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最終章 鼎、倒れる時

第五話 二六三年 蜀の吉凶

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 魏軍動くの報は、情報を収集していた姜維の元にも届いていた。

「呉を攻める?」

 報告を受けた姜維は、首を傾げて情報を持ち帰った間者働きをした者に尋ねる。

「はっ、先鋒軍を率いる将軍である鍾会は、呉を討つ為の出兵であり、呉軍の油断を誘う為に一度蜀に兵を向けていると。その為の陽動として鄧艾も兵を出して、蜀との戦闘をもっともらしくすると言っていました」

「……呉、だと?」

「将軍、何か気がかりで?」

 姜維が難しい顔をしているので、副将の廖化が尋ねる。

「最終的には総大将の司馬昭も動くと言っていましたが、呉を討つつもりなのだろうか、と思って」

「諸葛誕との戦いで呉も相当な被害を受けています。軍船の準備さえ整っているのであれば、呉の討伐も有り得なくはないかと思うのですが?」

 廖化はそう思っているが、姜維は疑っていた。

 魏と蜀は長らく戦い続ける、天敵とさえ言える間柄である。

 それは蜀の建国の理念が漢王朝の復興であった事もあり、漢を滅ぼした魏こそ不倶戴天の敵だった。

 魏にとっても蜀は大敵である。

 呉も当然隙を伺っているのだが、呉はまさに隙を伺う事が多く率先して魏や蜀を滅ぼす動きはあまり見せていない。

 もちろん呉には呉の事情があるのだが、魏は蜀を、蜀は魏を討つ事が基本戦略のはずだった。

 それでも呉を討つと言うのであれば、何かしら大きな勝機が必要になるはずなのだが、少なくとも姜維は呉に対してその様な情報は受けていない。

「前線の守備兵のみでは鄧艾達は抑えられても、魏の先鋒軍、さらに司馬昭の本隊までも来ては守りようも無い。急ぎ本国に援軍の要請を」

「ですが、報告ではあくまでも呉を攻めるとの事。本国に援軍と言われても、どの規模での援軍を求めますか?」

 廖化は姜維に尋ねる。

 軍と言うものは動かすだけでそれなりに必要になる物資や食料、時間や金がかかるモノであり、その規模が大きくなれば当然それらも多くなる。

 蜀の国庫に潤沢な余裕があるとは言えない事もあり、大将軍である姜維と言えども軍を望むままに動かすと言う訳にはいかないのであった。

「……魏が呉を攻めると言うのは虚報。魏軍は大軍を持って蜀に攻め込んでくるつもり。これすなわち亡国の危機。全軍を持って当たる事でしか国を守る事は出来ないと伝えよ」

「御意」

 廖化はすぐに書状をしたためると、自ら成都に向かう。

 今のところ、これは姜維の勘でしかない。

 しかし、確証は無いが確信めいた予感がしていた。

 もし自分なら、と考えた場合にはやはり同じような虚報は用いるだろう。

 後漢末期や三国時代黎明期であれば最前線にも十万単位の守備兵を配置していたものだろうが、今では動かせる兵の規模がかなり小さくなっている。

 その為、三国で同じように最前線には最低限の兵を配備し、敵国の軍の侵攻を掴んだ後に本国より兵を出すと言う仕組みになっていた。

 そんな中で、今回の魏軍は雍州方面軍三万の他、本国からの先鋒軍十万の後、司馬昭の本隊四十万と言われ、魏軍のほぼ全軍を持って進軍してくると報告があった。

 おそらく呉では蜂の巣をつついた騒ぎになっていただろうが、これが虚報であった場合にはまともに防備の備えが無い状態で魏軍五十万もの大軍を招き入れる事になるのだ。

 不安になるものは無数にあるが、国が滅ぶ事を望む様な者はいないはずだ。

 少なくとも姜維はそう思い、多少大袈裟であると言う自覚はあったが廖化にはそう伝えたのであった。





 大将軍の副将である廖化ではあるのだが、兵を動かすのはその肩書きだけではまだ足りない。

 皇帝である劉禅の許可が無ければ、本国の兵は動かす事が出来ないのである。

 とは言え、これは蜀に限った事ではない。

 兵権の全てが大将軍に帰した場合、大将軍が謀反を起こす様な事になれば全ての兵を大将軍が抑えているので簡単に国を乗っ取る事が出来てしまう。

 国はあくまでも皇帝が最上位でなければならない事から、兵の動員も皇帝の許可が必要になるのは至極当たり前の事である。

 が、火急の際にはその建前が足を引っ張る事にもなる。

 廖化からの報告は、直接劉禅に面会して手渡すと言う訳にはいかず、まず代理人に渡し、代理人から後宮の劉禅へと送られる手筈になっていた。

 どこで書状がすり替えられるかも分からない状況ではあったが、代理人として現れたのが郤正であった事は幸運だったと言える。

「大将軍からの書状、必ず皇帝陛下の手に渡す事をお約束します」

 郤正はそう言うと、廖化の手から書状を受け取る。

 廖化自身は郤正の事はよく知らないのだが、姜維から書状を渡すべき人物として挙げられた名前の人物であった事もあり、すぐに書状を渡す。

「国の存亡に関わる大事。何卒、よろしくお願いします」

 階位では廖化の方が圧倒的に上なのだが、それでも廖化は郤正に頭を下げる。

 郤正は後宮で皇帝付きの女官に書状を渡し、劉禅へ届ける様に伝える。

 郤正自身は文官としても下位であるのだが、その仕事の細やかさから黄皓から重用されていると言う訳でも無いが、何かと頼まれる事も多く後宮に出向く事も多かった。

 その為、顔見知りの女官と言うのも出てくる。

 こうして書状はすり替えられる事無く、しかも最短で劉禅に届けられたところまでは幸運だったと言えるだろう。

 とは言え、幸運でどうにか出来るのはここまでだった。



 書状を受けた劉禅はすぐにその書状に目を通したが、即決で兵を出す様な事はせずに、周りの者達に相談したのである。

 そして真っ先に相談を持ちかけられたのは、後宮勤めであり劉禅からもっとも重用されている宦官の黄皓であった。

「ほっほっほ、これはまた、戦好きの虫が騒ぎ始めましたかな? 大将軍の戦好きは本当に困ったモノ」

 黄皓は一笑に付す。

「そうか? 伯約は戦上手であるが、必ずしも戦好きと言う訳ではないだろう。その戦術眼たるや亡き諸葛丞相にも劣らず、その胆力たるや亡き趙子龍にも劣らぬ」

「いえいえ、姜維大将軍を卑下している訳ではございません。しかし、大将軍の才覚は戦に関するところが大きく、自らの才覚を示すには戦で示すのがもっとも手早い道である事も知っておられます。故にこの様な針小棒大な報告をなさる。困ったものです」

「ではこの報告は虚偽である、と?」

「魏が大軍を動かしたのは事実であります。その報告は受けております。しかし、その魏の大軍の本当の目的は呉の討伐であり、呉を偽る為に蜀に兵を向けておるとの事。それでは自身の才覚を示す事が出来ぬ故に、大将軍は兵を動員して強引に魏との戦に踏み込もうとしておられるのですよ」

「ふーむ、伯約がその様な回りくどい手を好むとも思えぬのだが?」

 劉禅は首を傾げながら、黄皓に尋ねる。

「大将軍の戦術たるや、非才で戦に疎い私如きがどうこう言える様な事も無く、またその真贋を見極める事も私の様な者では無理。ですが、吉凶を占う巫女が都にいるそうで、しかも神懸かりな力でよく当たるとか。ここはその巫女を呼んで国の行く末を占わせては? もし巫女が危急存亡を告げるのであれば、大将軍の書状の通りに援軍を送らせる様に致しましょう」

 黄皓はそう言うと、都に来ていると言う巫女を呼ぶ。

 吉凶を占う巫女と言う老婆と、その付き人である少女は突然皇帝の前に呼び出されたにも関わらず、落ち着いたものである。

「本日は蜀の未来について、占ってもらえる?」

 黄皓は巫女に向かって言う。

「む? 黄皓、知り合いか?」

「以前占っていただいた事があるのです。その為によく当たる事は知っていましたし、すぐに呼ぶ事も出来たのですよ」

 黄皓は事も無げに答える。

「では、国の吉兆を占って下され。巫女殿」

 黄皓は劉禅との会話を区切ると、巫女に促す。

 巫女は頷くと急遽用意させた祭壇の上に上がり、付き人の少女は香を焚き笹を振って何やら呪文を唱え始める。

 その呪文に合わせての老婆は奇声を上げて、半眼になって舞い始めた。

「ほう、占いとはこうやるのか?」

「この者は神降ろし故に、神の声を聞く事が出来るのです。それによって吉兆を占うのです」

「ふむ、諸葛丞相も神の如き人ではあったが、この様な舞は見たことが無いなぁ」

「丞相は占い師ではありませんので、ここまでの神降ろしの呪法は知らなかったのでしょう」

「……我は……蜀の……産土神……。この……後も……西蜀は……太平至極……」

 唸り声を上げて、巫女は言葉を告げる。

「どうにもそうは聞こえぬ声色ではあるが、蜀は太平との事で間違い無いのか?」

 劉禅は髪を振り乱し、半眼で狂った様に舞う老婆に薄気味悪さを感じたのか、香の煙を払っている少女に尋ねる。

「巫女様の神降ろしの儀によって告げられる言葉は、巫女様ではなくその時降ろされた神が、巫女様の体を通して言葉を伝えておられるのです。故に喘ぎ苦しむお声になられるのは、やむを得ない事なのです」

 少女の方も中々に表情が乏しく胡散臭さは際立っているが、それもこの神降ろしの儀に真実味を与えていると言えた。

「ふむ、では蜀はこの後も太平至極である、とのお告げは信じて良いのだな?」

「産土神のお言葉なれば」

 少女は無表情のままに、笹を手に取ったままで頭を下げる。

 巫女の方はまだ舞っていたが、突然一声叫ぶとその場に倒れた。

「これは大事。すぐに休ませましょう」

 黄皓は女官を呼ぶと、倒れた巫女を休ませる為に女官を呼んで別室で休ませる。

「かの様に、この書状はやはり針小棒大に伝えられた虚報。大将軍の杞憂だけで大軍を動かせるほど蜀には余裕はありませぬ。大将軍には前線の兵で警戒する様に伝えておきましょう」

「そうか。念の為に都の兵を預かる者の意見も聞いておこうか」

「では、閻宇将軍をお呼び致しましょうか」

 とは言え、さすがに後宮に呼ぶ訳にはいかないので、それは後日と言う事になった。





「良い雰囲気だったわよ、二人共」

 黄皓は別室で休んでいた巫女と少女に言う。

「黄皓様に言われた通りに致しましたが、アレでよろしかったのでしょうか? 陛下を騙す事になってしまったのですが……」

 老婆が不安そうに黄皓に尋ねるが、黄皓は軽く手を振って頷く。

「神降ろしは詐術かもしれないけど、蜀が太平至極である事は嘘ではないのだから、安心しなさい。それより、二度と占いはせず、一市民として宮殿には近づかない様にしなさい。良いわね?」

「もちろんです」

 老婆と少女は黄皓の前に跪いて、頭を下げる。

「さ、コレを持って出て行きなさい」

 黄皓から金をもらうと、二人はすぐさま後宮から出て行く。





「……お婆様」

「おお、どうした? 何か見えたのかえ?」

 都を離れながら少女の方が、老婆に話しかける。

「陛下はどうにも不思議な御方です。一見暗君、しかしそれは本当の陛下なのでしょうか?」

「何が見えたのかい?」

「陛下は、暗愚の衣を纏っておいでになっている様に見えました。ひょっとするとこの茶番、陛下はすでに全てお見通しだったのではないでしょうか。その上で、なお暗愚で有り続けておられた様に見えました」

 少女の言葉に、老婆は首を振る。

「先帝も並外れて風変わりな御方ではあったが、陛下も同じく凡俗とは違うところがお有りなのだろう。せめて凡庸であった方が、陛下の為であっただろうに」

「ですが、お婆様。私には蜀の大地だけが血に染まる様には見えませんでした。ただ、先は見えなかったのですが、血と怨嗟はむしろ魏の方に……」

 少女は首を傾げながら、そう呟いていた。



 後日、劉禅は閻宇と相談し、姜維の援軍要請を正式に却下した。
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