新説 鄧艾士載伝 異伝

元精肉鮮魚店

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最終章 鼎、倒れる時

第二話 二六一年 奴に勝てるのか

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 鄧艾達が貴重な団欒の時間を過ごしている頃、鍾会は司馬昭に呼び出されていた。

 表情に乏しく冷静沈着、人に対して隠し事を多く持つ司馬昭ではあるが、隠し事それ自体が上手いという訳ではない。

 今は亡き父司馬懿や兄司馬師であれば、隠し事それ自体を隠す事が上手く、何を隠しているのかすら相手に見せない、あるいは別の隠し事に目を向けさせるなどの処置や策が上手かった。

 合理的な行動を好む司馬昭は、その辺りを無駄と感じているのか、片っ端から秘密にしてしまっている。

 今回の様に、夜に全員ではなく個別に指名しての呼び出しと言うのは、他に聞かせたくない話をするという合図ともとれるくらいだ。

 今の司馬昭が他の誰かと相談する様な事と言うのは、それほど多くない。

 鍾会が思いつくのは二つ。

 蜀の攻略か、魏の乗っ取りである。

 魏の乗っ取りと言っても実権はほとんど司馬昭が掌握しているので、あとは皇帝を廃するのみなのだが、こちらではないと鍾会は予想していた。

 もしその事であれば、武官である鍾会が呼ばれるのはもう少し後の事になるはずであり、先に呼ばれるのは賈充辺りのはずだろう。

 と、すれば蜀の攻略か。いよいよ乱世も大詰めに入ったという事だな。

 鍾会も蜀攻略は司馬昭に勧めるつもりでいたのだが、形としては司馬昭に先を越される事になった。

「大将軍、鍾会です」

「うむ、入るが良い」

 司馬昭は鍾会を部屋に招き入れる。

 部屋の前には護衛を立てている司馬昭だが、室内には護衛などの姿は無く、部屋にいるのは司馬昭と招き入れられた鍾会のみだった。

 ここまで人払いしているという事は、よほど人に聞かれたくない話だろう。蜀攻略で間違いなさそうだな。

 鍾会は確信する。

 戦の情報を言うものは、いかに相手に掴ませないかが重要であり、秘中の秘として行う事はむしろ常識であり、そこを疎かにする者は確実に大成しない。

 もはや乱世は終焉の時であり、この先武勲を上げる機会はさほど期待出来そうにないのだから、蜀攻略は何としても自分の手でと鍾会は考えていた。

「士季、近い内に呉を攻める。士季よ、何か良い策は無いか?」

「呉、ですか?」

「士季、お前は我が父より幼少の頃に対呉の戦略を課せられていたはず。何か良策を持っておるのではないか?」

 司馬昭の言葉に、鍾会は薄く笑う。

「閣下、僕をお試しですか? 閣下が本当に狙っているのは呉ではなく、蜀ではありませんか?」

 鍾会が尋ねると、司馬昭は薄く笑って頷く。

「なるほど、さすが我が子房。察して来たという訳か」

「僕も明日の朝には閣下に上奏するつもりでした。僕は閣下より半日劣っていたと言うわけですね」

 鍾会は微笑んで言う。

 司馬昭は意外なくらいに、分かりやすい誉め言葉に弱い。

 そこも司馬懿や司馬師とも違うと言える。

「……ほう、私より半日劣る、か。では、これを見よ」

 司馬昭は書簡を鍾会に渡す。

 その書簡は蜀の絵図であり、すでに侵略路や兵糧拠点なども書き込まれ、それぞれの侵略路の攻め方や拠点を守る時の注意事項なども細かく指示されていた。

「……これは凄い。僕も上奏するつもりだったのですが、ここまで詳細かつ具体的な勝利の道筋を用意する事までは出来ていませんでした。僕は上奏が半日遅かっただけで、僕と閣下の間には半日どころか、半年は違いました」

「……そうか。半年か」

 司馬昭は腕を組んで何かを考え込む。

「閣下?」

「士季よ、見ての通り、そこには指揮を執る武将までは書き込んでおらぬ。一人だけ決まっているのがいるが、それが誰か分かるか?」

「閣下です」

 鍾会は即答する。

「此度の蜀侵攻作戦は、これまでと違って蜀を滅亡させる事まで視野に入れた一大作戦。それの総責任者として本隊を指揮する者は、閣下を置いて他におりません」

 鍾会はそう答えるが、もう一つ理由がある。

 鍾会だけでなく司馬昭の懐刀とされる賈充にしても、その目が見据えているのは魏の繁栄ではなく、近い内に来るであろう司馬一族によって作られる新国家だった。

 しかし、帝位の簒奪ではその新国家にあらぬ悪評を立てさせるきっかけを残す事になる。

 最低でも漢が魏に帝位を譲った様に、今の皇帝である曹奐に司馬昭を次の皇帝であると認めさせ、禅譲させなければならない。

 司馬昭は今では晋公の地位にあり、現状でも充分に禅譲を受ける資格はあるのだが、それでも魏国内の国民全員に納得させるにはまだ足りない。

 蜀と言う長年の大敵を滅ぼした大将軍、と言う肩書はどうしても必要になる。

 故にこの侵攻の武将の中でただ一人、司馬昭だけは決定事項なのだ。

「ふむ、それでは他の誰がこの作戦に適任であると思う? まずは何ら忌憚なく申してみよ」

「閣下のこの作戦は、多方面作戦に見えますが、実質的には漢中を抜くという大胆な作戦です。故に陽動にも優秀な者が必要ですが、陽平関を抜く主力は相当な能力と責任が必要になります。陽動も、それはそれで簡単な仕事ではない事もあり、もし僕であれば衛瓘と胡烈に任せるでしょう。衛瓘に沓中とうちゅうを攻めさせて、ここに滞在する姜維を足止めします。胡烈に陽安関を攻めさせます。場合によってはそこを抜いて敵の守備意識を広げ、漢中攻めの裏手と使うのも良いでしょう」

「うむ。面白い手だ。さすがは士季だな」

 司馬昭は何度も頷く。

 これは手応え有りだ。

 この作戦の肝であり、最重要となる陽平関攻略こそが最大の武勲であり、その後に来る新国家でも最重要職に据えられる人物となる。

 自惚れなどではなく、客観的に見てもその人物には自分こそ相応しい、と鍾会は思っていた。

 むしろ、それ以外に人選の余地は無いとさえ考えていたくらいだった。

「他に補佐として李輔りほ荀愷じゅんがいを付け、田続を従軍軍師に付けて相談役とするのが、僕の考える配置です」

「なるほど、万全に見えるが雍州方面軍は使わなくてもよいのか? 蜀への侵攻作戦の間は逆に蜀から攻め込んで来る可能性は極めて低いぞ」

「はっはっは、あの様な半農集団は必要ありますまい。雍州も収穫量が以前と比べて上がっているのですから、そちらに全力を注ぐのが国の為にも一番です」

「ほう、子初や士載、元凱らは蜀との戦いと言う一点では魏の誰よりも経験豊富であろう? さらに士載に至っては魏随一の名将とも称されるほどだ」

「ふっ、笑止ですな。鄧艾などただの農夫。確かに幾度かは姜維にも勝っていますが、それは姜維の方が鄧艾を知らなかったというのみ。幾度かの勝利の後は敗戦続き。かろうじて国土は奪われていないというだけで、名将とは片腹痛いです。元凱も本人は文官である事を望んでいるのですから、そうしてやれば良いでしょう。司馬望将軍に関しては、雍州方面軍の司令官と言うだけで十分満足していただきましょう」

 鍾会はすらすらと司馬昭に答えて見せる。

「士載は、ただの農夫、か。士季は士載に対して劣るところは無いと?」

「いえ、農政官としては確実に鄧艾殿の方が僕より上ですよ。僕では淮南や雍州をあそこまで豊かにする事は出来なかったかもしれません。やはり適材適所。鄧艾殿には将軍位からは退いていただいて農政官に集中してもらうのが一番です」

 鍾会はそう言って笑うが、司馬昭は軽く首を振る。

「士季よ。私はお前の才気溢れるところは嫌いではない。しかし、姜維は難敵。お前はまだ姜維との戦いの経験が無い。雍州組の経験と知識は必要ではないか?」

「……確かに私にはその知識や経験が足りません。しかし、雍州組の主力であった者達ではなく、諸葛緒辺りの知識で十分でしょう。これ以上雍州組に武功を与えては、国を割るきっかけになりかねません」

 その鍾会の心配は、司馬昭も同じだったらしく頷いている。

「さすが、我が子房よ」

「いえ。僕など、閣下と比べるとまだまだです」

 鍾会は、司馬昭に渡された書簡を見ながら言う。

 自信家である事に自覚のある鍾会だが、この書簡には素直にかなわないと言えるだけの差を感じていた。

「だが、本当に子房と呼ぶためにも二つ訂正しておく事がある」

「なんなりと」

 この蜀侵攻においてもっとも重要な役割を与えられるのは自分であると言う自負から、鍾会は何も怖じる事なく言う。

「まず一つ、その書簡を記した者は私ではない」

「え?」

 一つ目の訂正から、鍾会の想像を遥かに超えた事だった。

 これほど壮大かつ緻密な策を、今の魏で司馬昭と鍾会以外にいるとは思えなかったのだ。

「時に士季よ。先ほどこの策の肝を陽平関の攻略だと見ていたが、この策の考案者は別のところを肝と見ていたぞ」

「……それは?」

「この書簡は私が士季に見せる為に書き写したもので、原本はここにある。基本的には同じだが、僅かに違うところがある。士季にも見せよう」

 司馬昭はそう言うと、鍾会に別の書簡を渡す。

 すぐに鍾会は書簡を広げると、確かに司馬昭から先に渡された書簡とさほど違いは無い。

 違いがあるとすれば、字の洗練さと既に数名の武将名が記されている事である。

 大将軍司馬昭の他に記されている名前は、鄧艾と諸葛緒の二人だった。

「この原本を記した者は、陽平関を抜く事を蜀を滅ぼす上では第一であると考えていたのは間違いないが、最大の肝は沓中にて姜維を足止めする事こそであると申した。私も、陽平関を抜く事より姜維の自由を奪う事の方が大きいと納得している」

「……一体誰が」

「本当に分からないか? 士季よ」

 司馬昭に念を押されて、鍾会ははっきりと一人の名前が浮かんできた。

 が、認められない。

「もう一つの訂正点だが、士季は私との能力の差は半年だと申したが、本当にその差は半年だと思うか?」

 司馬昭の言葉に、鍾会は唇を噛んで言葉を飲み込む。

 思えば、この書簡は妙に詳細だった。

 確かに雍州組が先に司馬昭に面会した事は知っていたが、その情報を元にこの書簡に記した策を練ったのだと思った。

 だが、改めて書簡を見ると、ただ聞いただけでは得られない情報なども盛り込まれている。

 例えば、蜀の守備配置。

 これは明らかに雍州組で無ければ知りえない情報であり、その情報を得たその日のうちにそれを盛り込んだ策を立てると言うのは、いくらなんでも非常識である。

 また、その場合なら叩き台を作ったところで鍾会は呼ばれて、一緒に完成させるはずだ。

 つまり、この策を記した者は、すでに完成品を司馬昭の元に持ってきた上で、司馬昭に蜀への侵攻を決めさせたと言う事である。

「士季よ。私は今でも士季を我が子房であると信じている。だが、この策を私に持ってきた者は、今の私にとっての韓信と言えるだろう。私の目には、士季とその者であれば、半年と言わない差があると感じているが、その点はどうだ?」

 司馬昭の質問に、鍾会は答えない。

 答えられなかったと言う方が正しい。

 鍾会自身が、この書簡の策に対しては敗北を認めていたのだ。

 それが司馬昭だと思っていたから受け入れられたが、それ以外の誰かである事を認めてしまった場合、自分の出る幕が無くなってしまう。

 そうなっては司馬昭の『我が子房』と言う評価も変わる。

 いや、変わりつつある。

 すでに先ほど『我が韓信』とまで言わせているのだ。

「隠す様な事でも無いので、言っておこう。その策を私に持ってきたのは士載だ。この策を見た時に思ったのは、士載は私より上だ。士季よ、いかにお前であっても士載との差は半年と言わず、下手すれば十年の開きがあるとすら思える。それでも、お前に問おう。勝てるのか? 士載に」

「……もちろん、閣下の期待を裏切る真似は致しません」

 そう答える鍾会の表情は、これまでの余裕は無かった。

「よろしい。ならば、士載と士季、二人にそれぞれ大軍を与える。私の手を煩わせる事無く、蜀を滅ぼしてみせよ」

「御意」

 そう答える鍾会の目には、すでに野心の光が灯っていた。

「では、閣下。船の準備をお願い出来ますか?」

「船? 蜀を攻めるのに船が必要か?」

 不思議そうに尋ねる司馬昭に、鍾会は首を振る。

「閣下が最初に僕を試す為に、呉を攻めると言われたでしょう? それをこの策に盛り込みます。実際に呉を攻めると思わせれば、呉から蜀への援軍を出せなくなります。また、蜀も防御の意識が薄まりますし、蜀を滅ぼした後にはいずれ船は必要になりますので」

「はっはっは、さすがだな士季よ。蜀との戦でも、期待しておるぞ」
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