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最終章 鼎、倒れる時
第二十六話 二六四年 その手に握るは野心と忠義
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鄧艾が捕縛されたその日、報告を受けた衛瓘は自分が嵌められた事に気付いた。
衛瓘自身が鄧艾の独断専行には少々行き過ぎたところがあるとは思っていたし、それについて尋ねられた場合には問題アリと答えただろう。
だが、捕縛は行き過ぎだ。
まずは口頭注意、その後も改善が見込めない場合には改善命令、それでも改めないのであれば降格などの処分であって、この程度の独断専行で捕縛は有り得ない。
鍾会は鄧艾から手柄を奪い取るつもりだ。
独断専行による捕縛など、それはもう謀反の企みという扱いである。
それを鍾会が独断で行った場合には、もし鄧艾が司馬昭の元で無罪を証明した時に陥れようとした罪を被る事になるが、衛瓘の連名となればその罪は連座する。
謀反を疑われる事は、その時点で死罪に等しく、その罪は一族全てに及ぶのが慣例である。
もし鄧艾が司馬昭の元へ連れられたとしても、十中八九死罪になる。
が、確実ではなく、確定している訳でもない。
まして鄧艾は、蜀を降した英雄である。
その人物を僅かな疑いで死罪にするのは、いくらなんでも乱暴に過ぎる。
しかし、その場合には鍾会だけでなく、衛瓘も破滅する事になる。
「……田続、鄧艾将軍の件は聞いたか?」
その日、妙に浮かれていた田続を見つけて、衛瓘は尋ねてみた。
「はっはっは! あの身の程知らずの事か! 謀反の疑いで捕縛され、親子共々司馬昭閣下の元へ運ばれる事になっている。下賤のモノが身の程も弁えんからこうなる」
田続は鄧艾に対して個人的な恨みもあるせいか、その破滅が嬉しくて仕方がないらしい。
「それに、ここだけの話だが、鄧艾は司馬昭閣下の元へは行けない様に手配も済んでいる」
「何? どう言う事だ?」
「護送するのはほとんど新兵で、しかも少数。あの師纂とかいう若造に、謀反人の首を取れば大手柄だと吹き込んである。すぐにあの謀反人は首と胴が離れて都に送られる事になるだろうな」
「……あの若造で大丈夫なのか?」
衛瓘はここだ、と閃いた。
「鄧艾は百戦錬磨の猛将の一面もある。ましてあの若造は鄧艾の配下だった武将だろ? こちらに寝返ったと言っても、はたして鄧艾の相手が務まるだろうか?」
「……どれほどの猛将と言っても、護送するのはせいぜい十人程度。あの若造には千の兵を貸し与えている。討ち漏らす事など有り得ないだろう?」
「いや、逃げるだけなら不可能ではない。さらに言えば、師纂の方が改めて鄧艾の側についたらどうするつもりだ? 司馬昭閣下の事だ。鄧艾が生き延びて奴の口から情報を伝えられた場合、鍾会軍は役に立たなかったどころか、英雄を失脚させようと姑息な策を用いた事にされるだろう。司馬昭閣下はどうされるだろうか」
衛瓘の言葉に、田続の表情が変わってくる。
司馬昭の冷酷さは誰もが知るところであり、その対象は皇帝にさえ及ぶ事も知られている。
子飼いであった鍾会や田続も、その仕打ちはよく知っていた。
「……鄧艾には確実に消えてもらう必要があるな」
田続の言葉に、衛瓘は頷く。
「おそらく師纂の千で十分だろうが、備えは必要だ。すぐに三千を率いて後を追うが良い。鄧艾がどれほどであろうとも、人外の妖獣という事は無いのだからそれで討てるだろう」
衛瓘はそう言うと、自身の私兵も込みですぐに田続に三千の兵と大量の矢を与えて、師纂を追わせる事にした。
彼は真実を伝える事ではなく、揉み消す事を選んだのである。
「鍾会将軍、配下の者が三千もの兵を動かしたそうですが、何事ですか?」
慌ただしく動く魏軍の様子を不思議に思った姜維が、鍾会の元を訪ねる。
「ああ、姜維将軍。何、大した事ではない。少々臆病な者が僕の予想した通りに動いてくれたみたいでね。それでちょっとばたばたしているだけですよ」
「……何の事です?」
さすがにその説明では何の事かもわからず、姜維は首を傾げる。
「姜維将軍、僕は本心をいうと漢の復興という蜀の大義は素晴らしいと思っています。その為の最大の障壁となるのが、魏という事も。その大義の為、邪魔になるのが鄧艾です。姜維将軍もその事は分かるでしょう?」
「それはわかりますが、鍾会将軍は魏に反旗を翻すと?」
「魏への反旗、と言われるのは少々心外です。本来の魏は曹家の建国した国。ですが、今の魏は司馬家の者が我が物顔で振舞っています。そう遠からず、魏は滅び、司馬家の時代が来る事でしょう。それであれば、歪んだ形で国を奪い取った報いとして魏が滅び、正道たる漢が復興した方が遥かに正しいと思っています」
鍾会の野心に気付いている姜維は、今鍾会の口から出ている言葉が姜維の気を引く為だと言う事にも気付いていた。
が、鄧艾が邪魔であると言う点においては、鍾会の考えと一致している。
そして、司馬家を打倒すると言う目的も一致した。
鍾会が自身の行動に正義と大義を示すと言うのであれば、司馬家を打倒して魏に尽くしたと言うのではなく、蜀漢ではなく漢を復興させると言う他無い。
おそらく司馬昭を失った魏は戦う事も出来ず、それを受け入れる事になるだろう。
魏や蜀ではなく『漢』に対して呉はどこまで戦うか見当もつかないが、私利私欲に走る者でも無ければ漢に背く事に不安や不信感も生まれる事になる。
勝算は十分ある。
「……ですが、漢を復興させるとなれば一つどうしても避けて通れない事があります」
「皇帝、でしょう?」
鍾会もちゃんと考えていたらしい。
「漢を復興させるのであれば、それはさすがに曹家と言う訳にはいきません。漢の象徴とも言うべき劉姓の者でなければ周りが納得しないでしょう」
あえて姜維はそこを強調する。
「姜維将軍は誰か候補が? 僕からの条件としては一つだけ。劉禅殿だけはダメだと言う事です」
「何故です?」
「劉禅殿は魏に屈し、魏に降ったと言う事実があります。魏の臣下となった劉禅殿が漢の皇帝になりましたとなっては、魏の、特に現皇帝である曹家に主君筋としての権力を与える事にもなります」
鍾会の言葉に、姜維も頷く。
「私もそう思っていました。なので、すでに皇帝の座を降りた劉禅様ではなく、その後継である太子劉璿様こそもっとも適任であると思います」
「僕も同じ事を考えていました。今の魏には司馬一族の専横に難色を示す者も多い。実際今蜀にいる軍の者にもそう思うのは僕だけではないでしょうから、そこは僕が説得します。姜維将軍は劉璿様を始め、蜀の武将を集めてもらえますか? これからの事を説明する必要もあります」
「分かりました。ところで、万が一の備えはいかがされてますか?」
姜維の質問に、鍾会は首を傾げる。
「万が一の備えとは?」
「例えば、鄧艾を討ち漏らした時。誰かに矛先を向けさせる必要もあるかと」
「それなら心配無い。わざわざ追手を差し向けた小心者がいる」
「ですが、司馬昭大将軍より護送を任じられた龐会と言う武将が派遣されているとか。それについては?」
「龐会は武将であって、官吏ではない。鄧艾の死体を見れば、すぐに都に引き返す事だろう」
「十中八九そうだと私も思いますが、だからこその万が一なのです。もし鄧艾の口からこちらに謀反の疑いを向けられた場合、龐会将軍が絶対にその言葉を信じないとは限らないでしょう。また、事の真偽を問いただすと成都に向かってきた場合には、間違いなく我々が謀反人にされます。そうなっては我々が都で司馬昭閣下に弁明しようにも、おそらくは無意味。一戦を交える覚悟も必要になるかと」
「……将軍の言、一理ある。ではいかがするべきだと思われるか?」
「成都の門を閉ざすべきでしょう。鄧艾を討ち、龐会が来ないのであれば良し。また、龐会が成都に向かってきても、使者を立てて言葉を向けて来たのならば、それもまた良し。万が一にもこちらに刃を向けて来た場合には、敵と見なす事も必要になると考えると、門の守りは精強な兵を置くべきかと思います。私個人の意見としましては、蜀の兵より魏の兵の方が練度においても、身体的強度においても上。今後の連携の為にも、私が守るべき将を任じ、魏の兵を率いて守らせると言うのは?」
姜維の提案に、鍾会は考え込む。
「……では、その兵には精鋭の中の精鋭である雍州の兵を使うとしよう」
「では、守備には蜀の軍神、関羽の一族に任せる事とします」
鄧艾だけでなく、精鋭である雍州軍の兵すら使い捨てるか。鍾会、勝ちに溺れているな。
少なくともその短絡的な行動は、姜維には思いついても出来なかった行動だったからである。
鍾会にしても姜維にしても、自分の予想した通りか、あるいはそれ以上に快適とさえ言える展開だった事もあり、先ばかりを見過ぎて足元を疎かにしていた事を気付いていなかった。
本来であれば、もっとも警戒しなければならない者がいた事に。
通常であれば、鄧艾の傍らに居るべき者がいなかった事に。
杜預は鄧艾が捕らえられた事を、成都に戻る途中で聞かされた。
伝えてきたのは、鄧艾が捕縛される時に駆けつけた丘本の兵の一人であった。
「将軍が捕縛された? 何があったんだ?」
杜預はその知らせを受けた時、それを正確に受け入れて正常に判断する事が出来なかった。
が、司馬昭だけでなく、鍾会や衛瓘の名が出た事でおおよその事を把握した。
「士季の野郎、手柄を奪うだけでは足りないと言うのか」
「将軍、どうしますか?」
陳寿が訪ねる。
「知れた事。今すぐ成都に駆け戻って、鄧艾将軍の無実を晴らす!」
「お待ち下さい。伝令、ここまで来るのに何日かかっている?」
「二日です」
伝令の者は即答すると、陳寿も頷く。
「杜預将軍、この情報は二日前の情報。もし我らが今日の内に成都に戻ったとしても、鄧艾将軍が成都を離れてから二日以上が経過しているのです。今から鄧艾将軍を追う事は現実的とは申せません」
陳寿の提案に、杜預は怒りを隠そうともせずに睨みつけたが、そのまま行動するほど冷静さを失ってはいなかった。
「……確かにそうだ。しかし、事は急を要する。成都へも帰路を急ぐのは当然だろう?」
「それはもちろん。その帰路で対策を考えましょう」
杜預はそれには頷いたものの、それでも一刻を争う緊急事態と言う事もあって、夜を徹して成都へ駆け戻る事にした。
共の者には同行を強要せず、目的地は成都である事だけを告げたのだが、結局は全員が同行を申し出てきた。
と言っても、杜預の同行者はこの時には数十人しかいない。
彼らは戦に出たと言う訳ではなく、対呉戦線への伝令の使者としての任務で移動していただけである。
「こんな事なら、羅憲との会話は早々に打ち切って戻るべきだったな」
「結果論ではそうですが、そこまで予想出来ませんでしたよ」
杜預は悔いていたが、陳寿が言う様にそれは結果論でしかない。
「我々が行うべきは、成都へ戻って鄧艾将軍の救出隊を急いで派遣する事と、鄧艾将軍が戻られる事を信じて、迎える準備を整える事です」
「……事の真相を暴いて、と言う事か」
杜預の言葉に、陳寿は大きく頷いていた。
衛瓘自身が鄧艾の独断専行には少々行き過ぎたところがあるとは思っていたし、それについて尋ねられた場合には問題アリと答えただろう。
だが、捕縛は行き過ぎだ。
まずは口頭注意、その後も改善が見込めない場合には改善命令、それでも改めないのであれば降格などの処分であって、この程度の独断専行で捕縛は有り得ない。
鍾会は鄧艾から手柄を奪い取るつもりだ。
独断専行による捕縛など、それはもう謀反の企みという扱いである。
それを鍾会が独断で行った場合には、もし鄧艾が司馬昭の元で無罪を証明した時に陥れようとした罪を被る事になるが、衛瓘の連名となればその罪は連座する。
謀反を疑われる事は、その時点で死罪に等しく、その罪は一族全てに及ぶのが慣例である。
もし鄧艾が司馬昭の元へ連れられたとしても、十中八九死罪になる。
が、確実ではなく、確定している訳でもない。
まして鄧艾は、蜀を降した英雄である。
その人物を僅かな疑いで死罪にするのは、いくらなんでも乱暴に過ぎる。
しかし、その場合には鍾会だけでなく、衛瓘も破滅する事になる。
「……田続、鄧艾将軍の件は聞いたか?」
その日、妙に浮かれていた田続を見つけて、衛瓘は尋ねてみた。
「はっはっは! あの身の程知らずの事か! 謀反の疑いで捕縛され、親子共々司馬昭閣下の元へ運ばれる事になっている。下賤のモノが身の程も弁えんからこうなる」
田続は鄧艾に対して個人的な恨みもあるせいか、その破滅が嬉しくて仕方がないらしい。
「それに、ここだけの話だが、鄧艾は司馬昭閣下の元へは行けない様に手配も済んでいる」
「何? どう言う事だ?」
「護送するのはほとんど新兵で、しかも少数。あの師纂とかいう若造に、謀反人の首を取れば大手柄だと吹き込んである。すぐにあの謀反人は首と胴が離れて都に送られる事になるだろうな」
「……あの若造で大丈夫なのか?」
衛瓘はここだ、と閃いた。
「鄧艾は百戦錬磨の猛将の一面もある。ましてあの若造は鄧艾の配下だった武将だろ? こちらに寝返ったと言っても、はたして鄧艾の相手が務まるだろうか?」
「……どれほどの猛将と言っても、護送するのはせいぜい十人程度。あの若造には千の兵を貸し与えている。討ち漏らす事など有り得ないだろう?」
「いや、逃げるだけなら不可能ではない。さらに言えば、師纂の方が改めて鄧艾の側についたらどうするつもりだ? 司馬昭閣下の事だ。鄧艾が生き延びて奴の口から情報を伝えられた場合、鍾会軍は役に立たなかったどころか、英雄を失脚させようと姑息な策を用いた事にされるだろう。司馬昭閣下はどうされるだろうか」
衛瓘の言葉に、田続の表情が変わってくる。
司馬昭の冷酷さは誰もが知るところであり、その対象は皇帝にさえ及ぶ事も知られている。
子飼いであった鍾会や田続も、その仕打ちはよく知っていた。
「……鄧艾には確実に消えてもらう必要があるな」
田続の言葉に、衛瓘は頷く。
「おそらく師纂の千で十分だろうが、備えは必要だ。すぐに三千を率いて後を追うが良い。鄧艾がどれほどであろうとも、人外の妖獣という事は無いのだからそれで討てるだろう」
衛瓘はそう言うと、自身の私兵も込みですぐに田続に三千の兵と大量の矢を与えて、師纂を追わせる事にした。
彼は真実を伝える事ではなく、揉み消す事を選んだのである。
「鍾会将軍、配下の者が三千もの兵を動かしたそうですが、何事ですか?」
慌ただしく動く魏軍の様子を不思議に思った姜維が、鍾会の元を訪ねる。
「ああ、姜維将軍。何、大した事ではない。少々臆病な者が僕の予想した通りに動いてくれたみたいでね。それでちょっとばたばたしているだけですよ」
「……何の事です?」
さすがにその説明では何の事かもわからず、姜維は首を傾げる。
「姜維将軍、僕は本心をいうと漢の復興という蜀の大義は素晴らしいと思っています。その為の最大の障壁となるのが、魏という事も。その大義の為、邪魔になるのが鄧艾です。姜維将軍もその事は分かるでしょう?」
「それはわかりますが、鍾会将軍は魏に反旗を翻すと?」
「魏への反旗、と言われるのは少々心外です。本来の魏は曹家の建国した国。ですが、今の魏は司馬家の者が我が物顔で振舞っています。そう遠からず、魏は滅び、司馬家の時代が来る事でしょう。それであれば、歪んだ形で国を奪い取った報いとして魏が滅び、正道たる漢が復興した方が遥かに正しいと思っています」
鍾会の野心に気付いている姜維は、今鍾会の口から出ている言葉が姜維の気を引く為だと言う事にも気付いていた。
が、鄧艾が邪魔であると言う点においては、鍾会の考えと一致している。
そして、司馬家を打倒すると言う目的も一致した。
鍾会が自身の行動に正義と大義を示すと言うのであれば、司馬家を打倒して魏に尽くしたと言うのではなく、蜀漢ではなく漢を復興させると言う他無い。
おそらく司馬昭を失った魏は戦う事も出来ず、それを受け入れる事になるだろう。
魏や蜀ではなく『漢』に対して呉はどこまで戦うか見当もつかないが、私利私欲に走る者でも無ければ漢に背く事に不安や不信感も生まれる事になる。
勝算は十分ある。
「……ですが、漢を復興させるとなれば一つどうしても避けて通れない事があります」
「皇帝、でしょう?」
鍾会もちゃんと考えていたらしい。
「漢を復興させるのであれば、それはさすがに曹家と言う訳にはいきません。漢の象徴とも言うべき劉姓の者でなければ周りが納得しないでしょう」
あえて姜維はそこを強調する。
「姜維将軍は誰か候補が? 僕からの条件としては一つだけ。劉禅殿だけはダメだと言う事です」
「何故です?」
「劉禅殿は魏に屈し、魏に降ったと言う事実があります。魏の臣下となった劉禅殿が漢の皇帝になりましたとなっては、魏の、特に現皇帝である曹家に主君筋としての権力を与える事にもなります」
鍾会の言葉に、姜維も頷く。
「私もそう思っていました。なので、すでに皇帝の座を降りた劉禅様ではなく、その後継である太子劉璿様こそもっとも適任であると思います」
「僕も同じ事を考えていました。今の魏には司馬一族の専横に難色を示す者も多い。実際今蜀にいる軍の者にもそう思うのは僕だけではないでしょうから、そこは僕が説得します。姜維将軍は劉璿様を始め、蜀の武将を集めてもらえますか? これからの事を説明する必要もあります」
「分かりました。ところで、万が一の備えはいかがされてますか?」
姜維の質問に、鍾会は首を傾げる。
「万が一の備えとは?」
「例えば、鄧艾を討ち漏らした時。誰かに矛先を向けさせる必要もあるかと」
「それなら心配無い。わざわざ追手を差し向けた小心者がいる」
「ですが、司馬昭大将軍より護送を任じられた龐会と言う武将が派遣されているとか。それについては?」
「龐会は武将であって、官吏ではない。鄧艾の死体を見れば、すぐに都に引き返す事だろう」
「十中八九そうだと私も思いますが、だからこその万が一なのです。もし鄧艾の口からこちらに謀反の疑いを向けられた場合、龐会将軍が絶対にその言葉を信じないとは限らないでしょう。また、事の真偽を問いただすと成都に向かってきた場合には、間違いなく我々が謀反人にされます。そうなっては我々が都で司馬昭閣下に弁明しようにも、おそらくは無意味。一戦を交える覚悟も必要になるかと」
「……将軍の言、一理ある。ではいかがするべきだと思われるか?」
「成都の門を閉ざすべきでしょう。鄧艾を討ち、龐会が来ないのであれば良し。また、龐会が成都に向かってきても、使者を立てて言葉を向けて来たのならば、それもまた良し。万が一にもこちらに刃を向けて来た場合には、敵と見なす事も必要になると考えると、門の守りは精強な兵を置くべきかと思います。私個人の意見としましては、蜀の兵より魏の兵の方が練度においても、身体的強度においても上。今後の連携の為にも、私が守るべき将を任じ、魏の兵を率いて守らせると言うのは?」
姜維の提案に、鍾会は考え込む。
「……では、その兵には精鋭の中の精鋭である雍州の兵を使うとしよう」
「では、守備には蜀の軍神、関羽の一族に任せる事とします」
鄧艾だけでなく、精鋭である雍州軍の兵すら使い捨てるか。鍾会、勝ちに溺れているな。
少なくともその短絡的な行動は、姜維には思いついても出来なかった行動だったからである。
鍾会にしても姜維にしても、自分の予想した通りか、あるいはそれ以上に快適とさえ言える展開だった事もあり、先ばかりを見過ぎて足元を疎かにしていた事を気付いていなかった。
本来であれば、もっとも警戒しなければならない者がいた事に。
通常であれば、鄧艾の傍らに居るべき者がいなかった事に。
杜預は鄧艾が捕らえられた事を、成都に戻る途中で聞かされた。
伝えてきたのは、鄧艾が捕縛される時に駆けつけた丘本の兵の一人であった。
「将軍が捕縛された? 何があったんだ?」
杜預はその知らせを受けた時、それを正確に受け入れて正常に判断する事が出来なかった。
が、司馬昭だけでなく、鍾会や衛瓘の名が出た事でおおよその事を把握した。
「士季の野郎、手柄を奪うだけでは足りないと言うのか」
「将軍、どうしますか?」
陳寿が訪ねる。
「知れた事。今すぐ成都に駆け戻って、鄧艾将軍の無実を晴らす!」
「お待ち下さい。伝令、ここまで来るのに何日かかっている?」
「二日です」
伝令の者は即答すると、陳寿も頷く。
「杜預将軍、この情報は二日前の情報。もし我らが今日の内に成都に戻ったとしても、鄧艾将軍が成都を離れてから二日以上が経過しているのです。今から鄧艾将軍を追う事は現実的とは申せません」
陳寿の提案に、杜預は怒りを隠そうともせずに睨みつけたが、そのまま行動するほど冷静さを失ってはいなかった。
「……確かにそうだ。しかし、事は急を要する。成都へも帰路を急ぐのは当然だろう?」
「それはもちろん。その帰路で対策を考えましょう」
杜預はそれには頷いたものの、それでも一刻を争う緊急事態と言う事もあって、夜を徹して成都へ駆け戻る事にした。
共の者には同行を強要せず、目的地は成都である事だけを告げたのだが、結局は全員が同行を申し出てきた。
と言っても、杜預の同行者はこの時には数十人しかいない。
彼らは戦に出たと言う訳ではなく、対呉戦線への伝令の使者としての任務で移動していただけである。
「こんな事なら、羅憲との会話は早々に打ち切って戻るべきだったな」
「結果論ではそうですが、そこまで予想出来ませんでしたよ」
杜預は悔いていたが、陳寿が言う様にそれは結果論でしかない。
「我々が行うべきは、成都へ戻って鄧艾将軍の救出隊を急いで派遣する事と、鄧艾将軍が戻られる事を信じて、迎える準備を整える事です」
「……事の真相を暴いて、と言う事か」
杜預の言葉に、陳寿は大きく頷いていた。
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