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ハグをして、もう少し生きてみたいと思った

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女は、橋の欄干から頬杖をつくように川面を見つめていた。川といえど、都会の、もう少し下れば海へと辿り着く下流の途中だ。コンクリートの上に得体の知れぬヘドロや藻、その上辺を申し訳程度に水が流れている、そんな川を見下ろしている。
高さはどのくらいあるのだろうか。
常に高層ビルに囲まれ、その間を右往左往をしていると高さの感覚がよく分からなくなる。
ここから飛び降りたら死ぬのだろうか。
分からない。
朝が来なければいいのにと、毎晩呪うように眠りに就くことはなくなるのだろうか。
分からない。
高層ビルの明かりや歓楽街のネオンが遠く見える。ターミナル駅から、数駅ほどしか離れていないのにやけに遠く感じる。明かりの煌めきに反して女の心に影を落とす様に潜む、疎外感。女はぐっと強く欄干を握りしめた。
「そこから川に飛び込むつもり?」
突然の声にびくりとして振り返る。
若い男がいた。若いが、妙に泰然としたどこか掴みどころのない雰囲気と口調をしていた。
「……何?」
女は剣呑けんのんに、警戒して問うが、相手はやはり泰然とした様子で、
「いや、ちょっとした助言だ。多分、この高さじゃ運悪く骨を折るか、打撲するか程度で死ぬことは出来ないよ。下流に近いから溺死も出来ない」
新手のナンパか酔客すいかくか……と一瞬思ったが、そんな気配のない浮遊感のある声で滔々とうとうと相手は告げる。
「強いて言えば……一晩中、川に横たわっていれば凍死出来るかも知れないけれど、都会の汚れた川で最期を迎えるのは果たしてどうだろうか?せめてどこかの公園の噴水にでもしたらいいんじゃないかな」
こうまで泰然と、溺死だの凍死だのと口に出せるとは……頭のネジが緩んでいるのかもしれない。女は不審感を隠せなかったが、しかしそれらの言葉は甘美に聞こえた。朝が来ることを呪いながら眠りに就く、この日々が今晩でもし終わるのだとしたら。
「あなたは何者?何の用?」
「僕は死神だ」
あっさりと答える相手の言葉に、くらくらとした。やっぱりこの人はネジが外れている。でも、この奇人を出会うべくして引き寄せたのかも知れない。
女はほんの少し気分が高揚していた。日々の疎外感、社会のしがらみ、様々な呪縛、それらから本当に今晩で解放されるのかもしれないと。

「死神、っていうのなら私の魂を奪っていってよ」
「奪っていく?」
「だって死神、なんでしょう?命の蝋燭の火を吹き消すなり、大鎌で魂を刈り取って行ったり……そういうものじゃないの?」
死神は不思議そうに考え込み、
「残念ながら僕らにそんな能力はないよ」
女は、やはり相手はおかしな妄言吐きかと思いつつ、今の気分には適した話し相手の様に思えた。
「よく人間たちは、僕らを黒衣こくえを着て、鎌を振りかざして魂を奪い取っていくと考えているみたいだけれど。僕らは、死んで辺りをただよっている魂を、神様と悪魔が天国と地獄のそれぞれに連れて行く合間を窺って、こっそりと食べているだけ。今日も食べられそうな魂を探して夜の街を歩いていたら君がいた」
妄言にしては、妙に作り込まれた設定に思わず苦笑してしまう。何者の顔色も窺わず、泰然と我を通す。羨望さえ覚える。
「じゃあ、私が自殺でもしたら今日のごはんは私の魂、ということ?」
「いや……。どうにも自殺しそうな気配はあるけど、きっと失敗するだろうから。もし、死ねなかったら怪我人がいることを連絡しなくてはいけないのだろう?そうしたら、僕が発見者になってしまう。そもそも、人間たちの使う『連絡する機械』を持っていないからね。そんな面倒事は勘弁したいから、声を掛けただけだ」
死神、という妄言吐きの甘美な言葉から急に味気のない現実へと引き戻される。死への誘いに傾倒していた女は、突きつけられた言葉に感情的になる。
「失敗する?そんなことやってみないと分からないじゃない」
「それは先程言った通りだ。もし、本当に自殺を、選ぶならもっと確実性を求めるべきじゃないかな。突発的にこの程度の高さから飛び降りるのは賢明ではない、自明の理だ」
女は頭に血が上るを感じた。何て言い様だ。
自殺を止めたいのか。それにしては面倒事だの、どうせ失敗するから賢明ではないなどと感情を逆撫でするような事を言う。
死神、だなんて作り込んだ妄言を吐くくらいなら、もっと死への美しい誘惑で背中を押してくれたっていいじゃないか。

女は、自分でも驚く程、易々と欄干の上に飛び乗った。
肩越しに見える川は思いのほか、遠く感じてそのまま身体が固まってしまった。
だが、もう消し去ってしまうのだ。死神に突きつけられた見たくない現実を、ここから飛び降りて綺麗さっぱりと消してやるのだ。
「……どうしても、飛び降りるつもりなの?」
やはり掴みどころのない口調で死神は問うた。
足は震える。が、強迫観念と自暴自棄のように死ななきゃ、飛び降りなきゃと繰り返し繰り返し、女は自分へと言い聞かせる。
「どうして?」
「……もう、嫌なの!お金、見た目、過去、噂話、根も葉もないでっち上げ…誰ひとり、誰も私を見てくれない!上辺だけの肩書、勝手に貼り受けたレッテルで人を決めつける。もう、嫌、いてもいなくてもいい私がいなくなったところで…誰ひとり…っ、困らないの…っ!!」 
気が付けば女は叫ぶように思いの丈を、死神にぶつけていた。普段なら作り笑いで、押し込めていた感情と鬱屈。

遠くの街明かりに、女の想いが一つ一つ浮かび上がるかのようだった。これが走馬灯なのか……そう思ったがその想いの中には何一つ『現実』が無かった。
こうしたかった、あの人が羨ましかった、楽しそうだった、でも出来なかった、安心感が欲しかった、……どちらかと言えばマッチ売りの少女がマッチを灯して見る幻影のようだった。
無いものに憧れて、けれど周りの様々な言葉のノイズに萎縮し、気付けば何をするにも諦観ていかんが付きまとった。自身をマッチ売りの少女のように例えることさえおこがましい。
私は何も行動していないのに悲劇に酔っているだけ、女がそう思った時、
「どうしても飛び降りるなら、僕の腕に飛び込んで」
死神は女の葛藤、激情をまるで聞いてもいなかったように大きく腕を広げた。やはり穏やかな、浮遊感を伴った声色で。
女は戸惑った。
が、足が動かない。死神の言葉に混乱し、橋の思わぬ高さに恐怖し動けない。死神は構わず言葉を続ける。
「以前から気になっていたんだ。僕らは何故か生きている人間の魂を見たことがない。一度、生きている人間の魂を見てみたかったんだ。この距離でも分からないなら、もっと近くで、腕の中で抱き留めたら見えるのかもしれない、そう、ふと思って。ほら、君も本当は降りるに降りられなくなっているだけじゃないのかな」
ほら、とばかりに死神は更に大きく腕を広げる。
ふと、女は思う。彼の一挙一動は妄言、奇行でありあくまでも自らの『設定』を貫いているだけなのだろうか。それとも、本当は。

不意に生暖かい風が吹いた。
今がそのタイミングだ、女が欄干から飛び降りようとした時、強い力でぐっと腕を引かれた。抱き留めるなどというものではなく、死神に手を引かれ二人で無様に橋のたもとに転げた。
「……あなた、どうせ死神ならこっちじゃなくて川の方へ押してくれれば良かったのに」
「自殺未遂に付き合うくらいなら、他の食べられる魂を探して早々に立ち去るよ。それに何度も言うけれど、僕らは神様と悪魔が天国や地獄へ連れて行く筈の魂をこっそり盗み食いしているだけなんだ。彼らも毎日死んでいく魂を捌き切れずにいるようで……見て見ぬフリをしてもらっているだけさ。これが、死神たちが己の食欲の為に勝手に人を殺して魂を食べ始めたら、どちらかに目をつけられてしまうよ。色々なバランスもおかしくなってしまうしね」
相変わらず、素っ頓狂な説明をする死神のあまりの徹底ぶりに、女は先程の葛藤や激情が風船が萎んでいくかのように収まっていくのを感じた。
「それで?あなたは、私に触れて生きている人間の魂を見られたの?」
「それが……とても不思議なんだ。死んだあとの魂も、生きている人間の魂も、全く形も色も変わらない。等しく美しいんだ。人間の君には見せてあげられないのが残念なくらいに」
やはり浮遊感の漂う掴みどころのない声で、しかし世界一の芸術品を慈しむような表情で、死神はそう賞賛した。
「とても美しいものを見せてくれてありがとう。今まで、ずっと不思議だったんだ。……そうか、生きていても死んでいても、魂そのものは誰ひとり、何一つ変わらずただ美しいだけなんだね」
転んだままだった女は、死神に手を引かれ欄干のたもとに座る。
知らぬ間に、つぅ、と頬を涙が伝った。
遠くの街明かりが滲んで見えて万華鏡を覗いているようだった。
「それじゃあ、僕は他のところへ食べられる魂を探しに行くよ。さよなら、元気で……」
「待って‼」
しれっと立ち去る死神を必死で呼び止め、今度は女が腕を掴む。先程は気に掛けなかったが、その腕にはきちんと温度が感じられた。
「ねぇ、さっきみたいに無様な形じゃなくて…あの……もう一度抱きしめて」
口にして、女は今一番欲しているものの姿形が分かった。安心感、そして絶対的な肯定感。
彼が今更何者だってどうだっていい。何者であるかより、嘘でも魂の美しさを全肯定した、たったそれだけの事で心の中に小さく明かりが灯った。
「……抱きしめてほしい?良いけど……もう、生きている人間の魂の色や形を知ることができたから、僕には特にメリットはないんだけれど」
「私にメリットがあるの」
「まぁ、構わないけれど……はい、どうぞ」
欲望や愛情の感じられない、恋人同士の抱擁ほうようとはまるでかけ離れていた。だが、ブランケットに包まれるような得も言われぬ温もりがあった。
「ねぇ、魂ってどんな色?形?」
「そうだね……光の塊のようでいてオパールのような様々な煌めきを秘めている。形はとても手触りの良くて楕円形の……と言っても君の魂を触れることは出来ないけれど。まだ生きているから」
「そうね。まだ、生きているから」
女が噛みしめるように呟くと、死神は腕を解いた。
「もう、夜でも案外暖かいんだね。こんな夜じゃ、川に寝転んだところできっと凍死も出来ないだろうから、やっぱり君はその時じゃないんだよ。明るい時間に魂を食べていると、人間の目について厄介なんだ。夜明けも近いから、今度はこそ僕は行くよ」
「そう。……ありがとう」
死神は不思議そうな表情を浮かべたが、振り向くことなく立ち去った。ほのかな温かみを感じながら、女は姿が見えなくなるまで薄闇の一点を見続けていた。

始発電車が動き出す音がする。
その音が不思議と心地よく感じた。
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