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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第二十三話 二六〇年 壜山谷にて

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 王瓘から蜀軍との接触に成功したとの報告はあったのだが、それ以降の連絡が途絶えていた事もあり、新たに密書が届いた時には鄧艾も安堵したくらいだった。

「……姜維は大胆な男ですね。さっそく王瓘を兵糧運搬に使うらしい」

 密書を読んで、鄧艾は苦笑いする。

「王瓘がそれだけ信用されている、と?」

 杜預が尋ねると、鄧艾は首を振る。

「試しているんですよ。蜀軍に限らず、物資と言うのはどの様な精強な軍にあっても弱点となるのです。そこを狙う為に王瓘は潜入しているワケですし、当然姜維も知っています。物資運搬と言う好機を与えて、そこで不穏な動きを見せれば即座に処断するつもりでしょう。兵糧運搬の責任者は張翼とありますが、この武将は慎重かつ細心な武将で、出し抜くのはそう簡単な事ではありません」

 だからこそ、姜維は試していると言う事も鄧艾には分かる。

 何をどう言ったところで、蜀と魏には国力に差があるのだから、魏からの投降者であれば受け入れたいと言うのが本音だろう。

 しかし、それで大将軍を失うと言う事態が以前に起きているのだから、無条件に受け入れる事は出来ない。

 そこで姜維は蜀でも極めて重要な戦力となる武将である張翼を、一時的とは言え最前線から外してでも投降者を試しているのだ。

 もし信用出来ると言うのであれば、戦力は増強出来る。

 信用出来ないと言うのであれば、そんな者をいつまでも抱えている訳にはいかない。

 その判断を下せる武将として張翼が選ばれ、その見返りは十分すぎるくらいに大きい事も鄧艾は理解している。

 つまり、何度も作れる好機ではないと言う事も。

 接触してからこの密書が届くまで音信不通となった事も、蜀からの監視や締めつけが厳しかったのだろうと言うのも、予想出来る。

 この密書は極めて重要な情報だからこそ、王瓘も苦心して送り込んできた事だろう。

「蜀軍の糧秣を詰んだ荷駄隊が、八月十五日に壜山谷を通るそうだ。あの地形は伏兵を配するに適した地形であり、糧秣を失っては蜀軍もなす術なく国に帰るしかなくなる。この一戦で勝負を決めるぞ」

 鄧艾は諸葛緒を守備隊として残し、杜預、鄧忠、師纂らを伴って壜山谷に向かう。

 壜山谷の地形はいかにも伏兵に適した地形であり、そこを運搬に使う場合には当然伏兵に気をつける必要がある。

 本来であれば主要街道とは呼べない脇道なのだが、利点もある。

 一つには単純に今の蜀の拠点までの距離の短縮で、移動距離が短いならそれに越した事は無い。

 もう一つは、逆に伏兵を利用する事が出来る点である。

 先に蜀軍が伏兵に適した地形を抑えていた場合、糧秣を襲うつもりの魏軍に伏兵による打撃を与える事が出来る。

 糧秣を守るだけでなく、敵に被害を与える事も出来るのだから、それは脅威と言えた。

 とは言え、もし魏軍が来なかった場合には、その伏兵は完全に遊軍となってしまう危険も伴う。

 もし姜維であれば、伏兵を配している事は十分に考えられる。

 鄧艾は壜山谷の地形を確認しながら、そう思った。

「将軍、アレじゃないですか?」

 まだ遠くにだが、糧秣を運んでいると思われる荷駄隊を見つけた師纂が、鄧艾に報告する。

「ほう、師纂。お前、目がいいな。てっきり口だけだと思っていた」

「いや、こいつはそれだけしか良いとこ無いから」

 杜預が感心していると、鄧忠がため息をついて言う。

「あぁ? 将軍の息子ってだけのお前に言われたかねぇな」

「あぁ?」

「おいおい、喧嘩してるほどヒマじゃないぞ」

 取っ組み合いを始めそうな鄧忠と師纂を止める様に、杜預が間に入る。

「将軍、さっそく仕掛けましょう!」

 師纂は先手必勝とばかりに言うが、鄧艾は動こうとしない。

「将軍?」

「……いや、あの地形はまずい。もし蜀軍に伏兵を置かれていたら、こちらの被害は甚大だろう。当初の予定通り、この場で敵を待ち受ける」

 もし最適の伏兵地点があったとすれば、それは師纂が言う様に今蜀の荷駄隊が通っている地点こそがそうだったかも知れない。

 だからこそ、鄧艾はその地点を嫌った。

 蜀軍が投降したばかりの王瓘に護衛をさせたのは、すでにその最適地点に伏兵を置いているからであり、王瓘が蜀を裏切って糧秣を奪おうと考えた場合にはその伏兵によって王瓘と手引きしているであろう魏軍を討つつもりなのではないか。

 鄧艾にはその不安があった。

 が、荷駄隊の足は魏軍が考えているより遥かに遅く、日が暮れてきてもまだ鄧艾が待ち構えている地点まで届きそうに無かった。

「将軍、このまま待ちますか?」

 杜預は動こうとしない鄧艾に、確認の意味も込めて尋ねる。

「……そうだな」

 もし、自分の勘に従うのであれば、ここで待つ方が良いと鄧艾は思っていた。

 しかし、王瓘はその事を知らない。

 わざわざ日時と場所まで指定してきたのだから、王瓘はきっと鄧艾は動くと信じて行動に出るかもしれない。

 いや、むしろ行動に出るだろう。

 何しろ今蜀軍の荷駄隊がいる場所こそ伏兵に適した場所なのだし、そこに指定の日時に誘導しているのだから、王瓘は完璧に自分の仕事をこなしているのである。

 そこにただの勘で動かずに見殺しにしたとなっては、王瓘としてはやりきれないだろう。

 場合によっては本当に蜀に投降する恐れすらある。

「……ここは」

「急報! 急報です!」

 兵の一人が鄧艾の元に走り込んでくる。

「どうした?」

「王瓘将軍の使者が来られました!」

 兵はそう言うと、二騎の伝令を連れて来る。

「鄧艾将軍、ここでしたか! 王瓘将軍より急報です! 事が姜維に露見して、蜀軍から攻撃されているとの事! 急ぎ救出を求む、と! 王瓘将軍も兵は率いていますが、それでも多勢に無勢! 長くは持ちこたえられません!」

「分かった、すぐに向かう!」

 迷っていた鄧艾だったが、その急報を受けてすぐに行動に出た。

 この時すでに日は落ちていたのだが、満月が煌々と輝いていたので本来であれば夜襲の際に必要な光源などすら必要無いくらい、視界は悪くなかった。

 鄧艾は急いで軍を率いて、蜀の荷駄隊の元へ行く。

 近づくと喚声も聞こえてきたので、それは王瓘が戦っているものだと思った。

 鄧艾は杜預、鄧忠、師纂をそれぞれ蜀軍の糧秣襲撃や周囲の警戒などにつけ、自身は兵を率いて蜀軍に突撃する。

 つもりだった。

 だが、荷駄隊のところには戦闘の形跡は無く、運搬に使われていた木牛や流馬が無造作に置かれている。

「謀られたか!」

「はっはっは! かかったな、鄧艾! 貴様らの浅知恵、姜維大将軍に通じるとでも思ったか!」

 鄧艾の前に現れたのは、傅僉だった。

「行くぞ! 網にかかった魚を捉えよ!」

 傅僉が叫ぶと、周囲に隠れていた蜀の兵が一斉に鄧艾に向かって襲いかかる。

「蜀軍も小細工を好むのだな。王瓘はどこだ」

「はっはっは! ヤツなら、今、ここで戦っている事すら知らんでぐっすりお休み中だろうな! 良い部下を持ったではないか」

「そうか、この場にはいないのだな」

 挑発する傅僉に、鄧艾は軽く息をつく。

「全軍、撤退だ!」

 槍を構え、いかにも傅僉に突撃するかの様に見せていた鄧艾は、一転して馬首を返して全軍に撤退命令を出す。

 鄧艾が智将と言うだけでなく、並外れた武勇を持つ武将である事は蜀でも知られている。

 それだけに傅僉も力で中央突破される事を警戒していたのだが、まさかそんな武将が一戦も交える事無く全軍撤退の命令を出すとは思っていなかった事もあり、傅僉は完全に虚を突かれた形となった。

 一方の鄧艾も、まんまと蜀の策に乗せられた事を反省していた。

 こうなる事をもっとも警戒していたはずだったにも関わらず、自身が想定していた最悪の結果を自分から呼び込んでしまった。

 姜維の八陣図を破る事の出来なかった事や、知恵比べの様相となってきた姜維との戦いでも連敗続きである。

 自分では冷静なつもりだったが、それでも鄧艾は勝利を求めて焦っていたのかも知れないと思っていた。

 が、今はまずこの場を離れる事である。

 幸いにして、今この場に王瓘はいないと言う事だったので、王瓘に策が失敗したので急ぎ撤収せよと伝令を出す事は出来た。

 鄭倫の時には、それすら出来なかった事は今でも頭に残っている。

 それが残っていたからこそ、王瓘の危機を聞いた時にその時の失敗を取り返そうと焦りを生んだとも言えた。

「鄧艾を逃がすな! ヤツを討ち取った者は、大将軍が万戸侯に取り立てる事を約束されているぞ!」

 傅僉は叫んだが、虚を突かれた隙に逃げられた事もあって鄧艾軍を追う事は出来ても、鄧艾本人を見逃してしまった。

 囮の木牛や流馬には燃え易い枯葉などを積んでいた事もあり、傅僉は一気に火をつけて魏軍の度肝を抜くと共に狼煙を上げて周囲の伏兵に合図を送る。

 だがその僅かな隙に鄧艾は馬を降り、鎧を脱ぎ捨て大刀すらも手放し、剣だけを持って兵と共に走っていた。

 こうなっては特別な特徴でも無い限り、大将を見つけ出す事は困難である。

 傅僉だけでなく、伏兵として伏せていた夏侯覇や姜維すら鄧艾を見つけ出す事は出来なかった。

 しかも鄧艾の撤退の方法も独特だった。

 軍としての統制を捨て、各自が自分の判断で逃げ出すと言う無秩序振りを見せたのである。

 これは鄧艾が農政官をしていた時の経験によるものだった。

 と言っても、鄧艾がこうやって逃げていたのではなく、野盗の集団などがこの様な統制を失った逃げ方をしていたのである。

 この逃げ方の場合、ある程度の被害が出る事も敵に投降する兵が出る事も押さえる事は出来ない。

 だが、殲滅される事も少ない。

 被害は未知数になるところは多いが、それでも無理に組織として撤退戦を行うより全滅の危険だけは少ないのである。

 実際に鄧艾や石苞の様な能力のある武将達が、野盗の集団を殲滅する事が出来なかったのも、この逃げ方の厄介なところである事を鄧艾は知っていた。

 鄧艾の追撃を行っていた蜀軍だったが、乱雑に逃げる魏軍の兵に鄧艾だけでなく杜預や鄧忠、師纂らの兵までも合流し混乱を極め始めた事もあって、これ以上の追撃は断念せざるを得なくなった。



「かくなる上は、王瓘だけでも逃がさない様にしなければ」

 鄧艾を取り逃がした夏侯覇は、すぐに姜維と合流して忠告する。

「絶好の好機を逃しましたが、そこを悔やんでも仕方ないですね。張翼将軍に連絡しましょう。今すぐに王瓘を捕縛する様にと」

 姜維はすぐにその連絡を入れたが、鄧艾からの伝令の兵は蜀軍より早く王瓘に接触する事が出来た。



「何? 鄧艾将軍が敗れた? 何故だ? 俺は二十日を指示していたはずなのに」

 実際に今王瓘と張翼が運んでいる荷駄隊は、まだまだ壜山谷にも到達していない場所で野営している。

「……姜維か! なんという事だ。それで、鄧艾将軍は撤退する事が出来たのか?」

「そこまでは確認出来ていません。将軍より、何としてもこの事を伝えるのだと厳命されましたので」

 王瓘は天を仰いだ。

「大事を誤ってしまった。この俺の失策のせいで、国の宝である鄧艾将軍を失いでもしたら、死しても償えるものではない」

「王瓘将軍、いかがいたしましょう」

 伝令に限らず、王瓘の率いる兵も動向を気にしている事だろう。

 王瓘は一瞬迷ったが、すぐに答えを出す。

「事、ここに至っては止むを得ない。この糧秣を焼き捨てて、魏に戻る。罰せられる事になるだろうが、俺の犯した失策の責任を取らねばならん」

 まるで王瓘の言葉に呼応するかの様に、周りが騒がしくなってきた。

「さすがは姜維だ。打つ手が早い。各自、魏に逃げるように伝えてくれ」

「王瓘将軍はいかに?」

「最低限の功が無ければ、俺は戻るに戻れない」

 王瓘はそう言うと、最低限の兵を連れて蜀軍の物資を焼き払う。

 これによって捕縛に来た張翼の軍とは完全に敵対する事になったのだが、最初から兵数が違うので戦いになるはずもない。

 王瓘も鄧艾と同じように各自バラバラで逃げる事も考えたが、鄧艾とは状況が違いすぎる。

 野戦で撤退した鄧艾と違って、裏切りを最初から警戒されている王瓘は、すでにほぼ包囲されていると言っても良い状況である。

 この状況で各自バラバラにと言っても、それぞれを簡単に討たれる事になりかねない。

 ならば一点突破しかない。

 それを告げようとした時、王瓘の中で天才的な閃きがあった。

「……これだ! これなら蜀軍を撤退させる事が出来る!」

「将軍、いかがしますか?」

「全員に伝えてくれ。皆、全力で魏に逃げろと。もしどうしても無理であれば、その時は蜀軍に降る様にと。俺は俺の仕事がある。急いで、皆に伝え、行動しろ」

 もしかしたら、それこそ物資を焼く前であれば、王瓘が改めて降伏の意を示した場合には姜維は受け入れたかもしれない。

 だが、期待を裏切ったばかりか貴重な物資まで焼かれたとなっては、兵に示しを付ける為にも王瓘は切られる事になるだろう。

 どうせ生き延びる事が出来ないのであれば、徹底的に蜀軍に打撃を与えるべきだ。

 とは言え、それは兵力の話ではない。

 後漢末期の様な一騎当千の猛将達ではあるまいし、一騎で敵軍の中を走り抜ける様な桁外れな武勇は、王瓘には無い。

 もしそれが出来る武将がいるとすれば、魏では鄧艾か文鴦くらいしかいないだろう。

 それであれば、別のモノを狙うしかない。

 王瓘が目指したのは、兵士達に走らせた魏への帰路では無く、真逆の蜀軍の最前線拠点である漢中方面だった。

 王瓘は自身が率いてきた五千の全兵士を魏に逃げる様に指示したつもりだったが、半数近い兵士達が王瓘に付き従い、半々に別れて西と東に逃げようとしたのである。



 張翼も聡明な武将だったが、この時は意図を測りかねて決断が中途半端になった事は否めない。

 張翼だけでなく、姜維も王瓘は当然魏に逃げるものだと思っていたのでその退路を断って包囲するつもりだった。

 それが真逆に兵を進めるのは予想外の行動であり、また明らかに袋小路に逃げ込む事になるので、退路を作る為の陽動であると思った。

 その為に王瓘は東側では無く、西側の兵に紛れているものと読み違えたのである。

 まさか、最初から生還を諦めているとは、姜維は予想していなかったのだ。

 その読み違いが発覚したのは、漢中方面に進んだ陽動と思われた部隊が物資のみならず桟道や桟橋までも焼き払ったと言う報告を受けた時だった。

 物資だけでも被害甚大なのだが、その上要路となる桟道まで焼かれたとあっては退路を絶たれる事になりかねない。

 そうなっては兵の士気を維持する事が困難である。

「……そうだった。魏には命を顧みない義士がいるのでした。何度も味わっていると言うのに、勝っていると思い込むとそんな大事な事も忘れてしまうのか」

 姜維は鄧艾捜索を切り上げて、全兵士を投入して王瓘を追った。

 王瓘に付き従った兵達は蜀軍の追撃に倒れ、王瓘自身も追い詰められて黒龍江に身を投げて果てる事となったが、蜀軍はこれ以上戦を継続する事が困難となり、鄧艾の軍を破ったとは言え、漢中に撤退する事を余儀なくされたのである。
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