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小指の先に恋願う【完】
初めての挑戦【バレンタインSS】
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※七瀬17歳、凌河19歳。在学中のお話です。
自宅のテーブルの上に広げられた雑誌を前に七瀬は悩んでいた。この時期になると一番目にする大きなイベント、バレンタインの特集記事を一文字一文字辿り溜め息を零す。
身も心も凌河と一つになり、本当の意味で恋人になってから初めてのバレンタインだ。出来る事なら手作りのチョコを渡したいが、如何せん七瀬はお菓子作りをした事がない。
必要に駆られて料理だけは一通りマスターしたが、スナック菓子などは無駄遣いだから買った事もないし、甘い物に至っては材料費すら勿体なくて作ろうと思った事もなかったから、チョコを溶かして固める工程すら失敗しそうで不安を抱いている。
ならばいっそ既製品でもと思うが、やっぱり好きな人には手作りをあげたくてレシピを調べていたけど、〝簡単! 〟と書いてあるものでさえ全くの初心者である七瀬には難しそうだ。
「どうしよう……」
とりあえず必要な器具は買い揃えるつもりだが、失敗した時の事を考えてチョコは多めに用意するべきだろう。これはれっきとした必要経費だ。その上で夕飯が貧相になろうとも七瀬は構わなかった。
「……うん、とりあえずやってみよう。いっぱい作れば次にも繋がるし」
いろんなレシピを見て、これなら分量さえ間違えなければ多少の失敗はカバー出来そうだと、〝初心者でも出来る簡単生チョコレシピ〟と記載されたページに付箋を貼り、さっそく買い物メモを取ればボディバッグを下げて家から飛び出した。
お菓子作りに必要な器具はスマホで調べたりしてどうにか購入出来たものの、今度は包装素材で迷っていた。一応それ用の物はあるが、種類があり過ぎてどれにしたらいいか分からない。
さすがに自信がないため小さめの箱にはするつもりだが、同じ大きさのデザインや色違いがこんなにあるとは思わなかった。
「凌河さんなら青か金なんだけど……赤とか紫もいいなぁ。でもハートだらけなのはさすがに恥ずかしいし……やっぱり女の子イベントだから、可愛い物が多いんだよね」
何と言っても告白には持って来いの一大イベントである。男の自分がここにいて浮いていないか、今更ながらに心配になってきた。
ちなみに、悩ましげにバレンタインコーナーに立つ七瀬に何かを察した女性陣が興奮で頬を染めていた事など、本人はまったくと言っていいほど気付いていない。
「あれ、七ちゃん?」
「? 茉白さん」
青か紫か、どっちにしようか両手に持ち見比べていると後ろから声をかけられた。振り向くと、友人である茉白が立っていて目を瞬く。
にこっと笑った茉白が傍まで来ると、ぴょんっと腕に飛び付いてきた。
「もしかして凌河くんに?」
「う、うん」
「デレッデレになってる凌河くんが容易に思い浮かぶよ」
「でも俺、作るの初めてで、すごく不安なんだ」
「七ちゃんが作った物なら何でも喜んでくれると思うけど?」
「それでも上手に出来た物をあげたいなって…」
本番まであまり時間はないけど自分に出来る精一杯はするつもりだ。その中で少しでも上手く出来上がったものがあれば次の自信になるから。
「七ちゃんは健気だねぇ」
そんな純粋なものではない。七瀬はただ、凌河にとっての一番であり続けたいだけだ。自分にとって凌河が一番であるように。
「七瀬、何だか甘い匂いがするね」
今の時期、屋上は寒くて健康上宜しくないとの事で冬の間は空き教室でお昼を食べているのだが、凌河の膝の間に座った七瀬はおもむろに首筋の匂いを嗅がれてビクリとした。
「甘い匂い、ですか?」
「うん。何だろ……チョコ、かな?」
「え?」
確かにここ毎日夜にはチョコを刻んで湯煎して……と部屋中に匂いが満ちるほど触れているが、まさか染み付いているとは思わなかった。ただ麻痺してしまったのか、自分ではまったく感じ取れないんだけど。
もしかして、気付かれてしまっただろうか。
「七瀬は香水とかつけてないから、匂いが移りやすいんだろうね」
「じゃあもしかしたら、俺から凌河さんの匂いがしたりするんですか?」
「俺の匂いがしたら嬉しい?」
「すごく嬉しいです。凌河さんの匂い、好きだから」
正直、香水の匂いはあまり好きではないけど、凌河の香りだけは特別だ。自分が凌河の香りを纏っているなんて想像しただけでも嬉しくて、はにかんで頷けばぎゅっと抱き締められて目を瞬いた。
「七瀬はどうしてそんなに可愛いの?」
「か、可愛くないです」
「可愛いよ、すっごく可愛い」
こめかみや頬に口付けられ、何度も可愛いと言われて顔が火照る。恋人になってから凌河の雰囲気や言葉が今まで以上に甘くて、不慣れな七瀬はずっとドキドキしている。
この空気を変えようと保冷バッグを両手で顔の前に出して見せればそっと手から取られた。中には二つの弁当箱が入っていて、大きい方が凌河のだ。
前までは凌河や棗が買って来てくれる購買のパンやおにぎりを食べていたのだが、少し前、凌河から「七瀬の作ったお弁当が食べたいな」とおねだりされ、今はお弁当を作って持参するようになっていた。
ちなみに棗の分も作って来ようと思ったのだが、物凄くいい笑顔で「まだ死にたくないんでいいっす」と断られたため二人分だ。恐らくは凌河を慮ってなのだろうが、一瞬毒を入れると思われているのかと思ってしまった。
そんな棗は空き教室内にはおらず、廊下に机を出しそれに座って食べているらしいが、普通に中で食べてもいいのにと思ってしまう。言ったところで聞いてはくれないだろうが。
「いつもありがとう」
「凌河さんが材料費出してるんだから、お礼を言うのは俺の方ですよ?」
「でも早起きしてバランスも彩りも考えて作ってくれてるのは七瀬でしょ? 七瀬の方が大変なんだから、やっぱりありがとうだよ」
「じゃあお互い様という事で」
「はは、七瀬のそういうとこ、好きだよ」
そういうところとはどういうところだろう。
目を瞬いて首を傾げていると、凌河は七瀬の髪を撫で「食べようか」と促し小さい方の弁当箱を七瀬の膝へと乗せた。
バレンタイン当日。必死になって作った物は、多少歪な部分はあれどこれまでで一番良く出来たと思う。ネットでお洒落なラッピングを検索して四苦八苦しながら包装したし、メッセージカードも付けた。
あとは昼休みまで待つだけだったのだが、七瀬は凌河がいかにモテるかを思い知らされる事になる。
「久堂先輩! これ貰って下さい!」
「いらない」
「久堂さん! 僕の気持ちです!」
「いらない」
「凌河せんぱーい、いつもお世話になってまーす」
「世話した覚えないなー」
驚くべき事に、凌河を見かけるたびに誰かに声をかけられ、可愛らしくラッピングされた恐らくはチョコだろう物が渡されていて、そしてそのたびに凌河は冷たくあしらっている。
ただ一つとして受け取っていないのは安心するが、もしかして甘い物は苦手なのかもしれないと今度は別の不安が過ぎった。
(もしそうだとしたら、俺のもいらないよね……)
苦手ならまだいいが、万が一嫌いだったらあげない方がいいまである。チョコじゃなくクッキーにすれば良かったと今更ながらに後悔するが、無情にも時間は過ぎてとうとう昼休みになってしまった。
足取り重く空き教室に向かうも、保冷バッグと重ねて持っている紙袋に視線を落として溜め息をつく。茉白から、絶対受け取ってくれるから持って行きなさいと言われてここまで来たけど、困った顔をされたらショックかもしれない。
そう思いつつも、いつもよりもゆっくりめの歩調で歩いていると不意に腕を掴まれて驚いた。
「!?」
「天宮クン見っけ」
「へぇ、これが凌河のオンナ?」
「男だろ?」
「比喩だよ、比喩」
反射的に振り向くと二人の男子生徒がいて七瀬は目を瞬いた。初めて見る顔なのにどうして名前も凌河との関係も知っているのか。
困惑していると掴まれたままの腕に力がこもり、痛みで顔を顰めると今度はもう一人に顎を捕らえられた。
「すっげぇ美人だけど、ひょろっちいな」
「どうやって凌河に取り入ったんだよ、天宮クン」
「……?」
「俺らね、凌河にはちょっとした恨みあんだよね」
「昨日まで謹慎くらってたからさー」
つまりこの人たちは凌河に何かしらをして返り討ちに合い、先生たちから自宅謹慎の沙汰が下されたという事だろうか。凌河が無傷という事は恐らくこの人たちが悪いのだろうし、逆恨みもいいところだ。
「ちょっとだけ付き合ってくんない?」
「お断りします」
「そんな事言わずにさ」
「なんなら、俺らと遊ぶ? 凌河より気持ち良く出来るかもよ?」
「な……!?」
ずいぶんとタチが悪い絡み方をしてくる人たちだ。腕と顔を振って離そうとするけど、喧嘩慣れしているような人には力では敵わず更に強く握られ骨が軋んだ気がした。
おまけに腰にまで手を回して来て七瀬はゾッとする。大きな声を上げようと息を吸った時、腕を掴んでいた男がビクリと身体を強張らせた。
「何してんの?」
地を這うような声、というのはまさにこの事だろう。七瀬でさえゾクリとするような低い問い掛けに二人組は固まったまま動かない。背中に温もりを感じてムスクの香水がふわりと香り知らずに入っていた肩から力が抜けた。
後ろから伸びた腕が、七瀬の顎と腕を拘束していた二人の手首を掴んで引き剥がし、傍目にも分かるほど強く握り込む。
「汚い手で気安く触らないでくれる? 綺麗な七瀬が汚れるだろ」
「な!」
「ざけんな! てめぇ!」
まさか今喧嘩が始まってしまうのかとオロオロする七瀬を後目に二人組は凌河を睨み付け、自分たちの手首を掴む手をどうにか剥がそうとする。だが圧倒的な体格差と力の差で指一本さえも外す事が出来ず次第に青褪め始めた。既に気持ちが負けてきている。
間に挟まれてどうする事も出来ず困惑していると、こちらへ走ってくる足音が聞こえ場にそぐわない明るい声が廊下に響いた。
「凌河さーん、遅くなりましたー!」
「棗」
「あれ? 何すかコイツら」
「七瀬に乱暴を働いた不届き者。どうにかしといて」
「了解です!」
「は? ちょ、おい!」
「離せよ!」
あっさりと手を離した凌河に代わり二人組の二の腕を掴んだ棗は、抵抗なんて何のそのでどこか楽しそうにしながら廊下の奥に消えて行った。それをつまらなさそうに見ていた凌河は七瀬の頭にポンと手を置くと、先程までの怒りなど微塵も感じさせない笑顔で「行こうか」と促す。
灰色の瞳が柔らかく細められるのは七瀬に対してだけだ、と茉白に言われた事を思い出し少しだけ照れ臭くなった。
「七瀬、腕見せて」
空き教室に入るなり保冷バッグと紙袋を取り上げられ、掴まれていた腕を指差される。頷いてジャケットを脱ぎ、ボタンを外して袖を捲ると手の形に赤くなっていた。
「アイツら……」
「み、見た目ほど痛くないから」
「でも七瀬の綺麗な肌に傷付けた」
「赤くなっただけだから、すぐに治ります」
「棗に懲らしめといてって言えば良かったかな」
ボソリと不穏な言葉が聞こえ七瀬は慌てる。懲らしめると言っても、凌河も棗も容赦がないから下手をしたら騒ぎになりかねない。今棗があの二人に何をしているのかは知らないが、これ以上は流石にマズイだろう。
急いで袖を伸ばしてボタンを留めジャケットを羽織った七瀬は、凌河が持っている紙袋を受け取ると中から正方形の箱を取り出し凌河へと差し出した。
黒と金の包装紙に青いリボンを巻き、白い造花とメッセージカードを間に挟んだそれは紛れもなく凌河のために用意したものだ。
「あの、これ。お菓子作りは初めてだからあんまり上手には出来なかったんですけど……バレンタインのチョコです!」
「…………」
七瀬なりにかなりの勇気を出したのに、まさかの無反応で不安になる。やはり甘い物はダメだったのだろうか。
仕方ない、一度引っ込めてまた別の何かを作ろう。そう思って引こうとした手をガシッと掴まれた。
「!?」
「……本当に初めて?」
「え?」
「本当に、初めて作ったの? 俺のために?」
「は、はい」
驚くほど真剣な顔で問い掛けられ戸惑いながらも頷くと、凌河は大事そうに箱を受け取り蕩けるような笑顔を浮かべた。誰が見ても分かるくらい嬉しそうで七瀬はホッとする。
「凄く嬉しいよ。ありがとう七瀬」
「形は歪なんですけど、レシピ通りなので味はバッチリです」
「七瀬が作ってくれたんだから、美味しくないはずないんだよ。……そっか、だからチョコの匂いがしてたのか」
「バレるかと思ってヒヤヒヤしました」
「もし分かったとしても知らない振りしてたよ」
いそいそとリボンを解く凌河にご飯前なのにと苦笑しつつも、少しずつ開かれる包装にはドキドキしてしまう。箱が剥き出しになると片手が塞がってしまったから紙袋を開いて出すと、凌河は「ありがとう」と言ってリボンと包装紙、造花を入れた。
七瀬が見守る中メッセージカードを空いた手で開き、文面を読んで微笑むと次いで箱の蓋を開け、付けていたハートのピックを刺してさっそく一つ口に運ぶ。味わうように目を閉じて咀嚼した凌河は嚥下するなりにこりと笑顔を浮かべた。
「うん、やっぱりすごく美味しい」
「……良かったです」
「勿体ないけど、腐らせるのは絶対嫌だから大事に食べるね」
「はい」
蓋をして、受け取った紙袋に傾かないよう入れた凌河は安堵で胸を撫で下ろす七瀬を抱き締め柔らかな髪に頬擦りする。それに応えるように背中に腕を回して肩に寄り掛かると、顔を上げた凌河が目元に口付けてきた。
「俺も大好きだよ、七瀬」
それはメッセージカードに記した言葉の返事で、嬉しくなりはにかんだ七瀬は背伸びをして凌河の頬へとキスをする。すぐに大きな手が頬を包み今度は唇が塞がれた。
差し込まれた舌に一瞬ビクッとするも、ぎこちなく返せば七瀬のペースに合わせてくれる凌河の優しさが嬉しい。
いつもとは違うチョコの味がするキスにこの上ない幸せを感じた七瀬は、来年こそはお洒落な物が作れるようにもっと頑張ろうと心に誓うのだった。
―ハッピーバレンタイン! 大好きです、凌河さん―
「七瀬、ホワイトデー楽しみにしててね」
「はい!」
FIN.
自宅のテーブルの上に広げられた雑誌を前に七瀬は悩んでいた。この時期になると一番目にする大きなイベント、バレンタインの特集記事を一文字一文字辿り溜め息を零す。
身も心も凌河と一つになり、本当の意味で恋人になってから初めてのバレンタインだ。出来る事なら手作りのチョコを渡したいが、如何せん七瀬はお菓子作りをした事がない。
必要に駆られて料理だけは一通りマスターしたが、スナック菓子などは無駄遣いだから買った事もないし、甘い物に至っては材料費すら勿体なくて作ろうと思った事もなかったから、チョコを溶かして固める工程すら失敗しそうで不安を抱いている。
ならばいっそ既製品でもと思うが、やっぱり好きな人には手作りをあげたくてレシピを調べていたけど、〝簡単! 〟と書いてあるものでさえ全くの初心者である七瀬には難しそうだ。
「どうしよう……」
とりあえず必要な器具は買い揃えるつもりだが、失敗した時の事を考えてチョコは多めに用意するべきだろう。これはれっきとした必要経費だ。その上で夕飯が貧相になろうとも七瀬は構わなかった。
「……うん、とりあえずやってみよう。いっぱい作れば次にも繋がるし」
いろんなレシピを見て、これなら分量さえ間違えなければ多少の失敗はカバー出来そうだと、〝初心者でも出来る簡単生チョコレシピ〟と記載されたページに付箋を貼り、さっそく買い物メモを取ればボディバッグを下げて家から飛び出した。
お菓子作りに必要な器具はスマホで調べたりしてどうにか購入出来たものの、今度は包装素材で迷っていた。一応それ用の物はあるが、種類があり過ぎてどれにしたらいいか分からない。
さすがに自信がないため小さめの箱にはするつもりだが、同じ大きさのデザインや色違いがこんなにあるとは思わなかった。
「凌河さんなら青か金なんだけど……赤とか紫もいいなぁ。でもハートだらけなのはさすがに恥ずかしいし……やっぱり女の子イベントだから、可愛い物が多いんだよね」
何と言っても告白には持って来いの一大イベントである。男の自分がここにいて浮いていないか、今更ながらに心配になってきた。
ちなみに、悩ましげにバレンタインコーナーに立つ七瀬に何かを察した女性陣が興奮で頬を染めていた事など、本人はまったくと言っていいほど気付いていない。
「あれ、七ちゃん?」
「? 茉白さん」
青か紫か、どっちにしようか両手に持ち見比べていると後ろから声をかけられた。振り向くと、友人である茉白が立っていて目を瞬く。
にこっと笑った茉白が傍まで来ると、ぴょんっと腕に飛び付いてきた。
「もしかして凌河くんに?」
「う、うん」
「デレッデレになってる凌河くんが容易に思い浮かぶよ」
「でも俺、作るの初めてで、すごく不安なんだ」
「七ちゃんが作った物なら何でも喜んでくれると思うけど?」
「それでも上手に出来た物をあげたいなって…」
本番まであまり時間はないけど自分に出来る精一杯はするつもりだ。その中で少しでも上手く出来上がったものがあれば次の自信になるから。
「七ちゃんは健気だねぇ」
そんな純粋なものではない。七瀬はただ、凌河にとっての一番であり続けたいだけだ。自分にとって凌河が一番であるように。
「七瀬、何だか甘い匂いがするね」
今の時期、屋上は寒くて健康上宜しくないとの事で冬の間は空き教室でお昼を食べているのだが、凌河の膝の間に座った七瀬はおもむろに首筋の匂いを嗅がれてビクリとした。
「甘い匂い、ですか?」
「うん。何だろ……チョコ、かな?」
「え?」
確かにここ毎日夜にはチョコを刻んで湯煎して……と部屋中に匂いが満ちるほど触れているが、まさか染み付いているとは思わなかった。ただ麻痺してしまったのか、自分ではまったく感じ取れないんだけど。
もしかして、気付かれてしまっただろうか。
「七瀬は香水とかつけてないから、匂いが移りやすいんだろうね」
「じゃあもしかしたら、俺から凌河さんの匂いがしたりするんですか?」
「俺の匂いがしたら嬉しい?」
「すごく嬉しいです。凌河さんの匂い、好きだから」
正直、香水の匂いはあまり好きではないけど、凌河の香りだけは特別だ。自分が凌河の香りを纏っているなんて想像しただけでも嬉しくて、はにかんで頷けばぎゅっと抱き締められて目を瞬いた。
「七瀬はどうしてそんなに可愛いの?」
「か、可愛くないです」
「可愛いよ、すっごく可愛い」
こめかみや頬に口付けられ、何度も可愛いと言われて顔が火照る。恋人になってから凌河の雰囲気や言葉が今まで以上に甘くて、不慣れな七瀬はずっとドキドキしている。
この空気を変えようと保冷バッグを両手で顔の前に出して見せればそっと手から取られた。中には二つの弁当箱が入っていて、大きい方が凌河のだ。
前までは凌河や棗が買って来てくれる購買のパンやおにぎりを食べていたのだが、少し前、凌河から「七瀬の作ったお弁当が食べたいな」とおねだりされ、今はお弁当を作って持参するようになっていた。
ちなみに棗の分も作って来ようと思ったのだが、物凄くいい笑顔で「まだ死にたくないんでいいっす」と断られたため二人分だ。恐らくは凌河を慮ってなのだろうが、一瞬毒を入れると思われているのかと思ってしまった。
そんな棗は空き教室内にはおらず、廊下に机を出しそれに座って食べているらしいが、普通に中で食べてもいいのにと思ってしまう。言ったところで聞いてはくれないだろうが。
「いつもありがとう」
「凌河さんが材料費出してるんだから、お礼を言うのは俺の方ですよ?」
「でも早起きしてバランスも彩りも考えて作ってくれてるのは七瀬でしょ? 七瀬の方が大変なんだから、やっぱりありがとうだよ」
「じゃあお互い様という事で」
「はは、七瀬のそういうとこ、好きだよ」
そういうところとはどういうところだろう。
目を瞬いて首を傾げていると、凌河は七瀬の髪を撫で「食べようか」と促し小さい方の弁当箱を七瀬の膝へと乗せた。
バレンタイン当日。必死になって作った物は、多少歪な部分はあれどこれまでで一番良く出来たと思う。ネットでお洒落なラッピングを検索して四苦八苦しながら包装したし、メッセージカードも付けた。
あとは昼休みまで待つだけだったのだが、七瀬は凌河がいかにモテるかを思い知らされる事になる。
「久堂先輩! これ貰って下さい!」
「いらない」
「久堂さん! 僕の気持ちです!」
「いらない」
「凌河せんぱーい、いつもお世話になってまーす」
「世話した覚えないなー」
驚くべき事に、凌河を見かけるたびに誰かに声をかけられ、可愛らしくラッピングされた恐らくはチョコだろう物が渡されていて、そしてそのたびに凌河は冷たくあしらっている。
ただ一つとして受け取っていないのは安心するが、もしかして甘い物は苦手なのかもしれないと今度は別の不安が過ぎった。
(もしそうだとしたら、俺のもいらないよね……)
苦手ならまだいいが、万が一嫌いだったらあげない方がいいまである。チョコじゃなくクッキーにすれば良かったと今更ながらに後悔するが、無情にも時間は過ぎてとうとう昼休みになってしまった。
足取り重く空き教室に向かうも、保冷バッグと重ねて持っている紙袋に視線を落として溜め息をつく。茉白から、絶対受け取ってくれるから持って行きなさいと言われてここまで来たけど、困った顔をされたらショックかもしれない。
そう思いつつも、いつもよりもゆっくりめの歩調で歩いていると不意に腕を掴まれて驚いた。
「!?」
「天宮クン見っけ」
「へぇ、これが凌河のオンナ?」
「男だろ?」
「比喩だよ、比喩」
反射的に振り向くと二人の男子生徒がいて七瀬は目を瞬いた。初めて見る顔なのにどうして名前も凌河との関係も知っているのか。
困惑していると掴まれたままの腕に力がこもり、痛みで顔を顰めると今度はもう一人に顎を捕らえられた。
「すっげぇ美人だけど、ひょろっちいな」
「どうやって凌河に取り入ったんだよ、天宮クン」
「……?」
「俺らね、凌河にはちょっとした恨みあんだよね」
「昨日まで謹慎くらってたからさー」
つまりこの人たちは凌河に何かしらをして返り討ちに合い、先生たちから自宅謹慎の沙汰が下されたという事だろうか。凌河が無傷という事は恐らくこの人たちが悪いのだろうし、逆恨みもいいところだ。
「ちょっとだけ付き合ってくんない?」
「お断りします」
「そんな事言わずにさ」
「なんなら、俺らと遊ぶ? 凌河より気持ち良く出来るかもよ?」
「な……!?」
ずいぶんとタチが悪い絡み方をしてくる人たちだ。腕と顔を振って離そうとするけど、喧嘩慣れしているような人には力では敵わず更に強く握られ骨が軋んだ気がした。
おまけに腰にまで手を回して来て七瀬はゾッとする。大きな声を上げようと息を吸った時、腕を掴んでいた男がビクリと身体を強張らせた。
「何してんの?」
地を這うような声、というのはまさにこの事だろう。七瀬でさえゾクリとするような低い問い掛けに二人組は固まったまま動かない。背中に温もりを感じてムスクの香水がふわりと香り知らずに入っていた肩から力が抜けた。
後ろから伸びた腕が、七瀬の顎と腕を拘束していた二人の手首を掴んで引き剥がし、傍目にも分かるほど強く握り込む。
「汚い手で気安く触らないでくれる? 綺麗な七瀬が汚れるだろ」
「な!」
「ざけんな! てめぇ!」
まさか今喧嘩が始まってしまうのかとオロオロする七瀬を後目に二人組は凌河を睨み付け、自分たちの手首を掴む手をどうにか剥がそうとする。だが圧倒的な体格差と力の差で指一本さえも外す事が出来ず次第に青褪め始めた。既に気持ちが負けてきている。
間に挟まれてどうする事も出来ず困惑していると、こちらへ走ってくる足音が聞こえ場にそぐわない明るい声が廊下に響いた。
「凌河さーん、遅くなりましたー!」
「棗」
「あれ? 何すかコイツら」
「七瀬に乱暴を働いた不届き者。どうにかしといて」
「了解です!」
「は? ちょ、おい!」
「離せよ!」
あっさりと手を離した凌河に代わり二人組の二の腕を掴んだ棗は、抵抗なんて何のそのでどこか楽しそうにしながら廊下の奥に消えて行った。それをつまらなさそうに見ていた凌河は七瀬の頭にポンと手を置くと、先程までの怒りなど微塵も感じさせない笑顔で「行こうか」と促す。
灰色の瞳が柔らかく細められるのは七瀬に対してだけだ、と茉白に言われた事を思い出し少しだけ照れ臭くなった。
「七瀬、腕見せて」
空き教室に入るなり保冷バッグと紙袋を取り上げられ、掴まれていた腕を指差される。頷いてジャケットを脱ぎ、ボタンを外して袖を捲ると手の形に赤くなっていた。
「アイツら……」
「み、見た目ほど痛くないから」
「でも七瀬の綺麗な肌に傷付けた」
「赤くなっただけだから、すぐに治ります」
「棗に懲らしめといてって言えば良かったかな」
ボソリと不穏な言葉が聞こえ七瀬は慌てる。懲らしめると言っても、凌河も棗も容赦がないから下手をしたら騒ぎになりかねない。今棗があの二人に何をしているのかは知らないが、これ以上は流石にマズイだろう。
急いで袖を伸ばしてボタンを留めジャケットを羽織った七瀬は、凌河が持っている紙袋を受け取ると中から正方形の箱を取り出し凌河へと差し出した。
黒と金の包装紙に青いリボンを巻き、白い造花とメッセージカードを間に挟んだそれは紛れもなく凌河のために用意したものだ。
「あの、これ。お菓子作りは初めてだからあんまり上手には出来なかったんですけど……バレンタインのチョコです!」
「…………」
七瀬なりにかなりの勇気を出したのに、まさかの無反応で不安になる。やはり甘い物はダメだったのだろうか。
仕方ない、一度引っ込めてまた別の何かを作ろう。そう思って引こうとした手をガシッと掴まれた。
「!?」
「……本当に初めて?」
「え?」
「本当に、初めて作ったの? 俺のために?」
「は、はい」
驚くほど真剣な顔で問い掛けられ戸惑いながらも頷くと、凌河は大事そうに箱を受け取り蕩けるような笑顔を浮かべた。誰が見ても分かるくらい嬉しそうで七瀬はホッとする。
「凄く嬉しいよ。ありがとう七瀬」
「形は歪なんですけど、レシピ通りなので味はバッチリです」
「七瀬が作ってくれたんだから、美味しくないはずないんだよ。……そっか、だからチョコの匂いがしてたのか」
「バレるかと思ってヒヤヒヤしました」
「もし分かったとしても知らない振りしてたよ」
いそいそとリボンを解く凌河にご飯前なのにと苦笑しつつも、少しずつ開かれる包装にはドキドキしてしまう。箱が剥き出しになると片手が塞がってしまったから紙袋を開いて出すと、凌河は「ありがとう」と言ってリボンと包装紙、造花を入れた。
七瀬が見守る中メッセージカードを空いた手で開き、文面を読んで微笑むと次いで箱の蓋を開け、付けていたハートのピックを刺してさっそく一つ口に運ぶ。味わうように目を閉じて咀嚼した凌河は嚥下するなりにこりと笑顔を浮かべた。
「うん、やっぱりすごく美味しい」
「……良かったです」
「勿体ないけど、腐らせるのは絶対嫌だから大事に食べるね」
「はい」
蓋をして、受け取った紙袋に傾かないよう入れた凌河は安堵で胸を撫で下ろす七瀬を抱き締め柔らかな髪に頬擦りする。それに応えるように背中に腕を回して肩に寄り掛かると、顔を上げた凌河が目元に口付けてきた。
「俺も大好きだよ、七瀬」
それはメッセージカードに記した言葉の返事で、嬉しくなりはにかんだ七瀬は背伸びをして凌河の頬へとキスをする。すぐに大きな手が頬を包み今度は唇が塞がれた。
差し込まれた舌に一瞬ビクッとするも、ぎこちなく返せば七瀬のペースに合わせてくれる凌河の優しさが嬉しい。
いつもとは違うチョコの味がするキスにこの上ない幸せを感じた七瀬は、来年こそはお洒落な物が作れるようにもっと頑張ろうと心に誓うのだった。
―ハッピーバレンタイン! 大好きです、凌河さん―
「七瀬、ホワイトデー楽しみにしててね」
「はい!」
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12日まで一日一話短いですが更新されます。
ぎゅっと詰め込んでしまったので駆け足です。
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【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
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