小指の先に恋願う

ミヅハ

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 組み敷かれ、足と手を拘束され血を流す七瀬を見た瞬間からの記憶はない。気付いたら七瀬が背中に抱き着いていて、目の前で進が崩れ落ちている。殴った手は赤くなりジンジンしているし、どれだけ暴れたのか息も上がっていた。

「…っ、ひっ…ぅ、…りょ、うが、さ…」

 背後で泣いている七瀬にハッとし振り向くと胸元に擦り寄って来る。しゃくり上げるほど泣く姿に胸を締め付けられ、凌河は堪らず抱き締めた。
 落ち着かせるよう背中をゆっくりと撫で髪に顔を埋める。

(七瀬の匂い……)

 避けられていた期間は短いのに、ずいぶん長い間触れていなかったように感じてしまう。
 薄明かりの下ではあったが、殴られた様子はなかった。ある程度落ち着いたら七瀬の様子を確認しなければならない。

「…ごめ、なさ…っ…ごめんなさい…」
「七瀬…」
「守って貰ってたのに…俺が勝手にヤキモチ妬いて、離れたから…っ」

 襲われた事も、連れ去られた事も、七瀬は何一つ悪くない。むしろ目を離した凌河や棗にも責任はあるし、進に至ってはブチ切れてもいい。
 それなのに、自分を責める七瀬にそんなことはないと言おうとした凌河だったが何かが引っ掛かった。

「ヤキモチ…?」
「だって凌河さん、俺にはキスしかしないのに、他の人の事は抱くじゃないですか! ズルいって…何でって……俺、悲しかった……っ。凌河さんにとって俺は抱く価値もないんだって…!」
「いや、それは違…っ」
「じゃあ何でキスしかしてくれないの? 何で舌入れてくれないの?」
「な、七瀬…」
「……っ、俺は、凌河さんのものなのに……!」

 この地域一帯で最強と謳われる有名な不良が七瀬相手にはタジタジだ。凌河はどう言えばいいのか分からず頭を掻き、結局嗚咽で揺れる肩を撫でる事しか出来ない。
 これが遥の言っていた、ちゃんと話をしなければいけない事なのか。

「……ってぇ……クソ、遠慮なく殴りやがって」
「!?」

 離れた場所で呻き声が聞こえ七瀬の身体が強張った。
 一瞬にして険しい表情をした凌河は肩越しに睨む。

「あーあ、興が醒めた。お前の顔なんて当分見たくないね。これやるから帰れよ」

 殴られた顔を押さえながらポケットから何かを取り出した進は、それを投げて寄越し虫を払う仕草をする。床に転がった物を拾えば小さな鍵で、どうやら手錠のもののようだ。
 凌河は無言で七瀬の手首と足首に着けられた手錠を外し抱き上げる。どちらにも赤く擦れたような痕が出来ていたが、ここでは治療も出来ないため今は触れないでおく。
 入り口まで行き、小さく溜め息をついた凌河は進を振り返らずに口を開いた。

「また黒猫に来なよ」

 言って、答えも聞かずに出て行く。
 進は舌打ちをし、しかし走った痛みに顔を顰めて口端を拭い項垂れた。

「……馬鹿じゃねーの」





 バイクを走らせ七瀬を連れて来た場所は凌河の部屋だ。
 高層マンションの最上階、ワンフロアしかないこの階はエレベーターから出るとすぐに玄関になっており、凌河はそこに住んでいた。
 エレベーターもカード式、玄関の鍵もカード式で、中に入ればそこはもう別世界だ。広い玄関、広いリビングに大きなソファ、キッチンも広くてまるでモデルルームのようにオシャレな部屋に、七瀬は唖然としていた。
 凌河はソファに座らせた七瀬にまず温かいココアを入れてやり、給湯器を操作してお湯張りをしてから救急箱を手に戻る。

「見せて」

 冷ましながら飲んでいたココアをテーブルに置いた七瀬は凌河のコートを脱ぎ、ジャケットもシャツも、全てのボタンがなくなった前合わせを躊躇いがちに開いた。
 切り傷が二つと、胸元に血の滲んだ歯型が痛々しい。

「痛い?」
「今は痛くないです」
「消毒するから、ちょっと我慢してね」
「はい」

 救急箱から出したコットンに消毒液を染み込ませそっと傷口に当てた。僅かな痛みに顔を顰めた七瀬は、邪魔にならないようにと開いたままの制服を強く握って耐えている。

「ここは……ちょっと辞めとこうか。お風呂に入って洗った方が痛みは少ないと思う」

 胸元の傷は消毒液だと沁みて痛いだろう。リラックスした状態で自分の加減で綺麗にした方がまだマシだ。

「もう溜まるから、入っておいで」
「え、でも……」
「いいから。二人とも入って落ち着いたら、ちゃんと話をしようか」
「………はい」

 こくりと頷く七瀬の頭を撫で手を引いて立ち上がらせる。脱衣所まで案内し、大きいけれどと着替えを渡して中に押し込めた。
 扉の外でちゃんと浴室内へと入った音を聞けばソファに戻り身体を沈める。
 進は思った以上に七瀬に対して慎重だったのか、彼が与える苦痛にしては比較的軽傷だった。ナイフで傷を付けたのも、あんなところに血が滲むほどの強さで噛み付いた事も許せないが、それだけは安心した。

「……まさか七瀬が、あんな事思ってたとは…」

 そういう事とは無縁で育ってきた七瀬がそういう気持ちを持っていた事にも驚きだったし、何より『俺のもの』の意味を正しく理解していたとは思わなかった。
 七瀬が望むならキス以上の事もしたいと思っていたけれど、心のどこかで〝あの時〟の出来事が警鐘を鳴らす。
 凌河と〝あの人〟は違うのに、血が繋がっているという理由だけで不安に苛まれる。自分も同じ事をしてしまうのではないかと。
 七瀬を〝あの子〟と同じ目に遭わせる訳にはいかないのだ。

「…あの…」
「!」

 考え事をしていたせいで七瀬が出て来た事に気付かなかった。
 凌河は身体を起こし、ブカブカな自分の服を着ている七瀬を見上げる。

「お風呂、ありがとうございました」
「ん、傷大丈夫だった?」
「ちょっと痛かったですけど、大丈夫です」
「そっか……じゃあ俺も入って来るね」
「はい、行ってらっしゃい」

 立ち上がり、七瀬の濡れた髪を撫でて横を抜ける時にかけられた声の柔らかさに思わず立ち止まる。
 不思議そうに見上げる七瀬の額に口付け微笑むと、その目が一瞬見開かれ潤み始めた。

「すぐ戻るよ」

 浮いた涙を親指で拭い脱衣所へ向かう。服を脱ぎ、浴室へ入り、適当に洗って出ると黒のスウェットを身に付け髪を拭きながらリビングへと戻った。
 ソファの背凭れから小さな頭が覗いている。
 我ながらカラスの行水すぎるとは思ったが、不安なままの七瀬を少しの時間でも一人にしたくなかった。
 タオルを肩にかけ手櫛で髪を整えてからソファに座ると、七瀬が距離を縮めて来る。あの頃はどれだけ言っても縮まらなかった隙間が、今は簡単になくなる事が凌河には不思議だった。
 どことなく落ち着きのない七瀬の肩を抱き寄せると少しの間を置いて腰元の服を掴まれる。

「何から話そうか…」
「……俺からでもいいですか?」
「いいよ」
「膝に座っても……?」
「おいで」

 おずおずと聞く姿が可愛くて笑いながら手を広げる。
 七瀬は一度ソファから立ち上がり凌河の足の間に収まると膝を抱え、そのまま寄りかかって来た。

「あの……俺たちの関係って、何ですか?」
「恋人」
「じゃあ凌河さんがしてる事って、浮気ですよね?」
「え。そ、うかな……あー、うん、世間的には、そうなる…ね」
「どうして?」
「へ?」
「どうして、俺以外の人を抱くんですか?」

 俯いていた顔が真っ直ぐに凌河を見つめ問いかける。その目に責めているような感情はなく、ただ純粋にそう思っているようだ。
 凌河はどう言えばいいか分からず、暫く沈黙が落ちる。
 だが話し合うと決めた以上口を噤んでいる訳にはいかない。遥にも、言葉にしないと伝わらないと言われたのだから。

「……俺のドロドロとした醜い欲望を、七瀬に向けたくなかった」
「…え?」
「俺の中身って七瀬が思っている以上に汚いし、残酷だよ。進にした以上に酷い事いっぱいしてきた、たくさんの人を傷付けてきた」

 膝を抱えた事でコンパクトになった七瀬の身体に腕を回す。

「性欲なんて溜まれば発散すればいい。その程度のもんだったんだよ、俺には。……でも七瀬に対してだけは違った。傍にいれば触れたくなる、抱き締めて、組み敷きたくなる。七瀬の身体の隅々にキスして、奥の奥まで俺でいっぱいにしたくなる」
「…………」

 七瀬の顔が赤くなりふるふると震え始める。恥ずかしがり屋な七瀬には少し刺激の強い言葉だったかもしれない。
    その姿に僅かに口端が上がるが、すぐに目を伏せて小さく零した。

「俺は、それが怖い」
「……?」
「俺のこの欲望が七瀬を傷付けて苦しめるかもしれないって、そう考えると怖くて堪らなくて、七瀬に抱いた感情を他の奴で発散してた」

 よくよく考えれば七瀬に対しても相手に対しても失礼である。
 凌河は苦笑し天井を見上げた。

「俺には兄がいたんだ。優しくて、俺たち弟の面倒をよく見てくれる兄が。俺が九歳の時に母さんが死んで二年経ったくらいに父は再婚したんだけど、その人には連れ子がいてね。俺の一つ下で、可愛い子だったよ。でもそれが始まりだった」

 七瀬と付き合うようになってからより強く思い出すようになったあの日の事。好きになればなるほど怖かった。
 いずれ自分も、兄のようになってしまうのではないかと。
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