小指の先に恋願う

ミヅハ

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絶望の先に*

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 ヒンヤリとした空気が頬を撫で七瀬は目を覚ました。
 薄ぼんやりと見える景色は暗くて良く分からないが、自分が寝ている場所がコンクリートの上だと知り驚く。慌てて起き上がると見た事もない場所にいた。
 唯一の明かりであるロウソクが二本揺らめく。。どこかの部屋だろうか、壁はボロボロで所々ヒビが入り亀裂が走っていた。窓ガラスも半分以上割れて風避けにさえならない。
 ここはどこなのか、茉白は大丈夫なのか、混乱する頭の中に一つだけ確かな事があった。
 進が、七瀬をここに連れて来たのだという事。意識を失う直前まで拘束されていたのだ、これだけは間違いないだろう。

「……っ…逃げないと…」

 瞬間不安と恐怖が押し寄せ立ち上がろうと足を寄せた時、ジャラリと何か重たい物が引き摺られる音がした。そちらを向くと、七瀬の右足首には手錠が嵌められ、その先から太めの鎖が伸び間取りの境界線となる柱へ括り付けられていた。ご丁寧に南京錠までかけられている。

「嘘……」

 周りは静かで、風が木の葉を揺らす音がかろうじて聞こえるくらいだ。車さえも通っていないんじゃないだろうか。
 こんな場所で、自分は何をされてしまうのだろう。
 ふと見上げると鎖が届く範囲に窓がある。だがギリギリ外が見える距離までしか行けず、七瀬は懸命に何かないかと探した。しかし窓の外には街灯で照らされた駐車場と車道があるくらいで、明かりの灯された家は遠い場所にある。
 背後から硬い靴底がコンクリート上を歩く音がした。

「あ、起きた? おはよう」

 ビクリと身体が跳ね上がり振り向いて絶望する。
 何かの布と紙袋を手に現れた進は、七瀬が窓の外を見ていた事には触れず先ほどまで七瀬が寝ていた場所に布を敷いてポンポンと叩いた。

「さすがにコンクリの上は可哀想だからね。オレ以外にそういう気遣い出来るんだよ」

 鼻歌でも歌い出しそうな様子で紙袋に手を入れる。数秒ガサゴソと漁ってから取り出した物は、足に着いているものと同じ手錠だった。
 鍵を開け穴を広げながら近付いてくる。

「…ゃ…こ、来ないで…」
「大丈夫。七瀬ちゃん初めてだし、最初だけは優しくしてあげるから」
「…っ…!」

 言葉とは裏腹に乱暴な手付きで腕を掴まれ手錠が嵌められる。男の人にしてはしなやかな手が頬を撫で、後頭部へと移動すると力強く髪を掴まれ敷布へと倒された。
 突然の事に受け身を取れなかった七瀬は背中を思い切り打ち付け息を詰める。痛みで涙が滲んだ。

「いつもは残り物だったから既に準備万端な奴ばっかだったけど、どうしようかな…いきなり突っ込んでも入んねぇだろうし」
「………っ…」

 痛くて、怖くて、不安で、どうしようもなく身体が震える。
 ポケットを漁った進が何かを取り出しパチンと開く。それが折り畳み式のバタフライナイフだと分かった七瀬はゾッとした。
 まさか殺されてしまうのだろうか、それとも死なない程度に切り刻まれるのか。どちらにしろ、七瀬にとって危険しかないという事は分かる。

「まずは邪魔な服から~」

 裾からナイフが入り肌に触れる。その冷たさと、下手をすれば切られてしまうかもしれない恐怖で身体を硬直させ七瀬は唇を噛んだ。
 不可抗力とはいえもっと警戒するべきだった。凌河も棗も守ってくれていたのに、自分の嫉妬心でそれを無駄にした。
 これは罰だ。あんなにも自分を大切に、宝物のように扱ってくれた凌河とちゃんと話もせず一方的に避けてバチが当たったんだ。
 切れ味の良いナイフが制服のボタンを弾いていく。幸いにも肌を切られる事はなかったが、胸元から腹までが進の眼下に晒されてしまった。

「へぇ…七瀬ちゃん綺麗な身体してるねぇ……」
「いっ…」

 胸元にナイフの先が走り一本の線が出来た。さして深くはないが、血が滲むくらいには切れている。

「肌が白いから、赤い血がよく映えるよ」
「……や、だ………やめてくださ…」
「ほーんと、大事にされてたんだねぇ…」
「……え?」

 流血するほどの傷ではない事にホッとしながらも、今だに自分の身体に触れるナイフに竦んでいれば妙にしみじみとした様子で呟かれ眉を顰める。再び皮膚の上をナイフが滑った。

「…っ…」
「あの凌河が、少しも手を出さないでただ傍に置いてるとか何の冗談かと思ったけど…マジで本気だったんだ」
「……ひっ」

 新しく出来た傷を進の舌が這いピリッとした痛みに小さく悲鳴が上がる。

「三年前からお前の事探してんだし、まぁそりゃそうか」
(三年、前……?)

 三年前と言えば、病状の悪化した母の介護でてんやわんやしていた時期だ。状況も忘れて頭の中を掘り返していると、七瀬の脳裏に雨の日の出来事が浮かんだ。
 細い路地に蹲ったずぶ濡れの男の人。傷だらけで、痛々しくて、もうこのまま死んでもいいと思っているような表情を見たくなくて手当てした。
 あれが凌河だったなら、どこかで見た事があるのも理解出来る。だって彼は、七瀬が初めて惹かれた人だったから。手当てを終えた後に見せてくれた一瞬の笑顔が綺麗で、忘れられなかったから。

「でも、その綺麗な思い出も終わり。俺がぐちゃぐちゃにしてやるよ」
「っ、や……!」
「七瀬ちゃん、凌河とキスした?」

 唐突に現実に引き戻された。
 顎が掴まれ至近距離で問いかけられる。僅かな瞳の揺れで察した進はニヤリと笑うと唇を重ねて来た。

「…っ…んん、んー…!」

 乱暴な舌が七瀬の唇をこじ開けようとしてくるが必死に抵抗し胸元を押し返す。絶対に開けない、開けてやるもんか。
 暫く格闘していたが諦めたのか、身体を起こした進はナイフを七瀬の首に当て平たい部分で叩く。

「この細い首、力入れたらスパッといっちゃいそう」
「…や、やめ……」
「七瀬ちゃんのここも、まだアイツは知らない」
「や、だ…っ」

 胸元の尖りをナイフの先でつつかれ恐怖で息が上がる。小刻みに上下するせいで刺さってしまいそうだ。
 このままでは本当に身体中切られてしまうかもしれない。死んだらもう凌河に会えなくなる。
 恐怖が限界を超えた七瀬は死に物狂いで暴れ出した。

「い、やだ…っ、やだ…! 触るな!」
「……っと。……あは、ホントいいね、七瀬ちゃん」
「や、やだってば! 離せ! ……っひぅ!」

 あっさりと押さえられた手は頭の上に上げられ、ほんの少し切れてしまった尖りに血が滲みそこを強く噛まれる。
 噛み千切られてしまいそうなほどの痛みに、しかし七瀬は負けなかった。

「っ、も、やめてって……!」
「いてっ。悪い足だなぁ。両方繋いどけば良かったかな。っつーか、こんなとこ、アイツが分かる訳ないでしょ。来ねーよ」

 足を揃えられその上に乗られると動けなくなる。切り傷に爪を立てられ痛みに戦慄いた。

「いぁ…っ、……りょぅが、さ……、凌河さん…っ…凌河さん……!」

 来てくれる保証はない。避けてた事で、凌河の機嫌を損ねて嫌われたかもしれないし、今も誰かと一緒にいるのかもしれない。
 けれど、心のどこかで信じたい気持ちがあった。来てくれる。助けに来てくれるって。
 だって七瀬は、凌河のものなのだから。

「凌河さん…っ」
「なーに?」
「!?」

 優しい声が返ってきた。
 驚いて身体を起こした進はしかし瞬きの間に七瀬の視界から消え壁に激突する。
 靴音を立てて近付いて来た金糸は待ち望んでいたもので、膝をついた彼はコートを脱いで七瀬にかけてくれた。

「ちょっとだけ待ってて」

 大きな手に髪を撫でられ七瀬の目からボロボロと涙が零れる。コートに顔を埋めると大好きなムスクの香りがした。

「進、俺はお前の事嫌いじゃなかったんだけど…たった今、ぶっ殺したいほど嫌いな相手に変わったよ」
「…っゲホ……奇遇だな、オレは元々お前が大っ嫌いだよ」
「七瀬に手を出して、生きて帰れると思うなよ」
「は、やれるもんならやってみろ」

 ロウソクが照らす薄明かりの中、鈍い音が聞こえる。
 このままではいけないと七瀬は痛む身体を叱責しながら起き上がり、二人を見た。
 すでに進は一撃食らっていたけれど、それがなくとも凌河は強かった。さすが最強だと謳われるだけある。
 だが、これ以上は駄目だ。凌河の一方的な暴力で進の意識が半分飛んでいる。これ以上やったら死んでしまう。
 七瀬はよろけながらも立ち上がり足を出す。鎖はギリギリ届くはずだ。進を蹴り飛ばす姿が見え、最後の一歩を大きく踏み出し凌河の背中に縋り付いた。

「も、辞めて下さ…っ、これ以上は、死んじゃう、から…っ」
 自分のせいで、これ以上凌河を傷付けたくなかった。
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