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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第二十話 二六〇年 終焉に向かって

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 司馬孚と陳泰と言う、司馬昭と戦える力を持った人物が表舞台から姿を消した事で、もはや司馬昭に正面から歯向かえる人物は魏国内にはいなくなったと言える。

 そこで司馬昭は、この騒動を収める為に動いた。

 全ての責任を成倅と成済の兄弟に背負わせる為、兵を出したのである。

 それを指揮するのは賈充だった。



「賈充、陳泰はお前を殺せと言って来たぞ」

 司馬昭は賈充に指揮を任せる前にそう言った。

「陳泰は全てを看破していた。最低でもお前を殺せ、と。この騒動の罪を裁くと言うのであれば、それ以上はあってもそれ以下は無い、とな。お前と陳泰を比べた時、武勇と武勲、軍略と政略、人品と見識、その全てにおいて陳泰が勝るであろう。それでも私はお前を選んだ。その意味は分かるな?」

「……はっ」

「では、私の役に立て」

 今回の騒動は、誰もが司馬昭の仕業だという事を知っている。

 しかし、それで良しとするわけにはいかないのだ。

 例え偽りであったとしても、犯人を仕立て上げ、その者達に罪を着せて司馬昭の潔白を知らしめなければならない。

 それが茶番であったとしても、必要な儀式である。

 それを実行出来る点こそ、賈充が陳泰より優れているところと言えただろう。

 そして、それを司馬昭が買っている事も賈充は知っていた。



 賈充は成倅兄弟を捕らえる為に兵を集めたが、兄弟揃って豪傑であり、曹髦からも罪を着せられるという話をされている。

 念の為に出頭を命じたが、成倅兄弟はそれを拒んだ。

 出頭すれば命は無い事くらい成倅兄弟でなくても分かるのだが、賈充の狙いはまさにそれだった。

 成倅兄弟が政府の要請を拒むのは、まさに反逆の証であり、皇帝をその手にかけたのもその意志からであるとして、兵を集めたのである。

 詭弁以外の何物でもないのだが、それでも賈充にとっては兵を出す大義として掲げられればそれで充分なのだ。

 成倅兄弟も嵌められたと気付いたのだが、その時にはすでに兵を出した後であった為、もはやどうする事も出来なかった。

 兄の成倅は一族の者を率いて賈充の兵に対抗し、成済は屋敷の屋根に上る。

「賈充! 何故に兵を率いて来たか! 我々に叛意など無い! 皇帝陛下を手にかけた事も、全ては貴様の指示であったではないか! 逆らえば一族皆殺しにすると脅し、陛下に歯向かわせたのは貴様であり、大将軍の指示だったはず! その指示に従った我らのみが罪人などとはおかしな話!」

 成済は屋根の上から叫ぶ。

「誰か、あの世迷言を叫ぶ者を射殺せ!」

 賈充はそう叫んだが、成済自身が並の武将ではない。

 下から射られた矢を防ぎ、「罪人は賈充だ!」と叫ぶ。

 一階の制圧も、豪傑である成倅によって阻まれていた。

「旦那、出させてもらうぜ」

「仕方あるまい」

「よう、大将。許可出たからてめえの命、奪いに来たぜ」

 先頭に立って兵をなぎ倒す成倅向かって、悠然と歩を進める武将がいた。

 胡烈である。

 当然抵抗される事は賈充も見越していたが、その実力が見込みより強力であった事は誤算だった。

 一応の対策としてこちらも豪傑である胡烈を連れてきていたのだが、この男はこの男で扱いやすいとへ言えない者である。

「成倅よ、大将軍から受けた恩を忘れたか」

「国への大義より、個人の情を優先したのが間違いであった。私事を公務より優先させるなど、愚かであったと後悔している」

「そうかいそうかい。それはさぞ後悔している事だろう。俺で憂さ晴らしする事を許してやるぜ」

 胡烈はそう言いながら剣を抜くと、成倅の前に立つ。

「一騎討ちに何の意味があるというのか」

「意味ならあるさ。俺が楽しいからな」

 胡烈は問答無用に切りかかるが、成倅は槍でそれを防ぐ。

「胡烈、お前にも無関係ではないだろう」

「かもしれないな。だが、今じゃない。お前もせいぜい今を楽しめよ」

 胡烈は笑いながら剣を振る。

「血に飢えた狂犬め」

「それこそお互い様だ」

 成倅は元々貧しかったが、その腕前を買われて司馬昭に仕える事になった。

 兄弟揃って腕っぷしが強かった事もあり、司馬昭や要人の護衛を主として仕事としていたのだが、それだけに戦場に出る事は少なかった。

 一方の胡烈は胡奮と共に司馬昭陣営に入っているが、秘密主義の司馬昭陣営の中にあっても比較的表に出る事が多く、様々な戦場を転戦する事になった。

 この時の成倅と胡烈に差があったとすれば、それは実戦経験の多寡であっただろう。

 十分な武才を持っていた成倅だったが、同じく優れた武才を持ち実戦によって磨かれた胡烈とは、僅かではあったがそれでもはっきりとした差があった。

 剣と槍では槍の方に間合いの利があったが、成倅が槍を突き出した時に胡烈はその腕を切り落とした。

「楽しかったぜ、成倅」

 胡烈の一撃は、腕ごと槍を落とした成倅の首を刎ね飛ばした。

「兄上!」

 屋根の上で賈充の悪行を叫んでいた成済は、兄が討たれた事に一瞬気を取られた。

 その一瞬が明暗を分けた。

 下から射られた一矢が、成済の右肩を射抜いたのである。

「今だ! 射殺せ!」

 肩を射抜かれ、剣を落とした成済は無数の矢に射抜かれる事になった。

「ははっ、命拾いしたな、旦那」

 胡烈は笑いながら賈充の肩を叩く。

 その言い分も言い方も気に入らないが、それでも胡烈の言う通りである事は賈充も分かっていた。

「成倅兄弟は自らの独断で皇帝陛下に手をかけたばかりか、その罪を大将軍にまで擦り付けようとした! その罪、許されるものではない! 成倅の三族を捕らえよ! 大罪の一族、根絶やしにすべし!」

 賈充の号令によって兵達は集まった成倅の一族を捕らえ、またそれに連なる者達を捕らえて処刑したのである。

 避ける事が出来なかったとはいえ、結果として曹髦の予言通り、成倅兄弟は賈充と司馬昭によってその罪の責任を背負わされて滅亡する事となった。



 そして、もう一人。

「王経殿、考えは変わりませんか?」

 鍾会が尋ねると、王経は鼻で笑う。

「丈夫たる者、主の為に働いてこそ。私は陛下を助ける事が出来なかった。この無能に、これ以上何を期待するというのだ」

 王経は見下す様に鍾会を見て答える。

「恥ずべきは王沈、王業よ! 陛下をお助けする事こそがその求められるところであるのに、陛下を売って自らの地位と財貨を守る事を選ぶとは! 陛下からの厚遇に対し、自らの欲で応えるなど言語道断! 恥ずべき輩である! 士季、そなたもだ!」

「実に立派だ。ですが時流を読めていない。その能力、その気概、それは後の覇者の為に尽くすべきもの。古きを捨て、新しきを迎える時なのです」

 王経に対し、鍾会もまるで見下す様な目を向けて言う。

「すでに命運は魏から離れているのです。王経殿、現実に目を向け新たな時代へと進む時が来たというのが分かりませんか?」

「逆賊の好みそうな言葉だな、士季。いかにもそなたらしい、上辺だけの軽い言葉だ。お前は自らの才に驕り、周りに響かせる言葉を知らぬ。才気はあっても大成はせぬであろうな」

 王経の言葉に、鍾会は眉を寄せる。

「さすが、これまで拷問に耐え続けただけの事はある。もはや生きる事を手放している死者であれば、あとは呪詛を口にするのみか」

 鍾会はそういうと、王経の説得を諦めて罪人として縛り上げて広間に引きずり出す。

 反逆者として、皆の前で公開処刑となった。

「もちろん、それをこそお望みなのでしょうが、少し趣向を凝らしてみました」

 鍾会は笑いながら、王経に囁く。

 王経は捕らえられた後に司馬昭陣営に加わる様に説得されていたが、それを拒否し続け、それでも折れないと拷問にかけられていた。

 それでも王経は司馬昭を罵り続け、拷問を受け続け、すでに長くは生きられない事は十分に承知していた。

 曹髦を守る事が出来なかった事で、王経もそれに殉ずるつもりでいた。

 それだけに広間に引き出された時、鍾会の言っていた趣向を目にした時の衝撃は大きかった。

 王経の一族が同じように縛られて引き出されていたのである。

「当然であろう? 逆賊の一族がお咎めなしなはずが無いではないか」

「士季! 貴様ぁ!」

 王経は鍾会に向かおうとしたのだが、縛られていてはまともに身動きも取れない。

「貴方が望んだ事ではありませんか、王経殿?」

 捕らえられた王経の一族の中には、年老いた母の姿もあった。

「母上! 申し訳ございません」

「何を詫びる必要があるのです」

 涙ながらに謝罪する王経に対し、母は縛られた状態であっても微笑んでいる。

「母上は常に私に偉くなるものではないと忠告して下さいました。なのに私は、自身の栄達を誇り、それ故にこのような事になってしまいました。全て母上が正しかった」

 王経は地面に頭を叩きつける様に謝罪するが、母は優しく首を振る。

「私が出世を望まなかったのは、貴方が相応しい死に場所を選べないのではないかと心配したのです。逆賊に加担せず、陛下に殉ずるその事に何を恨み、恥じる事がありましょうか。よくやりました。貴方は自慢の息子ですとも」

 王経とその一族は、反逆罪によって公開処刑となった。

 それは都の民にも不安を抱かせる事になったが、それでも一連の騒動が終息した事を告げるには成功したと言える。



「閣下、魏の命脈はここに尽きたと言えるでしょう。この上は閣下が皇帝の座に御付きになられるべきでは?」

 曹髦の葬儀が終わった後、賈充が司馬昭に持ち掛ける。

 最初司馬昭は曹髦を大罪人と称し、葬儀も下民と同じ様に扱おうとしたのだが、叔父の司馬孚と皇太后に強く反対され、皇帝としては葬る事は許されなかったものの王としての格式で葬られる事となった。

 すでにそこには騒動を起こす様な者も無く、全て滞りなく事は済んだ。

 だが、その葬儀に皇帝を悼む者も同じ様にいなくなり、誰の目にも魏の命脈は尽きたと見えていた。

 それを敢えて賈充は司馬昭に伝えたのである。

「皇帝、か」

 司馬昭は頬杖をついて呟く。

「それをこそ国民は望んでおります。今なお蜀と呉と言う敵を抱えている以上、強い支配者は国の為にも必要なのです」

「賈充よ、そなた歴史を学んでおるか?」

「歴史、でございますか?」

「そうだ」

 司馬昭はちらりと、側に控える息子の司馬炎を見る。

「古くは周の文王も然り。近くは魏の武帝も然り。国を奪うにしても譲られるにしても、然るべき手順と言うのが必要なのだ」

 あからさまに権力を守る動きを見せて来た司馬昭だったが、この時初めて自身が皇帝になるつもりが無い事を周りに示した。

 そして、やがて魏を奪い、新たな国を作るつもりだという事も。

 この二か月後、魏には新たな皇帝として曹奐そうかんが帝位に就いた。

 彼は曹操の孫に当たり、血筋の上では明帝曹叡と同格であったのだが、この時にはもはや司馬昭と戦うだけの力は無かった。

 曹操が乱世の中で礎を築き、その息子曹丕によって建国された大国魏は最期の皇帝を迎えたのである。
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