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【三十一ノ星】大切な
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あの旅行のあと、龍惺から一つの提案をされた。
「なぁ、詩月。ここで一緒に住まねぇ?」
お土産の選別をし、洗って乾燥機に掛けていた洗濯物をリビングで畳んでいた詩月はキョトンとする。
ソファに座っていた龍惺が直に床に座る詩月の隣に来て胡座を掻いた。
「平日は洋兄の家からここに来るだろ? 土日もそのままいる事多いし。使ってねぇ部屋あるし、何なら隣の部屋使ってもいい」
「隣の部屋は寂しいから嫌、かな…」
「じゃあ……」
「あ、でも今すぐは無理だよ?」
「分かってるって」
大抵の物件が退去申告は一月前にするようにと決まっている。荷物を纏めなければいけないし、掃除もしなければいけない。
そんなに汚れたりするような部屋の使い方はしていないけれど、少しでも退去費用を抑えられるならするに越した事はないのだ。
詩月は止まっていた手を再び動かして畳む作業を開始する。
「業者は俺が手配する。家電の梱包とかも頼めるし、必要ないもんは処分してくれっから」
「う、うん。……龍惺、ちょっとご機嫌?」
明るい声色で教えてくれる龍惺に首を傾げて問い掛けると、一瞬ピタッと止まったあと気恥しいのか少しだけ膨れっ面で抱き着いてきた。
「そりゃ、当たり前だろ。お前と暮らせんだから、テンションも上がるっつの」
「……ふふ、龍惺のそういうところ、可愛いと思うよ」
「やめろ。図体のでけぇ男に可愛いとか言うな」
「えー?」
どれだけ身体が大きくても、どれだけカッコよくても、ふとした時に可愛いと思えるのは恋人の特権だろう。
それに、本当にそう思うのだから仕方ない。
詩月は今度は憮然として額をグリグリと擦り付けてくる龍惺の頭を撫でて微笑んだ。
「さようならー」
「さようなら」
「美玖ちゃん、また明日ねー」
いつものように園へ美玖を迎えに行き保育士たちへ挨拶をして別れた帰り道、ご機嫌で童謡を歌っている美玖に微笑み顔を覗き込む。
「美玖ちゃん、楽しそうだね」
「あのね、さくらちゃんがね、お兄ちゃんのことすてきだねって言ってたんだよ」
「本当? 嬉しいな」
「みくもね、お兄ちゃんだいすきだからうれしい」
「僕も美玖ちゃんが大好きだよ」
まるで自分の事のように喜んでくれる純粋な美玖に和みながら応えると、ほんのり頬を染めて照れ笑いを浮かべる。
すっかり自分に懐いて信頼してくれた美玖に嬉しい半面、最近の洋司が自分へ向ける眼差しが少しだけ気になっていた。
決定的な事は何もないとはいえ、あの目には覚えがある。
(……龍惺と初めて会った時の目に似てる)
昇降口での顎クイ事件は強烈過ぎて絶対に忘れられないのだが、その時に龍惺が向けて来た目と洋司の目が何となく似ている気がするのだ。
(気のせい、だよね。親戚だから似てるだけで)
出来ればそうあって欲しい。龍惺にさえ戸惑ってしまったのだ、洋司の事は龍惺の身内としてしか見ていない詩月に仮にそんな目を向けられていたとしても、ただ困るだけだ。
「ねぇお兄ちゃん」
「うん? どうしたの?」
「きょうはね、カレーがいいな」
「カレー? じゃあお買い物して帰ろうか」
「おやつは?」
「一つだけね」
「やったー」
呼び掛けられてハッとした。美玖といる間はこの子をちゃんと見ている事が詩月のするべき事だ。
洋司の件は自分の勘違いだと思う事にした詩月は、美玖の手を握り直し近くのスーパーへと向かった。
部屋中にカレーの良い匂いが充満している。
美玖に食べさせている間に洗濯物を畳みお風呂の準備をするのだが、今日はその前に洋司が帰宅して来た。
驚いて出迎えたがその表情はどこか暗く疲れ切っていて詩月は目を瞬く。
「あの、おかえりなさい」
「……ただいま。良い匂いがするね、カレーかな」
「あ、はい。食べますか?」
「そうだね、頂くよ」
笑顔にも声にも覇気がない。体調でも悪いのかと気になりながらも洋司の分を準備してテーブルに置く。
部屋着に着替えた洋司が戻って来ると、美玖が笑顔で飛び付いた。
「パパ、おかえりなさい!」
「ただいま、美玖。ほら、まだご飯途中だろう? ちゃんと座って食べないと」
「はーい」
頭を撫でられ座らされた美玖は素直に返事をしてまた食べ始める。その隣に座った洋司も手を合わせてスプーンを手にはしたものの、なかなか口に運ぼうとはしない。
詩月はますます心配になり思い切って尋ねる事にした。
「あの、何かあったんですか?」
「……いや、大丈夫だよ。すまないね」
「大丈夫って感じでは……話、聞くくらいしか出来ないですけど、もし僕で良ければ言ってみませんか?」
洋司は眉尻を下げて溜め息をつくと、一生懸命にカレーを頬張る美玖を見下ろし彼女の小さな頭を撫でる。それから詩月に視線を移し困ったように微笑むとスプーンを置いて首を竦めた。
「本当に些細な事なんだよ。少し仕事でトラブルがあってね。幸いすぐに修正出来たし大きな問題にはならなかったけど……少しだけ、元義父の会社の事を思い出したんだ」
「元義父の会社?」
「そうか、詩月くんは龍惺にも聞かないでいてくれたんだね。……元義父の会社が社員の横領にあって倒産してこっちに来たんだけど、その倒産理由を俺のせいにされてたんだ」
「え?」
「他所の俺が婿入りしたせいだって。あの時とは違うのに、その言葉を思い出して少し自信をなくしてしまってね。落ち込んでいたんだよ」
一番上に立つ人は全部の責任を負わなければいけない。龍惺もそうだが、洋司も同じで、何かあれば対応しなければいけないのは当然だ。
ただ一度でも身内になった人からそんなひどい言葉を浴びせられて、少なからず洋司の心にはトラウマのようなものが残っているのだろう。
詩月はもし龍惺が洋司の立場だったら、と想像してしまい悲しくなった。
「立川さんが苦しむ必要なんてありません。そんな心無い言葉に傷付く方が勿体ないです。龍惺言ってました、洋兄はすごい、見習わなきゃいけないところがいっぱいあるって。あの龍惺がそんな事を言うんですよ。自信持って下さい」
「詩月くん……」
「パパはすごいよ! みくのパパだもん!」
「そうだよね、美玖ちゃんのパパすごいよね」
「うん!」
カレーを食べ終わり口の周りを汚した美玖が分からないながらも手を挙げて同意してくる。それに大きく頷くと、ぽかんとしていた洋司が気が抜けたように微笑んだ。
「ありがとう、二人とも」
洋司も食事を終えた今、詩月は後片付けを始めていた。龍惺はまだ来ないし、シンクを綺麗にする時間はあるため残ったカレーはタッパーに入れて鍋も洗ってしまう。
美玖はお絵描きをしているようで、出来上がるまでは秘密らしく洋司もキッチンに追いやられていた。
無意識か、小さく息を吐いた洋司にクスリと笑うと気付いた洋司が頭を掻く。
「自分でも思った以上に疲れてるみたいだ」
「社長さんって本当に大変ですよね」
「こういう時、支えてくれる人がいればなと思うよ」
「大丈夫ですよ。美玖ちゃんと立川さんの事をしっかり支えてくれる人、いつか現れるはずですから」
「…………」
洗い物を終え水を止めて手を拭きシンク周りの水気を拭き取っていると、不意に背中に暖かいものを感じて目を見瞠る。腹部に洋司の腕が回され軽く抱き締められた。
「……!」
「君は?」
「え……」
「君は、美玖を大切にしてくれているだろう? 俺の事も大切だと思ってはくれないのかな…」
洋司の言葉が明らかな意図を含んでいる事に気付いた詩月の身体が強張る。良くない状況に心臓が重く脈打ち始めた。
いつだったか龍惺が言っていた、警戒心を持てとの言葉が頭を過ぎり慌てるが、これは明らかに予想外だ。
詩月は勢い良く振り返り洋司の胸元を押し返して首を振る。
「龍惺が大切にしてる人は僕も大切です。美玖ちゃんも立川さんも、龍惺にとっては大切な家族だから……」
「……詩月くんは本当に、龍惺が好きなんだね」
「世界で一番大好きな人です」
どれだけ素敵で魅力的な人がいても絶対に彼には敵わない。詩月にとって龍惺は唯一無二の存在だ。
洋司は目を伏せてふっと笑うと、手を伸ばして詩月の頬に触れようとして途中で止めた。
「龍惺が羨ましいよ」
「…………」
ポツリと零された言葉に詩月はどう答えたらいいか分からずに戸惑う。けれど何かを言う前に美玖が洋司を呼び、彼はリビングへと去って行った。
何かあったらどんな事でも言え、と事ある毎に言ってくれる龍惺にこの事は話すべきなのだろう。だが洋司を慕う龍惺の気持ちを考えたらとてもじゃないが言えそうにない。
詩月は頭の中でグルグルと回る思考に唇を噛み俯いた。
「なぁ、詩月。ここで一緒に住まねぇ?」
お土産の選別をし、洗って乾燥機に掛けていた洗濯物をリビングで畳んでいた詩月はキョトンとする。
ソファに座っていた龍惺が直に床に座る詩月の隣に来て胡座を掻いた。
「平日は洋兄の家からここに来るだろ? 土日もそのままいる事多いし。使ってねぇ部屋あるし、何なら隣の部屋使ってもいい」
「隣の部屋は寂しいから嫌、かな…」
「じゃあ……」
「あ、でも今すぐは無理だよ?」
「分かってるって」
大抵の物件が退去申告は一月前にするようにと決まっている。荷物を纏めなければいけないし、掃除もしなければいけない。
そんなに汚れたりするような部屋の使い方はしていないけれど、少しでも退去費用を抑えられるならするに越した事はないのだ。
詩月は止まっていた手を再び動かして畳む作業を開始する。
「業者は俺が手配する。家電の梱包とかも頼めるし、必要ないもんは処分してくれっから」
「う、うん。……龍惺、ちょっとご機嫌?」
明るい声色で教えてくれる龍惺に首を傾げて問い掛けると、一瞬ピタッと止まったあと気恥しいのか少しだけ膨れっ面で抱き着いてきた。
「そりゃ、当たり前だろ。お前と暮らせんだから、テンションも上がるっつの」
「……ふふ、龍惺のそういうところ、可愛いと思うよ」
「やめろ。図体のでけぇ男に可愛いとか言うな」
「えー?」
どれだけ身体が大きくても、どれだけカッコよくても、ふとした時に可愛いと思えるのは恋人の特権だろう。
それに、本当にそう思うのだから仕方ない。
詩月は今度は憮然として額をグリグリと擦り付けてくる龍惺の頭を撫でて微笑んだ。
「さようならー」
「さようなら」
「美玖ちゃん、また明日ねー」
いつものように園へ美玖を迎えに行き保育士たちへ挨拶をして別れた帰り道、ご機嫌で童謡を歌っている美玖に微笑み顔を覗き込む。
「美玖ちゃん、楽しそうだね」
「あのね、さくらちゃんがね、お兄ちゃんのことすてきだねって言ってたんだよ」
「本当? 嬉しいな」
「みくもね、お兄ちゃんだいすきだからうれしい」
「僕も美玖ちゃんが大好きだよ」
まるで自分の事のように喜んでくれる純粋な美玖に和みながら応えると、ほんのり頬を染めて照れ笑いを浮かべる。
すっかり自分に懐いて信頼してくれた美玖に嬉しい半面、最近の洋司が自分へ向ける眼差しが少しだけ気になっていた。
決定的な事は何もないとはいえ、あの目には覚えがある。
(……龍惺と初めて会った時の目に似てる)
昇降口での顎クイ事件は強烈過ぎて絶対に忘れられないのだが、その時に龍惺が向けて来た目と洋司の目が何となく似ている気がするのだ。
(気のせい、だよね。親戚だから似てるだけで)
出来ればそうあって欲しい。龍惺にさえ戸惑ってしまったのだ、洋司の事は龍惺の身内としてしか見ていない詩月に仮にそんな目を向けられていたとしても、ただ困るだけだ。
「ねぇお兄ちゃん」
「うん? どうしたの?」
「きょうはね、カレーがいいな」
「カレー? じゃあお買い物して帰ろうか」
「おやつは?」
「一つだけね」
「やったー」
呼び掛けられてハッとした。美玖といる間はこの子をちゃんと見ている事が詩月のするべき事だ。
洋司の件は自分の勘違いだと思う事にした詩月は、美玖の手を握り直し近くのスーパーへと向かった。
部屋中にカレーの良い匂いが充満している。
美玖に食べさせている間に洗濯物を畳みお風呂の準備をするのだが、今日はその前に洋司が帰宅して来た。
驚いて出迎えたがその表情はどこか暗く疲れ切っていて詩月は目を瞬く。
「あの、おかえりなさい」
「……ただいま。良い匂いがするね、カレーかな」
「あ、はい。食べますか?」
「そうだね、頂くよ」
笑顔にも声にも覇気がない。体調でも悪いのかと気になりながらも洋司の分を準備してテーブルに置く。
部屋着に着替えた洋司が戻って来ると、美玖が笑顔で飛び付いた。
「パパ、おかえりなさい!」
「ただいま、美玖。ほら、まだご飯途中だろう? ちゃんと座って食べないと」
「はーい」
頭を撫でられ座らされた美玖は素直に返事をしてまた食べ始める。その隣に座った洋司も手を合わせてスプーンを手にはしたものの、なかなか口に運ぼうとはしない。
詩月はますます心配になり思い切って尋ねる事にした。
「あの、何かあったんですか?」
「……いや、大丈夫だよ。すまないね」
「大丈夫って感じでは……話、聞くくらいしか出来ないですけど、もし僕で良ければ言ってみませんか?」
洋司は眉尻を下げて溜め息をつくと、一生懸命にカレーを頬張る美玖を見下ろし彼女の小さな頭を撫でる。それから詩月に視線を移し困ったように微笑むとスプーンを置いて首を竦めた。
「本当に些細な事なんだよ。少し仕事でトラブルがあってね。幸いすぐに修正出来たし大きな問題にはならなかったけど……少しだけ、元義父の会社の事を思い出したんだ」
「元義父の会社?」
「そうか、詩月くんは龍惺にも聞かないでいてくれたんだね。……元義父の会社が社員の横領にあって倒産してこっちに来たんだけど、その倒産理由を俺のせいにされてたんだ」
「え?」
「他所の俺が婿入りしたせいだって。あの時とは違うのに、その言葉を思い出して少し自信をなくしてしまってね。落ち込んでいたんだよ」
一番上に立つ人は全部の責任を負わなければいけない。龍惺もそうだが、洋司も同じで、何かあれば対応しなければいけないのは当然だ。
ただ一度でも身内になった人からそんなひどい言葉を浴びせられて、少なからず洋司の心にはトラウマのようなものが残っているのだろう。
詩月はもし龍惺が洋司の立場だったら、と想像してしまい悲しくなった。
「立川さんが苦しむ必要なんてありません。そんな心無い言葉に傷付く方が勿体ないです。龍惺言ってました、洋兄はすごい、見習わなきゃいけないところがいっぱいあるって。あの龍惺がそんな事を言うんですよ。自信持って下さい」
「詩月くん……」
「パパはすごいよ! みくのパパだもん!」
「そうだよね、美玖ちゃんのパパすごいよね」
「うん!」
カレーを食べ終わり口の周りを汚した美玖が分からないながらも手を挙げて同意してくる。それに大きく頷くと、ぽかんとしていた洋司が気が抜けたように微笑んだ。
「ありがとう、二人とも」
洋司も食事を終えた今、詩月は後片付けを始めていた。龍惺はまだ来ないし、シンクを綺麗にする時間はあるため残ったカレーはタッパーに入れて鍋も洗ってしまう。
美玖はお絵描きをしているようで、出来上がるまでは秘密らしく洋司もキッチンに追いやられていた。
無意識か、小さく息を吐いた洋司にクスリと笑うと気付いた洋司が頭を掻く。
「自分でも思った以上に疲れてるみたいだ」
「社長さんって本当に大変ですよね」
「こういう時、支えてくれる人がいればなと思うよ」
「大丈夫ですよ。美玖ちゃんと立川さんの事をしっかり支えてくれる人、いつか現れるはずですから」
「…………」
洗い物を終え水を止めて手を拭きシンク周りの水気を拭き取っていると、不意に背中に暖かいものを感じて目を見瞠る。腹部に洋司の腕が回され軽く抱き締められた。
「……!」
「君は?」
「え……」
「君は、美玖を大切にしてくれているだろう? 俺の事も大切だと思ってはくれないのかな…」
洋司の言葉が明らかな意図を含んでいる事に気付いた詩月の身体が強張る。良くない状況に心臓が重く脈打ち始めた。
いつだったか龍惺が言っていた、警戒心を持てとの言葉が頭を過ぎり慌てるが、これは明らかに予想外だ。
詩月は勢い良く振り返り洋司の胸元を押し返して首を振る。
「龍惺が大切にしてる人は僕も大切です。美玖ちゃんも立川さんも、龍惺にとっては大切な家族だから……」
「……詩月くんは本当に、龍惺が好きなんだね」
「世界で一番大好きな人です」
どれだけ素敵で魅力的な人がいても絶対に彼には敵わない。詩月にとって龍惺は唯一無二の存在だ。
洋司は目を伏せてふっと笑うと、手を伸ばして詩月の頬に触れようとして途中で止めた。
「龍惺が羨ましいよ」
「…………」
ポツリと零された言葉に詩月はどう答えたらいいか分からずに戸惑う。けれど何かを言う前に美玖が洋司を呼び、彼はリビングへと去って行った。
何かあったらどんな事でも言え、と事ある毎に言ってくれる龍惺にこの事は話すべきなのだろう。だが洋司を慕う龍惺の気持ちを考えたらとてもじゃないが言えそうにない。
詩月は頭の中でグルグルと回る思考に唇を噛み俯いた。
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