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変わりの始まり
しおりを挟む「ああ、僕だよ」
そう声を発した者は、リトではなく小さなネコだった。
「……魔術か?」
窓際で俺をジッと見つめる手のひらサイズの金の毛並みのネコ。
それを見て、レイナが「かわいい」とボソッと囁くほどに、リトとは似ても似つかわしくない姿をしている。
「これが僕が唯一使える魔術さ。──それと、アノーロワ商会のみなさん、もう監視虫は追い払ったから大丈夫ですよ」
リトがそう告げると、シスリルは張りつめていた何かが一気に解けたように、力無く倒れた。
「お嬢様!」
周囲の用心棒たちが、一斉にシスリルの下へと駆け寄る。
「リト、何か知っているのか?」
「まあね」
トンッと窓枠から飛ぶと、リトの声がするネコは俺たちへと近付いてくる。
「ユクスは監視虫……もしくは監視鳥といった名前を聞いたことは?」
「いや、ないな」
「そうか。その国々によって使われる生き物が異なるのだけど、要するに生き物の目を介して、遠くにいる者がその場の光景を見る魔術さ」
「離れた者と会話する魔術と同じ類ということか?」
「そうだね。こういった戦闘とは関係のない魔術は主に、人間たちに最初に魔術という存在を伝えた大魔術師マクスウェルが、独自に作って人間たちに教えた魔術なんだ」
禁忌指定の魔導書の生みの親でもある大魔術師マクスウェルか。
人を殺めるのに使う魔術や魔導書は、主に魔族が作ったとされるが、そういった戦闘とは関係のないものは人間から伝わったと聞いたことがある。
「要するに、この屋敷周辺に、その監視虫というのが見張っていたということか?」
「そういうこと、それが原因でこの人たちは君たちを死ぬ気で足止めしていたんじゃないかな」
「俺たちを……?」
どうしてそんなことをしたかまでは、リトは知らないと言った感じで後の説明を委ねるようにシスリルへと視線を向けた。
「もう戦う意志がないのであれば、説明してくれないか?」
少しは回復したのか、俺がシスリルに問いかけると、彼女は立ち上がる。
そしてレイナに向かって頭を下げた。
「今回の件、全てアノーロワ商会に非があります、申し訳ありません」
「え? ああ、はい……」
急な態度の変化に、レイナは目を見開き困惑する。
「今回の一件は、アノーロワ商会の首領であるお爺様と、わたくしの父であるお父様の対立から生まれたものなのです」
そう切り出し、シスリルは今回の騒動の発端について話してくれた。
♦
アノーロワ商会の首領《ボス》であるネグルス・アノーロワは、その他者を威圧するような鋭利な眼光を持つが、根は”住民の為にあるアノーロワ商会”という先代の意志を継ぐ優しい首領だった。
そして何より、孫娘であるシスリルにはだらしない顔になってしまうほど甘いお爺ちゃんであり、それらのことを周囲の人物は知っていった。
そんな本当は心優しい首領がいるから、アノーロワ商会には、中立国の住民は絶対的な信頼を置いていた。
だが、その息子でありシスリルの父、ベイル・アノーロワだけは違った。
「──どうしてボクの話を聞いてくれないんだよ、父さん!」
ヴェリュフール魔剣学園にシスリルが入学する数か月前のこと。
シスリルは、祖父と父が言い争っている光景を目にした。
「何度も言わせるな。お前の世迷言は聞くに堪えんからだ」
「世迷言なんかじゃないって! あの学園には、三国の王族に連なる子たちも入学するんだ。だから──」
「──だから、この中立国の住民たちを見捨てる。それが世迷言でなくて何だと言うのだ?」
中立国の住民を見捨てる?
シスリルは聞き耳をたて二人の会話の続きを聞く。
「見捨てるなんて言ってないだろ? ボクは三国に取り入るべきだと言ったんだ」
「その三国に取り入ってこの地をどうする考えなんだ?」
「より良い環境を構築するんだ。住民という大勢を守る前に、ボクたちに付き従ってくれる従業員の面倒を見るのも大切だ。そうだろ?」
「儂らアノーロワ商会は、代々このヴェリュフールや、その近隣の中立国の住民を守る柱となってきた。だから皆が付いて来てくれたのだ。それを三国に取り入るなど……我々が三国に取り入って幸せを得たとして、それはここの住民も同様だと言えるのか?」
「だけど……」
「お前の言いたいのは、従業員を盾に自分たちの生活しか見ておらん。それにもし仮に三国間で戦争が起きたとき、取り入ったアノーロワ商会はどこの地に立っている? この地を誰が守るというのだ!?」
ネグルスの言葉に、ベイルは反論する言葉を失った。
「三国と交流する機会が生まれ浮足立つのは無理もない、だがお前もアノーロワ商会の人間なら、この組織が作られたことの意味を理解しろ……。我々は苦しい生活を強いられてきた、この中立国を守るべき存在。その住民がこの地で生きていくことを諦めない限り、決して我々を壁の内側に閉じ込めた三国の味方をしてはならん。最後の一人になるまで、絶対にだ」
そう伝えると、ネグルスは部屋を出る。
一人残されたベイルに、シスリルは声をかけた。
「お父様……?」
数日前からベイルが変わってしまっていたのはシスリルも実感していた。前までは心優しい父だったのに、今では祖父と意見は合わず、娘を見る目もどこか違う場所を見ているようだった。
だから今回の二人の会話で、元の父に戻ってくれたのではないか、そう期待していたのだが。
「おお、シスリル……お前はボクの気持ちをわかってくれるよね?」
「え……?」
どこか虚ろな瞳のベイルは、シスリルの両腕を掴む。その入れられた力は、決して愛しい娘を抱く加減ではなく、逃がさんという意志のこもった力加減だった。
「お、お父様、痛い……痛いですわ」
「ボクは従業員の為にも、アノーロワ商会は変わらないといけないと思うんだ。ここが転換期なんだ。それに三国には、この中立国には無いものがあるんだ。例えば三国には海があって──」
ベイルはシスリルが今まで体験したことのないような、そんな耳障りのいい言葉をたくさん話した。
それはまるで洗脳のようだったが、シスリルの心には何も響かない。
魅力的な言葉はどれもこれも、従業員の為と口にはするが、結局は自分の為だったからだ。
そして、父親から最も聞かされたくない言葉を聞かされた。
「──それに母さんの先祖はね、元々はペシャレール王国近隣の小さな町の生まれなんだ。母さんの遺骨を、ボクは祖先が眠るお墓に持っていってあげたいんだよ」
幼いころに病気で亡くなったシスリルの母。
先祖がペシャレール王国の者だったのは初耳だが、そんなこと、シスリルも亡くなった母も気になんてしていないだろう。
それはベイルにとっての、シスリルを言いくるめるためだけに用意された新しい口実でしかない。
そして母の死までも口実にした父を、シスリルは心の底から軽蔑してしまった。
「お父様……わたくしは──」
「──ベイル様!」
怒りの言葉を投げてやろう、そう思ったのだが慌てた様子のメイドが二人の会話を止めた。
「ネグルス様が──」
倒れて意識を失った。
それを聞いて頭が真っ白になったシスリルは、「ふふっ」という声を聞き後ろを振り返った。
視界に入ったのは、隠すこともなく口角を釣り上げた父の笑顔だった。
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