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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第十九話 二六〇年 司馬昭之心、路人皆知也

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 皇帝曹髦の死は、魏にとって大き過ぎる命題を突きつける結果となった。

 かつて曹髦自身が司馬昭に言った通り、司馬昭の野心は道行く民ですら知っている。

 今回の曹髦の死についても、司馬昭からは

「皇帝が皇太后を害しようと言う、正気を疑う行動に出た為にやむを得ず兵を出した。乱心の末の凶行を言葉で止める事は出来ず、討つほかなかった」

 と説明されている。

 その結果、曹髦は皇帝として崩御したのではなく、乱心して国家を乱した賊であるとされているのである。

 皇帝を失った事への悲しみはあるのだが、それを仕組んだのが司馬昭である事もほぼ全員が知っている。

 そんな中で、嘆き悲しむ事は司馬昭を批難する事になるのではないかと言う恐れが魏の臣下達にはあった。

 そして、これからの事である。

 皇帝が臣下を罰し、処断する事は正当な理由があるのであれば許されるのだが、臣下が皇帝を廃する事が許されては、それはもはや皇帝と臣下の立場が逆転している事を証明する。

 それが今回の事であり、もはや魏と言う国が無くなるのは時間の問題ではないか、と言う事をそれぞれが考えなければならなくなった。

 国を見限って司馬昭につくか、滅びる国と運命を共にするか。

 そんな中、大声を上げて嘆き悲しむ者がいた。

 司馬昭の叔父にあたる、老齢の司馬孚である。

「何故だ! 何故、陛下がこれほどの若さでこの世を去らねばならないのだ! この老骨、いくらでも陛下の代わりに命を投げ出すと言うのに!」

 司馬孚は柩に取りすがって、人目など一切気にする事なく嘆き、泣き叫んだ。

 それは芝居などではなく、本心から皇帝であった曹髦を失った事を嘆く忠臣の姿だった。

「叔父上、その様に……」

 見かねた司馬昭が声を掛けようとすると、司馬孚は睨みつけてきた。

 好々爺と言われる事も多い、人当たりの良い笑顔の印象の強い司馬孚は、これまでに一度も人に対する恨み言など言った事が無いとさえ評されていた。

 また、散々謀反を疑われ続けた司馬懿の時代から、司馬孚だけはその事を疑われる事なく軍部の中心に残る事を皇帝の一族からも期待されるほどだった。

 それでも司馬孚は兄である司馬懿が疑われるのであればと、自身も一線を退いた事もあって皇族からの信頼も厚い。

 そんな温和な叔父の事は司馬昭も知っていたが、この時に見せた顔はこれまで司馬昭が一度も見たことが無いほどに厳しいものだった。

「……子尚、口を開くな。貴様と交わす言葉などない」

 感情の赴くままに言葉を発しそうになった司馬孚だが、それでもそれらの想いを飲み込み、ゆっくりと言葉を選びながら司馬昭に言う。

「叔父上、私は……」

「口を開くなと言ったはずだ。この様な……、いや、もう言っても意味のない事だな。私は皇太后様に話がある。子尚、もう二度と会う事もなかろうが言っておこう。その面、二度と見せるな」

 恐ろしく鋭い目を向けて、司馬孚は司馬昭の前から去っていく。

 老齢でありながら、司馬孚は足取りもしっかりして自分の足で去っていく。

 ほぼ隠棲しているにも関わらず、司馬孚は今でも現役の太傅であり軍部に強い影響力を持つ人物でもある。

 司馬昭にとっても辛いところではあったが、それでも司馬孚の言わんとしている事は伝わった。

 今回の件に対して自分は納得していないし、今後ともするつもりは無い。しかし、それを咎める事も、今後どの様な事をするにしてもそれを批難する事も無い。これから先は協力する事を求めず、自分の信じる道を行け。

 司馬孚は突き放す形ではあったが、それでも甥である司馬昭の背中を押してくれている事を、司馬昭は理解出来た。

「閣下、いかに閣下の叔父とはいえ、あの様な物言いを許してはなりません」

 賈充はそう忠告したが、司馬昭は首を振る。

「叔父上こそ誠の信義の人である。咎め立ては無用だ。今後、余程の事でも無い限り、叔父上の良い様にやらせておくがいい。それより、無視出来ない問題があるではないか」

「それは?」

 司馬昭の言う問題がどれなのかわからず、賈充は尋ねる。

「この場に陳泰がいないのはどういう事だ? もし陳泰が本気でこちらに牙を向ける様な事になれば、それは叔父上と同等かそれ以上の脅威にもなりかねない。急ぎ陳泰を呼び出すのだ」

「では、荀顗を使者として呼び出しましょう。叔父である荀顗の言葉であれば、陳泰も無視する事は出来ないはず」

 賈充は急いで荀顗を呼ぶと、陳泰を迎えに行く様に命じた。

 荀顗は荀彧の晩年の息子であり、陳泰とは同年代でありながら陳泰の母の弟なので血縁上は叔父にあたる人物である。

 陳泰と荀顗は共に優秀で同年代、しかも同族の血筋と言う事もあってよく優劣を比べられてもいた。

 しかし何を思ったのか、生粋の文官の血筋であった陳泰は武将としての道を進む事になり、二人の優劣の話は次第に話題から消えていた。



「叔父上、何の用ですか?」

 陳泰は荀顗に向かって棘のある言い方をする。

「司馬昭閣下がお呼びだ。せめて皇帝だった男を見送るくらいの事はするべきだろうと、閣下の配慮だ」

「何が配慮だ!」

 陳泰は怒りを隠そうともせずに、荀顗を怒鳴りつける。

「先帝、曹芳斉王の時とは違う! 斉王には落ち度があり、廃帝されるべき理由もあった。それ故に俺も目を瞑る事が出来た。だが、此度の一件は明らかに司馬昭に簒奪の意志があり、それに邪魔だった陛下を廃し、害したのではないか! 叔父上はどの様な理由があってこの様な暴挙を正当化するつもりだ!」

「正当化? その様なモノ、考えてもいない」

 怒りを隠そうとしない陳泰に対し、荀顗はむしろ笑みさえ浮かべそうな表情である。

「魏と言う国など、滅ぶべきなのだ」

「……何を言われるか、叔父上」

「本心だよ。我が父荀文若や荀公達がどの様な最期を遂げたか、我ら一族の中に知らぬ者はいない。献身の末に贈られるモノが空の箱と言うのが魏のあり方であると言うのなら、その様な国など滅ぶべきなのだ」

 荀顗は表情こそ薄く笑みを浮かべているが、その目は暗く鋭い。

「何が覇王、何が武帝、何が太祖だ。曹孟徳など、我が父荀文若の軍略無くしてこの様な大それた事など出来なかったなずなのだ。その功臣に与えたのが空箱とは、相当なものだと思わないのか?」

 荀顗の言葉に、陳泰は自分の怒りが冷めていくのを感じた。

「……これまで様々な人が俺と叔父上を比べてどちらが優秀かなどと話していましたが、この様に数等下の相手と比べられていたとは。我が身が嘆かわしい限り」

「何とでも言うが良い。私の相手は、お前ではないのだから」

「分かりました。叔父上の顔を立てる為にも、閣下にお会いしましょう。俺も陛下に対して何も出来なかった罪人なのだから」

 陳泰はそう言うと、荀顗と共に司馬昭の元へ行く。



 だが、陳泰はその場に着くと司馬昭への挨拶などの前に、曹髦の柩に取り縋ると大声を上げて泣き叫んだ。

 今の魏の重臣のほとんどが保身の為に司馬昭についていると言えるが、それでも司馬孚や陳泰の様に司馬昭にではなく魏に忠誠を誓った人物もいる。

 そんな人物達にとって、太祖の生まれ変わりと期待されていた曹髦は、まさに希望の光だった。

 それが奪われたのだ。

 しかも、権力欲に取り憑かれた者の手によって。

「陳泰将軍、よくぞ足を運んでくれた」

 司馬昭からそう声を掛けられた時、陳泰はまったく無意識に自身の腰に手を伸ばしていた。

 いつもならそこに剣があるのだが、今いる場には帯剣は許されておらず、また仮に許されていたとしても剣を向けていい相手ではない。

 頭では分かっているのだが、体が反射的に動いていた。

「陳泰将軍、今後とも魏の為に忠節を尽くしてくれるか?」

「……無論、そのつもりでおります」

 司馬昭の言葉に対し、陳泰はかろうじて理性的に返事が出来た。

 出来る事ならこの場で切り捨ててやりたいとも思うのだが、剣が無い以前に、それをやったところで曹髦が帰ってくる訳でもなく魏と言う国にとっても意味が無い。

 いずれこの男に滅ぼされるかもしれないが、だからと言ってそんな気がすると言う漠然とした理由で大将軍を切り捨てる事など許されない。

「では、今後の話をしたいので、別室に付き合ってくれるか?」

 司馬昭の言葉に頷くと、陳泰は司馬昭と共にその場を離れて別室に向かう。

 別室では、珍しく司馬昭と二人きりだった。

 司馬昭は非常に用心深く、護衛として胡奮や胡烈などを連れていてもおかしくない。

 それに腹心でもある賈充や鍾会なども同席していないのは珍しいと言うより、おかしいと陳泰は感じていた。

「将軍、この騒動、どう鎮めるべきだとお考えか?」

 そんな中で司馬昭はいきなり核心に切り込んでくる。

「騒動、とは?」

「亡き陛下は乱心の末、皇太后様を害しようとしたので、やむ無くしいした。この事実があれば十分に説明はついていると思うのだが?」

「事実はそうでも、真実はどうでしょうか。いえ、それ以前にすでに結果と風聞が繋がっている以上、その風聞に対しても対処しない限りこの騒動は収まることはありません」

 陳泰はまっすぐに司馬昭を見て言う。

 なるほど、そう言う事か。

 この状況と今の質問で、司馬昭の真意を理解出来た。

 ここで俺を消すつもりか。

 皇帝ですら乱心の末に罪人に変える事の出来る人物である。誰も見ていないところであれば、一将軍などどの様にでも出来る。

 まして今の陳泰の軍に対する影響力で言えば、太傅の地位にあるとはいえほぼ隠棲状態である司馬孚より上である。

「ほう、ではどの様にすれば騒動は収まると?」

「最低でも今回の首謀者である賈充を切り、閣下が全ての職を辞して全てを国民に説明する事です。これによって騒動は収まりましょう」

「随分と乱暴なやり方だな」

 さすがに司馬昭は眉を寄せる。

「首謀者と言うのであれば、賈充ではなく、実際に手を下した者達を処断する事にしよう」

「……例えば、の話をさせて下さい」

 陳泰がそう言うと、司馬昭は頷く。

「いずれ閣下も後を継がせる事になるでしょう。それは御子息である司馬炎しばえん殿か、あるいは今は亡き兄上の子となった司馬攸しばゆう殿か。閣下が存命中に俺がその後継者を害したと仮定して下さい」

「ふむ、続けるが良い」

「閣下は俺を捕えて罪を問う事にします。その問に俺はこう答えましょう。『閣下の後継者の命を奪ったのは、この剣です。この剣を折りますので、これでもう二度とこの剣によって奪われる命はありません』と。閣下はそれで納得して下さいますか? そんなはずはない。納得出来るはずが無いのです。最低でも俺の役職を解き腕を切り落とすくらいの事をしない限り、その罪を裁いたとは思えないし、言う事も出来ないでしょう」

 陳泰は司馬昭をまったく恐れる素振りもなく、そう言い放った。

 自分が今、死地にいると言う事を陳泰は理解している。

 だが、陳泰にとって『そこ』は必ずしも特別な場所ではない。

 彼はその出自の高貴さからは考えられない様な最前線に立ち、これまでに何度も実戦を経験し、武勲を立ててきた。

 それは必ずしも楽勝な戦場などではなく、特に雍州では激戦の連続で、そこでは幾度か死を覚悟した事もあるくらいだ。

 死を望んでいる訳ではないにしても、それで全てを放棄する様な事も無い。

 正すべきは正さなければ、それこそ魏と言う国が滅ぶ。

「……そうか。確かに将軍の言う事にも一理ある。あるにはあるが、賈充は国の重職にある者。執行者である成倅兄弟の一族に全ての責任をとってもらう事としよう」

「……如何様にでも」

 陳泰はそう言って、その場を去る。



 歴史書の中で、これ以降の陳泰の記述は無い。

 ある書の中には、陳泰は皇帝の死を嘆き自決したとあり、また別の書ではこの司馬昭との会見後、血を吐いて死んだとも記されている。

 正確な事は分からないにしても、魏の忠臣であった陳泰は曹髦と同じ年にその生涯を閉じたのである。
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