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最終章 鼎、倒れる時
第十四話 二六四年 誤算
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「動き出しが私の予想より遅かったのは、やはり魏軍は相当上手く行っていないな」
姜維はつい緩みそうになる表情を引き締めて言う。
冬も終わり、魏軍が動く前にと伏兵を配したのだが、こちらの配置が万全になってからようやく魏の鍾会は動き出した。
当然ながらこちらは万全であった事から伏兵によって魏軍の作業は中断し、相変わらず剣閣への道は半分も進んでいない。
どうやら魏軍の中でも剣閣攻略の方法が見い出せず、しかも内部の武将達の連携にも問題が生じていると報告書が上がってきた。
鍾会や田続と言った参謀組と、胡烈を中心とする現場の武将達とで意見が合わない事が原因らしい。
また、隠平道も進んでいない事も問題だった。
こちらの方が問題は深刻だった。
冬の終わりにしばらく拠点から姿を消していた杜預が現れ、鄧艾と何やら口論をしていたらしい。
間者は一般兵に紛れているので会話の内容までは聞き取れなかったらしいのだが、その数日後に鄧艾も拠点から姿を消したとの報告が入った。
「……鄧艾はおそらく隠平道の断崖を見に行っていたのでしょう」
姜維は隠平道の拠点に紛れた間者の報告を見ながら言う。
「鍾会の方は足並みが揃わずに動き出しが遅れたのでしょうが、鄧艾の方も相当に焦っているのでしょう。おそらく杜預は道作りの先を見て、断崖を見たのでしょう。それが越えられそうにないと鄧艾に報告、それを受けた鄧艾は断崖を確認に行ったと言う事です。十中八九杜預は断崖を越えられないと判断し、鄧艾はそこを越えるしかないと主張して口論になったんでしょうね」
「あの断崖ですか。それは揉めそうですね」
張翼も苦笑いしながら言う。
一応ではあるが、張翼も以前隠平道の間道の先にある砦を見た事があり、その時にその断崖も見ていた。
地元民の中にはあの断崖を越える者もいるそうだが、それは土地に慣れた者で、しかも軽装備、さらに言えばごく少人数と言う条件付きである。
その事だけに希望をもって断崖を越える事に挑戦しようものなら、軍そのものを失いかねない。
おそらく杜預はそれに気付いて中止を進言したのだろうが、鄧艾としては今更引き返せない。
その数日後、鄧艾が消息不明となったと言う報告が姜維の元に届いた。
「ついに我慢出来なくなって断崖に姿を消した、と言う訳ですね。これで難敵が消えてくれましたよ」
姜維は報告書を見た後、諸将にその報告書を回す。
「鄧艾ほどの智将であっても、自然の猛威には無力と言う事ですね」
廖化が笑いながら言う。
「……万が一にもこの断崖を越えていたのなら?」
そんな中、鄧艾の事を知らない董厥だけが冷静さを失っていなかった。
一瞬とはいえその可能性が頭の中から消えていた廖化が、すぐに表情を引き締めて姜維を見る。
「確かに万が一には有り得る事態ではあるでしょうね。ですが、鄧艾が当初率いていた三万の道作り部隊のほとんどがまだ作業中です。仮に断崖を超える事に挑戦した部隊の数が一万以上であれば道作り部隊からも同数の兵が消えていなければいけませんが、その報告は無い。もし多くても五千足らず。仮にその全てが断崖を越えていたとしても、僅か五千の兵士に何が出来ますか? しかも断崖を越える為にはそれだけ物資を抱えては行けないのだから、ほとんど武器も鎧も、食料さえも持っていないはず。それに対して隠平道の先には諸葛丞相が遺した砦があり、さらに江油城、涪城、綿竹城と防衛線が張られています。鄧艾がどれほどの名将であったとしても、物資も無く、しかも蜀の地で補給もままならぬ状態で城を落としていく事など不可能でしょう」
姜維はそう説明した後、改めて董厥をみる。
「その上で貴殿には一度都に戻っていただく事になります」
「何か私に出来る事が?」
身構える董厥に、姜維は微笑みながら頷く。
「何とかして都から援軍を出してもらいたい。今なら必ず勝てると伝えて欲しいのです」
「勝てるのであれば出してもらえそうなのですが、それはいかなる作戦で? それを伝えない事には、諸将を説得出来るとは私には思えませんが」
「さして難しい策では無いですよ。せっかく魏軍が大軍を分散させてくれているのだから、私は伏兵を少し緩めて魏軍の半数近くが山に入れる様に道を作らせます。半分になった魏軍本隊も山に意識が向いているのだから、援軍は魏軍の背後を襲えば間違いなく勝てる。山に入った魏軍が慌てて本隊と合流しようとしたところを私達も追撃し、魏軍に対して完全勝利を手にする事が出来る。もちろん大功は都からの援軍を指揮する武将であり、それは思遠がもっとも相応しいでしょう。蜀の民も、さすが諸葛丞相の子だと絶賛する事だろうとお伝えすれば、陛下はきっと援軍を出す事を許可されるはず」
「大将軍の神算鬼謀、しかと陛下にお届けいたします」
姜維の必勝の策を聞き、董厥も心強くなった様で表情も晴れる。
しかし、事態は姜維の予想を遥かに超えた事になっていたのである。
「しかし、蜀の役人と言うのはどう言うつもりなんでしょうね」
杜預が様々な書類を見ながら言う。
「基本的には魏の役人と能力的な違いはあまり無いと思いますよ? 私腹の肥やし方が違うくらいです」
「陳寿、けっこう言うねぇ」
杜預の言葉に応えた陳寿に対し、杜預は笑いながら言う。
鄧艾達は宣言通り、江油城の物資を開放するとすぐに涪城へと向かった。
江油城を一瞬にして制圧した事もあって、涪城にも敵襲の報せが届いていなかったらしく、何もないところから突然魏軍が姿を現した事による混乱によって涪城はまともに戦う事なく陥落した。
この勢いで綿竹城へ、と言う訳にはいかなかった。
涪城の城主や兵は戦う事なく城を捨てて逃げ出したのだが、それは敵襲を知らせる事にほかならない。
さすがに敵襲を知れば成都に残る蜀軍も出てくる事になるだろうが、魏軍と言っても鄧艾が率いている兵の数は三千足らず。
しかも蜀からの投降兵達である。
一応鄧忠達を呼び寄せているのだが、隠平道の兵三万全てを呼び寄せられるほどの道は出来ておらず、加勢が来たとしてもせいぜい二千が限度だろうと鄧艾も杜預も予想していた。
しかしそれより問題になったのが、蜀の僻地の貧しさだった。
江油城近辺もひどかったが、それよりいくらか都に近づいたはずの涪城周辺ですら田畑は荒れ果て、村民や集落に住む民は餓えに苦しんでいたのである。
鄧艾は涪城の兵糧なども開放したのだが、江油城の時に出した書状をどう解釈したのか、近隣の蜀の民達が鄧艾に協力すれば食料をもらえると思ったらしく、涪城には続々と飢民が集まって、それによって鄧艾は足を止められていた。
「とても涪城の物資では足りませんけど、正直なところどうやってこれだけの兵糧をかき集めたのか不思議ですよ」
自称官吏である杜預だが、将軍として有能過ぎると言うだけで官吏としても十分に優秀である。
鄧艾も杜預も元々は文官であった事から、城を落とした後処理こそが本領発揮と言ってもいいのだが、そこで分かった事が地方の蜀の官吏の杜撰さであった。
実際の税収に対して報告は過少に、そこで浮かせた分を自身の懐に入れていた実態が分かり、杜預が呆れていた。
「その割に武具は揃っているな」
城に備えてある武具は、辺境を守る城にしては十分過ぎるほどに備えてあった事が鄧艾には不思議だった。
「金に変えやすいんですよ。需要がありますから」
陳寿が言うには、税収の中から懐に入れた分を一度武具や兵糧に変え、それをさらに横流しなどで金に変えて自身の懐に入れるのが最近のやり方だと陳寿は語った。
「それはまた、面倒な事を」
「面倒事を増やす事によって、分かりにくくしているんです。官吏になるには難しい試験がありますから、官吏であると言う事はそれだけ頭が良いと言う事にもなります。そんな人達が本気で頭を使って自分達の利益を追求しているワケですから、民はたまったものではありません」
陳寿自身も蜀で官吏になる試験に受かり、役人として都勤めの経験もあったらしい。
だが、あまりにも重すぎる税と不透明過ぎる金の流れの問題、自身の身近な貧しい者達の為に黄皓に直言したのだが、その結果この僻地に左遷されたと言う。
また、この人事の不当さを諸葛瞻にも訴えたのだが相手にさえしてもらえなかったらしい。
「そりゃまた、お前も大したモンだな。下手すると殺されてるだろ?」
杜預は驚いて言う。
今は杜預の補佐を勤めている陳寿だが、その能力の高さは杜預も理解している。
しかしそれでも黄皓や諸葛瞻に直言と言うのは、魏で言えば司馬昭に直接訴えかける様なものである。
司馬昭自身には相手にされないにしても、その事によって賈充や鍾会から睨まれる事になるのも十分に有り得るし、その事で危険視された場合には切られても文句は言えない行動である。
この周辺を見る限りでは、この地に左遷され、私腹を肥やす官吏のその下に置かれたと言う事は出世とは無縁になったと言う事でもある。
この時代でいうのなら、陳寿はもはや死んだも同然という事でもあった。
「私の生い立ちはともかく、これからどうなさるんです? 飢民受け入れを進めると言っても、もう三万近くですよ? この城の物資の全てを開放しても二ヶ月ともちませんが」
「もちろん綿竹城へ行きます」
陳寿の質問に、鄧艾は事も無げに答える。
「綿竹へ? 飢民を連れて?」
「もちろん」
鄧艾は即答する。
「この飢民を見せて蜀の上層部に訴えるつもりですか? おそらく蜀の上層部は何も変わりませんよ?」
「惜しい。私の考えている事は少し違う。と言うより、ちょっと足りないかな」
陳寿の言葉に、鄧艾は首を振る。
「今の状況を見れば、おそらくこれまでの事から姜維には都の守りを固める様にという指示が出るはず。これによって姜維は剣閣を放棄して成都に退かせ、鍾会将軍の一軍によって漢中を制圧する。これによって蜀は成都近辺を残すのみの土地となり、対呉戦線も維持出来なくなる。後はこちらの援軍を荊州から送り込む事によって成都を包囲して蜀の命運も終わりと言うのが、私の見た詰み筋です」
「……見事だとは思うのですが、おそらく上手く行きません」
鄧艾の戦略について、陳寿は否定する。
「将軍は蜀軍を優秀だと思っています。おそらく戦った相手が姜維将軍だった事で、あの方を蜀軍の基準として捉えているのでしょうが、あの方は蜀軍でも最高峰の御方。おそらく蜀軍は交渉と言う手はとりません。問答無用で制圧に来ますよ」
「馬鹿な。こちらには蜀の民が多数いるんだぞ?」
杜預は驚くが、陳寿はため息をつく。
「必ずそうなる、と言うわけではありませんし、私も自国の将軍が魏の武将と比べて劣ると思いたく無いのですが、そういう行動も取る事はあると考えた方が良いです」
「……都に残っている諸葛瞻将軍はあの諸葛孔明の息子なんだろう? あの仲達様ですら及ばなかった、神の如き存在と言われた者の息子が、そんな短絡的な事をするのか?」
「だからこそです」
杜預の質問に、陳寿は頷く。
「誰もが諸葛瞻将軍を丞相の息子と崇めた結果、誰も将軍に口出しする事が出来ず、またそれによって武功を立てる契機を逃した事で、父の名に恥じぬ武功をと気が焦っています。相手が蜀の民であるなど考えず、魏軍の鄧艾を討つと言う事のみに囚われる事はありえます。むしろ諸葛丞相の息子だからこそ、それしか見えなくなるかもしれません」
「……無くはない、か」
鄧艾は頷いて腕を組む。
「父上、鄧忠ただいま到着しました。……けど、聞いていた状態とは随分違うみたいですが?」
消息不明となった鄧艾を探すと偽って、兵二千を率いてこの地で合流した鄧忠と師纂だったが、想定の状況とあまりにも違って困惑していた。
姜維はつい緩みそうになる表情を引き締めて言う。
冬も終わり、魏軍が動く前にと伏兵を配したのだが、こちらの配置が万全になってからようやく魏の鍾会は動き出した。
当然ながらこちらは万全であった事から伏兵によって魏軍の作業は中断し、相変わらず剣閣への道は半分も進んでいない。
どうやら魏軍の中でも剣閣攻略の方法が見い出せず、しかも内部の武将達の連携にも問題が生じていると報告書が上がってきた。
鍾会や田続と言った参謀組と、胡烈を中心とする現場の武将達とで意見が合わない事が原因らしい。
また、隠平道も進んでいない事も問題だった。
こちらの方が問題は深刻だった。
冬の終わりにしばらく拠点から姿を消していた杜預が現れ、鄧艾と何やら口論をしていたらしい。
間者は一般兵に紛れているので会話の内容までは聞き取れなかったらしいのだが、その数日後に鄧艾も拠点から姿を消したとの報告が入った。
「……鄧艾はおそらく隠平道の断崖を見に行っていたのでしょう」
姜維は隠平道の拠点に紛れた間者の報告を見ながら言う。
「鍾会の方は足並みが揃わずに動き出しが遅れたのでしょうが、鄧艾の方も相当に焦っているのでしょう。おそらく杜預は道作りの先を見て、断崖を見たのでしょう。それが越えられそうにないと鄧艾に報告、それを受けた鄧艾は断崖を確認に行ったと言う事です。十中八九杜預は断崖を越えられないと判断し、鄧艾はそこを越えるしかないと主張して口論になったんでしょうね」
「あの断崖ですか。それは揉めそうですね」
張翼も苦笑いしながら言う。
一応ではあるが、張翼も以前隠平道の間道の先にある砦を見た事があり、その時にその断崖も見ていた。
地元民の中にはあの断崖を越える者もいるそうだが、それは土地に慣れた者で、しかも軽装備、さらに言えばごく少人数と言う条件付きである。
その事だけに希望をもって断崖を越える事に挑戦しようものなら、軍そのものを失いかねない。
おそらく杜預はそれに気付いて中止を進言したのだろうが、鄧艾としては今更引き返せない。
その数日後、鄧艾が消息不明となったと言う報告が姜維の元に届いた。
「ついに我慢出来なくなって断崖に姿を消した、と言う訳ですね。これで難敵が消えてくれましたよ」
姜維は報告書を見た後、諸将にその報告書を回す。
「鄧艾ほどの智将であっても、自然の猛威には無力と言う事ですね」
廖化が笑いながら言う。
「……万が一にもこの断崖を越えていたのなら?」
そんな中、鄧艾の事を知らない董厥だけが冷静さを失っていなかった。
一瞬とはいえその可能性が頭の中から消えていた廖化が、すぐに表情を引き締めて姜維を見る。
「確かに万が一には有り得る事態ではあるでしょうね。ですが、鄧艾が当初率いていた三万の道作り部隊のほとんどがまだ作業中です。仮に断崖を超える事に挑戦した部隊の数が一万以上であれば道作り部隊からも同数の兵が消えていなければいけませんが、その報告は無い。もし多くても五千足らず。仮にその全てが断崖を越えていたとしても、僅か五千の兵士に何が出来ますか? しかも断崖を越える為にはそれだけ物資を抱えては行けないのだから、ほとんど武器も鎧も、食料さえも持っていないはず。それに対して隠平道の先には諸葛丞相が遺した砦があり、さらに江油城、涪城、綿竹城と防衛線が張られています。鄧艾がどれほどの名将であったとしても、物資も無く、しかも蜀の地で補給もままならぬ状態で城を落としていく事など不可能でしょう」
姜維はそう説明した後、改めて董厥をみる。
「その上で貴殿には一度都に戻っていただく事になります」
「何か私に出来る事が?」
身構える董厥に、姜維は微笑みながら頷く。
「何とかして都から援軍を出してもらいたい。今なら必ず勝てると伝えて欲しいのです」
「勝てるのであれば出してもらえそうなのですが、それはいかなる作戦で? それを伝えない事には、諸将を説得出来るとは私には思えませんが」
「さして難しい策では無いですよ。せっかく魏軍が大軍を分散させてくれているのだから、私は伏兵を少し緩めて魏軍の半数近くが山に入れる様に道を作らせます。半分になった魏軍本隊も山に意識が向いているのだから、援軍は魏軍の背後を襲えば間違いなく勝てる。山に入った魏軍が慌てて本隊と合流しようとしたところを私達も追撃し、魏軍に対して完全勝利を手にする事が出来る。もちろん大功は都からの援軍を指揮する武将であり、それは思遠がもっとも相応しいでしょう。蜀の民も、さすが諸葛丞相の子だと絶賛する事だろうとお伝えすれば、陛下はきっと援軍を出す事を許可されるはず」
「大将軍の神算鬼謀、しかと陛下にお届けいたします」
姜維の必勝の策を聞き、董厥も心強くなった様で表情も晴れる。
しかし、事態は姜維の予想を遥かに超えた事になっていたのである。
「しかし、蜀の役人と言うのはどう言うつもりなんでしょうね」
杜預が様々な書類を見ながら言う。
「基本的には魏の役人と能力的な違いはあまり無いと思いますよ? 私腹の肥やし方が違うくらいです」
「陳寿、けっこう言うねぇ」
杜預の言葉に応えた陳寿に対し、杜預は笑いながら言う。
鄧艾達は宣言通り、江油城の物資を開放するとすぐに涪城へと向かった。
江油城を一瞬にして制圧した事もあって、涪城にも敵襲の報せが届いていなかったらしく、何もないところから突然魏軍が姿を現した事による混乱によって涪城はまともに戦う事なく陥落した。
この勢いで綿竹城へ、と言う訳にはいかなかった。
涪城の城主や兵は戦う事なく城を捨てて逃げ出したのだが、それは敵襲を知らせる事にほかならない。
さすがに敵襲を知れば成都に残る蜀軍も出てくる事になるだろうが、魏軍と言っても鄧艾が率いている兵の数は三千足らず。
しかも蜀からの投降兵達である。
一応鄧忠達を呼び寄せているのだが、隠平道の兵三万全てを呼び寄せられるほどの道は出来ておらず、加勢が来たとしてもせいぜい二千が限度だろうと鄧艾も杜預も予想していた。
しかしそれより問題になったのが、蜀の僻地の貧しさだった。
江油城近辺もひどかったが、それよりいくらか都に近づいたはずの涪城周辺ですら田畑は荒れ果て、村民や集落に住む民は餓えに苦しんでいたのである。
鄧艾は涪城の兵糧なども開放したのだが、江油城の時に出した書状をどう解釈したのか、近隣の蜀の民達が鄧艾に協力すれば食料をもらえると思ったらしく、涪城には続々と飢民が集まって、それによって鄧艾は足を止められていた。
「とても涪城の物資では足りませんけど、正直なところどうやってこれだけの兵糧をかき集めたのか不思議ですよ」
自称官吏である杜預だが、将軍として有能過ぎると言うだけで官吏としても十分に優秀である。
鄧艾も杜預も元々は文官であった事から、城を落とした後処理こそが本領発揮と言ってもいいのだが、そこで分かった事が地方の蜀の官吏の杜撰さであった。
実際の税収に対して報告は過少に、そこで浮かせた分を自身の懐に入れていた実態が分かり、杜預が呆れていた。
「その割に武具は揃っているな」
城に備えてある武具は、辺境を守る城にしては十分過ぎるほどに備えてあった事が鄧艾には不思議だった。
「金に変えやすいんですよ。需要がありますから」
陳寿が言うには、税収の中から懐に入れた分を一度武具や兵糧に変え、それをさらに横流しなどで金に変えて自身の懐に入れるのが最近のやり方だと陳寿は語った。
「それはまた、面倒な事を」
「面倒事を増やす事によって、分かりにくくしているんです。官吏になるには難しい試験がありますから、官吏であると言う事はそれだけ頭が良いと言う事にもなります。そんな人達が本気で頭を使って自分達の利益を追求しているワケですから、民はたまったものではありません」
陳寿自身も蜀で官吏になる試験に受かり、役人として都勤めの経験もあったらしい。
だが、あまりにも重すぎる税と不透明過ぎる金の流れの問題、自身の身近な貧しい者達の為に黄皓に直言したのだが、その結果この僻地に左遷されたと言う。
また、この人事の不当さを諸葛瞻にも訴えたのだが相手にさえしてもらえなかったらしい。
「そりゃまた、お前も大したモンだな。下手すると殺されてるだろ?」
杜預は驚いて言う。
今は杜預の補佐を勤めている陳寿だが、その能力の高さは杜預も理解している。
しかしそれでも黄皓や諸葛瞻に直言と言うのは、魏で言えば司馬昭に直接訴えかける様なものである。
司馬昭自身には相手にされないにしても、その事によって賈充や鍾会から睨まれる事になるのも十分に有り得るし、その事で危険視された場合には切られても文句は言えない行動である。
この周辺を見る限りでは、この地に左遷され、私腹を肥やす官吏のその下に置かれたと言う事は出世とは無縁になったと言う事でもある。
この時代でいうのなら、陳寿はもはや死んだも同然という事でもあった。
「私の生い立ちはともかく、これからどうなさるんです? 飢民受け入れを進めると言っても、もう三万近くですよ? この城の物資の全てを開放しても二ヶ月ともちませんが」
「もちろん綿竹城へ行きます」
陳寿の質問に、鄧艾は事も無げに答える。
「綿竹へ? 飢民を連れて?」
「もちろん」
鄧艾は即答する。
「この飢民を見せて蜀の上層部に訴えるつもりですか? おそらく蜀の上層部は何も変わりませんよ?」
「惜しい。私の考えている事は少し違う。と言うより、ちょっと足りないかな」
陳寿の言葉に、鄧艾は首を振る。
「今の状況を見れば、おそらくこれまでの事から姜維には都の守りを固める様にという指示が出るはず。これによって姜維は剣閣を放棄して成都に退かせ、鍾会将軍の一軍によって漢中を制圧する。これによって蜀は成都近辺を残すのみの土地となり、対呉戦線も維持出来なくなる。後はこちらの援軍を荊州から送り込む事によって成都を包囲して蜀の命運も終わりと言うのが、私の見た詰み筋です」
「……見事だとは思うのですが、おそらく上手く行きません」
鄧艾の戦略について、陳寿は否定する。
「将軍は蜀軍を優秀だと思っています。おそらく戦った相手が姜維将軍だった事で、あの方を蜀軍の基準として捉えているのでしょうが、あの方は蜀軍でも最高峰の御方。おそらく蜀軍は交渉と言う手はとりません。問答無用で制圧に来ますよ」
「馬鹿な。こちらには蜀の民が多数いるんだぞ?」
杜預は驚くが、陳寿はため息をつく。
「必ずそうなる、と言うわけではありませんし、私も自国の将軍が魏の武将と比べて劣ると思いたく無いのですが、そういう行動も取る事はあると考えた方が良いです」
「……都に残っている諸葛瞻将軍はあの諸葛孔明の息子なんだろう? あの仲達様ですら及ばなかった、神の如き存在と言われた者の息子が、そんな短絡的な事をするのか?」
「だからこそです」
杜預の質問に、陳寿は頷く。
「誰もが諸葛瞻将軍を丞相の息子と崇めた結果、誰も将軍に口出しする事が出来ず、またそれによって武功を立てる契機を逃した事で、父の名に恥じぬ武功をと気が焦っています。相手が蜀の民であるなど考えず、魏軍の鄧艾を討つと言う事のみに囚われる事はありえます。むしろ諸葛丞相の息子だからこそ、それしか見えなくなるかもしれません」
「……無くはない、か」
鄧艾は頷いて腕を組む。
「父上、鄧忠ただいま到着しました。……けど、聞いていた状態とは随分違うみたいですが?」
消息不明となった鄧艾を探すと偽って、兵二千を率いてこの地で合流した鄧忠と師纂だったが、想定の状況とあまりにも違って困惑していた。
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