新説 鄧艾士載伝 異伝

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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第十八話 二六〇年 皇帝として

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 翌日の早朝、王経はすぐに曹髦の元へ向かった。

 あの太祖曹操の血を引き、しかもその血を濃く表しているとも言われている曹髦であれば、今行おうとしている事の無謀さにも気付いていると期待していた。

「王経、早いな。何事だ?」

 そんな期待とは裏腹に、曹髦はすでに親衛隊長である焦伯を呼んで作戦を詰めているところだった。

 いや、曹髦自身も自分の無謀さには気付いている。

 だから諦めるのではなく、その上でいかにして成功させるかを考えているのだ。

 これが、覇王の血、か。

 王経は二十歳になった曹髦を見ながら思う。

 無理だから諦めると言う選択をせず、万に一つ、それどころか百万に一つの成功の可能性を探る。

 常人であれば無理だからと諦めるところ、覇王の血はその結論には未だ至っていないらしい。

「陛下、どうしても諦めてはもらえませんか」

「何を諦めるのだ? 朕が皇帝である事をか? それとも魏が滅びるのを見守れと? どちらにしても、朕が選べる様な選択肢ではないな」

 曹髦は一瞬王経の方に目を向けた後、焦伯と共に絵図を見ている。

「皇太后様?」

 王経はその絵図を見て、呟く。

「ほう、これだけで分かるか」

 曹髦はようやく王経に興味を向ける。

「さて、この上で朕を説得出来るか試してみるか? 王経よ」

「……いえ、こうなっては陛下の説得は不可能であると、私も諦めがつきました。その上で、私も陛下の為に尽力させて下さい」

 王経が頭を下げると、焦伯は眉を寄せて曹髦を見るが、曹髦は力を抜いて笑う。

「焦伯よ、王経は誠の忠臣だ。だが、王経。朕に協力すると言っても、お前は朕の為に何が出来ると言うのだ? 役に立たない者を連れて行く事は出来ない」

「では、私は実戦経験を提供致しましょう。陛下の親衛隊長を任されるだけあって、焦伯の武勇の腕前は知っています。また、親衛隊の隊員達も十分に実力を持っている事も知っています。ですが、皆実戦を知りません。いざ戦いが始まった時には思う様に動けないものです。私とて自慢出来る武勲はありませんが、それでも実戦を、劣勢での戦いを経験しております。おそらくその経験と知識は、陛下のお役に立てるでしょう」

「よくぞ申した。焦伯、王経は信用出来る」

「はい。先ほど王経殿、いや、王経将軍の申された通り俺には戦の経験はありません。実戦経験のある将軍が協力して下さると言うのであれば、これほど心強いものはありません」

 焦伯の許可も得て、王経は曹髦に協力する事になった。

 曹髦自身が、魏の軍と戦ってどうにかなると思っていない事が分かったからこそ、王経も協力する事にしたのである。

 いかに曹髦が皇帝だからと言って、今の絶大な権力を誇る司馬昭に対して好き放題に出来る訳ではない。

 むしろ皇帝と言う立場であるにも関わらず、司馬昭によって完全に封じ込められていると言っても良いくらいだ。

 が、それでも司馬昭は曹髦の臣下である事には変わりない。

 また、司馬昭が絶大な権力を誇ると言っても、それは司馬昭一人によるところではない。

 そこで、曹髦にとっては後見人であり、また司馬昭にとってもその権力の後ろ盾になっている郭皇太后である。

 彼女は先帝曹芳を廃し、次の皇帝に誰を置くかと言う時に司馬師と口論の末に曹髦に決めたと言う経緯もあって、曹髦に協力してくれるはずだ。

 その一方で明帝の妻であった彼女は、司馬懿や司馬師には協力的でもあった。

 同じ流れで司馬昭に協力していても、それはそれで不思議ではない。

 だからこそ、曹髦は郭皇太后を押さえなればならないのだ。

 皇帝と皇太后が声を揃えれば、いかに司馬昭といえども手は出せない。

 そうして失脚させた方が、実際に司馬昭を暗殺するより成功率は遥かに高い。

 あれだけ激昂していた曹髦だったが、一晩のうちに冷静に勝利を見出していた。

 こうなると、親衛隊が正規の数より少ない事も悪くない。

 皇帝が皇太后に会うと言っても、単独で行動する訳には行かないので、親衛隊を連れているのは必ずしもおかしな事ではないと言い張る事が出来る。

 と言うより、むしろ自然な事なのだ。

「……しかし、上には上がいる、と言う訳か」

 曹髦は馬車から状況を見ながら、苦笑いしながら呟く。

 皇太后に会う前に、すでに司馬昭は一軍を動かして皇太后の屋敷を守っていたのである。

「この軍は何のつもりだ! 皇帝の行く手を阻むと言う事が分かっているのか!」

 曹髦がよく通る声で言う。

 その一言だけで、敵が動揺している事も分かった。

 兵士も全員が皇帝と戦おうとは思っていない。

「陛下! 何故皇太后……」

「陛下の声が聞こえぬか! 皇帝陛下の前を阻む事の意味を考えよ!」

 一軍を指揮していると思われる賈充が何か言いかけたが、それを阻む様に王経が怒鳴る。

「陛下は皇太后様との面会をお望みだ! それを兵を持って妨げるとは、何事だ! 道を開けよ!」

 今、この場で空気に呑まれていない人間はそう多くない。

 王経はそれを読み取ると、呑まれている人間の方を狙った。

 今であれば実際の権力がどうこうより、皇帝と言う絶対の存在を活かす事が出来る。

 ここに駆り出された魏の兵達も、ほとんどが皇帝に歯向かう事を望んでいない。

 そのほとんどを味方に出来れば最高だが、無力化するだけでも十分な効果である。

 無効化された兵達に道を開けさせれば、この少数の親衛隊でも戦っていける。

 また、その場合には無力化した兵達の中にもこちらの味方をしてくれる者も出てくる。

 王経はそう思っていた。



「……士季の千里眼、恐るべしかな」

 賈充はそう呟いた。

 王沈と王業が司馬昭のところに来た時、当然司馬昭側も対策の話し合いは行った。

 すぐに司馬昭の身辺警護の兵を増やすと言う話になったが、そんな中で一人だけ別の事を警戒していたのが鍾会だった。

「あの陛下が、バカ正直に真っ向から閣下を狙ってくるでしょうか? 僕には陛下がそこまで短絡的な人物であるとは思えません」

「ほう、士季は随分と陛下を評価しておるのだな」

 司馬昭が鍾会に言うと、鍾会は頷く。

「閣下も分かっておいででしょう? 先の諸葛誕の乱で見せた陛下の見識と戦術眼は僕や閣下と比べても遜色無かった。それに太祖が如しとまで言われた御方ですよ? 先帝は言うに及ばずですが、あの文帝や明帝ですら太祖が如しとまでは言われたり、例えられてはおりません。ただ警戒するだけでは足りないのではないでしょうか」

「ふむ、些か過大評価とも思えるが、では士季よ。お前ならばこの状況、いかにして打破するつもりだ?」

「僕でしたら……」

 鍾会は腕を組んで考える。

「僕でしたら、皇太后様を押さえるでしょうね」

「皇太后様?」

 尋ねたのは王沈だったが、それはその場にいる全員が疑問に思った事だった。

「閣下の暗殺を成功させるなど、まず論外。まして兵を率いてなど、万に一つも成功させる事など出来ません。聡明な陛下がそれに気付かないはずはありません。ですが、陛下と皇太后様が同じように閣下を罷免する事を口にした場合、どのように対処出来ましょうか。閣下の命を直接狙うのではなく、閣下から権力を奪い取り社会的に抹殺する。これならば万に一つどころか、十の内三か四、あるいは半々ほどの成功を見込めます。その勝率であれば、全てを賭けるには十分と言えましょう」

 鍾会の言葉にも聞くべき点があるとして、司馬昭は賈充に皇太后の屋敷を守らせたのだが、それがまさに的中したのである。

 しかし、千里眼としか言い様がない鍾会をもってしても、曹髦がここまで皇帝の権威を振りかざしてくるとは読みきれなかった。

 いや、これは曹髦と言うより、王経か。

 曹髦や焦伯と違って、王経には戦場での経験がある。

 軍と言う組織において指揮系統を強化する意味でも、上からの命令には絶対服従である事を徹底させられる。

 そこを考えるのであれば、皇帝と言う肩書きは最強の武器にもなり得ると言う事を王経は知っているのだ。

「怯むな! 今まで大将軍がお前達を養っていたのは何の為だ! 今、まさにこの時のためであろう!」

「逆賊め、本性が出始めたぞ」

 賈充は叱咤して檄を飛ばしているつもりだろうが、それは兵の心を動かすものではなく、ただ単純に脅しているだけである。

 本来であれば、それで士気が高まる様な事はないのだが、ごく一部を動かす事は出来る。

 そして、この場を収めるにはそのごく一部が動くだけで十分でもあった。

 今の叱咤で動く兵は元々が荒くれで司馬昭によって拾われた者か、司馬昭に対して多大な恩があり、国家ではなく司馬昭個人に対して絶対の忠誠を誓った者である。

 それらの者には皇帝の権威と言う盾は通用しない。

 実際に数名の兵士が飛び出してきた時、戦わずに済みそうだと油断していた焦伯は動く事が出来ずに先手を許してしまった。



 本来であれば絶対に許されない隙。

 その致命的な隙を防いだのは、ほかならぬ曹髦自身の武勇だった。

 皇帝自らが動けない親衛隊長の前に飛び出し、宝剣を抜いて敵兵の突き出した槍の穂先を切り落としたのである。

「太祖の宝剣、『倚天いてん』の切れ味は虚仮威しではないぞ。恐れぬ者はその身を持って体験する事を許そう」

 曹髦の鋭い眼光と、それに応える様に輝く宝剣の刃に敵兵達も動きを止める。

「今だ! あの一点を突破するぞ!」

 王経は賈充を含む敵が怯んだのを見逃さず、すかさず指示を出す。

 皇帝自らが剣を持ち戦場に立った事は、親衛隊を奮い立たせた。

 特に親衛隊長の焦伯は、曹髦に代わって自ら先頭に立って切り込んでいく。

 兵数には相変わらず圧倒的な差があるとは言え、士気においては完全に逆転していた。

 曹髦にしても王経にしても、ここで兵を全滅させる事も、賈充を討ち取る事も考えてはいない。

 彼らの勝利の目標は、あくまでも皇太后との面会であり、ここを突破するだけでそれは叶うのだ。

 そしてそれは九割方上手く行き、あとは突破するだけと思った瞬間、先頭を行く焦伯の動きが止まった。

 正確に言えば動きが止まったのではなく、その胸を槍で刺し貫かれたのである。

「悪いが、そこまでだ」

 曹髦達の前に立ちはだかったのは、誰の目にも一目でそれと分かる豪傑だった。

 巨漢とも言うべき大男であり、親衛隊とは違った荒事慣れした武の雰囲気を身にまとった者が二人、賈充の前に立って曹髦の行く手を遮ったのである。

「相手は皇帝陛下、捕えますか、殺しますか、いかがしますか?」

「殺せ! 大将軍の命令だ!」

「では、その様に」

 賈充の声に従う様に、大男の一人が曹髦に向かう。

「そなた、名は何と言う?」

成済せいさいに」

「そうか。もし朕に手をかければ、そなた、三族皆殺しとなるが、それでも良いのか?」

 曹髦は脅しではなく、確認する様に成済に尋ねる。

「陛下が、ですか?」

「何を馬鹿な。朕であればその様な豪傑ならば重用する事を約束しよう。命じたのが仲達、子元であればまた同じ様に重用する事であろう。だが、子尚やそこの小物であれば全ての罪をそなたらに着せて罪を逃れる事だろう。その結果、三族皆殺しとなるが、その覚悟は出来ておるのか?」

 曹髦に問いに、成済は答えようとはせずに曹髦から目を離そうともしない。

 その代わり、後ろにいるもう一人の大男が賈充を確認する様に見る。

「大将軍の命令に従えば、それにどの様な罪があると言うのだ! 従わぬと言うのであれば、今、この場で貴様の三族に罪を問うぞ!」

「お聞きの通りです、陛下。確かに陛下の言う通り、いずれは全ての罪を着せられて三族皆殺しの目に合うかもしれませんが、背けば今すぐにそれは行われるのです。陛下に弓引く事、お許し下さい」

 見た目には禍々しい凶相の成済だが、その実は忠義に溢れたまさに猛将豪傑と呼ぶに相応しい人物である様だった。

「……口惜しいな。そなたが取るに足りぬ凡俗であれば、朕も宝剣を振るうに躊躇いなく、最後まで呪いの言葉を吐く事が出来たと言うのに」

 曹髦はそう言うと、両手を広げる。

「だが、この曹髦を討つ者としてそなたほど相応しい者もおらぬだろう。成済よ、後ろの者は何者だ?」

「我が兄、成倅せいさいに」

「ほう、弟のそなたが汚れ役と言う訳か。良き兄弟よ。そなた達兄弟や王経、本来であれば報いられるべき者達に報いてやる事が出来ない無能さは、万死に値するな。成済よ、その栄誉はそなたの手にあるべきだ」

 曹髦の言葉に頷くと、成済は無防備に晒された曹髦の胸を槍で一突きにする。

 その一撃は曹髦を背中まで貫く。

「出来るなら、陛下の様な御方にこそお仕えし、この槍を振るいとうございました」

「真の忠臣に報いる事の出来なかった、無力な皇帝を許せ」

 曹髦の絶命によって親衛隊は瓦解し、最後まで抵抗した王経も捕らえられる事となってこの乱は終結した。
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