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最終章 鼎、倒れる時

第二十二話 二六四年 望まれない英雄

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 長安で待機中だった司馬昭の本隊の元に、鍾会からの書状が届けられた。

 そこには蜀を降し、剣閣に立て篭っていた姜維を投降させた事が記されていた。

「お見事ですな。士季のヤツも鼻高々と言ったところですかな?」

 賈充は笑いながら言うが、司馬昭の表情は冴えない。

「閣下、何か問題でも?」

 賈充だけでなく、荀顗も司馬昭の様子がおかしい事に気付いた。

「この書状には詳細な内容が書かれているが、蜀を降したのは士季ではなく士載であったらしい。常人では有り得ない、むしろその事自体が嘘やでまかせでありそうな事だ」

 司馬昭はそう言うと、鍾会からの書状を賈充や他の参謀達に渡す。

 そこには蜀軍との戦いの後に、姜維が剣閣へ立て篭った事やその攻略に手を焼いた事。

 そこから鄧艾が隠平道からの奇襲を成功させて、成都をほぼ無血開城させる事に成功したと記されていた。

 一見すると、ここに司馬昭の表情が険しくなる様な事は記されている様には見えない。

 しかし、よくよく見ると不可解なところが目に付いた。

 もっとも不可解で司馬昭が嘘と評したと思われるのは、鄧艾の行動だった。

 隠平道からの奇襲の為に率いた兵は三千であったにも関わらず、成都を降した際には三万の兵を率いていたと記されている。

 何をどうして兵の数が十倍にまで跳ね上がったのか。

 と、言ってもその手段など多くはない。

 もっとも現実的なところは、鍾会の本隊から兵を割いて鄧艾の援軍に回したと言うものだが、もしそうであれば鍾会はまさに自分の手柄であると言う様に記していただろう。

 そう言うところもなく、ただ兵数のみが増えている。

「……まさか、蜀の民を率いて……?」

 荀顗が呟く。

 それしか考えられないのだが、それがすでに考えられない事である。

 自国民が敵国の武将に協力して、自国を滅ぼす。

 しかもその後、鄧艾は成都を落とした後にも兵や残された文官武官達から排斥させる様な事もされていないらしい。

 それどころか、鄧艾はそれぞれに役職を与えて蜀と言う国から魏と言う国になった事を急速に、蜀の者に行わせているらしい。

「……有り得ない」

「だが、あの士季が書状に記しているのだから、事実なのだろう」

 賈充も信じられなかったのだが、司馬昭は重く呟く。

 間違いなく、魏国にとっての英雄。

 本来であれば大歓迎なところなのだが、それを喜ぶ事が出来ない事情があった。

 司馬昭にとっては、曹髦の廃位と言うどうしようもない負い目がある。

 一緒に手を汚した鍾会であればまだ良かったのだが、その時に手を汚していないどころか、鄧艾には司馬望と一緒に司馬昭を糾弾する事が出来る立場である事が問題だった。

 もしそうなった場合、蜀の民ですら歓迎する鄧艾である。

 魏の民であれば、司馬昭より鄧艾の方に協力するだろう。

 その鄧艾が旗頭となって立ち上がった時、おそらく司馬昭は排斥される事になる。

 その鄧艾を司馬望や司馬孚が支え、鄧艾が率いる魏蜀連合軍とも言うべき軍が司馬昭を追い落として曹奐を立てて行けば、魏は蘇る。

 そして、司馬昭とその一派は破滅する事になる。

 特に司馬昭と賈充はそれを逃れる事は出来ない。

「閣下、この書状は士季が寄越したモノで間違い無いですか?」

 賈充が尋ねる。

「そうだが、それが何か?」

「士季のヤツも鄧艾を危険視しているようです。一度鄧艾を詰問する為にも出来る事なら洛陽に、急ぐ場合にはこの長安に呼ぶべきです」

「どの様に呼びつける?」

「ここをご覧下さい」

 賈充が書簡の中の一文を指し示す。

 そこには鄧艾が成都に入った時、自身の判断のみで劉禅に王位を与え、蜀の者達にもそれぞれに役職を与えている。

 それは明らかな越権行為であり、鄧艾自身が蜀の支配者であると取られてもおかしくない行動でもあった。

「いささか弱いが、筋は通っているな。士季に返書を渡す事にしよう。その後に鄧艾を送還する事にするが、その役目は龐会ほうかいに任せる事にするので彼を送ろう」

 龐会と言うのは、かつて魏建国前に関羽と戦って命を落とした猛将、龐徳ほうとくの息子である。

 極めて勇猛である事もあって、かつての諸葛誕の乱の折には諸葛誕からも反乱に誘われたものの、それを断って忠義を示した人物でもあった。

 が、司馬昭から重用される事も無く、戦場に立つ機会を与えられていない武将である。

「龐会を? 使者と言うには多少高圧的だと取られるのでは?」

 賈充が心配そうに言うと、司馬昭は頷く。

「その通りだろう。だが、もっとも警戒する必要があるのは士載では無いのだ」

 司馬昭はすでに次の敵を見定めていたのである。





 鍾会率いる魏軍と姜維率いる蜀の本軍は、ようやく成都に到着する。

 そこで鄧艾が用意した手厚い歓待を受けた。

 が、鄧艾は手配を済ませたものの、その場は党均に委ねて自身は多忙故にそちらの方に尽力すると伝えてきた。

「無礼ではないのか?」

 さっそく田続が党均に凄む。

「将軍も気にされていたのですが、何しろ国の一大事。ですので、そこはご理解下さいとの事。将軍方には決して失礼の無い様に、私はもちろん、他の方々も心を込めて準備しております」

 党均だけでなく、成都に残っていた者達も今回の歓待には命懸けと言ってもいいくらいに、精魂込めていた。

 もし気に障る様な事になれば、鍾会の魏軍が大暴れする事さえも有り得ると思うと、手を抜く訳にはいかないのである。

 そんな緊張感も伝わっては来たが、鍾会は笑顔で歓待を受けた。

「そうか、鄧艾将軍は多忙か。是非とも将軍の話を聞いておきたかったのだがな」

 鍾会はそう言うと、姜維に頷きかける。

 正直な事を言えば、この場に鄧艾がいてもいなくても何ら問題は無い。

 司馬昭からの返書が届いていたが、その内容は鍾会にとって期待通りのモノだった。

 鄧艾は自身の功に自惚れ、独断が過ぎる傾向が強い。一度呼び戻して審議すると言う事が書かれ、その役目を担うのが龐会であるとも記されていた。

 龐会と言う人事は少々意外だったが、司馬昭にとってさっそく鄧艾は目障りになったらしい。

 それも仕方がない。

 司馬昭は自分の息のかかったモノを重用する傾向が強いのだが、鄧艾は司馬昭派閥では無かった。

 元々司馬懿の属官であり、その後司馬師にも仕えていたにも関わらず、彼は司馬昭との接点が薄い。

 さらに司馬望と近しくなった事が、鄧艾の運命を定めたと言っても良いだろう。

 ただ気になる点として、送還を任されているのが龐会であると言う事だった。

 龐会は武将であり、本来の仕事とは異なる役割である。

 それに警戒されているとは言え、鄧艾が立てた功績は絶大であり、その功績を無視する事はさすがの司馬昭でも出来ない事だった。

 鄧艾が無事に司馬昭の元にたどり着けば、審議の後に無罪放免の可能性も無い訳ではない。

「太子、無事で何よりです。弟君の事はお聞きしました」

 鍾会はちらりと姜維の方に目を向けると、姜維は劉禅の子である劉璿にあいさつしているところだった。

 鄧艾が警戒されているのは、鄧艾であれば司馬昭の行った曹髦廃位を弾劾する事が出来ると言う事。

 それが成功すれば、司馬昭は失脚し、おそらく大将軍の地位には鄧艾がつく事になるだろう。

 それを警戒しているからこそ、司馬昭は鄧艾を自分のところに呼び寄せようとしている。

 それを自分で出来ないか、と鍾会はふと思い付いた。

 司馬昭を弾劾する事は、そう簡単な事では無い。

 鄧艾が警戒されているのは、魏の軍だけでなく蜀の軍までも協力するのではないかと言う恐れからだろう。

 そして、おそらく鄧艾であればそれが出来る。

 それは鍾会には出来ない、明らかに鄧艾の優位な点だろうが、代案はある。

 蜀の大将軍、姜維である。

 姜維であれば鄧艾を遥かに上回る求心力を持って、蜀の軍を統括できるはずだ。

 その姜維も、魏の打倒とまではいかないにしても、劉禅の王位を認め蜀に可能な限りの自治を認めると言った条件を出せば、おそらく反対はしないだろう。

 行ける。

 鍾会は笑顔で周りに対応しながら、確信を得ていた。

 そうなってくると、鄧艾を確実に消す必要が出てくる。

 司馬昭の元へ送られれば、おそらくは消される事になるだろうがそれは確実では無い。

 もし鄧艾が無罪放免を得た場合、おそらく彼は司馬昭を弾劾する事はしないだろう。

 才覚の割に野心に乏しい男である。

 そうなるともう、司馬一族の天下だ。

 大将軍や丞相と言った地位は司馬一族の間で回され、鍾会はその下に置かれる事になる。

 しかも鄧艾が無罪放免となった場合には、鄧艾の下に置かれる事もほぼ間違い無い。

 そう、鄧艾は消すしか無い。

 しかし、龐会が鄧艾を護衛するのでは中々に難しい。

 龐会が来る前に、こちらから鄧艾を捕らえ、その護送中に命を落とした事にするのがもっとも成功の見込みがあるだろう。

「党均、と言ったね」

 鍾会は酌をして回っていた党均に声をかける。

「はい? いかがいたしましたか、鍾会将軍?」

「鄧艾将軍は多忙との事だったが、杜預将軍はどうしたのだ? 彼は官吏としても有能であったはずだが?」

「杜預将軍は、対呉戦線を守る武将の、確か羅憲将軍のところに向かわれました。呉がこの混乱に乗じて攻め込んでくる事も考えられますので、そこに警戒せよと注意喚起も兼ねての事です」

「ほう、杜預将軍はいないと言う事か。では将軍の周りには誰がいるのだ?」

「蜀の方々です。あ、後は先日鄧忠将軍が戻られています」

「なるほど」

 これは好都合だ、と鍾会は思う。

 杜預は司馬懿の末娘を嫁にしている事もあり、司馬一族の血縁者でもある。

 もし鄧艾を消そうとするならおそらく杜預も消す必要があると思っていたのだが、この場にいないと言うのであればその必要も無い。

 下手に司馬一族に連なる者に手をかければ、司馬昭を始めその一派からどの様な難癖をつけられるか分かったものではない。

 その危険が無いというのであれば、事は急いだ方が良い。

「衛瓘、この場で相応しいかは分からないが、鄧艾将軍には確かに独断専行が見て取れたのだな?」

 鍾会は小声で、近くにいる衛瓘に確認する。

「越権による独断専行があった事は事実です。が、戦の習いの範疇であったと言えなくもない程度ではありますが、それが何か?」

「いや、戦の習いと言っても、一国の王位を武将が勝手に定める事はやり過ぎだ。司馬昭閣下からも、その旨伝えて来ている」

 鍾会はそう言うと、翌日には鄧艾の捕縛を命じていた。

 しかもそれは衛瓘の名も添えられ、連名で行われていた。
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