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【三十四ノ星】メソメソしててもしょうがない
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龍惺と喧嘩別れのようになってから一夜明け、詩月はリビングにあるソファの上で抱えた膝に顔を埋めてぼんやりしていた。
洋司の家にいた時から流れていた涙は、龍惺が帰ってからも枯れる事はなく、泣き腫らし真っ赤になっていても思い出したかのように溢れてくる。
詩月に対してあんなにも怒った龍惺は初めてだった。
いつだって優しくて、いつだって甘やかしてくれた彼が、あれほどあからさまな怒りを自分に向ける事など一度もなかったのに。
それほど彼を傷付けて怒らせた。
「あの時言っておけば良かった……」
こんな事になるなら、素直に言っておくべきだった。
とうして自分はこうなんだろう。いつも大事な事を言わないで龍惺を傷付けて。
龍惺はずっと詩月の事を考えて、全部教えてくれていたのに。
「嫌われたらどうしよう……」
それだけは絶対に嫌だ。龍惺の傍にいられなくなるのは耐えられない。
もう龍惺のいない生活なんて考えられないのに。
でも引越しまで家に来るなと言われてしまった今、どうしたらいいか分からなくなっていた。ここで無理に会いに行ってもまた言い合いになるだけだろうし、日を開けた方がいいのは分かっている。
分かってはいるのにもう会いたくて仕方がない。
家を出る日まであと数日とはいえ、恋人になってからは毎日のように会っていたせいか一日も顔が見られないのは辛いのだ。
あの八年は悲しかったけど平気だったのに、いつの間にかこんなにも龍惺の存在が大きくなっていた。傍にいるのが当たり前になってた。
やらなければいけない事はたくさんある。イラストの依頼は引越し作業が落ち着くまではストップしているからいいけれど、まだ梱包も残っているし、片付けた部屋の掃除も残っているのに、今はどう頑張っても動けそうにない。
今日はもうこのままでもいいだろう。明日動けそうなら明日すればいいだけの話だ。
「……龍惺……」
何の音もしない静かな部屋の中、詩月の啜り泣く声だけが響いていた。
あの日から三日が経った。
あれ以来龍惺からの連絡もないし、詩月も怖くて出来ないでいる。
昨日、美玖と一緒に寝てしまった時に龍惺から送られて来ていたメッセージを読んだのだが、その全てが詩月を気遣う物でますます龍惺に対しての申し訳なさが増した。
『週刊誌、見ても気にするなよ。あさみと会った話したろ? あれが撮られてただけで、何も疚しい事ねぇから。記事も全部デタラメだからな』
『美玖の具合どうだ? お前もあんま無理すんなよ』
『既読つかねぇけど大丈夫か? 今から迎えに行くから、美味いもんでも食いに行こう』
『着いた。出て来れそうか?』
改めてこれまでのメッセージを読み返してみたが、ほとんどがそうだった事に今更ながらに気付いて涙が出た。
「ごめんね……」
もしちゃんと話していたら、龍惺と洋司の関係もあんな風に拗れなかったのだろうか。
今となってはたらればの話ではあるが、それでも考えずにはいられないくらい詩月は参っていた。
結局他の事は何も出来ていない上にまともに食事を摂る気にもなれなくて、入浴だけは済ませたあと龍惺の置いていった服を抱き締めてベッドに転ぶ日々だ。
枕に顔を突っ伏していると、手に握ったままのスマホが通知を知らせた。何とはなしに確認して、それが龍惺からだと分かると慌ててアプリを開く。
内容は引越し業者の手配が完了した事とその日程だけだったが、それでも連絡が来た事が嬉しくて思わずスマホを握り締めていた。
別れ際に引っ越しの話はしていたけど、日が経つにつれ本当に引っ越していいのか不安になっていた。だがこの連絡が来たという事は、まだ一緒に住んでくれる気持ちはあるという事だ。その事実が詩月の心を多少なりとも浮上させた。
「……しっかりしなきゃ。ちゃんと話をしなきゃいけないんだから」
いつまでもメソメソしていたって何かが変わる訳でもない。龍惺ときちんと話し合うためには顔を上げて前を見なければ。
詩月は両手で頬を軽く叩いて気合いを入れると、何はともあれまずは腹拵えをしなければ出る元気も出ないとベッドから降りてキッチンへ行く。だが引きこもっていたせいかまともな食材はなくて、詩月は久し振りに外に出る事にした。
ボサボサだった髪を整え、着替えてショルダーバッグを下げる。
外に出るとうだるよな暑さに眉を顰めたが、今はこれくらいがちょうどいいのかもしれない。
意外にも、外の空気に触れると気持ちも前向きになるもので、軽くお腹に入れた詩月はついでに怠けた身体を動かすために繁華街を少し歩く事にした。
ここに来るのも久し振りだが、街並みはすっかり夏仕様に変わっていてどこかの軒先にぶら下がっているのか、時折風鈴の音が聞こえてくる。
ゆっくりと店先に並ぶ商品を見ながら歩いていると、擦れ違うカップルの会話が聞こえてきた。
「そういえばあの週刊誌、回収されたって」
「え、もしかして玖珂社長の記事載せたとこ? やっぱりあれデマだったんだ」
「なんか、書いてた内容ほぼ嘘だったらしいよ」
「うわー……あの玖珂相手に良くそんな事しようと思ったな、その出版社」
「まぁ週刊誌なんて売れりゃナンボなんだし、嘘でも書いて発行部数伸ばしたかったんじゃない?」
「で訴えられるんだろ? 馬鹿だよなー」
どうやら龍惺が言っていた週刊誌の話をしていたらしいが、詩月は中身を見ていないためどんなものだったのかは分からない。
それにしても、ほぼ嘘だったとは、一体どんな事を書いたのやら。
特に何かを買う訳でもなく、ひたすら歩いていると暑さで少しクラクラして来た。こまめに水分補給をしたり日陰で休んだりしていたが、涼しいところに入りたくて目についた喫茶店に入る事にする。
出来れば彩芽のところに顔を出したかったが、そこまでの体力はなくて扉を開けて店内に入った。
カウンター席とボックス席、テラス席もあるようだが、この暑さでは誰も座る人はいないようでガラリとしている。
出迎えてくれた女性店員にボックス席へと案内して貰いソファに座って注文していると、少し離れた席にいるカップルらしき男女が言い争いを始めた。
「はぁ? ヤキモチ妬いた挙句、泣いてた子に怒った? 馬鹿なの? ねぇ、アンタそんなに馬鹿だったの?」
「声がでけぇよ。……俺だってあそこまで言うつもりなかったんだって。でもあの場で知らされてすげぇ動揺したんだよ。何で黙ってたってショックもあったし……」
「だからって話も聞かないで一方的に言い放って逃げ帰ってたら世話ないわよ。その時アンタがしなきゃいけなかったのは、抱き締めて慰める事でしょう?」
「……マジで頭に血が上ってたんだって」
「馬鹿、ほんと馬鹿。しかも今だ連絡さえしてないんでしょ? 引っ込みつかなくなってんじゃないの」
「アイツに怒った事自体初めてだから、まだ怖がられてんじゃねぇかって不安なんだよ。マジでどうしたらいいか分かんねぇ」
「はー……情けない。っていうか、もう怒ってないんでしょ?」
「黙ってた事には腹立ったけど、そもそもアイツに怒るのも筋違いっつーか……あー……もう泣かせねぇって決めたのに」
女性はすごく早口で聞き取りにくかったが、小さめだった男性の声がだんだん大きくなり聞こえてくるにつれ詩月の顔が驚きに変わっていく。
低くて耳触りのいい声。彼の声を、詩月が聞き間違えるはずがなかった。
チラリと視線を向けたが生憎と顔までは見えなくて、連絡もしていない今会っていいのかも分からない。けれどそこにいると分かった以上、ちゃんと顔を見て声が聞きたくなってしまった。
店員が頼んだカフェオレを持って来てくれたが、詩月は立ち上がりゆっくりと二人に近付く。
嫌そうな顔をされたら、また怖い顔をされたらと思うけど、会いたい気持ちがどうしても勝ってしまった。
「とにかく連絡しなさいって。このままだとギクシャクしたままお別れになっちゃうかもしれないよ」
「それはぜってーやだ。アイツと別れるとか考えらんねぇ」
「だったらさっさとしなさい。ほら早く、善は急げよ」
「てめ、勝手に人のスマホ触ってんじゃねぇ」
「はいはい、いいから解除して。……どれどれ……あ、見ー付けた。はいポチー」
「おい…!」
何やら慌てたような龍惺の声が聞こえたが、顔を覗かせて声をかけようとした時バッグに入れていたスマホが軽快な音楽を鳴らした。
驚いて取り出すも手が滑って落としてしまい、そのせいで二人の前に覗かせるどころかハッキリと顔を出す羽目になってしまう。
まだ鳴り続けるスマホを拾い視線を上げると、驚いた顔の龍惺と目が合った。
「詩月……?」
ずいぶんと間抜けな登場をしてしまい、緊張も不安も吹き飛んだ詩月は困ったようにはにかんだ。
洋司の家にいた時から流れていた涙は、龍惺が帰ってからも枯れる事はなく、泣き腫らし真っ赤になっていても思い出したかのように溢れてくる。
詩月に対してあんなにも怒った龍惺は初めてだった。
いつだって優しくて、いつだって甘やかしてくれた彼が、あれほどあからさまな怒りを自分に向ける事など一度もなかったのに。
それほど彼を傷付けて怒らせた。
「あの時言っておけば良かった……」
こんな事になるなら、素直に言っておくべきだった。
とうして自分はこうなんだろう。いつも大事な事を言わないで龍惺を傷付けて。
龍惺はずっと詩月の事を考えて、全部教えてくれていたのに。
「嫌われたらどうしよう……」
それだけは絶対に嫌だ。龍惺の傍にいられなくなるのは耐えられない。
もう龍惺のいない生活なんて考えられないのに。
でも引越しまで家に来るなと言われてしまった今、どうしたらいいか分からなくなっていた。ここで無理に会いに行ってもまた言い合いになるだけだろうし、日を開けた方がいいのは分かっている。
分かってはいるのにもう会いたくて仕方がない。
家を出る日まであと数日とはいえ、恋人になってからは毎日のように会っていたせいか一日も顔が見られないのは辛いのだ。
あの八年は悲しかったけど平気だったのに、いつの間にかこんなにも龍惺の存在が大きくなっていた。傍にいるのが当たり前になってた。
やらなければいけない事はたくさんある。イラストの依頼は引越し作業が落ち着くまではストップしているからいいけれど、まだ梱包も残っているし、片付けた部屋の掃除も残っているのに、今はどう頑張っても動けそうにない。
今日はもうこのままでもいいだろう。明日動けそうなら明日すればいいだけの話だ。
「……龍惺……」
何の音もしない静かな部屋の中、詩月の啜り泣く声だけが響いていた。
あの日から三日が経った。
あれ以来龍惺からの連絡もないし、詩月も怖くて出来ないでいる。
昨日、美玖と一緒に寝てしまった時に龍惺から送られて来ていたメッセージを読んだのだが、その全てが詩月を気遣う物でますます龍惺に対しての申し訳なさが増した。
『週刊誌、見ても気にするなよ。あさみと会った話したろ? あれが撮られてただけで、何も疚しい事ねぇから。記事も全部デタラメだからな』
『美玖の具合どうだ? お前もあんま無理すんなよ』
『既読つかねぇけど大丈夫か? 今から迎えに行くから、美味いもんでも食いに行こう』
『着いた。出て来れそうか?』
改めてこれまでのメッセージを読み返してみたが、ほとんどがそうだった事に今更ながらに気付いて涙が出た。
「ごめんね……」
もしちゃんと話していたら、龍惺と洋司の関係もあんな風に拗れなかったのだろうか。
今となってはたらればの話ではあるが、それでも考えずにはいられないくらい詩月は参っていた。
結局他の事は何も出来ていない上にまともに食事を摂る気にもなれなくて、入浴だけは済ませたあと龍惺の置いていった服を抱き締めてベッドに転ぶ日々だ。
枕に顔を突っ伏していると、手に握ったままのスマホが通知を知らせた。何とはなしに確認して、それが龍惺からだと分かると慌ててアプリを開く。
内容は引越し業者の手配が完了した事とその日程だけだったが、それでも連絡が来た事が嬉しくて思わずスマホを握り締めていた。
別れ際に引っ越しの話はしていたけど、日が経つにつれ本当に引っ越していいのか不安になっていた。だがこの連絡が来たという事は、まだ一緒に住んでくれる気持ちはあるという事だ。その事実が詩月の心を多少なりとも浮上させた。
「……しっかりしなきゃ。ちゃんと話をしなきゃいけないんだから」
いつまでもメソメソしていたって何かが変わる訳でもない。龍惺ときちんと話し合うためには顔を上げて前を見なければ。
詩月は両手で頬を軽く叩いて気合いを入れると、何はともあれまずは腹拵えをしなければ出る元気も出ないとベッドから降りてキッチンへ行く。だが引きこもっていたせいかまともな食材はなくて、詩月は久し振りに外に出る事にした。
ボサボサだった髪を整え、着替えてショルダーバッグを下げる。
外に出るとうだるよな暑さに眉を顰めたが、今はこれくらいがちょうどいいのかもしれない。
意外にも、外の空気に触れると気持ちも前向きになるもので、軽くお腹に入れた詩月はついでに怠けた身体を動かすために繁華街を少し歩く事にした。
ここに来るのも久し振りだが、街並みはすっかり夏仕様に変わっていてどこかの軒先にぶら下がっているのか、時折風鈴の音が聞こえてくる。
ゆっくりと店先に並ぶ商品を見ながら歩いていると、擦れ違うカップルの会話が聞こえてきた。
「そういえばあの週刊誌、回収されたって」
「え、もしかして玖珂社長の記事載せたとこ? やっぱりあれデマだったんだ」
「なんか、書いてた内容ほぼ嘘だったらしいよ」
「うわー……あの玖珂相手に良くそんな事しようと思ったな、その出版社」
「まぁ週刊誌なんて売れりゃナンボなんだし、嘘でも書いて発行部数伸ばしたかったんじゃない?」
「で訴えられるんだろ? 馬鹿だよなー」
どうやら龍惺が言っていた週刊誌の話をしていたらしいが、詩月は中身を見ていないためどんなものだったのかは分からない。
それにしても、ほぼ嘘だったとは、一体どんな事を書いたのやら。
特に何かを買う訳でもなく、ひたすら歩いていると暑さで少しクラクラして来た。こまめに水分補給をしたり日陰で休んだりしていたが、涼しいところに入りたくて目についた喫茶店に入る事にする。
出来れば彩芽のところに顔を出したかったが、そこまでの体力はなくて扉を開けて店内に入った。
カウンター席とボックス席、テラス席もあるようだが、この暑さでは誰も座る人はいないようでガラリとしている。
出迎えてくれた女性店員にボックス席へと案内して貰いソファに座って注文していると、少し離れた席にいるカップルらしき男女が言い争いを始めた。
「はぁ? ヤキモチ妬いた挙句、泣いてた子に怒った? 馬鹿なの? ねぇ、アンタそんなに馬鹿だったの?」
「声がでけぇよ。……俺だってあそこまで言うつもりなかったんだって。でもあの場で知らされてすげぇ動揺したんだよ。何で黙ってたってショックもあったし……」
「だからって話も聞かないで一方的に言い放って逃げ帰ってたら世話ないわよ。その時アンタがしなきゃいけなかったのは、抱き締めて慰める事でしょう?」
「……マジで頭に血が上ってたんだって」
「馬鹿、ほんと馬鹿。しかも今だ連絡さえしてないんでしょ? 引っ込みつかなくなってんじゃないの」
「アイツに怒った事自体初めてだから、まだ怖がられてんじゃねぇかって不安なんだよ。マジでどうしたらいいか分かんねぇ」
「はー……情けない。っていうか、もう怒ってないんでしょ?」
「黙ってた事には腹立ったけど、そもそもアイツに怒るのも筋違いっつーか……あー……もう泣かせねぇって決めたのに」
女性はすごく早口で聞き取りにくかったが、小さめだった男性の声がだんだん大きくなり聞こえてくるにつれ詩月の顔が驚きに変わっていく。
低くて耳触りのいい声。彼の声を、詩月が聞き間違えるはずがなかった。
チラリと視線を向けたが生憎と顔までは見えなくて、連絡もしていない今会っていいのかも分からない。けれどそこにいると分かった以上、ちゃんと顔を見て声が聞きたくなってしまった。
店員が頼んだカフェオレを持って来てくれたが、詩月は立ち上がりゆっくりと二人に近付く。
嫌そうな顔をされたら、また怖い顔をされたらと思うけど、会いたい気持ちがどうしても勝ってしまった。
「とにかく連絡しなさいって。このままだとギクシャクしたままお別れになっちゃうかもしれないよ」
「それはぜってーやだ。アイツと別れるとか考えらんねぇ」
「だったらさっさとしなさい。ほら早く、善は急げよ」
「てめ、勝手に人のスマホ触ってんじゃねぇ」
「はいはい、いいから解除して。……どれどれ……あ、見ー付けた。はいポチー」
「おい…!」
何やら慌てたような龍惺の声が聞こえたが、顔を覗かせて声をかけようとした時バッグに入れていたスマホが軽快な音楽を鳴らした。
驚いて取り出すも手が滑って落としてしまい、そのせいで二人の前に覗かせるどころかハッキリと顔を出す羽目になってしまう。
まだ鳴り続けるスマホを拾い視線を上げると、驚いた顔の龍惺と目が合った。
「詩月……?」
ずいぶんと間抜けな登場をしてしまい、緊張も不安も吹き飛んだ詩月は困ったようにはにかんだ。
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