焦がれし星と忘れじの月

ミヅハ

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【十六ノ月】母襲来

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『……は? 何だよこれ』
『詩月さんからです。龍惺さんに返して欲しいと……』
『…………何で』
『……………理由は、龍惺さんが一番知っているでしょう?』
『……違う、俺はそんなつもりじゃ……』
『じゃあどういうつもりだったんですか? 散々言ったじゃないですか、龍惺さんがしてる事は、詩月さんを傷付けてるだけだって』
『俺は、俺はただ……あいつに……』
『…………』
『……詩月…っ…』




「……っ!」

 ビクリと大きく身体が跳ねて目が覚めた龍惺は、その勢いのままに起き上がりしばらく呆然と自分の手の平を眺めた。
 今もまだ、あの時に感じたキーホルダーの重さを覚えている。
 右手で額を押さえ大きく溜め息をついた時、隣で身動いだ気配がしてようやく自分がいる場所に気付いた。
 ここは詩月の部屋で、昨夜泊まりに来たのだと。

「……ん……りゅ、せい……?」

 掠れた声に名前を呼ばれ、視線を下ろすと寝惚け眼の詩月がこちらを見ている。それにようやくホッとして柔らかな髪を撫でるとそっと手が握られた。

「どうしたの……?」
「…いや、何でもねぇよ」
「……もしかして、怖い夢でも見た?」
「怖い夢……」

 怖い夢と言われれば確かにそうかもしれない。あの瞬間は、龍惺にとってもっとも恐怖した時だ。あのあとしばらくは詩月がいない現実を受け入れられず、誰に言われても何もする気になれなかった。
 目を伏せて考えていると、不意に細い腕が二本伸ばされる。パチッと目を瞬くと寝起きでふわふわしている詩月が「おいで」と微笑んだ。
 誘われるまま近付くと頭を抱き込まれ優しく撫でられる。

「もう怖くないよ、大丈夫」
「…………」
「僕が傍にいるから」

 柔らかい声と暖かい腕と耳に聞こえる心地良い心音に、龍惺の強張った心が解れていく。
 縋るように背中に腕を回した龍惺は、詩月の匂いに包まれながら目を閉じてそれに甘える事にした。

 そのまま二人して寝落ちてしまい、遅刻寸前になったのはここだけの話。





 今日の瀬尾は少し執拗い。
 ギリギリだったとはいえ、遅刻はしなかったのだからそこは大目に見てくれてもいいだろうに。

「貴方、スケジュールは頭に入っていると言っておきながら、朝一の会議にギリギリなのはどうかと思いますよ」
「だから、それは謝っただろ。次からは気を付けるって」
「大体、詩月さんの家に泊まるから遅刻しそうになるんです。離れ難いんでしょう?」
「そりゃまぁ……居心地良いし、癒されるし」

 今朝は特に気持ちが穏やかになった。その時の事を思い出し表情を緩めると、物凄く嫌そうな顔をした瀬尾がとんでもない事を言ってきた。

「詩月さんに無体な事してないでしょうね?」
「するか! 第一まだそんな関係じゃねぇ!」
「……え、そうなんですか? てっきり……。というか龍惺さん、我慢してるんですか?」
「あ? ……まぁ、正直決壊しそうだけどな」
「あの龍惺さんが、我慢……」

 信じられないと言いたげな瀬尾にどついてやろうかと顔を引き攣らせた龍惺だったが、どうにか収めてペラペラとカレンダーを捲ると、目当ての月を瀬尾に見せたあと日にちを指先で示して睨み付けた。

「それよりも、こことここ、絶対休みにしろよ。その前ならどんだけ詰めても文句言わねぇから、この二日だけは絶対空けろ」
「はいはい、分かってます。行く場所は決めてるんですか?」
「まだ。でも宿も取んねぇとだし、早めに決める」
「大まかな予定を教えて頂ければ検索しておきますが」
「いや、いい。これは俺がやる」

 これは龍惺にとっても特別な事だ。人に任せるなどとんでもない。
 捲ったカレンダーを戻しながらキッパリと言い切る龍惺に瀬尾はふっと笑うと、ずっと腕に抱えていた書類の束を差し出した。

「では、まずはこちらから片付けて頂きましょうか」



 夜、擦れ違う社員と挨拶を交わしながらエントランスに向かっていると、何やら出入口付近が騒がしい事に気付いた。まだ残っていたらしい重役連中が誰かに頭を下げている。
 誰か偉いさんでも来てるなら挨拶でもと思い近付いた龍惺は、中心にいる人物に気付いて思わず「ゲッ」と声を上げてしまった。

「お、おふくろ……」
「あら、龍惺。やっと来たのね」
「社長、お疲れ様です」
「お疲れ様です。… 仕事の邪魔になりますから、行きましょうか」

 社員がいる手前表情を崩す訳にもいかず、いつもの爽やかな笑みを浮かべて挨拶をすると、クスクスと笑う母親の背中を押して扉の方へと向かう。めったに姿を見せない会長夫人に沸き立っていた重役たちは残念そうにしていたが、生憎とこの作り笑いで母親と話したくはない。

「ではみなさん、不肖の息子ですけど、これからもどうぞ宜しくお願い致します」
「こちらこそ今後とも宜しくお願い致します」
「ぜひまたお越し下さい」
「失礼致します」

 またがあってたまるかと内心毒づきながら努めてにこやかに外へ出ると、社員が見えなくなる場所まで進んでから盛大に息を吐いた。面白そうに目を細めている母親に怪訝な顔をすればわざとらしく肩を竦められる。

「そんなに怖い顔をしないで、男前が台無しよ」
「誰がそうさせてんだ。来るなら来るって連絡しろよ」
「あら、突然行くからいいんじゃない」
「何がだ」
「龍惺の困り顔が見れるから」
「…………」

 さすがはあの父親の嫁である。龍惺は呆れたように首を振り、来てしまったものはしょうがないと諦めることにした。

「で? 何しに来たんだよ」
「決まってるじゃない。貴方のスーツを新調しようと思って」
「はぁ? いいよ、いらねぇよ」
「貴方も自分のスーツくらい自分で仕立てられるようになりなさいね」
「いやだから、それこそ腐るほどあるんだって…」
「ほらほら、行くわよ」
「聞けよ!」

 玖珂 早苗くが さなえ。我が母親ながら一緒にいると本当に疲れる。
 これ以上は言っても無駄だと心を無にする事にし、龍惺は腕に絡まり着く母に引き摺られるまま駐車場へと向かった。
 危うく助手席に乗り込みそうな早苗を後部座席に乗せ、ブツブツと文句を言われながらも目的地へと車を走らせる。通りにあるコインパーキングに停めて車を降りた途端また詰め寄られた。

「龍惺、母を後部座席に乗せるなんてどういうつもり?」
「だから、助手席はダメなんだって」
「その理由を説明しなさいって言ってるの」
「………………俺の車の助手席に乗っていいのは、詩月だけなんだよ」

 母親にこういう話をするのは殊更に恥ずかしい。照れ臭さからほんのり目元を染めて吐き捨てるように言った龍惺に、早苗は驚いた顔をしたあと「あらあら」と言いながら嬉しそうに頬を緩めた。
 唐突に伸びた手に勢い良く頬を挟まれビクッとする。

「やだわ、この子ったらそんな純情なところがあったなんて」
「な、何が……っつか離せよ…っ」
「そうなの、詩月さんのねぇ……」
「やめろ、そのニヤニヤした顔」
「あの龍惺にこんな顔をさせるなんて、どんな子なのかしら。会ってみたいわ」
「だから人の話を……」

「龍惺?」

 顔から手を離そうとしない早苗の手首を掴み引き剥がそうとするが、生憎と母の力はそれなりに強い。舌打ちしながら攻防していると、不意に聞き覚えのある声に名前を呼ばれ龍惺は慌てて振り返る。

 そこには、どこか不安そうな表情で首を傾げる詩月が立っていた。
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