生命の花

元精肉鮮魚店

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第一章 世界の果てに咲く花

黒い剣 10

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「元々分の悪い賭けだったんです。全ての賭けで、こちらばかり都合良く勝てるはずもないですからね。僕が下手を打ったせいで、ウェンディーとサラーマを失って、貴女にまでこんなに辛い目に合わせてしまったんです。本当に申し訳ないと思ってますよ」

「わ、私は全然辛くない! だからそんな言い方しないでよ!」

 彼女は『銀の風』から手を離すと、イリーズのベッドに倒れこむ様に縋り、イリーズの左手を握る。

 驚く程冷たく、硬く、とても人の肌の感触ではない。

 それでも彼女は強くイリーズの手を握る。

 そうしていなければ、イリーズが目の前から消えてしまうと言う強迫観念に近い恐怖が彼女を襲いかかる。

 それは黒い剣によって見せられた絶望の恐怖とは違う。二度と手に入らない、かけがえのない何かを失う、消失の恐怖。

 心の中に空虚な隙間が出来る、絶対に埋められない穴が穿たれるのが分かる。

「イリーズ、私が呪いと戦う! 貴方の呪いは、私が全てを引き受ける! だから、だから呪いなんかに負けないでよ!」

「勝負はついているのだ」

 後ろから『銀の風』が言う。

「相討ち、か。ウェウティアも大したものだ」

「その通りです。僕の周りの命は全て失われる事になりました」

 イリーズは目を閉じたまま答える。

 彼女が城を出発した後、イリーズの容態を少しでも安定させるためにウェンディーとサラーマで、イリーズの『魔獣の落とし子』と戦う事になった。体内の『魔獣の落とし子』の強さは別格で、しかも二体を相手にするのだから最初から勝目は薄く、サラーマはそこで命を落としたとイリーズは言う。

 サラーマを失った後もウェンディーは戦い続け、ついに二体の『魔獣の落とし子』の撃退に成功した。が、その代償として、ウェンディーも致命傷を受けた。

 それだけでなく、イリーズさえ『魔獣の落とし子』に致命的に体内を破壊され、彼女が奇跡的な早さで戻っても、すでに間に合わなかったのだ。

 そこでウェンディーが打った最後の手段が、『死者の秘法』と言われるものだった。

 それは本来なら不死の魔物を造り出す禁忌の秘術であり、不幸だけを呼ぶ呪いの術。それでもウェンディーは、下半身と左腕を失い、致命的な打撃を受けながらも、彼女とイリーズのために砂時計の砂を止める事にしたのだ。

 二人共その代償は分かっている。

 この大地では、死者の秘法に手を染めた者は死と言う安らぎさえ失い、不死者の呪いにその魂を失うまで苦しむと言われている。

 その呪いを甘んじて受けてでも、この時間を作る事を選んだのだ。

「でも、約束は守れそうですね」

 イリーズは目を閉じたまま言う。

 今ならイリーズが目を開かない理由も分かる。死者の秘法で不死者となった者は、肉体の腐敗を止める事も出来ない。ましてイリーズは『魔獣の落とし子』の呪いによって、大幅に生命力を奪われている。

 イリーズはすでに眼を失っているのだ。だからこそ、瞼を開く事が出来ないのだろう。

「ありがとう。でも、もう剣は必要無いよ。ちょっと物騒だけど僕からの贈り物ですね」

「いらない」

 エテュセは、震える声で言う。

「イリーズを助けるために必要だったのに、貴方が助からないのなら、あんなもの要らない!」

 エテュセは両手でイリーズの左手を強く握る。

 どこか遠くへ行こうとしている。

 その予感があったからこそ、彼女はイリーズの左手を強く握る。

 イリーズの左手は、砕ける様な音がすると灰になって散っていく。

「ごめん。僕はもうこの通り。これ以上は、嫌われそうだね」

「わかった。私はイリーズの事嫌いになる」

 彼女は、灰になったイリーズの左手を見ながら言う。

「だから、私がイリーズの事を嫌いになるまで死なないで」

 そう口にした時、彼女の胸にこれまでにない息苦しい痛みが走った。

 怪我などの痛みでは無い。収容所の中で四の少女、モーリスが収容所を去ったと知った時に感じた痛みに似ているが、今度のはその数倍の痛みであり、胸が苦しくて呼吸も出来ない。

 胸を槍で抉られ、内側から焼かれているかのような痛み。

「せめて、私が貴方の事を嫌いになるまで、貴方が私の事を嫌いになるまで死なないで」

「僕には、貴女を嫌いになれませんよ。僕はこの通り、もう死んでいるんです。このままいったら、僕は腐臭で臭くなっちゃいますからね。それで嫌われるのはキツいですよ」

 かすれる声に張りは無く、そこに生命力は宿っていない。それでもイリーズはいつもの自分を演じていた。

 せめてこの僅かな時間だけでも、時間を戻そうとしているかのように。

「まあ、それは冗談としても、僕をここに繋いでいるのは『死者の秘法』です。僕の自我もいつまで持つか分かりません。もう少しすると僕は自我を失って、ただの不死者になります。そうなったら、貴女に襲いかかると思いますから」

「それなら、それまで生きて。私が貴方を嫌いになるまで、貴方を助けた事を私が後悔するまで。貴方が生きながら腐臭を漂わせるのなら、その匂いでこの城に住めなくなるまで。生きる気力を失って、貴方が助けた私を恨んで、私が貴方を嫌って、お互いに後悔するまで生きて。私を襲いたくないというのなら、不死者になりたくないのなら精一杯生きてよ」

 彼女は、イリーズに訴える。

「私を置いて、行かないで」

 伝えたい事は、そう言う事ではなかった。

 自分がどれだけ感謝しているかを伝えたかった。これまで生きてきた時の中で、この城で、イリーズ達と過ごした時間がどれだけ幸せだったか。

 彼女にとって、これまで生きる事はただ生き延びると言う事だけをさしていた。日常というモノは、明日を迎えるために生き延びる事をさし、それ以上の意味は無かった。

 それをイリーズ達は変えてくれた。

 本来なら人として当然の日常を。収容所に入れられていた亜人達は当然持っていた、彼女は知らなかった毎日を。生きる事の幸せを。

 生きる意味を、イリーズ達は教えてくれると思っていた。

 嫌う事など出来ない。嫌われる事など考えたくない。

 もし、イリーズが表情を歪ませ、自分を助けた事を後悔しているというのなら、彼女は黒い剣で自分の喉を切る事に躊躇いは無かった。そうする事でイリーズを助けられるのなら、彼女はこの場でそれが出来る。

 その想いを伝えたかった。

 だが、口から出てきた言葉は、まったく別の支離滅裂な言葉ばかり。訂正しようと口を開こうとしても、そこからは苦痛の吐息が漏れるだけで言葉が出てこない。

「泣かせているみたいですね」

 イリーズは優しく言う。

 彼はもう、唇を動かす事すら難しくなってきている。

「ありがとう、僕に生きる勇気を与えてくれて」

 苦しげな言葉はかすれ、イリーズの魂そのものが吐き出されているかのようだった。

「そうだ。約束を果たさないと」

 イリーズは僅かに笑っていう。

「貴女の名前です」

「私の、名前?」

 彼女はイリーズを見る。

 確かに城を出るときに、彼女の方からねだったモノだった。

「三人で考えたんです。貴女にピッタリの名前。貴女のお陰で、僕は生きる意思を持てました。僕達の考えた、と言うよりウェンディーが考えて僕達が賛成した名前。貴女は『生命の花』を知ってますか?」

 イリーズの質問に彼女は頷く。

 実在するか疑われている伝説の花で、その花にはあらゆる怪我や病気を治す効果があるとされる一方、その花自体は劇薬であり命を奪う事もあるとされる。

 はるか北の天を貫く岩山の頂上に咲くと言われる、伝説の花。

「エテュセ?」

「そうです。貴女にはピッタリの名前だと思いますよ。ウェンディーも、珍しくサラーマも文句を付けてなかったですから、そう名乗って下さい」

「エテュセ。私の名前……」

 彼女は自分の胸を抑えて呟く。

「お願い、イリーズ。もう一度、私の名前を呼んで」
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