれない。
「詳しくは太田のオヤジに訊いてくれって言ってたっけ……。まあ、落ち着いたら話に行く。律も来る?」
「うん。それから」
「まだあるのか……」
「その……誰か家に呼ぶなら、出来れば連絡して。泊まるとこ探した方がいいでしょ?」
律は両手をかざして、やや顔を赤くしている。
なんとなく意味は通じるが、飯塚は「なんのことでしょうか」とごまかした。
「だから、つまり……」
律は言いづらそうにした。
どうにも色恋に対して軽口をたたける様ではなさそうだ。
飯塚はつい口元をにやつかせた。
「お、女の子を招くなら……私出るようにするから……」
「俺は気にしないけど。従姉妹ってことにしたら?」
「ねえ、冗談でしょ? そんな嘘すぐにばれる」
「一夜限りならバレないって。そんな気にしなくて良いから。俺が向こうの部屋とか、ラブホを使うことの方が多いと思うよ。その場の流れによるし。ま、一応連絡します」
「一夜限り……」
「律ってそういうのしなさそ」
「飯塚さ……譲くんはしょっちゅうなのね」
「そうでもないけど。そうならホームレス生活ももうちょい恵まれてたかな」
「……そう」
律は呆れたのかなんなのか、視線を下に向けると首を横にふる。
「律も男連れ込んで良いから」
そう言うと、律の顔色がさっと変わる。
彼女がホームレスになった理由を思い出し、飯塚はすぐさま謝った。
「ごめん」
「……ごちそうさま」
律はそう言うと立ち上がり、食器類を流しに置いた。
***
出る時間が重なった。
律はヒールをはいて、ストールを肩にまくとドアを開ける。
飯塚が顔を覗き込んできた。
ヒールの分、顔が近くなる。
飯塚の、人なつこい表情ににどこか野性的な眼光。
律は内心で怖い、と思いつつも目を合わせる。
「さっきはごめん」
芯のこもった声だ。律は息を整えると眉を持ち上げる。
「いいの。気にしてないから」
「お詫びにさあ。休日に家具買いに行くけど、車借りるんで一緒に見に行かない?」
「家具……」
律は口元に手をやり、頷いた。
「うん。でも私、土日の方が仕事あるの。定休は水曜だけど……合う?」
「ああ、そっか。俺も土曜は仕事。そうだな……来週だったら木曜休みなんだけど……無理?」
「来週?」
律はスマホを取り出す。
丁度休みだ。
「来週なら大丈夫」
「おっ、ラッキー。じゃあ来週な」
飯塚は鍵を締めると裏にまわった。
バイクが出てくる。
「いいな、それ。私も自転車買おうかな」
「それも見に行くか。じゃあ気をつけてな」
「うん。譲くんも」
バイクが颯爽と走ってゆくのを見送り、律は歩き出した。
朝夕の冷え込みはどんどん増している。
髪をきっちりまとめたせいか耳が冷たくなった。
それを撫でる指先は、相変わらず乾燥していた。
***
仕事の帰り、新居近くのスーパーで食材を選ぶ。しめじが美味しそうだ。オリーブオイルや米油を入れ、カートを押す。
無塩バターも入れ、お肉類を見ていると「あー」と今や聞き慣れた声が前から聞こえてくる。
「お疲れ。時間重なったんだ。何か俺ら、同居してなくてもよく会うよな」
飯塚が弁当とビール片手に歩いてくる。
「お疲れ様」
「しかしスーツ似合うよな。キャリアウーマンって感じ」
飯塚は興味津々といった感じだ。
「仕事場ではこれに白手袋をつけるの」
「マジで? よりそれっぽいわ」
「ところで晩ご飯……それ?」
「これ? そうだけど」
焼き肉弁当と書かれたそれはボリュームもあり、20パーセントオフのシールが貼られているがお値段はそれなりだ。
体と財布にどうなのだろうか。
律は思わず心配顔になっていた。
「うーん」
「何、ダメ?」
「ううん」
飯塚の自由だ。
律はそれ以上何も言わないようにし、カートを押す。
「律って自炊派? 調味料買ってんの?」
「そうだよ」
醤油やみりん、味噌に日本酒が増えている。飯塚は首を傾げた。
「重くない?」
「ねえ、それならバイクに乗せてやるって言ってくれないの?」
調味料は一度買えばそれなりに保つのだ。
この日だけ頑張ればいい。
律は軽い気持ちで言ったが、飯塚はあっさり「良いよ」と言ったものだ。
「良いってば、冗談だから」
「は? 別にバイク乗せりゃいいだけだし。遠慮することでもないだろ」
「……」
「まあいいや。他に何買うの?」
「今日はもう終わり……」
律はカートを押してレジに向かう。
飯塚が隣のレジに並んだ。
律がまとめたものを飯塚は持ち上げる。
「ね、ねえ、本当に冗談だから。運動になるし、良いのよ」
「律、遠慮しすぎ。そんな大したことじゃないって。もう一個ヘルメットないから先帰るけど、気をつけろよ」
そう言うと飯塚は自身のヘルメットをかぶり、走って行ってしまった。
律は後を追うようにして歩く。
肩が楽だった。
***
荷物を運んでもらった礼に、と飯塚に白菜の味噌汁を渡せば、彼は満面の笑みを浮かべて飲み始めた。
苦手な食べ物はあるようだが、残さず食べている。
律はそれを見ると頬を緩ませる。
佐竹は苦手なものを残してしまう。
初めにこれは要らない、と言ってくれれば良いのだが、なんでも良いと言ったせいか、断りづらそうにしていたものだ。
ベッドを買うよりは安くつく布団に寝転び、律はほーっと息を吐き出した。
この頃佐竹の事を思い出す。
落ち着く場所を得たため、思考が向いてしまうのだ。
きっと心配している。
毎日届くメッセージ。
無視し続けている。
きっと心配させている。
(どうすれば良いんだろう。もうフラれたんだから、それで終わりなはずなのに……)
会って話をすれば良いのだろうか。
何の話をするというのか。
そこまで考えると胸が苦しくなり、気分を変えようとリビングに出る。
カーディガンを羽織ってもひんやりとする空気だ。早く飲み物を取って戻ろう、と決めた時、静かな音が聞こえてきた。
どうやらギターの音のようだが、くぐもった音で、それがとても心地よく響く。
飯塚の部屋からだろう。
芯が強く、どことなく柔らかい音色は歌声と同じ響きをしている。
律はそれに耳を傾け、胸がほぐれていくのを感じていた。
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その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

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