焦がれし星と忘れじの月

ミヅハ

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【四ノ星】雨

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 あのフリーマーケットでの邂逅以来、詩月は事あるごとに龍惺の顔や声を思い出していた。それでも気付いた時には振り払い、新しく受けた仕事に没頭してはいたのだが、やはりふとした時に浮かんで胸が苦しくなる。
 自分から手を放したのに、勝手すぎる自分が嫌だった。

 現在、バイトには真っ直ぐ行って真っ直ぐ帰るを繰り返していて、それ以外は外出もせず描く作業をしていたせいか二週間もすれば家の中にインスタント食品さえもなくなり、さすがに空腹のままでは描けない詩月は久し振りに買い物に行く事にした。
 だがこういう時こそツイていないのが詩月である。

「嘘……気付かなかった」

 どれだけ集中していたのか、朝には晴れていたのにいつの間にか雨が降り出していて詩月は溜め息を零して傘を手に歩き出す。だがようやく辿り着いた行きつけのスーパーは改装のために休業しており、仕方なく駅の方まで行く羽目になってしまった。
 雨が降っているというだけで憂鬱なのに、いつもより距離を歩いて食材を買いに行かなければいけないなんて。
 そういえば、あの日もこんな雨が降ってたな。




 ―八年前―


 深夜から降り注ぐ雨は一向に止む気配がなく、通学路の窪みや学校のグラウンドに水溜まりを作っていた。
 誰もいなくなった放課後の教室に一人残っていた詩月は、窓から暗い空を眺めて息を吐く。
 待っていてと言われたけれど、きっと彼は今、自分ではない誰かと一緒にいて睦み合っているのだろう。
 付き合い始めて一年、いつから彼はこんな風になってしまったのか。
 いや、そもそも自分が彼の恋人になれた事が間違っているのかもしれない。
 詩月はもう一度息を吐いた。今が夢ならどんなにいいかと。
 その時、賑やかな話し声と共に教室の扉が引かれ詩月は驚いた。
 待ち人ではなかったけれど、あまり会いたくない男子生徒が二人、詩月を認めるなり眉を顰める。

「何でコイツいんの?」
「あれじゃね? 玖珂先輩待ち」
「ああ。ってか玖珂先輩、さっき美人な先輩といなかった?」
「いたいた。……って事はアイツ、待ちぼうけ?」
「それか忘れられたか」

 龍惺と付き合ってから、こういった中傷や嫌がらせをされるようになった。元々カースト上位どころかトップにいるような人だ、そんな人が自分のような取り柄のない男を選んだ事で目を付けられてしまったらしい。
 元カノだとかセフレだとかを名乗る人に不釣り合いだと言われている。

「お前みたいなのに、玖珂先輩は勿体ないって」
「さっさと別れりゃいいのに」
「絶対あさみ先輩の方がお似合いだしな」
「それ分かる。あさみ先輩スタイルいいもんなー。美人だし」
「俺もあさみ先輩抱きてー」

 〝あさみ〟というのは、いつも龍惺の隣にいる女生徒の事だろう。確かに彼女は美人でスタイルもいい。だけど、恋人は詩月だと言っていたから。

「ホント、お前とは大違い……」
「何が?」
「!?」

 嘲笑うように発せられた言葉を遮る低い声に、詩月も男子生徒も身体を揺らす。特に男子生徒は狼狽え、自分たちの背後に立つ龍惺を振り返れもしない。

「あさみ抱きてぇならお願いすれば? アイツ、誰とでも寝るし」
「や、いえ、えっと…」
「そ、そういうつもりじゃ……」
「へぇ? じゃあどういうつもりで名前出したんだ? まさか、コイツを貶めるためにじゃねぇよな?」
「あ、あの……」
「……チッ。男のくせにおどおどしやがって、鬱陶しいんだよ。さっさと消えろ」
「は、はい…!」
「失礼しました!」

 睨み付けられ、弾かれたように男子生徒たちはバタバタと去って行った。
 見えなくなるまで鋭い目で見ていた龍惺は、詩月に視線を移すと途端に目元を和らげる。窓の前で俯く詩月はその表情を見られなかったが、名前を呼ぶ声が優しい事は分かった。

「詩月。悪い、遅くなった」
「……ううん」
「何もされてねぇ?」
「うん」

 頬に触れる指は優しいのに、そこから香る匂いには胸が痛む。
 やっぱり、誰かといて、その人と身体を重ねていたんだ。
 詩月は唇を噛むと抱き締めようとする龍惺の胸元を押し返した。

「詩月?」
「……どうして、そんな事するの?」
「え?」
「どうして僕以外の人を抱くの?」

 これで何度目だろう。もうしないって思ってたのに、どうしてまた。
 龍惺は震える詩月の手を握りどこかソワソワした様子で顔を覗き込んでくる。

「詩月」
「ねぇ、龍惺。僕だけじゃダメなの? 僕じゃ…」
「そんな事ねぇよ」
「じゃあどうしてこんな事…!」
「……怒ったのか? 妬いた?」
「怒るし、妬くに決まってるでしょ!」
「そうか」
「……? 何でそんな顔……」

 見上げた先で目に写った龍惺の表情に、詩月は戸惑いが隠せなかった。




(あの時、何で笑顔だったんだろ……)

 八年経った今でも分からない。
 こっちは怒っているのに、微笑んで違う人の匂いを纏いながら抱き締めて、何がしたかったのか。

 それにしても、雨の日の足取りは重く良く行く駅の道でさえ途方もなく感じる。

「詩月」

 雨音に混じって名を呼ばれた気がした。だけど、さっきまで思い出していた声が幻聴になって聞こえただけだろう。
 そう結論付けて歩き続けると、再び呼ばれて今度こそ足を止めた。
 違う、これは幻聴などではない。

「雨ん中どこにいくんだ?」

 すぐ後ろで三度声がかけられる。雨が降って視界も悪い上に傘を差しているのに、どうしてこの人は自分を見付けられるのか。

「詩月?」
「……ぁ、スーパーに…」
「スーパー? ああ、確かこの先にあったな」
「…………」
「乗れよ。送ってやる」
「え? で、でも……」
「雨、今からまた強くなるぞ。いいから、ほら」
「あ…」

 腕を掴まれ問答無用で路肩に停めてあった白い車に乗せられる。傘は閉じられて渡された。
 すごい、左ハンドルだ。
 運転席側に回り込んだ龍惺が乗り込み、シートベルトを掛けるのを見て自分も慌てて引っ張る。けれど車どころか助手席が初めての詩月は上手く引き出せない。
 それを見た龍惺は一度シートベルトを外して身を乗り出し、変わりに引いてカチッと嵌めてくれた。

「あ、ありがとうございます」
「ああ」

 車の中は龍惺の好きな香水の匂いに満ちていてクラクラしてきた。
 ゆっくりと車が発進し、歩いて行くはずだったスーパーへの道のりがあっという間に通り過ぎる。詩月はチラリと龍惺を見た。
 車を運転する姿は初めて見るが何でも似合ってしまう人だ、素直にカッコイイと思う。

(悔しいな……)

 どうやったって好きな気持ちがなくせない。鍵をかけたはずなのにどこからか漏れてくる。

(龍惺……)

 本当は名前を呼びたいけれど、呼んだら全てが無意味になってしまう。
 だからせめて心の中だけで呼ばせて欲しい。
 詩月は目を閉じて、あの頃何度も呼んでいた彼の名前を心中で呟いた。
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