DEAREST【完結】

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第188話 NAGI

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 鮮明に焼きつく海の青。だけど、あの時は初めて見る海に感動する事も忘れて、ただただ不安と戦っていた。
 今から自分がどうなるかも、タキとフロル、それにリサさんにもう一度会えるのかも分からずに。
 初めて見る首都の街並みに、声も出なかったのを覚えている。
 たくさんの建物に、大勢の人々。そこには畑なんか見当たらず、足元の舗装された道さえも不思議でたまらなかった。
 土もない。木もほとんどない。鳥の声も聞こえない。なのに、空の広さは変わらなくて、誰一人空なんか見ていないのに、僕はただ一人上を見上げていた。
 これが首都。
 ぼーっとした僕の手を、男の人が引っ張る。
「ほら、ちゃんと前見て歩け。ぶつかるぞ」
「うん」
「お前、名前は何だったかな?」
「ナギ」
「ナギか……。確かにあいつの面影はあるな」
「あいつ?」
「お前の父親だ。俺は一緒に働いていたソルという者だ」
「ソル」
「ああ。よろしくな」
「オレはお前の親父と同じで、細工師のソガだ。よろしくな」
 少し前を歩いていたもう一人の男の人が振り返って言った。
「さいくしのそが?」
「ソガ。細工師っていう職業だよ」
「ソガ」
 細工師というのが何だか分からないまま、男の人達の話はどんどん続いた。
「俺は今は坊っちゃんの世話係なんだが、旦那様がお前の父親が作った物を大層気に入っててな」
「うん」
 分からない単語を聞き返す間もなく、僕は話についていくのに必死で。
「あまりに長く帰って来ないもんだから、ずっと捜してたんだよ。でもまあ、十年も経っちまってるからみんな諦めてたけど」
「うん」
「けどつい先日海を渡ったらしいという話が耳に入って、クロッカスまで行ったってわけだ」
 ソルさんとソガさんはそこで村長さんに僕を押しつけられたと言った。雑用くらいなら与えて貰えるから安心しろと僕の頭をがしがしと撫でるソルさん。
 僕が分かったのは二人が父の知り合いだったという事だけだった。
 結局、何故父がクロッカスに来たのかも、何故首都へ帰らなかったのかも謎のまま、僕達は目的地についた。
「ちゃんとご挨拶するんだぞ」
「うん」
 大きな屋敷についた途端、緊張が増して怖くなってきた僕は繋いだソルさんの手をぎゅっと握った。それに気づいたソルさんは今度はポンポンと優しく僕の頭を撫でる。
「そんなに緊張すんなって。旦那様はとてもいいお方だ。お行儀よくしてりゃ大丈夫だよ」
「……うん」
 ちゃんとご挨拶。お行儀よく。僕は何度も頭の中で繰り返す。
「あら、こんにちは。随分可愛らしいお客様ね」
 広い部屋に大きなテーブル、椅子に座ってお茶を飲んでいた女の人が僕に話しかける。
「こんにちは」
 ちゃんとご挨拶。僕はしっかりとそう返した。
「お名前は?」
「ナギ」
 僕がそう言うとソルさんとソガさんがパッと前に出て経緯を説明し始めた。僕はその場に突っ立ったままぼんやりそれを見ていた。すると、女の人は立ち上がって僕に近づいて来た。見たこともないようなドレスを着ているとても綺麗な女の人。女の人は少しだけ屈んで僕と視線を合わせる。
「ナギ君、主人は今お仕事で出掛けているの。でも、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ」
「うん。でも、僕は何をすればいいの?」
 僕がそう聞くと、二人はぎょっとしたような顔をした。
「そうねぇ、ナギ君あなたおいくつ?」
「十歳」
「あら、息子の一つ上なのね。もう少し上かと思っていたわ」
「子どもがいるの?」
 僕はタキとフロルの事を思い出した。子どもがいる事を聞いて、何だか少しだけほっとした。
「ええ、話し相手になってくれるかしら? あの子も喜ぶわ」
「うん!」
「ふふ、よろしくね。後はそうねぇ、ソルのお仕事を手伝ってあげてね」
「うん!」
 女の人は僕の頭をそっと撫でた。その手は少しリサさんと似ていて、何だか胸がしめつけられる。
 僕は息子さんに挨拶をしに行く為に部屋を出た。そこでソガさんと別れ、ソルさんと二人で広い屋敷の中を歩く。
「お前、ちゃんとご挨拶しろって言っただろ? 内心ヒヤヒヤしたぞ」
「え?」
 僕は首を傾げる。この頃敬語を使う事を知らなかった僕は、きちんと返事をすればちゃんとしているって事だと思っていた。でも、それがアランと仲良くなれるきっかけだなんて思わなかったよね。
「あ」
「え?」
「今からアラン坊っちゃんにお会いするが今度こそ失礼のないようにな」
「うん。ソル、失礼のないようにってどうしたらいいの?」
「うーん……どうって言われてもなぁ」
 アランの部屋の前で、ソルさんは腕を組んでうなる。
「アランにもさっきみたいに挨拶するのじゃダメなの?」
「それがダメなんだって! アラン様だアラン『様』!」
「アランサマ?」
「そう。あとは、名前を聞かれたら」
「ナギ」
「じゃなくて」
「僕ナギだよ」
「いや、そうだけど。んー、あ! じゃあ今から俺が言った事を覚えるんだ。それ以外喋るなよ?」
 僕は頷く。
 部屋に入ってびっくりした。自分より年下の子どもってだけで、小さな子がいるのだと思ったから。自分が普通より大きい事も知っていたし。
「誰だ?」
 よく通る声。僕より少しだけ低い身長。だけど、子どもとは思えない程堂々とした出で立ちで。ソルさんが話している声も聞こえなくて、肩を叩かれてやっと我に返る。
「ほら、坊っちゃんにご挨拶をしなさい」
「うん。じゃあ今から俺が言った事を覚えるんだ。それ以外喋るなよ。ナギと申します、よろしくお願いします。これ以外は余計な事は言わなくていいからな」
「…………」
「…………」
 ソルさんとアランが固まる。
「……首都の挨拶って長いね」
 ソルさんが額に手を当てて呆れている。アランはぽかんとしていて、僕はそんな二人を見て首を傾げていた。
「『ナギ』と言うのか?」
「うん」
 アランが僕に近づいて見上げてくる。変わらないその表情に少し緊張した。
「坊っちゃん、申し訳ございません。まだ田舎から出てきたばかりで」
「いや、いい」
「ですが」
「ナギ」
「何? アランサマ」
「アランでいい」
「『アラン』」
「それでいい」
 アランはそう言って、また戻って椅子に座って本を読み始めた。部屋を後にした僕達は、今度はまた一階へ降りていく。その間、僕はずっとソルさんに怒られ続けた。
「ごめんなさい」
「はぁ、先が思いやられるよ。とりあえず、俺とお前は同室だし今日はみっちり教えてやるよ」
「挨拶を?」
「挨拶はもういいって」
 ソルさんはため息をつく。
 屋敷の中を一通り案内して貰った。僕の仕事は、アランの身の回りの世話らしい。その他に、ソガさんの仕事も手伝う事になった。これは父の才能を受け継いでるかもしれないという事だった。
 細工師が何かも分かってなかったけど、それでも、仕事を与えて貰えるのは嬉しかった。初日は教えて貰う事を覚えるのに精一杯で周りを見る余裕なんてなかった。
 ヒソヒソと話すみんなの声なんて、まったく聞こえてなかった。
 僕がもっと、ちゃんと気づいていればあんな事は起こらなかったのかも知れない。
 ソルさんには息子さんがいた。代々この家に仕えていて、坊っちゃんの話し相手にも息子がなるはずだった。そう聞いたのはもっと先の話。
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