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最終章 鼎、倒れる時

第十二話 二六三年 その先の為に

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 魏軍に潜入している間者からの報告書を読む姜維は、思わず失笑していた。

 その奇行ともいえる行動に、蜀の武将達は訝しんだ。

「大将軍? 何か?」

「ああ、いや、悪い。しかし」

 廖化の質問に答えようとしたが、姜維は笑いが込み上げてきた。

「こう言うとなんだが、ここまで上手くいくとは思わなかったのでな。今なら諸葛丞相の見ていた景色が見える気がする」

 魏からの報告書の内容は、まさに姜維の予想通りのものだった。

 剣閣に立て籠もると言うのは、姜維にとって当初の予定とは違うものだったが、今となっては最適手だったとも思う。

 今にして思えば、鄧艾はともかく鍾会は姜維の軍など無視して成都を目指すという手もあったのだ。

 そうすれば姜維は鄧艾によって足止めされ、無傷の鍾会の一軍は成都に迫る事が出来ただろう。

 だが、傅僉の命懸けの献策によって、姜維と言う極上の餌と蜀軍主力と言う危険が裸の山城を頼りにしているのが目の前に飛び込んできて、鍾会と鄧艾は全軍の足を止めてしまった。

 あの時はそれが当然の一手だと思っただろうし、姜維自身もそう思わない訳ではなかった。

 が、魏の誤算はこの裸の山が、力では落とせないほど強固な要塞であった事だ。

 鄧艾が撃退された時点でその防衛能力の高さも予想出来たはずだったが、鍾会はその時にはまだ力でどうにかなると思い込んでいた。

 ここが致命的な勘違いだったのだ。

 この時に鍾会と鄧艾が密接な友好関係であれば、先ほどの策にもすぐに行き着いただろう。

 だが、この異才の二人は互いに功を競う間柄だったらしく、先に動いたのは鄧艾だった。

 蜀の地図を注意深く見れば気付く、隠平道の間道。

 名将と呼ぶに相応しい能力を持つ鄧艾も、それに気付いて兵を分けてしまった。

 これによって、先ほどの策は実行出来なくなってしまった。

 おそらく今では鍾会も、先ほどの策には思い至っているだろう。

 しかし、軌道修正するには一度自分の失策を認め、鄧艾に頭を下げて自身の策に従ってもらう様に説得するしかない。

 極めて有能で、それに見合った気位の高さを持つ鍾会にはとても出来ない事らしいと姜維は読んでいた。

「では、魏の次の手は?」

 張翼が姜維に尋ねる。

「もう剣閣の一点を突破して拠点を作り、雌雄を決する様な短期決戦は挑まない。数は魏軍の方が多いのだから、数に物を言わせて山を切り開く事を優先するはず。こちらは山林の方々に伏兵を配置し、魏軍が作業を始めるところを狙って打撃を与える。ただし一撃で良い。伏兵だと魏軍に気付かせれば役目は終わりで、すぐに撤退しても良いくらいだ。魏軍が作業を始めようとするたびに同じ事を行い、最終的な理想としては魏の兵士が山に入りたがらなくなる様にしたいくらいだ」

 姜維が指示したのは百人単位の少数部隊で、山林に広く配置。魏軍も山を切り開く時には本命を悟らせない様に数ヶ所を同時に始めるだろうから、その全てに複数回伏兵を当てる様にする。

 作業を始めるたびに矢を射掛けられ、魏の兵が伏兵を捕捉する前に離脱。別の隊が同じ様に矢を射掛ける。

 これをやられれば、鍾会はさらにじれる事になるだろう。

「そうなるとおそらく次は火を用いたくなるだろうが、生憎と風は山から下りる様に吹いている。火を用いて焼かれるのは自分達と言う事だ」

 まだ魏軍の方が優勢であると言えるだろうが、いよいよ余力が無くなってきたと言う事を、姜維は読み取っていた。

「では、さらに選択肢を減らす為にも、鄧艾の一軍の退路を断って全滅させておきますか? これで蜀軍は撤退する事になるのでは?」

 張翼が尋ねると、姜維は笑いながら首を振る。

「それが最適手に見えるのですが、実はそれこそ鍾会が望む一手なんですよ。そうすれば鍾会は自分の非を認める必要も無く鄧艾と合流する事が出来るし、実は鄧艾もそれを望んでいるんです。見て下さい」

 姜維は別の報告書を見せる。

 それは鄧艾の方に紛れ込んでいる間者からだった。

「この鄧艾の進行状況、少し遅すぎると思いませんか?」

「それは、隠平道への道がそれだけ険しいと言う事では?」

 張翼の質問に、姜維は頷く。

「それもあります。さらに、退路が断たれては全滅を免れない事は鄧艾も気づいているでしょう。なので、こちらの別働隊を恐れている。そして、その動きをこちらが見せればごく自然に自分の失策を改め、鍾会の本隊と合流するきっかけとなる。その為に鄧艾は当初より遅れている進行状況を早めようとはしていないのです」

 正直に言えば、今の鄧艾軍総数三万前後の軍が鍾会と合流しても、すぐに剣閣を落とされると言う事は無いと姜維は思う。

 しかしそれでも、合流されて姜維に良い事など何もない。

「せっかく三万もの兵が遊軍として無駄な時間を過ごしてくれているんですから、道以上の溝を深め合ってもらいましょう」

「……恐ろしいものですね。これが戦略眼と言うモノですか」

 董厥は未知の生物を見る様な目で、姜維を見る。

「思遠も、そう遠からずこの域まで来るでしょうね。ただ、良い経験を積ませられれば、ですが」

 姜維はそう言うと、あくまでも剣閣の防衛に力を入れ、鄧艾の隠平道からの攻略は放置する事にした。

 姜維の読みは、まさに魏軍の戦略の九割方正確に看破していた。

 ただし、鄧艾の真意だけを読み違えていたのである。





 その鄧艾達は、現在の進行拠点より遥か前方にいた。

「……これですか。問題と言うのは」

「中々にマズいでしょ?」

 鄧艾の表情が険しいのを見て、何故か杜預が誇らしげに答える。

「中々にマズいですね。何をどうやっても、大軍をここから送り込むと言う訳にはいかないと言う事ですね」

「大軍を、と言うなら橋は絶対条件ですが、それはいよいよ道を切り開くより大掛かりな作業になります。それより何より、対岸に行かなければ橋を作ると言う事さえ現実的ではありません」

 書記官も兼ねた段灼が、鄧艾に提案する。

「確かに。ここはやはり少数精鋭で進むしかない、ですね。まぁ、当初の予定通りとも言えますから、必要なのは蜀出身で、何が何でも国に帰りたいと思っている者と、長い縄。それも非常識な長さと丈夫さが必要になりそうですね」

 鄧艾は問題となっている場所を見る。

 そこにはまるで魏と蜀を分ける様な、断崖があった。

 底を見る事は出来ず、その深さはどれほどのモノか分からない。

 言うまでもなく、対岸まで全力で飛べば届くと言うはずも無い。

「ただし、縄作りは本拠点ではなくこの近辺で行う様にしましょう。姜維には掴まれたくないので」

 ここからの行動は、蜀への奇襲に直接関わる作業や行動が増える。

 幸いな事に、こちらの選別した兵士には間者が混ざっていなかったので、早速この先の方の拠点に移している。

 それも罰則としての隔離と言う事で、至って自然な形で三千の兵を移動させる事に成功していた。

「ここからは全員で行動と言う訳にはいかないでしょう。まずはここでの作業を杜預に一任します。定期的に報告する事だけは忘れない様に」

「御意」

「忠と師纂は基本的には道作りの拠点で行動してくれ。何かしようとしている時、若手の姿が見えないのはあからさまだ。段灼も兵糧官補佐を兼ねる訳だから、道作りの拠点からこちらが呼ぶまで動く必要は無い」

「御意。では鄧忠将軍、師纂将軍、行きましょう」

 段灼が促すが、二人共不満そうな顔で動こうとしない。

「父上、それは俺達を前線から外すと言う事ですか?」

 鄧忠の言葉に、杜預は呆れてため息をつく。

「忠よぉ。それに、顔を見る限りでは師纂も同じ様に考えてるみたいだが、今の話で何でそんな風に考えるのか、俺にはちょっと不思議なくらいだ」

「元凱は良いさ。副将だから前線を外される事も無いだろうし」

「そんな事も無いんだが、忠も師纂も手柄を焦る様な立場じゃ無くなったって事を理解しろ。お前ら将軍になったんだぞ?」

「杜預将軍には分かりませんよ。名家の生まれで、出世を約束されている方と違って、俺達にとって一戦場での武功は死活問題。まして忠は鄧艾将軍の息子だからまだしも、俺にとっては大問題です」

 師纂も鄧艾や杜預に抗議している。

「……お前ら、根本的に短絡的だな。これはアレかな? 胡奮将軍の悪影響?」

「いえ、あの方はそう見えるだけで、決して短絡的な将軍ではありません。もう少し根深い魏の抱える問題でしょうね」

「ですね。あのなぁ、師纂」

「私から説明しましょう。と言っても、さほど複雑でも難しい話でもありません」

 鄧艾の言葉に、鄧忠も師纂も耳を傾ける。

「戦において、最終的に結果を左右する要因は得てして身体能力である事も多いです。特に統率の取れている身体能力の高い集団と言うのは、戦において働きの場が多い。ここまでは分かりますね」

 鄧艾の言葉に、二人共頷く。

「であれば、あとは簡単な理屈です。戦の強い弱いではなく、身体能力の高さ。特に持久力の差で考えた場合、私と忠や師纂のどちらが優れていると思いますか?」

「そりゃ、父上よりは俺の方が……」

「そう。何かする時には、必ず忠や師纂に働いてもらう事になります。なので、最後の最後まで二人には策の気配を見せて欲しく無いのですよ」

「ああ、そう言う事ですか」

 師纂はようやく納得し、鄧忠も頷いていた。

「説明される前に察しろよ。鄧艾将軍が言ってただろ? 若手が見えないのはあからさまだって」

「うん、言ってたね」

「忠、お前は出世しない方が良いな」

 杜預は呆れて言う。

「とにかく俺は今から縄作りだから、お前らは道作って来い。たぶんここまでは来れないだろうが、少しは進めてもらわないと物資の運搬も困難になる」

 杜預は断崖近くの拠点に残り、他の面々は道作りの本拠点へ戻る。

「問題と言うのは解決出来そうですか?」

 全員が移動すると言う訳にもいかないので、留守居役だった句安が戻ってきた鄧艾達に尋ねる。

「色々と試さなければならない事が多そうです」

「こちらからも悪い報せがあります。鍾会から、進捗の遅れと兵の離脱の説明を求めてきました。おそらくは田続からの悪意ある報告が原因でしょうね」

「蜀軍にこの事は伝わっていると思いますか?」

「ほぼ間違いなく。この陣にも鍾会の方にも間者が一人もおらず、一切の情報が伝わっていないと考える方が不自然で無理があるでしょう。間者であれば、上層部の不仲は願ってもない情報である事から、間者が紛れていれば双方から報告が行っているはずです」

「なるほど、それで一つおかしな事への答えも見つかりました」

 句安の報告に、鄧艾は頷く。

「蜀軍がこちらの退路を断つ動きを見せないのが気になっていたのですが、こちらの情報がちゃんと蜀軍に届いていると言うことですね」

「どう言う事ですか?」

 尋ねたのは句安だったが、他の面々も不思議そうにしている。

「姜維は、この隠平道からの侵攻は不可能と考えているんです。ま、周囲からの反対からその反応も不思議じゃ無いですが、そんな不可能な事に兵を割いている状況は姜維にとって有難い限り。ここで下手に退路を断つ動きを見せれば、せっかく無駄骨を折っている一軍を呼び寄せる事になりますからね。まして上層部が不仲であれば、この状況を長引かせる事も出来るし、向こうも損害覚悟で兵を出さずに済む。そう考えているんでしょう」

「……将軍と姜維はその次元で戦い合っているのですね。これでは俺達では勝負にならないのも無理はない」

 句安は苦笑い気味に言う。

「今は亡き郭淮将軍や陳泰将軍も、姜維と言う難敵を抱えていました。考えてみればお二方共、無理に姜維とは戦わず、いかに守るかを考えておられました。攻めると言うのは極めて困難な事なのですね」

「ええ、守る側が絶対有利です。にも関わらず、私は幾度も姜維に敗れています。が、敗戦の経験があるからこそ、姜維を知る機会も増えたと言うことですよ」

 鄧艾はそう言うと、武将達の顔を見る。

「冬に入れば、いよいよ軍事行動は取れなくなり、各所の準備が極めて重要になってきます。しかも我々の行動は他のところより早く動かねばならず、行動は春を待たずに行います。ここから気を抜かず、細心の注意を払って最善を尽くす事。そうすれば、この策は必ず上手くいきます」
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