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パン屋と最推しと俺

21話 パン屋の王子様

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 俺の腕を掴んだ、ひんやりとした手のひら。振り向いた瞬間、目に入る美しい男。甘いパンの香りを漂わせた王子様は、エプロンすらも素敵に着こなしている。

「待って下さい!お客さまっ」

 まるで焼きたての食パンのようにふんわりと暖かく微笑んだユピテル様は、俺なんかに向かって「お客さま」と声をかけてくださる。よくわからない状況に俺の頭は混乱する。まだ何も処理しきれていない脳が最推しを目の前にして、身体や思考、呼吸すらも停止させた。

「少しいいですか?」

 こてん、と首を傾げられ少しだけ上目遣いで言葉を放たれた衝撃は、トラックや馬車に轢かれたのと同じくらいの衝撃だ。
 このお人は可愛さで俺を殺そうとしているのか?

 驚きながらも声の使えない俺は、とにかくコクコクと頷いて、導かれるままパン屋の奥の扉の中へと吸い込まれていった。パンを作っているであろう場所を横切って入ったそこは、部屋があった。ワンルームと例えるとわかりやすいだろうか。ベッドとキッチン、棚やシェルフがいくつかあり、小さなテーブルと二人分の椅子、それから一輪の花、おそらくお手洗いがあるであろう扉。決して広くはないが生活するには十分な部屋だ。前世の俺にとって馴染みのある平凡だがまとまりのある部屋に招かれ、側にいるユピテル様に狼狽える。

「すみません、突然。知らない男の部屋なんかに上げられたら怖いですよね…」

 そんなことありません!二つの意味で!
 という思いを持って、食い気味にブンブンと頭を横に振る。
 だって、俺は貴方をよく知っていますし、というか昨日もお会いしましたし! 
 あと、よくわからないけどユピテル様のお部屋?に上げていただけてとても光栄ですし、嬉しいですし、幸せですよ⁉︎
 だから、怖いとか、知らない男とか、そんなこと全くないです!
 ましてや俺なんかに謝らないで下さいぃい…。

「あっ、ちがっ、そんな不安にさせるつもりじゃなくてっ!」

 俺が一人でテンパっていると、今度はパン屋なユピテル様も慌てはじめた。
 俺、お得意のポーカーフェイスが崩れていたのだろうか?
 その、確かに、言いようのない不安感には駆られていますが、、。

「これ!これを渡したくて…」

 ずいっと紙袋を渡され、おずおずと受け取る。覗いてみるようにと促され、中を覗く。ほんのりと香る甘い匂い。そこには紙に包まれたパンが一つ入っていた。俺は思わず、がばっと顔を上げてユピテル様を見た。

「クロワッサンです。貴方に食べていただきたくて取っておきました。受け取っていただけると嬉しいです」

 恥ずかしそうにポリポリと頬をかきながらそう言う。ずっと求めていたものが手に入った喜びに、胸が熱くなる。衝動のままに、パンを潰さないよう優しく紙袋を抱きしめ、ぺこぺこと感謝を伝えるために何度も頭を下げた。

「ふふっ、そんなに喜んでくれるなんて。嬉しいな」

 またも照れくさそうにするユピテル様は、いつもの冷徹な瞳をしていない。不思議なことに、彼はユピテル様のようで、ユピテル様にはちっとも似ていないのだ。よくよく考えてみれば、ユピテル様に買ってこいと言われたパンをユピテル様に貰うなんておかしな話だ。一体どういうことなのだろうか。俺は、首を傾げて彼の言葉を待った。

「ああ、えっと、その、お兄さんが何度か並んでくれているのを見ていたんです…。きっとクロワッサンを買いに来てくれているんだろうなって思ったけど、でもいつも売り切れてしまっていて。だけど、毎回たくさん他のパンを買っていってくれるし、店先で我慢できずに食べちゃってるところとか、口いっぱいにして美味しそうに食べてくれる姿が、嬉しくって、何か可愛いな、なんて…ってすみません! ち、違うんですっ、その、こんなこと言ってごめんなさい!気持ち悪いですよね、ええっと、とにかく、うちのクロワッサンを食べて欲しくてっ」

 ワタワタと一生懸命に話す青年の言葉を真剣に聞く。
 声も顔もそっくりだけど、やっぱり違う。
 表情や動き、話し方、視線、その一挙手一投足を見ていくうちにそれは確信に繋がった。
 彼は、ユピテル様じゃない。

「おれ、ユージンって言います。このパン屋を弟とふたりでやってます」

 そうか、いつも彼は店の奥でパンを焼いていて、弟くんが会計をしていたんだ。だから、今までユピテル様にそっくりな彼の存在に気が付かなかった。俺は、そんな彼の手を取り、彼が文字を読めるかどうかは分からなかったけれど、指先で文字を書いた。

『俺は、メソです。クロワッサン、ありがとうございます。訳あって口が聞けません。実は、頼まれてクロワッサンを買いに来ていました。だから…』

 だから、次は自分で食べる分を買いに来ようと思います。
 
 今日もらったクロワッサンは、一つだけ。食べてほしいとくれた彼、ユージンには申し訳ないけれど、俺はユピテル様のためにも自分の命のためにも、このクロワッサンを食べることができない。だから今度はもう一度、俺自身が食べるために買いに来ようと思う。正直、悔しいのでリベンジしたいのもある。自力で手に入れたい! それと、ユピテル様からは毎週買ってくるように言われているから、どっちにしろまた来ることになるだろう。

 こんな地味な俺を気に留めてくれた優しいユージン。ユピテル様は、自分にそっくりな彼と俺を引き合わせたかったのだろう。理由は、やっぱり分からない。ユピテル様が何を考えていらっしゃるのか、それはきっとお星様以外は知り得ないのだろう。それでも俺はただ、ユピテル様の思うがままに従うまで。たかが俺ごときが、ユピテル様の人生の少しの暇つぶしにでもなるのなら喜ばしいことだ。

「そう、だったんだ…。それなら二つ用意しておくべきでした」

 どうやら伝えたかったメッセージはちゃんと伝わったようで、肩を落としてそう言うユージンにそっと首を振って見せる。

『次こそは、手に入れて見せます』

 頑張るぞー!と拳を握りしめてジェスチャーをすれば、ユージンはふんわりと優しく笑った。

「ははっ、ありがとうございます。じゃあ、また、日の曜にお待ちしております」

 俺に向かって向けられた、眩しいくらいのその笑顔にしばらくぼんやりと見惚れて、俺はまた何もかもが停止した。

 





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