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ルカの過去
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ルーヴェリエ侯爵家は古くから存在する貴族であり、何代にも渡って自国の王を支えてきた由緒正しき名家だ。品行方正を絵に書いたような、王家からも領民からも信頼され堅実に、誠実に領地の発展に努めていた。
それが崩れ始めたのは、現ルーヴェリエ侯爵が伯爵家より娶った妻アイリスが、第一子であるクレイルを産んでからだった。
クレイルは生まれて一年経つ頃に体調を崩しやすくなり、ベッドの上で生活するようになる。著名な医者に診て貰ったところ、現時点では治療法も治療薬もない不治の病である事が分かりアイリスは絶望した。
色んな文献を読み漁り、古書店を巡り、必死になってクレイルを救う方法を探すアイリスが辿り着いたのは、禁忌とされた〝黒呪法〟で血の繋がった者と魂を入れ替えるという方法だった。
それに縋り付くしかなかったアイリスは、夫であるバーシアに二人目が欲しいと迫りそうして産まれたのがジェリスだ。
ただクレイルの為だけに産まれたジェリスに愛情なんてなく、アイリスは早く儀式を始めたくて仕方なかった。だが〝黒呪法〟を使える者がなかなか見付からず、情報屋やスラム街へと足を運びながら四方八方を捜してようやく見付けた時には、既に七年が経過していた。
四歳の頃、毎日毎日、母が足繁く入る部屋が気になっていたジェリスは、母が出掛けたある日こっそりとそこに忍び込んでみた。
柔らかな陽射しが差し込む部屋には大きなベッドがあり、枕元には絵本がたくさん並べられていて、その中心には一人の少年が横たわっていた。
決して健康的とは言えない身体の細さと色の悪い顔をした彼は、今は目を閉じていて眠っているようだ。
ゆっくりと近付き上掛けの外に出ている腕を見下ろしたジェリスは、力なく開かれた手の平に何となく触れてみた。ピクリと指先が反応を示したから慌てて引くと、閉じられていた目が開いて緩慢にこっちを向く。
驚くジェリスに眉を顰めるでも怒るでもなく、優しく微笑んだ彼は弱々しく手を差し出してきた。
「…会いに来てくれたの?」
掠れた声に問い掛けられ思わず頷いたら、色のなかった彼の頬に僅かに朱が差しどこか嬉しそうにはにかんだ。
そんな彼が実の兄―クレイルだと知ったのは偶然で、ルカは母のいない間に何度もクレイルに会いに行った。
彼が病気でずっとベッド上にいる事、治る見込みがない事、でも死ぬ事は怖くない事などいろいろ知れて、優しい兄にジェリスが懐き二人が仲良くなるには時間は掛からなかった。
「またね、ジェリス。明日も君の顔が見られるといいんだけど…」
クレイルの部屋を出る時、そう言ってカサついた手で頬を撫でるのが挨拶になっていて、そのたびにジェリスは胸が痛かった。
抱き締めてもくれない父や母の代わりに、初めて家族の愛情を与えてくれた兄の為に何か出来る事はないかと思っていろいろ考えてみたけど、ジェリスは教育を受けさせて貰えなかったから自分の名前すら書けない。
何も返せない自分が凄く情けなかった。
そうして年数だけが過ぎていき、七歳になったある日、自分には関心さえなかったはずの母がにこりと笑って肩を掴んできた。初めて見る母の笑顔だが、何故かゾッと背筋が寒くなりジェリスは固まる。
「ジェリス、ようやくお前が役に立つ時が来たわ。兄さんに、その元気な身体をあげて欲しいの」
「…からだを、あげる…?」
「ええそうよ。お前はその為に生まれたの。嬉しいでしょう? 大好きな兄さんと一つになれるのだから」
母が何を言っているのかは分からなかったが、連れて行かれた地下室で奇妙な紋様が描かれた右側に寝かせられた兄の悲愴な顔を見て、良くない事が起ころうとしている事に気付いた。
「母…様…僕は……こんな事…」
「ああ、クレイル。もうすぐ元気に走り回れるようになるわ。そうしたら色んなところに行きましょう。貴方が食べたがっていた物もたくさん食べられるわ」
「…こんなの…間違ってる…」
「大丈夫よ。ジェリスも喜んでるから」
当たり前のように兄の頭を撫でる母の表情は優しく、ジェリスはこんな状況なのに羨ましいと思った。きっとあの手は、自分には愛情を持っては触れてくれない。
「さぁ、ジェリス。こちらへいらっしゃい。ここに横になるのよ」
「……」
「ジェリス……」
弱々しい兄の声が名前を呼び、泣きそうな顔をしている。
母が手を上げると、真っ黒なローブを羽織りフードを深く被った人物が五人現れ、紋様の周りを囲むように立った。
「始めてちょうだい」
「分かった。離れていろ」
嗄れた声が淡々と頷き、五人が一斉に手を翳す。紋様が光り出しピリッとした痺れが走って小さく声が上がった。
身体が千切れそうな痛みと、内蔵が掻き混ぜられるような気持ち悪さに堪らず嘔吐く。背中が熱くなったと思ったら何かに濡れた感触がした。
「ちょっと、傷は付けないで」
「些細な事だ。気が散るから黙っていろ」
「…これだから竜族は」
痛い、苦しい、気持ち悪い。あらゆる不快が全身を襲い、涙が勝手に溢れて止まらなくなる。
小さな声が名前を呼んだ気がしてそっちを見ると、同じように泣いているクレイルがいて自分へと手を伸ばしていた。ジェリスも震える手を伸ばすけど、届きそうで届かない距離に唇を噛む。
「ごめんね……僕には…何も出来ない…」
「クレイル…兄さん…っ」
ベッドから降りて自分の足で立つ事も出来ない兄。外へ出る事も、遊び回る事も、食べたい物を食べる事を出来ない兄。
痛みで意識が薄れる中、ジェリスは兄が元気になるならそれでもいいと思い始めていた。優しい兄がこの身体で自由に過ごせるようになるなら、明け渡したって構わない。
(兄さんの為なら……)
そうして気を失う直前、突然激しい風が吹いて様々な物が巻き上がり、紋様が削られ誰かの悲鳴が響き渡る。
一瞬暗くなったが、新しい紋様が自分の下にだけ浮かび上がり、視界が眩いくらいの光に包まれた。
「ジェリス!!」
母の悲痛な叫びを最後にジェリスの意識は途切れ、目が覚めた時には全ての記憶を失っていたのだった。
それが崩れ始めたのは、現ルーヴェリエ侯爵が伯爵家より娶った妻アイリスが、第一子であるクレイルを産んでからだった。
クレイルは生まれて一年経つ頃に体調を崩しやすくなり、ベッドの上で生活するようになる。著名な医者に診て貰ったところ、現時点では治療法も治療薬もない不治の病である事が分かりアイリスは絶望した。
色んな文献を読み漁り、古書店を巡り、必死になってクレイルを救う方法を探すアイリスが辿り着いたのは、禁忌とされた〝黒呪法〟で血の繋がった者と魂を入れ替えるという方法だった。
それに縋り付くしかなかったアイリスは、夫であるバーシアに二人目が欲しいと迫りそうして産まれたのがジェリスだ。
ただクレイルの為だけに産まれたジェリスに愛情なんてなく、アイリスは早く儀式を始めたくて仕方なかった。だが〝黒呪法〟を使える者がなかなか見付からず、情報屋やスラム街へと足を運びながら四方八方を捜してようやく見付けた時には、既に七年が経過していた。
四歳の頃、毎日毎日、母が足繁く入る部屋が気になっていたジェリスは、母が出掛けたある日こっそりとそこに忍び込んでみた。
柔らかな陽射しが差し込む部屋には大きなベッドがあり、枕元には絵本がたくさん並べられていて、その中心には一人の少年が横たわっていた。
決して健康的とは言えない身体の細さと色の悪い顔をした彼は、今は目を閉じていて眠っているようだ。
ゆっくりと近付き上掛けの外に出ている腕を見下ろしたジェリスは、力なく開かれた手の平に何となく触れてみた。ピクリと指先が反応を示したから慌てて引くと、閉じられていた目が開いて緩慢にこっちを向く。
驚くジェリスに眉を顰めるでも怒るでもなく、優しく微笑んだ彼は弱々しく手を差し出してきた。
「…会いに来てくれたの?」
掠れた声に問い掛けられ思わず頷いたら、色のなかった彼の頬に僅かに朱が差しどこか嬉しそうにはにかんだ。
そんな彼が実の兄―クレイルだと知ったのは偶然で、ルカは母のいない間に何度もクレイルに会いに行った。
彼が病気でずっとベッド上にいる事、治る見込みがない事、でも死ぬ事は怖くない事などいろいろ知れて、優しい兄にジェリスが懐き二人が仲良くなるには時間は掛からなかった。
「またね、ジェリス。明日も君の顔が見られるといいんだけど…」
クレイルの部屋を出る時、そう言ってカサついた手で頬を撫でるのが挨拶になっていて、そのたびにジェリスは胸が痛かった。
抱き締めてもくれない父や母の代わりに、初めて家族の愛情を与えてくれた兄の為に何か出来る事はないかと思っていろいろ考えてみたけど、ジェリスは教育を受けさせて貰えなかったから自分の名前すら書けない。
何も返せない自分が凄く情けなかった。
そうして年数だけが過ぎていき、七歳になったある日、自分には関心さえなかったはずの母がにこりと笑って肩を掴んできた。初めて見る母の笑顔だが、何故かゾッと背筋が寒くなりジェリスは固まる。
「ジェリス、ようやくお前が役に立つ時が来たわ。兄さんに、その元気な身体をあげて欲しいの」
「…からだを、あげる…?」
「ええそうよ。お前はその為に生まれたの。嬉しいでしょう? 大好きな兄さんと一つになれるのだから」
母が何を言っているのかは分からなかったが、連れて行かれた地下室で奇妙な紋様が描かれた右側に寝かせられた兄の悲愴な顔を見て、良くない事が起ころうとしている事に気付いた。
「母…様…僕は……こんな事…」
「ああ、クレイル。もうすぐ元気に走り回れるようになるわ。そうしたら色んなところに行きましょう。貴方が食べたがっていた物もたくさん食べられるわ」
「…こんなの…間違ってる…」
「大丈夫よ。ジェリスも喜んでるから」
当たり前のように兄の頭を撫でる母の表情は優しく、ジェリスはこんな状況なのに羨ましいと思った。きっとあの手は、自分には愛情を持っては触れてくれない。
「さぁ、ジェリス。こちらへいらっしゃい。ここに横になるのよ」
「……」
「ジェリス……」
弱々しい兄の声が名前を呼び、泣きそうな顔をしている。
母が手を上げると、真っ黒なローブを羽織りフードを深く被った人物が五人現れ、紋様の周りを囲むように立った。
「始めてちょうだい」
「分かった。離れていろ」
嗄れた声が淡々と頷き、五人が一斉に手を翳す。紋様が光り出しピリッとした痺れが走って小さく声が上がった。
身体が千切れそうな痛みと、内蔵が掻き混ぜられるような気持ち悪さに堪らず嘔吐く。背中が熱くなったと思ったら何かに濡れた感触がした。
「ちょっと、傷は付けないで」
「些細な事だ。気が散るから黙っていろ」
「…これだから竜族は」
痛い、苦しい、気持ち悪い。あらゆる不快が全身を襲い、涙が勝手に溢れて止まらなくなる。
小さな声が名前を呼んだ気がしてそっちを見ると、同じように泣いているクレイルがいて自分へと手を伸ばしていた。ジェリスも震える手を伸ばすけど、届きそうで届かない距離に唇を噛む。
「ごめんね……僕には…何も出来ない…」
「クレイル…兄さん…っ」
ベッドから降りて自分の足で立つ事も出来ない兄。外へ出る事も、遊び回る事も、食べたい物を食べる事を出来ない兄。
痛みで意識が薄れる中、ジェリスは兄が元気になるならそれでもいいと思い始めていた。優しい兄がこの身体で自由に過ごせるようになるなら、明け渡したって構わない。
(兄さんの為なら……)
そうして気を失う直前、突然激しい風が吹いて様々な物が巻き上がり、紋様が削られ誰かの悲鳴が響き渡る。
一瞬暗くなったが、新しい紋様が自分の下にだけ浮かび上がり、視界が眩いくらいの光に包まれた。
「ジェリス!!」
母の悲痛な叫びを最後にジェリスの意識は途切れ、目が覚めた時には全ての記憶を失っていたのだった。
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