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【三十九ノ月】恐らく確実に
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詩月のおかげで多少の不安はなくなったものの、やはりオフィスまで来ると気が重くなる。駐車場に停めた車の中でシートに凭れて腕を組んでいたが、いい加減行かなくては瀬尾に文句を言われてしまうため、龍惺は溜め息をついて渋々車から降りた。
何よりも社員の反応が心配だ、そう思いながらエントランスに入った龍惺は、目の前の光景に瞠目し足を止めた。
受付よりも手前に、出迎えなどした事のない瀬尾が数枚の紙を手に無表情で立っていたからだ。
「社長、おはようございます」
「お、おはよう」
「ご報告致します」
「……は?」
「昨日の記者会見、社員からは概ね好評です。大半は詩月さんへの好感度によるものですが、週刊誌による疑惑は無事に晴れました」
前置きもなく唐突に始まった会見後の話に龍惺は困惑する。しかもなぜ社長室ではなくここなのか。
だが瀬尾はそんな龍惺には構わず淡々と話を続ける。
「また、詩月さんが仰っていた〝ありのままの社長〟についてですが、玖珂の社員はずいぶんとノリの良い方たちばかりのようで……良かったですね、ぜひどうぞとお答え頂きましたよ」
「……ずいぶん軽いな」
「堅苦しいよりは良いのではないですか? ただ、やはり一部の方は渋い顔をしていますから、そこは頑張って下さい」
「まぁそうだろうな」
なるほど、だから擦れ違う社員が生暖かい目でこちらを見ているのか。
大企業に勤務する者としてそれでいいのかとも思ったが、それぞれが考えて出した答えなら龍惺にだって否はない。むしろ逆に有り難いとさえ思ってしまった。
不安や緊張を抱いていたのが馬鹿らしくなるほどあっさりと解決した悩みに、初めて社員の前で見せた自然な微笑みに男女問わず顔を赤らめた人がいるとかいないとか。
「社員を誑かすのだけはやめて下さいね」
「何の話だ」
相変わらずのタラシ振りを発揮する上司にやれやれと首を振った瀬尾は、眉を顰める龍惺に気付かれないよう溜め息を零した。
瀬尾から、「本日の業務はここまでで結構です」と言われたのは午後五時を回る少し前だった。
訝しむ龍惺に昨日の今日だからと告げられると、それが彼なりの気遣いなのだと分かる辺り瀬尾もずいぶんと不器用な男である。
結局、高崎の件は父親に一任する事になった。彼女も龍惺とは顔も合わせたくないだろうし、顧問弁護士である神常からもそうした方がいいと言われたため詩月にも伝えないつもりだ。
半ば追い出される形で会社を後にした龍惺は時間的にもちょうどいいと詩月をバイト先まで迎えに行く事にした。
帰るには必然的に駐車場を通らないといけないため、立っていれば気付くだろうと車に寄り掛かり待っていると一人の女性に声を掛けられる。訝しんで見れば興奮したように話し出した。
「あの、昨日の記者会見素敵でした! 玖珂さんにこんな事を言うのは烏滸がましいかもしれませんが、どうか詩月さんを幸せにしてあげて下さい!」
「…………」
正直驚いた。龍惺に声を掛けてくる人は龍惺自身に興味がある者ばかりで、これまで自分に対して詩月の事を好意的に言う人はいなかった。しかも彼女とは今初めて会った赤の他人である。
詩月の事をお願いされて嬉しくなった龍惺は知らずに微笑んでいた。
「当然です」
そう返したのと腕に衝撃を感じたのはほぼ同時だった。見下ろすと詩月が腕に抱き着いて女性を見ていたのだが、彼女は「応援しています!」と言って走り去ってしまい、残された詩月はあれ? という顔をしたあと明らかな困惑顔になった。その様子に思わず吹き出すと、怒った詩月が腕から離れてしまう。
何を話していたのか聞かれたから素直な答えたら見るからに落ち込んでしまい、さっきのが嫉妬からの行動だと分かっていた龍惺は俯く頭に軽く手を乗せた。その瞬間振動音が聞こえ、詩月が慌ててスマホを手に取り龍惺へと一言告げてから電話に出る。
どうやら父親からの電話らしく、暫く話していた詩月は通話を終えるなり非常に困った顔をしていた。
曰く、昨日の会見の件で詩月の父親が話を聞きたいと言っているらしい。
プロポーズをして了承を貰った以上、いつかは挨拶に行かなければと思っていたのだが、こんなに唐突に会う機会が出来るとは思わなかった。
謝る詩月に首を振り、とりあえず家に帰ろうと告げて助手席に乗せる。自分も乗り込みエンジンを掛けると、マンションへと車を走らせた。
今日は夕飯を作る気力もないだろうと途中で弁当を買って帰ったのだが、部屋へと着いた途端落ち込む詩月には苦笑してしまう。一向に下ろそうとしないショルダーバッグを頭から抜いた龍惺は、彼の手を引いてリビングのソファに座らせると自分も隣に座った。
「まさかお父さんが記者会見を見てたなんて思わなかった……」
「まぁ、ローカル以外は放送してただろうしな」
「というより、基本テレビを見ない人だから」
「たまたま点けたらお前が映ってたから見たとかじゃねぇの?」
「何そのタイミング……」
本当にそうだとしたら、詩月の言う通り天啓でもあったのかというくらいタイミングが良い。腕に寄り掛かり尚も険しい表情をする詩月を不思議に思った龍惺は首を傾げた。
「親父さん、怖い人なのか?」
「ううん。むしろ優しくて、怒ったところ見た事ない」
「なら何がそんなに不安なんだ?」
「……龍惺が殴られるかもしれないから」
「…………ん?」
詩月の口からは滅多に出る事のない物騒なセリフが聞こえ、龍惺は自分の耳がおかしくなったのかと思った。
殴られるかもしれないとはどういう事か。
だが、続いた詩月の言葉ですぐにそれが現実になる事を察した龍惺はガックリと項垂れる。
「僕が龍惺の前からいなくなった理由を知ってるの」
「あー……そうか……」
「引っ越してからも僕の様子がおかしい事に気付いてて、心配で仕方ないからその理由を教えなさいって言われて……話した」
「そりゃ殴られても仕方ねぇなぁ……」
「殴らないでってお願いする」
「何でだよ。俺は殴られて当然の事をお前にしたんだから、それで親父さんが詩月の傍にいる事許してくれんなら幾らでも殴られるって」
大事な息子を傷付けた龍惺を果たしてそんな事で許してくれるかは分からないが、謝れと言うなら何度でも謝るし、殴らせろと言うなら気の済むまで殴ってくれていい。
詩月を失わずに済むならどんな事だって耐えるつもりだ。
「だ、ダメだよ、そんなの。龍惺だけのせいじゃないのに…」
「お前はそう言ってくれるけど、世間的に見ればどんな理由があろうと浮気した奴が悪いんだよ。だから、もし本当に親父さんが俺を殴ろうとしても止めるなよ」
「でも……」
「詩月」
しかも龍惺の場合はただの浮気ではなく、詩月の気持ちを試すためだけに始めた一番最低なものだ。理由を問われれば正直に答えるつもりだが、そうすれば確実に殴られるだろう。だがそれでいいと龍惺は思っていた。
言い募ろうとする詩月の名前を少しだけ強めに呼ぶと、肩を震わせて口を噤ぐ。
「俺はお前以外なら誰に嫌われてもいいって思ってっけど、お前の親は別なんだよ。好かれるまではいかなくても、お前の恋人としては及第点でもいいから認めて欲しいんだ」
「龍惺……」
「そのチャンスかもしんねぇんだから、潰すなよ?」
「……」
先ほどの不安そうな表情とは違い、泣きそうな顔で見上げてくる詩月の頬を軽く摘んで微笑むと、下唇を噛んで抱き着いてきた。
「で、殴られたあとは詩月が慰めて」
「……うん。いっぱいよしよしってするね」
「よしよしするだけか?」
「じゃあ、龍惺がして欲しい事何でもしてあげる」
「一気に豪華になったな」
何でもなんて、飢えた獣並に四六時中恋人の事だけを考えている男に一番言ってはいけないワードだ。
それを理解すらしていない詩月に小さく笑った龍惺は、彼の腕を引いて膝の上に向かい合わせに座らせるとその華奢な身体を抱き締めた。
「明日瀬尾と話して都合付けるから」
「うん」
本音を言えば不安はある。男同士で、前科持ちで、不可抗力とはいえ詩月の顔をテレビに映してしまった。そんな男を、詩月の父親は受け入れてくれるのか。
「さて、飯食うか」
「じゃあ温めてくるから、龍惺は座ってて」
「俺も……」
「温めるだけだから二人もいりません」
考え考えるほどドツボに嵌ってしまいそうで、それを払拭するために明るく言えば素早く膝から降りた詩月が笑顔で見下ろしてくる。
いつも通り手伝いは却下され、少しだけ浮かせた腰を渋々下ろした龍惺は、軽い足取りでキッチンへ向かう詩月の背中を眺め改めて思った。
当たり前のように詩月がいるこの光景だけは、絶対になくしたくないと。
何よりも社員の反応が心配だ、そう思いながらエントランスに入った龍惺は、目の前の光景に瞠目し足を止めた。
受付よりも手前に、出迎えなどした事のない瀬尾が数枚の紙を手に無表情で立っていたからだ。
「社長、おはようございます」
「お、おはよう」
「ご報告致します」
「……は?」
「昨日の記者会見、社員からは概ね好評です。大半は詩月さんへの好感度によるものですが、週刊誌による疑惑は無事に晴れました」
前置きもなく唐突に始まった会見後の話に龍惺は困惑する。しかもなぜ社長室ではなくここなのか。
だが瀬尾はそんな龍惺には構わず淡々と話を続ける。
「また、詩月さんが仰っていた〝ありのままの社長〟についてですが、玖珂の社員はずいぶんとノリの良い方たちばかりのようで……良かったですね、ぜひどうぞとお答え頂きましたよ」
「……ずいぶん軽いな」
「堅苦しいよりは良いのではないですか? ただ、やはり一部の方は渋い顔をしていますから、そこは頑張って下さい」
「まぁそうだろうな」
なるほど、だから擦れ違う社員が生暖かい目でこちらを見ているのか。
大企業に勤務する者としてそれでいいのかとも思ったが、それぞれが考えて出した答えなら龍惺にだって否はない。むしろ逆に有り難いとさえ思ってしまった。
不安や緊張を抱いていたのが馬鹿らしくなるほどあっさりと解決した悩みに、初めて社員の前で見せた自然な微笑みに男女問わず顔を赤らめた人がいるとかいないとか。
「社員を誑かすのだけはやめて下さいね」
「何の話だ」
相変わらずのタラシ振りを発揮する上司にやれやれと首を振った瀬尾は、眉を顰める龍惺に気付かれないよう溜め息を零した。
瀬尾から、「本日の業務はここまでで結構です」と言われたのは午後五時を回る少し前だった。
訝しむ龍惺に昨日の今日だからと告げられると、それが彼なりの気遣いなのだと分かる辺り瀬尾もずいぶんと不器用な男である。
結局、高崎の件は父親に一任する事になった。彼女も龍惺とは顔も合わせたくないだろうし、顧問弁護士である神常からもそうした方がいいと言われたため詩月にも伝えないつもりだ。
半ば追い出される形で会社を後にした龍惺は時間的にもちょうどいいと詩月をバイト先まで迎えに行く事にした。
帰るには必然的に駐車場を通らないといけないため、立っていれば気付くだろうと車に寄り掛かり待っていると一人の女性に声を掛けられる。訝しんで見れば興奮したように話し出した。
「あの、昨日の記者会見素敵でした! 玖珂さんにこんな事を言うのは烏滸がましいかもしれませんが、どうか詩月さんを幸せにしてあげて下さい!」
「…………」
正直驚いた。龍惺に声を掛けてくる人は龍惺自身に興味がある者ばかりで、これまで自分に対して詩月の事を好意的に言う人はいなかった。しかも彼女とは今初めて会った赤の他人である。
詩月の事をお願いされて嬉しくなった龍惺は知らずに微笑んでいた。
「当然です」
そう返したのと腕に衝撃を感じたのはほぼ同時だった。見下ろすと詩月が腕に抱き着いて女性を見ていたのだが、彼女は「応援しています!」と言って走り去ってしまい、残された詩月はあれ? という顔をしたあと明らかな困惑顔になった。その様子に思わず吹き出すと、怒った詩月が腕から離れてしまう。
何を話していたのか聞かれたから素直な答えたら見るからに落ち込んでしまい、さっきのが嫉妬からの行動だと分かっていた龍惺は俯く頭に軽く手を乗せた。その瞬間振動音が聞こえ、詩月が慌ててスマホを手に取り龍惺へと一言告げてから電話に出る。
どうやら父親からの電話らしく、暫く話していた詩月は通話を終えるなり非常に困った顔をしていた。
曰く、昨日の会見の件で詩月の父親が話を聞きたいと言っているらしい。
プロポーズをして了承を貰った以上、いつかは挨拶に行かなければと思っていたのだが、こんなに唐突に会う機会が出来るとは思わなかった。
謝る詩月に首を振り、とりあえず家に帰ろうと告げて助手席に乗せる。自分も乗り込みエンジンを掛けると、マンションへと車を走らせた。
今日は夕飯を作る気力もないだろうと途中で弁当を買って帰ったのだが、部屋へと着いた途端落ち込む詩月には苦笑してしまう。一向に下ろそうとしないショルダーバッグを頭から抜いた龍惺は、彼の手を引いてリビングのソファに座らせると自分も隣に座った。
「まさかお父さんが記者会見を見てたなんて思わなかった……」
「まぁ、ローカル以外は放送してただろうしな」
「というより、基本テレビを見ない人だから」
「たまたま点けたらお前が映ってたから見たとかじゃねぇの?」
「何そのタイミング……」
本当にそうだとしたら、詩月の言う通り天啓でもあったのかというくらいタイミングが良い。腕に寄り掛かり尚も険しい表情をする詩月を不思議に思った龍惺は首を傾げた。
「親父さん、怖い人なのか?」
「ううん。むしろ優しくて、怒ったところ見た事ない」
「なら何がそんなに不安なんだ?」
「……龍惺が殴られるかもしれないから」
「…………ん?」
詩月の口からは滅多に出る事のない物騒なセリフが聞こえ、龍惺は自分の耳がおかしくなったのかと思った。
殴られるかもしれないとはどういう事か。
だが、続いた詩月の言葉ですぐにそれが現実になる事を察した龍惺はガックリと項垂れる。
「僕が龍惺の前からいなくなった理由を知ってるの」
「あー……そうか……」
「引っ越してからも僕の様子がおかしい事に気付いてて、心配で仕方ないからその理由を教えなさいって言われて……話した」
「そりゃ殴られても仕方ねぇなぁ……」
「殴らないでってお願いする」
「何でだよ。俺は殴られて当然の事をお前にしたんだから、それで親父さんが詩月の傍にいる事許してくれんなら幾らでも殴られるって」
大事な息子を傷付けた龍惺を果たしてそんな事で許してくれるかは分からないが、謝れと言うなら何度でも謝るし、殴らせろと言うなら気の済むまで殴ってくれていい。
詩月を失わずに済むならどんな事だって耐えるつもりだ。
「だ、ダメだよ、そんなの。龍惺だけのせいじゃないのに…」
「お前はそう言ってくれるけど、世間的に見ればどんな理由があろうと浮気した奴が悪いんだよ。だから、もし本当に親父さんが俺を殴ろうとしても止めるなよ」
「でも……」
「詩月」
しかも龍惺の場合はただの浮気ではなく、詩月の気持ちを試すためだけに始めた一番最低なものだ。理由を問われれば正直に答えるつもりだが、そうすれば確実に殴られるだろう。だがそれでいいと龍惺は思っていた。
言い募ろうとする詩月の名前を少しだけ強めに呼ぶと、肩を震わせて口を噤ぐ。
「俺はお前以外なら誰に嫌われてもいいって思ってっけど、お前の親は別なんだよ。好かれるまではいかなくても、お前の恋人としては及第点でもいいから認めて欲しいんだ」
「龍惺……」
「そのチャンスかもしんねぇんだから、潰すなよ?」
「……」
先ほどの不安そうな表情とは違い、泣きそうな顔で見上げてくる詩月の頬を軽く摘んで微笑むと、下唇を噛んで抱き着いてきた。
「で、殴られたあとは詩月が慰めて」
「……うん。いっぱいよしよしってするね」
「よしよしするだけか?」
「じゃあ、龍惺がして欲しい事何でもしてあげる」
「一気に豪華になったな」
何でもなんて、飢えた獣並に四六時中恋人の事だけを考えている男に一番言ってはいけないワードだ。
それを理解すらしていない詩月に小さく笑った龍惺は、彼の腕を引いて膝の上に向かい合わせに座らせるとその華奢な身体を抱き締めた。
「明日瀬尾と話して都合付けるから」
「うん」
本音を言えば不安はある。男同士で、前科持ちで、不可抗力とはいえ詩月の顔をテレビに映してしまった。そんな男を、詩月の父親は受け入れてくれるのか。
「さて、飯食うか」
「じゃあ温めてくるから、龍惺は座ってて」
「俺も……」
「温めるだけだから二人もいりません」
考え考えるほどドツボに嵌ってしまいそうで、それを払拭するために明るく言えば素早く膝から降りた詩月が笑顔で見下ろしてくる。
いつも通り手伝いは却下され、少しだけ浮かせた腰を渋々下ろした龍惺は、軽い足取りでキッチンへ向かう詩月の背中を眺め改めて思った。
当たり前のように詩月がいるこの光景だけは、絶対になくしたくないと。
応援ありがとうございます!
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