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プロローグ
事情
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大通りを外れると、夜風に雑草が揺れる、まっすぐに伸びる道がある。
道路は広く、ライトはぽつぽつ。
一軒家の民家、コンビニ、2階建てのアパートが点在する静かな場所だ。
そこにあるのはやや狭いレストラン。
jin’s kitchenの文字が掲げられており、看板には本日のおすすめと、メニューは少ないものの、単品のサラダ、前菜、メインディッシュ、アルコール、嗜好品飲料にデザートと揃えられ、客の入りを待っていた。
入りやすい穏やかな雰囲気のそこは女性客も多く、常連もそれなり。
都筑 普もこの店の常連だ。
仕事の帰りに寄りやすく、手の込んだ料理は肩肘張ったものではなく家庭的なものに近いため疲れた身には有難かった。
2019年。もうすぐ春が終わり、初夏の気配が漂い始めるころだ。
都筑は今年で34歳。
学生の頃から実家を離れ、都会での一人暮らしにはすっかり慣れたものだ。
派遣型リスクマネジメントの仕事にのめり込み、女性にフラれてからしばらくが経つ。その傷口すらすぐに忘れるほど恋愛にのめり込まなくなった。 そのためか最近ぶつかった難問に答えが出せず、この店にヒントを求めてきたというわけだ。
「いらっしゃいませ」
jin’s kitchenの従業員である佐山 亮介が迎える。
佐山のクールな表情は相変わらず。都筑とはすっかり顔見知りだが、彼はそれでなれなれしい態度を取ったことはない。
その距離感の心地よさも都筑を常連たらしめる要因の一つだ。
いつものカウンター席に都筑は座る。
中央よりもやや右奥。
今日は一つ空けた席に若い男性客が座っていた。 カウンターの向こうからこの店のオーナーでシェフの神 光香が顔を出した。
年は都筑と近そうだ。目鼻立ちのくっきりした美しいイタリア人のような顔立ち。身長はあまり高くないが、存在感の強い女性である。
ウェーブのかかった濃い黒髪をきっちりまとめ、美貌の割にさっぱりとして、男女から人気のある人である。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「今日は何になさいます?」
光香がメニュー表を差しだそうとしたが、都筑はそれを制する。
「本日のおすすめで。食後はコーヒーを」
「かしこまりました。あら」
光香が何かに気づいた。
「コーヒー?」
光香は都筑がいつもは注文しないものを頼んだため、聞き間違いかと首を傾げた。
「ちょっと色々あってね」
「そうなんですか。無理はなさらないで下さいね」
「ああ、ありがとう」
佐山がカップの水を運んでくる。
都筑は礼を言って受け取ると、それで口を潤した。
都筑はいつも夕食時にコーヒーは飲まない。
カフェインの興奮作用は有名だ、都筑は職業柄神経を使う。
そのため夜はしっかり休みたいのである。
今日は仕事の残りを片付ける必要があったので、コーヒーが欲しくなった。
難問のため集中力が切れたのだ。
「どうぞ」
佐山がサラダを持ってきた。
リコッタチーズのかかった、ササミとレタスのサラダ。
ソースはオリーブオイルと南国フルーツ果汁、塩。
都筑は箸を取り、食べ始める。
オリーブオイルの青い味がリコッタチーズの柔らかな味とよく合っていた。
タマネギのスープを飲んでいると運ばれてくるメインディッシュの鶏肉のローストをガーリックトーストと合わせて食べる。
腹が満たされるとほっとした心地になり、都筑はデザートに出されたココアのマーブルケーキを食べていた。
見れば厨房は少し暇が出来たようである。
都筑は光香に声をかけた。
「オーナー。わけあって断りづらい男性の誘いを、あなたならどうかわす?」
「はあ?」
光香は目を丸くして都筑を見た。
「えーと……誘いとは?」
「誘い……つまりベッドだ。断りたいけど、断りづらい。今後の仕事に響きかねないのでね。かわせれば一番良い」
「……男性からですか? まあ、うん。そうですね。都筑さんならおかしくない……」
光香の声は尻すぼみになり、都筑は聞き間違いかと首を傾げた。
光香は斜め上を見て腕組みし、やがて口を開いた。
「あたしだったら、そうですね~。『仕事場には仕事しに来てんだふざけるな』って態度見せますけど。はっきりやっちゃうと角が立つ相手なら、まあ……彼氏持ちのフリしてのろけまくるとか、ヤンデレっていうんですか、地雷女? のフリして関わると厄介に装うとか、なんなら出るとこ出るぞ、セクハラなら訴えて勝つからな、みたいなオーラを出すとかですかね~」
「裁判上等か」
「オーラだけです。言葉にして言いません」
「可愛くない」
佐山がぽつりと言った。
「何か言った?」
光香がすかさず聞き返す。
佐山は無視して皿洗いを始めた。
「まあ、でも。中間に誰かに立ってもらうとかね。そうすると多少は距離が出来るじゃないですか?」
「それは考えたんだ。でも職場に派遣で一人だし、そういう意味で頼れる人物はいない。一人でいるタイミングも多いし、隙だらけといえば隙だらけだ」
「わーお。困りましたね」
「でもオーナーが言った事は役立ちそうだ。ありがとう」
「いいえ。でも都筑さん、男性にもモテるんですか」
「え?」
光香の質問に都筑は顔をあげた。
光香はその視線に首を傾げる。
「都筑さん、男性に誘われて困ってるんでしょ?」
「……いや、説明不足だった。誘われてるのは俺じゃなくて、若い女性だ」
光香の表情がきりりと引き締まる。
「若い女性でしたか。困りましたね、セクハラは今でも多いし。若いなら断り方どころか右も左も分からないでしょう。それを逆手に取って誘う輩が多いですから」
「逆手に……最低だな」
「最低ですよ。派遣さんなのか……余計困ったでしょうね、あっちの顔を立てなきゃ派遣元に切られる可能性もあるわけですか」
「そういうことだ」
「都筑さんの知り合いの子なんですか? だったら出来るだけ一緒にいてあげるとか……」
都筑は首を横にふる。
知り合いではあるが、名前と顔が一致する程度。
それもハプニングで出逢っただけで、仕事上の関係はない。普通にしていれば滅多に会わないはず。
光香はその説明を聞いて「え?」と更に首を傾げた。
「ならどうして?」
「……彼女に対して負い目がある」
「負い目?」
「俺の確認ミスで、面倒に巻き込んだ。気にしてない様子だったけど、その後ある男性に誘われてて困ってるのを知ったんだ。何かアドバイスくらいは出来ないかと思って」
「その子とは頻繁に会うんですか?」
「不思議とね」
都筑は嘆息する。
光香は片手を手前につき、うーん、と唸った。
「アドバイスか……その子がどんな子なのか分かりませんし、あたしが言ったことがそのまま正しいってわけじゃありません。だから都筑さんが何かしてあげたいって思うなら手だけ伸ばして、その子の決断に任せるしかないんじゃないですか?」
光香の意見に都筑は顎に手をやり、考え込んだ。
「……そうだな」
納得がいったというわけではない。
そもそも彼女自身の問題で、都筑は事情を知っただけだ、納得も解決もあったものじゃない。
光香の言うとおりなのだろう。
頷くと目の前にコーヒー。
苦い香りが漂って、不思議に落ち着く。
「関係ないのに不思議と会うって面白いですよね。人間関係ってどこに縁があるかわかったもんじゃない」
光香が佐山からサラダを受け取り、ドレッシングをかけてそう言った。
都筑はコーヒーの縁にたまる泡を見つめ、再び頷いてぽつりと言う。
「あなたと佐山くんもか……」
「はあ?」
キッチンの奥から佐山の声がしたかと思うと、フライパンが床に落ちる音が響いた。
「大丈夫?」
光香が振り返る。
「すみません」
幸い料理が落ちたというわけではないようだ。
店を出ると、少し湿り気のある空気が肌にまとわりつく。
都筑は気が楽になった感じがし、夜空を見上げると星たちが目に入る。
車に乗り込むとそれを走らせた。
道路は広く、ライトはぽつぽつ。
一軒家の民家、コンビニ、2階建てのアパートが点在する静かな場所だ。
そこにあるのはやや狭いレストラン。
jin’s kitchenの文字が掲げられており、看板には本日のおすすめと、メニューは少ないものの、単品のサラダ、前菜、メインディッシュ、アルコール、嗜好品飲料にデザートと揃えられ、客の入りを待っていた。
入りやすい穏やかな雰囲気のそこは女性客も多く、常連もそれなり。
都筑 普もこの店の常連だ。
仕事の帰りに寄りやすく、手の込んだ料理は肩肘張ったものではなく家庭的なものに近いため疲れた身には有難かった。
2019年。もうすぐ春が終わり、初夏の気配が漂い始めるころだ。
都筑は今年で34歳。
学生の頃から実家を離れ、都会での一人暮らしにはすっかり慣れたものだ。
派遣型リスクマネジメントの仕事にのめり込み、女性にフラれてからしばらくが経つ。その傷口すらすぐに忘れるほど恋愛にのめり込まなくなった。 そのためか最近ぶつかった難問に答えが出せず、この店にヒントを求めてきたというわけだ。
「いらっしゃいませ」
jin’s kitchenの従業員である佐山 亮介が迎える。
佐山のクールな表情は相変わらず。都筑とはすっかり顔見知りだが、彼はそれでなれなれしい態度を取ったことはない。
その距離感の心地よさも都筑を常連たらしめる要因の一つだ。
いつものカウンター席に都筑は座る。
中央よりもやや右奥。
今日は一つ空けた席に若い男性客が座っていた。 カウンターの向こうからこの店のオーナーでシェフの神 光香が顔を出した。
年は都筑と近そうだ。目鼻立ちのくっきりした美しいイタリア人のような顔立ち。身長はあまり高くないが、存在感の強い女性である。
ウェーブのかかった濃い黒髪をきっちりまとめ、美貌の割にさっぱりとして、男女から人気のある人である。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「今日は何になさいます?」
光香がメニュー表を差しだそうとしたが、都筑はそれを制する。
「本日のおすすめで。食後はコーヒーを」
「かしこまりました。あら」
光香が何かに気づいた。
「コーヒー?」
光香は都筑がいつもは注文しないものを頼んだため、聞き間違いかと首を傾げた。
「ちょっと色々あってね」
「そうなんですか。無理はなさらないで下さいね」
「ああ、ありがとう」
佐山がカップの水を運んでくる。
都筑は礼を言って受け取ると、それで口を潤した。
都筑はいつも夕食時にコーヒーは飲まない。
カフェインの興奮作用は有名だ、都筑は職業柄神経を使う。
そのため夜はしっかり休みたいのである。
今日は仕事の残りを片付ける必要があったので、コーヒーが欲しくなった。
難問のため集中力が切れたのだ。
「どうぞ」
佐山がサラダを持ってきた。
リコッタチーズのかかった、ササミとレタスのサラダ。
ソースはオリーブオイルと南国フルーツ果汁、塩。
都筑は箸を取り、食べ始める。
オリーブオイルの青い味がリコッタチーズの柔らかな味とよく合っていた。
タマネギのスープを飲んでいると運ばれてくるメインディッシュの鶏肉のローストをガーリックトーストと合わせて食べる。
腹が満たされるとほっとした心地になり、都筑はデザートに出されたココアのマーブルケーキを食べていた。
見れば厨房は少し暇が出来たようである。
都筑は光香に声をかけた。
「オーナー。わけあって断りづらい男性の誘いを、あなたならどうかわす?」
「はあ?」
光香は目を丸くして都筑を見た。
「えーと……誘いとは?」
「誘い……つまりベッドだ。断りたいけど、断りづらい。今後の仕事に響きかねないのでね。かわせれば一番良い」
「……男性からですか? まあ、うん。そうですね。都筑さんならおかしくない……」
光香の声は尻すぼみになり、都筑は聞き間違いかと首を傾げた。
光香は斜め上を見て腕組みし、やがて口を開いた。
「あたしだったら、そうですね~。『仕事場には仕事しに来てんだふざけるな』って態度見せますけど。はっきりやっちゃうと角が立つ相手なら、まあ……彼氏持ちのフリしてのろけまくるとか、ヤンデレっていうんですか、地雷女? のフリして関わると厄介に装うとか、なんなら出るとこ出るぞ、セクハラなら訴えて勝つからな、みたいなオーラを出すとかですかね~」
「裁判上等か」
「オーラだけです。言葉にして言いません」
「可愛くない」
佐山がぽつりと言った。
「何か言った?」
光香がすかさず聞き返す。
佐山は無視して皿洗いを始めた。
「まあ、でも。中間に誰かに立ってもらうとかね。そうすると多少は距離が出来るじゃないですか?」
「それは考えたんだ。でも職場に派遣で一人だし、そういう意味で頼れる人物はいない。一人でいるタイミングも多いし、隙だらけといえば隙だらけだ」
「わーお。困りましたね」
「でもオーナーが言った事は役立ちそうだ。ありがとう」
「いいえ。でも都筑さん、男性にもモテるんですか」
「え?」
光香の質問に都筑は顔をあげた。
光香はその視線に首を傾げる。
「都筑さん、男性に誘われて困ってるんでしょ?」
「……いや、説明不足だった。誘われてるのは俺じゃなくて、若い女性だ」
光香の表情がきりりと引き締まる。
「若い女性でしたか。困りましたね、セクハラは今でも多いし。若いなら断り方どころか右も左も分からないでしょう。それを逆手に取って誘う輩が多いですから」
「逆手に……最低だな」
「最低ですよ。派遣さんなのか……余計困ったでしょうね、あっちの顔を立てなきゃ派遣元に切られる可能性もあるわけですか」
「そういうことだ」
「都筑さんの知り合いの子なんですか? だったら出来るだけ一緒にいてあげるとか……」
都筑は首を横にふる。
知り合いではあるが、名前と顔が一致する程度。
それもハプニングで出逢っただけで、仕事上の関係はない。普通にしていれば滅多に会わないはず。
光香はその説明を聞いて「え?」と更に首を傾げた。
「ならどうして?」
「……彼女に対して負い目がある」
「負い目?」
「俺の確認ミスで、面倒に巻き込んだ。気にしてない様子だったけど、その後ある男性に誘われてて困ってるのを知ったんだ。何かアドバイスくらいは出来ないかと思って」
「その子とは頻繁に会うんですか?」
「不思議とね」
都筑は嘆息する。
光香は片手を手前につき、うーん、と唸った。
「アドバイスか……その子がどんな子なのか分かりませんし、あたしが言ったことがそのまま正しいってわけじゃありません。だから都筑さんが何かしてあげたいって思うなら手だけ伸ばして、その子の決断に任せるしかないんじゃないですか?」
光香の意見に都筑は顎に手をやり、考え込んだ。
「……そうだな」
納得がいったというわけではない。
そもそも彼女自身の問題で、都筑は事情を知っただけだ、納得も解決もあったものじゃない。
光香の言うとおりなのだろう。
頷くと目の前にコーヒー。
苦い香りが漂って、不思議に落ち着く。
「関係ないのに不思議と会うって面白いですよね。人間関係ってどこに縁があるかわかったもんじゃない」
光香が佐山からサラダを受け取り、ドレッシングをかけてそう言った。
都筑はコーヒーの縁にたまる泡を見つめ、再び頷いてぽつりと言う。
「あなたと佐山くんもか……」
「はあ?」
キッチンの奥から佐山の声がしたかと思うと、フライパンが床に落ちる音が響いた。
「大丈夫?」
光香が振り返る。
「すみません」
幸い料理が落ちたというわけではないようだ。
店を出ると、少し湿り気のある空気が肌にまとわりつく。
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