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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は
第二十四話 二六〇年 先達の影
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撤退したとはいえ戦いに敗れた訳ではない事もあり、姜維は兵を動員して桟道の修復と糧秣の手配を行い、その準備が整い次第北伐を再開するつもりだった。
その一方で、今回の出征は勝ち戦だった事を知らしめる為にも、手柄のあった者には恩賞も与えていた。
そんな中で、副将の廖化が姜維の元にやって来た。
「大将軍、確かに此度は勝ち戦であり兵の損害はほとんど無かったと言えますが、それほど焦って北伐に臨む必要があるのでしょうか?」
「ほう、廖化は不服か?」
「不服と言う訳ではありませんが、大将軍が戦を焦っている様に思えまして」
「……そう見えるか」
姜維は一息ついて、廖化の方を見る。
「幾度か戦ってみてわかったのだが、鄧艾と言う武将は極めて優れた戦術家であり、戦場においては一級の武勇を誇る猛将であり、しかも妙な気位の高さも持たず泥に塗れる事も恐れない。およそ武将としてこれ以上は望むべくもない能力を持った者だ。しかも戦略においての視野も広く、いざと言う時には博打に出る度胸もある」
「それではなおの事、戦を焦る必要は無いのでは?」
「逆だ。だからこそ、隙のあるうちに叩くべきなのだ。時間を与えればあれほどの者、次はどんな手を打ってくるか分からない。だから追いつめて博打を打たせるのだ。冷静に時間をかけた時より、その方が勝算もある」
「ですが……」
「諸葛丞相は六度北伐に挑まれた。私がそれに倣うのは、ひとえに諸葛丞相のご遺志を継ぎ、魏を討ち蜀漢こそ正道であると知らしめる為。そこに私心の入る余地など無い」
「まさにその事が心配なのです」
姜維の言葉に、廖化は頷いて言う。
「先代の廖化より北伐の話は聞いています。諸葛丞相の神懸りともいえる戦略戦術によって、あの司馬仲達を相手に連戦連勝であったと。にも拘わらず、止めの一手を打つ事が出来ずに志半ばにしてお倒れになった事も。今の状況がそれに重なるのです」
廖化は心配そうに言う。
「大将軍は極めて優れたお方。その戦上手ぶりでいえば、それこそ諸葛丞相と比べても劣るところは無いでしょう。それに対し、敵将鄧艾はおそらく司馬仲達には及びますまい。それでもあと一手と言うところで足踏みをさせられています。この状況をまったく気にするなと言う方が難しいでしょう」
「……確かに、その言には一理ある」
姜維は腕を組んで考える。
「廖化、此度の出征ではこの漢中の守りを頼みたい」
「前線から外れろ、と?」
廖化が眉を寄せると、姜維は首を振る。
「私も鄧艾の事は高く評価しているつもりではあったが、司馬仲達ほどは評価していなかった。だが、鄧艾一人ではそこまででは無かったにしても、同じ一族である司馬望と協力するのであれば、あるいは司馬仲達と同等の危険もあるかも知れない。その場合、最前線で苦戦していながらでも、後方であるこの漢中を狙って来る恐れもある。今の中央の武将達ではさすがに手に余るだろうし、呉が動かないという保障も無い以上は対呉前線からも武将は動かせない。もしもの時我々が戻るまで戦線を維持出来る武将は、そう多くはない。いや、守勢の戦であればそれは廖化か張翼しか無く、私が前線に立っている事を許してくれるという意味では廖化しかいないのだ」
「……張翼将軍では、大将軍が後方にいるべきだと言われるでしょうからね」
廖化は苦笑いして頷く。
控え目な性格ではあるが、廖化と言う武将を前線から外す事は蜀軍にとっても痛手となる事は違いない。
しかし、兵対兵で劣勢であると魏軍が考えて来た時には、後方撹乱と言う戦法は用いられる可能性は十分にある。
前線基地である漢中は先代の皇帝劉備が、漢の高祖劉邦に倣って漢中王を名乗った地でもある以上、蜀としては何としても手中に収めておかなければならない要所でもあった。
その意味でも、廖化の様な絶対の信頼の置ける者でなければ守備を任せる事も出来ない。
また一方で姜維は情報収集も行っていた。
魏はこれまでに多くの損失を出している。
確かに蜀と比べると魏は大国であり、その国力も蜀と比べると遥かに上回っている事は事実だが、それでも無限という訳ではない。
もしそんな国力があれば、全ての主要街道に守備隊を配置しているだろうし、そもそも蜀や呉の存在を許すはずもない。
むしろ広大な国土を持つ魏こそ、兵力配置と言う点で言えば三国の中でもっとも薄いと言えるのである。
そして姜維が掴んだ情報によると、多大な被害を出した雍州方面軍の補充に問題があるらしく、守備隊を祁山に集めて一時戦線の縮小を図っているらしい。
「妙ですな」
さっそく姜維は軍議を開いたが、その情報に疑問を持ったのは張翼だった。
「本来であればその様な情報は秘匿するはず。こちらとしては有意義な情報なのですが、あえてこちらに聴かせる為に流した情報である可能性もあるのでは?」
「確かにその通り」
張翼の言葉に、姜維も頷く。
「ただ、考えられない事では無いと言うのが厄介なところです。先の王瓘の時もそうですが、鄧艾にしろ司馬望にしろ情報を流すのが上手いと言えます」
あからさまな嘘であればすぐにバレるが、事実に即した偽報と言うのはタチが悪い。
魏としては何とかして兵の補充を済ませたいが、その前に蜀に出てこられても困る。
また、新兵を集めたところで訓練などが不足している事を考えても、今いる守備隊を最重要拠点である祁山に集めて守備隊の配置を見直すと言うのは至って当然の手である。
問題はそんな最前線の守備が薄くなると言う情報が、蜀の手に渡ってきたと言う事だった。
張翼が言う様に、これは秘匿されるべき情報であり、蜀軍の攻勢を呼び込む事にも繋がる情報である為、魏としてはこの情報の漏洩は防いで然るべきなのだ。
「仮にその情報が正しかったとするなら、大将軍の目標は洮陽ですか?」
攻勢に定評のある夏侯覇は、情報の真偽と言うよりそれによる攻撃目標の方が気になるようだった。
「目標としては確かに。ですが、罠を張っているとするならやはり洮陽でしょう。なのでまずは私が洮陽を攻めてみます」
「いやいや、罠の可能性が高いところに大将軍自らが乗り込むのは有り得ないでしょう。ここは俺が行きますよ」
夏侯覇が自らの胸を叩いて言う。
「罠の恐れがあるのであれば、無理に攻めるのを控えては?」
張翼が提案すると、姜維と夏侯覇が否定する。
「時間を稼ぎたいのは、むしろ魏の方。もし罠であったとしても、その一戦を凌ぐ事が出来れば魏は一気に窮地に陥る。ここは時間を置かずに攻めるが上策」
夏侯覇の主張は、姜維のそれと一緒だった。
「今の状況は蜀にとって好機。魏に回復の時間を与えるべきではないと言うのは、私も夏侯覇将軍と同じ考えです。そして、もし罠を張るとしたら洮陽であり、その情報だけで蜀軍の足を止める効果がある事を向こうが知っている事もわかっています。だとすれば、その裏をかく意味でも、魏軍に休ませない為にも攻めるべきです」
姜維と夏侯覇に言われ、張翼もそれを受け入れた。
そこで姜維は自らが率いるつもりだった先鋒隊を夏侯覇に委ね、兵を引き上げたと言う情報のある拠点の洮陽を攻める事にした。
そして、蜀軍が動くと言う情報はすぐに雍州にも伝わってきた。
「……もう少し悩んでくれても良かったんですが、さすがに早いですね」
鄧艾は険しい表情で言う。
「ですが、将軍の予想通りだったのでは?」
杜預の言葉に、鄧艾は溜息をついて首を振る。
「ここまで行動が早いと言う事は、こちらに考える時間を与えないつもりです。つまりこの一手のみがこちらの打てる手であり、それを凌げば勝てると言う姜維の勝算を見越した行動です。下手すると先鋒で姜維が出てくる事も考えられます」
「つまり、失敗は許されないと言う事ですか」
司馬望の表情も険しい。
当初の予定では、少なくともこの情報を得た蜀軍は進軍に慎重になり、こちらには時間的余裕が生まれて改めて手を尽くすと言う予定だったのだが、まさか虚報の可能性もあるにも関わらず即断即決で姜維が攻めてくる事を決めるとは思わなかった。
と言うより、思いたくなかったと言う方が正しいかもしれない。
単純な個の能力としては、魏より蜀の方が上であると認めるしかなく、それに対抗する為にも時間が必要だった。
姜維もそれに気付いているのだろう。
罠の危険を知った上で速攻を仕掛けてくるのは、こちらの時間を削りに来ているのだ。
「とにかく、さっそく洮陽の守りにつかなければいけない訳ですね」
諸葛緒が言うが、それにも鄧艾や司馬望は即答しなかった。
「兵も物資も引き上げていると言う事を知っているはずの姜維が、こちらの注文通り洮陽に攻めてくるとは思えない。洮陽を攻めるフリをしながら、罠があると予測しているであろう洮陽を避けて祁山に直接来ると言うのは?」
「……十分にありえますね」
司馬望の提案に、鄧艾も難しい表情で頷く。
「ただ、こちらがそうやって祁山を守る様に誘導しながら、洮陽を奪うと言う事も有り得ますね」
こちらから仕掛けた情報戦だったのだが、逆に向こうから仕掛け返されてしまったのは、鄧艾としても悩みどころだった。
「……守るには二手に分けて行く事になりますね。洮陽と祁山に分けて兵を配置する事になりますが、主目的地と予想される洮陽には私が……」
「いや、そこは私が行きましょう」
鄧艾が行こうとしたのを、司馬望が遮って自ら名乗りを挙げる。
「司令官が自らですか?」
杜預は驚くが、それは杜預だけではばくほぼ全員が驚くところだった。
「蜀軍の目を引きつけるにも、『司馬』の旗は効果があるでしょう。それに仕込みの事を考えても、私がもっとも効果的なはず。ここには危険を冒す価値があります」
「ですが、最前線に総大将と言うのも」
鄧艾が言うと、司馬望は首を振る。
「姜維も同じく総大将であり、最前線に出て来ている事を考えてもこちらだけ危険を避けていて勝てると言うモノでは無いでしょう。餌としても『司馬』の名は意味がありますし、それに応用が必要なのは洮陽よりむしろ祁山であり、士載殿にはそちらに控えてもらった方が良いでしょう」
「では、よろしくお願いします。ですが、司馬望将軍の代わりは誰もいない事だけは忘れないで下さい」
「いえ、私の代わりはいます」
司馬望はそう言うと、鄧艾の肩を叩く。
「もし私に何かあった場合には、鄧艾将軍が雍州方面軍の総司令の地位に就いていただきます。皆さんも、それを知っておいて下さい」
司馬望の言葉に、鄧艾は目を丸くして驚く。
「私が? 私はその様な立場では……」
「立場で言うのであれば、副司令であるのですから十分過ぎるくらいにありますよ。もし出自や血筋などを問題にするモノがいたとしても、士載殿であれば実績と能力で黙らせる事は出来ます。他の候補はいないですよ」
「そうならない様に、必ず武勲を上げて戻ってきて下さいよ」
「仕込みは十分ですから、おそらく洮陽を守るのは心配無いと思います」
その一方で、今回の出征は勝ち戦だった事を知らしめる為にも、手柄のあった者には恩賞も与えていた。
そんな中で、副将の廖化が姜維の元にやって来た。
「大将軍、確かに此度は勝ち戦であり兵の損害はほとんど無かったと言えますが、それほど焦って北伐に臨む必要があるのでしょうか?」
「ほう、廖化は不服か?」
「不服と言う訳ではありませんが、大将軍が戦を焦っている様に思えまして」
「……そう見えるか」
姜維は一息ついて、廖化の方を見る。
「幾度か戦ってみてわかったのだが、鄧艾と言う武将は極めて優れた戦術家であり、戦場においては一級の武勇を誇る猛将であり、しかも妙な気位の高さも持たず泥に塗れる事も恐れない。およそ武将としてこれ以上は望むべくもない能力を持った者だ。しかも戦略においての視野も広く、いざと言う時には博打に出る度胸もある」
「それではなおの事、戦を焦る必要は無いのでは?」
「逆だ。だからこそ、隙のあるうちに叩くべきなのだ。時間を与えればあれほどの者、次はどんな手を打ってくるか分からない。だから追いつめて博打を打たせるのだ。冷静に時間をかけた時より、その方が勝算もある」
「ですが……」
「諸葛丞相は六度北伐に挑まれた。私がそれに倣うのは、ひとえに諸葛丞相のご遺志を継ぎ、魏を討ち蜀漢こそ正道であると知らしめる為。そこに私心の入る余地など無い」
「まさにその事が心配なのです」
姜維の言葉に、廖化は頷いて言う。
「先代の廖化より北伐の話は聞いています。諸葛丞相の神懸りともいえる戦略戦術によって、あの司馬仲達を相手に連戦連勝であったと。にも拘わらず、止めの一手を打つ事が出来ずに志半ばにしてお倒れになった事も。今の状況がそれに重なるのです」
廖化は心配そうに言う。
「大将軍は極めて優れたお方。その戦上手ぶりでいえば、それこそ諸葛丞相と比べても劣るところは無いでしょう。それに対し、敵将鄧艾はおそらく司馬仲達には及びますまい。それでもあと一手と言うところで足踏みをさせられています。この状況をまったく気にするなと言う方が難しいでしょう」
「……確かに、その言には一理ある」
姜維は腕を組んで考える。
「廖化、此度の出征ではこの漢中の守りを頼みたい」
「前線から外れろ、と?」
廖化が眉を寄せると、姜維は首を振る。
「私も鄧艾の事は高く評価しているつもりではあったが、司馬仲達ほどは評価していなかった。だが、鄧艾一人ではそこまででは無かったにしても、同じ一族である司馬望と協力するのであれば、あるいは司馬仲達と同等の危険もあるかも知れない。その場合、最前線で苦戦していながらでも、後方であるこの漢中を狙って来る恐れもある。今の中央の武将達ではさすがに手に余るだろうし、呉が動かないという保障も無い以上は対呉前線からも武将は動かせない。もしもの時我々が戻るまで戦線を維持出来る武将は、そう多くはない。いや、守勢の戦であればそれは廖化か張翼しか無く、私が前線に立っている事を許してくれるという意味では廖化しかいないのだ」
「……張翼将軍では、大将軍が後方にいるべきだと言われるでしょうからね」
廖化は苦笑いして頷く。
控え目な性格ではあるが、廖化と言う武将を前線から外す事は蜀軍にとっても痛手となる事は違いない。
しかし、兵対兵で劣勢であると魏軍が考えて来た時には、後方撹乱と言う戦法は用いられる可能性は十分にある。
前線基地である漢中は先代の皇帝劉備が、漢の高祖劉邦に倣って漢中王を名乗った地でもある以上、蜀としては何としても手中に収めておかなければならない要所でもあった。
その意味でも、廖化の様な絶対の信頼の置ける者でなければ守備を任せる事も出来ない。
また一方で姜維は情報収集も行っていた。
魏はこれまでに多くの損失を出している。
確かに蜀と比べると魏は大国であり、その国力も蜀と比べると遥かに上回っている事は事実だが、それでも無限という訳ではない。
もしそんな国力があれば、全ての主要街道に守備隊を配置しているだろうし、そもそも蜀や呉の存在を許すはずもない。
むしろ広大な国土を持つ魏こそ、兵力配置と言う点で言えば三国の中でもっとも薄いと言えるのである。
そして姜維が掴んだ情報によると、多大な被害を出した雍州方面軍の補充に問題があるらしく、守備隊を祁山に集めて一時戦線の縮小を図っているらしい。
「妙ですな」
さっそく姜維は軍議を開いたが、その情報に疑問を持ったのは張翼だった。
「本来であればその様な情報は秘匿するはず。こちらとしては有意義な情報なのですが、あえてこちらに聴かせる為に流した情報である可能性もあるのでは?」
「確かにその通り」
張翼の言葉に、姜維も頷く。
「ただ、考えられない事では無いと言うのが厄介なところです。先の王瓘の時もそうですが、鄧艾にしろ司馬望にしろ情報を流すのが上手いと言えます」
あからさまな嘘であればすぐにバレるが、事実に即した偽報と言うのはタチが悪い。
魏としては何とかして兵の補充を済ませたいが、その前に蜀に出てこられても困る。
また、新兵を集めたところで訓練などが不足している事を考えても、今いる守備隊を最重要拠点である祁山に集めて守備隊の配置を見直すと言うのは至って当然の手である。
問題はそんな最前線の守備が薄くなると言う情報が、蜀の手に渡ってきたと言う事だった。
張翼が言う様に、これは秘匿されるべき情報であり、蜀軍の攻勢を呼び込む事にも繋がる情報である為、魏としてはこの情報の漏洩は防いで然るべきなのだ。
「仮にその情報が正しかったとするなら、大将軍の目標は洮陽ですか?」
攻勢に定評のある夏侯覇は、情報の真偽と言うよりそれによる攻撃目標の方が気になるようだった。
「目標としては確かに。ですが、罠を張っているとするならやはり洮陽でしょう。なのでまずは私が洮陽を攻めてみます」
「いやいや、罠の可能性が高いところに大将軍自らが乗り込むのは有り得ないでしょう。ここは俺が行きますよ」
夏侯覇が自らの胸を叩いて言う。
「罠の恐れがあるのであれば、無理に攻めるのを控えては?」
張翼が提案すると、姜維と夏侯覇が否定する。
「時間を稼ぎたいのは、むしろ魏の方。もし罠であったとしても、その一戦を凌ぐ事が出来れば魏は一気に窮地に陥る。ここは時間を置かずに攻めるが上策」
夏侯覇の主張は、姜維のそれと一緒だった。
「今の状況は蜀にとって好機。魏に回復の時間を与えるべきではないと言うのは、私も夏侯覇将軍と同じ考えです。そして、もし罠を張るとしたら洮陽であり、その情報だけで蜀軍の足を止める効果がある事を向こうが知っている事もわかっています。だとすれば、その裏をかく意味でも、魏軍に休ませない為にも攻めるべきです」
姜維と夏侯覇に言われ、張翼もそれを受け入れた。
そこで姜維は自らが率いるつもりだった先鋒隊を夏侯覇に委ね、兵を引き上げたと言う情報のある拠点の洮陽を攻める事にした。
そして、蜀軍が動くと言う情報はすぐに雍州にも伝わってきた。
「……もう少し悩んでくれても良かったんですが、さすがに早いですね」
鄧艾は険しい表情で言う。
「ですが、将軍の予想通りだったのでは?」
杜預の言葉に、鄧艾は溜息をついて首を振る。
「ここまで行動が早いと言う事は、こちらに考える時間を与えないつもりです。つまりこの一手のみがこちらの打てる手であり、それを凌げば勝てると言う姜維の勝算を見越した行動です。下手すると先鋒で姜維が出てくる事も考えられます」
「つまり、失敗は許されないと言う事ですか」
司馬望の表情も険しい。
当初の予定では、少なくともこの情報を得た蜀軍は進軍に慎重になり、こちらには時間的余裕が生まれて改めて手を尽くすと言う予定だったのだが、まさか虚報の可能性もあるにも関わらず即断即決で姜維が攻めてくる事を決めるとは思わなかった。
と言うより、思いたくなかったと言う方が正しいかもしれない。
単純な個の能力としては、魏より蜀の方が上であると認めるしかなく、それに対抗する為にも時間が必要だった。
姜維もそれに気付いているのだろう。
罠の危険を知った上で速攻を仕掛けてくるのは、こちらの時間を削りに来ているのだ。
「とにかく、さっそく洮陽の守りにつかなければいけない訳ですね」
諸葛緒が言うが、それにも鄧艾や司馬望は即答しなかった。
「兵も物資も引き上げていると言う事を知っているはずの姜維が、こちらの注文通り洮陽に攻めてくるとは思えない。洮陽を攻めるフリをしながら、罠があると予測しているであろう洮陽を避けて祁山に直接来ると言うのは?」
「……十分にありえますね」
司馬望の提案に、鄧艾も難しい表情で頷く。
「ただ、こちらがそうやって祁山を守る様に誘導しながら、洮陽を奪うと言う事も有り得ますね」
こちらから仕掛けた情報戦だったのだが、逆に向こうから仕掛け返されてしまったのは、鄧艾としても悩みどころだった。
「……守るには二手に分けて行く事になりますね。洮陽と祁山に分けて兵を配置する事になりますが、主目的地と予想される洮陽には私が……」
「いや、そこは私が行きましょう」
鄧艾が行こうとしたのを、司馬望が遮って自ら名乗りを挙げる。
「司令官が自らですか?」
杜預は驚くが、それは杜預だけではばくほぼ全員が驚くところだった。
「蜀軍の目を引きつけるにも、『司馬』の旗は効果があるでしょう。それに仕込みの事を考えても、私がもっとも効果的なはず。ここには危険を冒す価値があります」
「ですが、最前線に総大将と言うのも」
鄧艾が言うと、司馬望は首を振る。
「姜維も同じく総大将であり、最前線に出て来ている事を考えてもこちらだけ危険を避けていて勝てると言うモノでは無いでしょう。餌としても『司馬』の名は意味がありますし、それに応用が必要なのは洮陽よりむしろ祁山であり、士載殿にはそちらに控えてもらった方が良いでしょう」
「では、よろしくお願いします。ですが、司馬望将軍の代わりは誰もいない事だけは忘れないで下さい」
「いえ、私の代わりはいます」
司馬望はそう言うと、鄧艾の肩を叩く。
「もし私に何かあった場合には、鄧艾将軍が雍州方面軍の総司令の地位に就いていただきます。皆さんも、それを知っておいて下さい」
司馬望の言葉に、鄧艾は目を丸くして驚く。
「私が? 私はその様な立場では……」
「立場で言うのであれば、副司令であるのですから十分過ぎるくらいにありますよ。もし出自や血筋などを問題にするモノがいたとしても、士載殿であれば実績と能力で黙らせる事は出来ます。他の候補はいないですよ」
「そうならない様に、必ず武勲を上げて戻ってきて下さいよ」
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【古代史】は、その遺跡や遺物が未発見であるが故に、多種多様の【説】が百花繚乱の如く、乱舞している。それはそれで良いと思う。
【自説】に固執する余り、【他説】を批判するのは如何なものであろうか!?
この作品でも、多くの【自説】を網羅しているので、【フィクション小説】として、御笑読いただければ幸いである。
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