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最終章 鼎、倒れる時

第二十一話 二六四年 師の差

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「鄧艾将軍、よろしいですか?」

 蜀で執務室を与えられた鄧艾は、臨時で各役職に指示を出す権限を自身に与え、蜀の内政の混乱を最小限に抑える為に日々苦心していた。

 中でも譙周は非常に優れた能力を持つ人物で、これまで黄皓に頭を押さえられていた人物であったらしく、鄧艾としても有難かった。

 実は陳寿が彼に師事していた事もあったらしく、陳寿が間を取り持ってくれたおかげで彼も鄧艾に協力してくれた事も大きい。

 また、劉禅に対してのみならず蜀の者に対して罪状を問う事をしないと明言し、それを実行している鄧艾に一定の信頼を置いてくれているのかもしれない。

 そんな中、鄧艾の元にやって来たのは党均だった。

「ああ、党均。今まで蜀での潜入の任、大義だった。おかげで色々助けられたよ。今回の第一功は君でもおかしくないくらいの働きだ」

「それはありがとうございます」

「そういえば忠が戻ったみたいだったが?」

「ええ、ですが隠平道の道では険し過ぎるので、隠平道組は魏軍本隊と合流してこちらに来るそうです。鄧忠だけは隠平道を使った事もあって、早く戻ったみたいですね」

「本隊と一緒で良かったものを」

 鄧艾は苦笑いしながら言う。

「あの、鄧艾将軍に来客で、お連れしたのですが……」

「それはすまないね。どうぞ、こんなところで良ければ」

 鄧艾がそう答えると、党均は遠慮がちに連れて来た客に道を開ける。

「忙しいところ、申し訳ないね。どうしても将軍と話をしたくて」

「……え? 劉禅殿?」

 鄧艾は慌てて膝をつく。

「いやいや、止めてくれ将軍。今の朕は……、いや、朕ではないな。僕チンはもう皇帝ではないのだから」

 ふざけてやってるのかな?

 鄧艾は返答に困る。

「劉禅様、僕チンはさすがにおかしいです」

 党均が後ろから言う。

「はっはっは! こういう事は、やはり若い方が言いやすいのかな?」

 劉禅は楽しそうに言う。

 確かに皇帝ではなくなったとはいえ、鄧艾は劉禅に仮とは言え王位につけているので、肩書が変わりはしたものの蜀の支配者はまだ劉禅であり、一将軍でしかない鄧艾と王位の劉禅では大きく立場が離れている。

 さらに言えば、見た目だけの話をするなら劉禅が一番若い。 

「では、飲み物か何かお持ちしますね」

「この場でよろしかったのですか? 宴席などを用意いたしますが」

「いや、ここで良い。出来れば将軍と二人で話したかったのだ」

「では、飲み物を用意します」

 そう言って党均はそそくさと離れていく。

「私と?」

「ああ、正直に言うと将軍としたかった話は他の者に聞かれては障りがあるのでな」

「……何やら、怖い話になっている様に聞こえますが」

「いや、そういう話ではない。ずばり、将軍と伯約の間にどれほどの差があって、この結果になったのかと思ってな」

 劉禅は手近な椅子に座って、鄧艾に言う。

「私と姜維将軍の差?」

「うむ。せっかくの機会なので忌憚なく言わせてもらうが、伯約は紛れもなく戦の天才であると僕チンは思っている」

「……けっきょく僕チンで行く事にしたのですか?」

「お? 今回は良い返しだ。長く自分の事を朕と呼んでいたのでな。自身の呼称として僕と言うのに少し憧れがあったのだ」

 思えば劉禅は若くして帝位に就き、しかも四十年に渡ってその座にあった人物である。

 在位四十年と言うのは、始皇帝が帝位を築いて以来前漢武帝に次ぐ長さであり、蜀では二代目皇帝であるが、魏はその間に現在では五代目を数えている。

 もちろん在位が長いと言うだけでその人物が名君であるとは言えないが、皇帝が長く変わらないのは国に安定をもたらすのは事実である。

「まぁ、僕の事はともかくだ。伯約はかつて諸葛丞相も認めた戦の天才。こんな事を本人に言うのもどうかと思うが、将軍では伯約に勝てないと思っていた。しかし、現実として今将軍は蜀で、こうして僕と向かい合っている。それはどこに差があったのかと思ってな」

 劉禅は本当に好奇心で尋ねている様だった。

 私と、姜維との差?

 改めて言われて、鄧艾は考える。

「差、と言うモノは無いのではないでしょうか。結果として私がここにいると言うだけで、私が姜維将軍より優れていたという事にはなりません」

「しかし、どんな形であれ将軍は伯約に勝利した事になる。何の要因も無く敗れる伯約ではないだろう」

 劉禅は前のめりに鄧艾に尋ねる。

 案外油断ならない人じゃないのか、この人は。

 鄧艾は劉禅に対してそう思いながら、質問の答えを考える。

 とは言え、劉禅に答えた通り鄧艾は姜維との間に差があったとは思えない。

 それどころか、能力を比べた時には明らかに姜維の方が上であるとも思っている。

「もしも私と姜維将軍の間に差があり、それが勝敗の要因となったというのであれば、おそらくそれは私と姜維将軍という個人の差と言うより、お互いの師の違いではないでしょうか」

「師の差? 伯約の師は諸葛丞相だが、将軍の師は?」

「師と呼ぶのもおこがましい事ですが、私の師は司馬仲達様だと思っています」

 鄧艾の答えに、劉禅は首を傾げる。

「これはまた異な事を言う。これもまた将軍の前で言う事ではないが、諸葛丞相と司馬仲達は幾度も戦い、諸葛丞相の圧勝だったではないか。それでも将軍は司馬仲達の方が諸葛丞相より優れていたと?」

「そうではありません。二人の能力の優劣ではなく、教えの差が結果の差として出たと思っています」

「よく分からんな。詳しく教えてくれ」

「仲達様はとにかく、失敗談を好んだのです。それはもう、酒が入ればその事を面白おかしく話されました」

「……人の失敗談をか? それはあまり良いとは思えないのだが」

「まぁ、そう言う一面は確かにあるんですが、そんな中でも自分の失敗談を話す時が一番楽しそうでした」

「ほう、それは面白いな」

「よく諸葛丞相の事も話されました。仲達様はおっしゃっていましたよ。諸葛丞相は千年に一人の天才であり、もし自分が歴史に名を残す事になれば、それは諸葛亮孔明と言う天才の相手だったという事だろうと。まさに神の如しと尊敬されていました」

「ふむ、司馬仲達と言う人、話には野心の塊の如き人物と聞いていたが案外そうでもないらしいな」

「人の噂はそんなモノです。仲達様も天才と呼ぶに相応しい方だと私などは思うのですが、仲達様からすると、魏の武帝である曹孟徳様と諸葛丞相がいらっしゃったので、とても自身を天才とは思えなかったそうです。そんな仲達様だからこそと言えるかも知れませんが、自分にしても他人にしても失敗談を好んだのには訳があります。成功はその人の能力や特性があってこその成功であったとしても、失敗は誰であっても同じ様な事をやりかねない、と。神の如しとまで言わしめた諸葛丞相であってすら、街亭を失うと言う失態がありました。同じ轍を踏まない為にも、失敗から学ぶ事は多いと」

 実際に司馬懿からそこまで深く教えられたという訳ではないが、それでも時間がある時には深い話からしょうもない話までしていた記憶はある。

「私は仲達様と言う師から、失敗の事を教えていただきました。それに対して、人品に優れ神の如き智謀を持つ諸葛丞相はどうでしょうか。おそらくですが、諸葛丞相は正解を教えていたのではないでしょうか」

「それの何が悪い?」

「いえ、決して悪いのではありません。ただ、今回の作戦で大きく差が出たのが一軍による奇襲である事はお分かりでしょう?」

 鄧艾の質問に劉禅は頷く。

 この奇襲だが、実は諸葛亮の北征でも同じ状況があった。

 かつて魏延が諸葛亮に進言した、洛陽奇襲の事である。

 魏延の提案した洛陽奇襲は成功率が必ずしも高いとは言えず、しかも失敗した場合には当時の蜀では随一の武将であった魏延とその精鋭達を全て失う事になると言う理由で、諸葛亮はその危険を冒す事を嫌って魏延の進言を却下した。

 だが、司馬懿はそれも諸葛亮の失策であったかもしれないと言っていた。

 確かに成功率は高いとは言えなかったが、もし成功すればその一手で全てが決まる一手であり、賭ける価値は十分にあったと司馬懿は思っていたという。

 今回の奇襲は、正にその一手になった。

 だが、姜維は諸葛亮の背を追うあまり、その賭けに対する対策の意識が僅かに薄れたのも否めないだろう。

「劉禅様、姜維将軍にはまだ戦う事の出来る精鋭軍と、あの連弩と言う恐るべき兵器もあります。素直に降伏していただけるものでしょうか?」

 何しろあの戦の天才である。

 しかも蜀の精鋭は姜維の率いる軍であり、魏には無い兵器まで持っているのだから戦わずして降伏する理由が無いと言えるほどだ。

「将軍は伯約に対する理解がまだまだ足りないと見える。少なくとも連弩に関しては、もう全て処分しているだろう」

「連弩を処分? アレをですか? アレがあれば武力を持ってこの成都を奪い返す事も出来そうなものですが」

「伯約の諸葛丞相への想いは尊敬と言うより、信仰に近い。魏に降ると言う決断を降した後、諸葛丞相の遺した連弩を魏の手に渡すより、その全てを灰にして諸葛丞相の遺したモノを悪用する様なマネはするまい。元々連弩は諸葛丞相も失敗作だと言っていた。過剰な殺戮兵器であるとしてな」

「過剰な殺戮?」

「うむ。連弩は諸葛丞相が想定していた以上の威力を持つ兵器になってしまったので、国防にのみ使用を認めたモノだ」

「それは聞いた事があります」

「過剰な殺戮は、相手に深い禍根を残すと諸葛丞相はそれ以降の連弩を作る事を禁じた上に、職人に渡した作成図すら処分させたほどだからな」

「確かにあれほどの兵器であれば、過剰な殺戮を生むでしょうね」

 連弩の威力は、戦った鄧艾もよく知っている。

 だが、姜維は一度だけ国防とは言え例外的な使い方をしている。

 かつて郭淮から追いつめられた時が、特殊な例であったとは言え本来の使い方とは違う方法だった。

 その事が魏に降った後の句安が、姜維に見切りをつけた事でもあった。

 そう考えれば姜維に限らず、黄皓の様な例外を除いた蜀の者の圧倒的大多数が、諸葛亮と言う人物に信仰に近い感情を持っていたのかもしれない。

「いや、今日は楽しかった。鄧艾将軍が朗らかな将軍で良かったよ」

「私はかつての呉漢ごかんの如き暴漢とは違います。無意味な流血を望むところではありません」

「伯約も将軍と出会わなければ、追いつめられる事も無かったのかもな」

 劉禅はそう言って笑うと、立ち上がる。

「またいずれ将軍とはゆっくり話したいものだ」

「私もですが、姜維将軍や鍾会将軍が成都に入りますので、迎える準備をしなければなりませんので、いつになる事やら」

 鄧艾は肩を竦めて言う。





 しかし、その機会は二度と巡って来る事は無かった。
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