小指の先に恋願う

ミヅハ

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約束

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 あの屋上でのお友達から発言以降、凌河は暇さえあれば七瀬を構うようになった。
 出席日数が必要ではあるが気紛れに登校し、以降は屋上で棗と共に時間を潰しているらしい。ついでに昼食も一緒に食べようと誘われ、迎えを寄越したり来たりするものだから七瀬は否とは言えなかった。
 だがそれも一週間もすれば慣れてしまったもので、今では昼休みに凌河といるのが当たり前のようになっている。
 ちなみに告白紛いの事をされた次の日の放課後には、仲間だという日倉 棗ひくら なつめと幼馴染みの時任 遥ときとう はるかを紹介された。棗は転校初日に七瀬を屋上へと連れ去った赤髪の青年で、何とも明るく「あの時はすんませーん」と謝られ苦笑しか出なかった。
 対して遥は第一印象こそ怖い印象を受けるものの、話してみれば非常に真っ直ぐで好感の持てる青年だった。不良仲間ではなく幼馴染みとして紹介されたのも頷ける。
 心配していたクラスメイトとの関係はやはりギクシャクした。しかし凌河と仲良くする七瀬に最初こそ戸惑っていたものの、結局は七瀬の人柄の良さも相俟って気にしない事に落ち着いたらしい。
 さすがに凌河や棗が迎えに来る時はザワつくが、それ以外は穏やかなものだ。

「ほら、七瀬。あーんは?」
「だから自分で食べられますって」
「いいから、あーん」
「……もう!」

 昼休みの屋上。この数週間ですっかり定位置になってしまった凌河の隣に座った七瀬は、先程から繰り返される給餌攻撃に困惑していた。
 確かに「美味しそうですね」とは言った。「食べる?」と聞かれて、「じゃあ一口だけ」とも言った。だが、まさか手ずから食べさせられるとは思っていなかった。
 凌河が食べていたパンは、この学校にある購買部では大変人気の惣菜パンだ。
 先着十名限定の、何とも競争率の高いパンを七瀬は一度は食べてみたいと思っていたから頷いたのに。
 このまま抵抗を続けても、凌河が絶対に引かない事を嫌というほど知っている七瀬は仕方なく口を開けた。瞬間押し込まれるパンを噛みちぎって咀嚼した七瀬は、その美味しさにパッと表情を明るくする。

「…ホントに美味しいですね、コレ。みんなが欲しがるの分かるなぁ」
「明日も食べたい?」
「でもこれ、先着十人限定ですよ?」
「棗が一番乗りしてくれるから」
「天ちゃんが食べたいなら買って来ますよ」

 にこやかに快諾する棗は、二人より少し離れた場所の入り口近くに胡座を掻いて座っている。誰が来ても対応出来るように、との事だが、そんなドラマみたいな事が本当にあるのかと七瀬も最初は疑った。
 しかし実際にあった、襲撃が。
 ただ扉を開けて『久堂凌河』の“久堂”の部分で棗に吹っ飛ばされて扉の内側へ消えたため、七瀬にはその姿は確認出来なかった。それ以来、七瀬は何が起こっても気にしない事にしたのだ。
 そして棗は何故か七瀬を『天ちゃん』と呼ぶ。最初は七瀬さんだったのが天宮さんになり、それはよそよそし過ぎるからやめてと言ったらそうなった。どうやら凌河に、気安く名前を呼ぶなと言われたらしい。
 友達なら名前くらいいいじゃないかと思う七瀬だが、言えばそれはもう綺麗な笑顔で言いくるめられそうなので辞めておいた。

「あ、もう予鈴鳴るんで行きますね。ご馳走様でした」
「えー、もう行っちゃうの?」
「凌河さんも、授業出た方がいいですよ。単位落としたら遥さんに怒られるんでしょう?」
「単位よりも出席日数がヤバめ」
「早起き頑張って下さい」
「七瀬がモーニングコールしたら起きれるかも」
「初日に起きれなかったくせに」

 そう、実際七瀬は一度モーニングコールを了承し掛けた事があった。念の為、少し早めの時間に。しかし、何度鳴らしても、自動音声に変わるまでコールしても起きなかったのだ。ギリギリまでリダイヤルし続けた七瀬だったが、自分も遅刻してしまう危険があったためその日は諦めた。かと言って二回目以降も起きる事はなかったが。
 凌河は肩を竦め弁当を片付ける七瀬の腕を引くとその胸に抱き込んだ。これもいつの間にか当たり前になった。
 鼻に慣れてしまったムスクの香りは体に染み渡り、まるで七瀬の一部になったようで少しだけ落ち着かない。
 それもすぐに離れてしまうが。

「ん、補給完了。五限からも頑張って」
「…はい。凌河さんも、なるべくサボらないで下さいね」
「分かってるよ。じゃあまたね、七瀬」
「はい、また。棗さんも」
「ん、またねー」

 二人に手を振り屋上からの階段を降りる。
 七瀬が『凌河さん』と呼び始めたのはいつからだったろうか。
 確か、凌河本人から先輩呼びはやだって言われた気がする。
 気が付けば馴染んでしまった呼び方に、少しだけ喜んでいる自分がいて七瀬は戸惑った。
 ここ最近、凌河の傍にいると落ち着かなくなる。横顔を見るとドキドキして、笑いかけられると嬉しくなる。
 見た目が派手で名実共に不良なのに、凌河は存外優しくて七瀬に対しては決して暴力的な部分は見せない。最初にあった恐怖も今ではすっかりなくなって、七瀬の中で一番大きな存在になっていた。それこそ不意に思い出してしまうくらいには。
 だけど、この気持ちの正体は探っちゃ駄目だ。
 もし深く知ってしまったら戻れなくなる。友達という線引きをした意味がなくなってしまう。
 一度足を止めた七瀬は屋上へと視線を向け、口だけで凌河の名を呼ぶとそれを振り払うかのように走り出した。



「おはよう、七瀬」
「…凌河、さん?」

 いつもと変わらない朝、いつもと同じ時間に登校した七瀬は、門のところにいつも通りではない光景を見付けて驚いた。
 遠目にも目立つ人物に怯えて足早に門を潜る生徒に混じり駆け足で走り寄ると、朝から眩しい笑顔を向けてくれる凌河がそこに立っていたのだ。

「どうしたんですか?」
「んー、そろそろ本格的に出席取らないとなって」
「でも結構ギリギリですよね?」
「足りない分、単位で賄ってくれないかなぁ」
「無理だと思います」
「だよねぇ……でもさ、もう一年留年したら、七瀬と一緒に卒業出来るよね」 
「え?」
「それもいいかもなぁ」

 七瀬はドキッとした。もしそうなれば、もう一年凌河とこの学校で過ごす事が出来る。運が良ければ同じクラスになれるかもしれない。もっと仲良くなれるかも。
 だがそれは、凌河の経歴に傷が付くという事だ。
 二年も留年して、この一帯で悪い意味で有名な凌河を採用してくれる会社があるのだろうか。二年目の留年理由が“出席日数が足りないから”では、仕事もサボる人だと思われないだろうか。
 一瞬でもそうなればいいなと思った七瀬は、気付かれないよう拳を握って苦笑した。

「駄目ですよ。凌河さん、やれば出来るんだから頑張って下さい」
「…だよねぇ…残念」

 あからさまにガックリと肩を落とす凌河に少しだけ気分が浮上した七瀬は、チラチラと寄せられる視線が少し嫌で凌河の腕を引いて門を潜り、道から少し外れた所へ移動して振り向いた。

「こんなので頑張って貰えるか分かりませんけど、凌河さんが無事卒業したら、ご褒美あげます」
「ご褒美?」
「はい。何でもいいですよ。…あ、でも、高いのはナシです」

 叶うなら卒業しても関わりを持てたらいいなと思い提案したものの、ご褒美は何か上から目線過ぎないか、と思った。
 言ってしまった後だからどうしようもないが、どんな返事が来るのかと内心緊張してしまう。
 凌河は小さく「ご褒美…」と呟いた後、長い足を一歩出して七瀬に近付き少しだけ身を屈めて耳元へ唇を寄せた。

「じゃあ卒業出来たら、俺のものになってくれる?」
「え?」

 低い声が耳朶を震わせ驚いた七瀬は振り向こうとして止まる。そうだ、顔を近付けてはいけないのだった。
 そんな七瀬の姿に吐息が笑い、離れて行く。
 凌河は自身の小指に嵌っていたライオンハートの指輪を外し、七瀬の左手を引き寄せ開いた場所に乗せた。
 目を瞬く七瀬に、凌河は少し目を伏せて微笑む。

「もしなってくれるなら、卒業式の日にこの指輪を着けて屋上で待ってて。どの指でもいいよ」
「えっと…」
「約束」

 まさか、あの日の言葉を再び聞く事になるとは思わなかった。
 確かに友達からとは言ったが、あの時も本当に本気で言っていたのだろうか。伏せられた目が瞬き一つして開かれ、灰色が真っ直ぐ七瀬を見る。
 頷いてしまったらどうなるのだろう。
 凌河のものになる。それが一体どんな意味を含むのか、分からない七瀬ではない。だけど本当に?

「七瀬」

 優しい声が名前を呼ぶ。
 頷いては駄目だって頭の中は叫んでいるのに、心がどうしようもなく騒めく。いつからとか、きっかけはとか、そんなのは分からない。だけどもう、認めざるを得ない。

 この人が好きだ。

 この地域で皆に恐れられてる不良で、喧嘩が強くて、たまに襲撃に遭うような危険な人。
 だけど七瀬には殊更に優しくて、少しだけ強引で、ふとした行動や仕草で七瀬をドキドキさせる人。
 七瀬は自分の体温でじんわりと温かくなった指輪をぎゅっと握るとしっかりと凌河を見つめて頷いた。

「はい。約束です」

 たとえ凌河の言葉の真意が自分が抱くものと同じでなくても、七瀬はきっと指輪を着けて屋上に行くだろう。
 傍にいられるなら構わないとさえ思ってしまう。
 しっかりと頷いた七瀬に目を瞬いた凌河は、一瞬だけ泣きそうな顔をし柔らかく微笑んだ。
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