上 下
77 / 122
第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第十五話 二五九年 嵐の前の

しおりを挟む
「父上! 突然ですが、嫁をとる事にしました」

 鄧忠のあまりにも突然の言葉に、鄧艾は言葉を失っていた。

「……は?」

「嫁です! 俺もそう言う歳になってますから」

「……いつの間に?」

 鄧艾としては、そうとしか言い様が無かった。

 鄧艾の仕事は多岐に渡り、雍州方面軍の副司令でありながら司馬師直属だった頃からの農政官としての仕事もある。

 蜀軍の動きが無い時には雍州での練兵の他、洛陽に戻って農政の仕事もこなしていた。

 その場合には杜預が同行しているのだが、息子と言う事もあって鄧忠も一緒に都に来る事も多かったのは事実である。

「母上は知っていますよ?」

「……いつの間に?」

 しかし、幼い頃から教育係も行っていた杜預すら、その事を知らなかったらしい。

「元凱には隠していたんだ。絶対からかわれるから」

「そんな訳ないだろう。まずは見てからだ。呼べ、今すぐ呼べ」

「嫌だ!」

 鄧忠がはっきり答えるのに対し、杜預が素早く鄧忠の両頬を摘む。

「ほう、忠。いつの間にか随分偉くなったじゃないか? この俺にそんな口がきける様になったとは」

 杜預は笑いながら言うが、両頬をつねる力はかなり強い。

「い、いやいやいや、これには訳があって、ありまして」

「おう、聞いてやるから話してみろ」

「手を放してもらいますか?」

「いいから話してみろ。聞いてやるから」

 杜預は手を放そうとしない。

「これには奥方様のご意見もあるんです」

 鄧忠の言う奥方様と言うのは、杜預の妻である司馬氏の事である。

「は? 何で?」

「夜に、母上や奥方様から説明してもらいます! それで良いですか?」

「よし、許してやろう」

 杜預はそう言うと手を放す。

「ちくしょう、覚えてろよ!」

「あ? まだ足りないのか?」

 杜預が動こうとすると、鄧忠は素早く逃げて行く。

「……悪いね、ウチの息子が迷惑をかけて」

「いえいえ、子供の頃から知ってますから」

 鄧艾が苦笑いするのに、杜預は朗らかに笑う。

「しかし忠が嫁をもらうんですか。まぁ、確かに悪くないでしょうね」

「私は驚きですよ」

「驚いているのは俺も一緒です。あいつ、雍州で練兵とかしてたじゃないですか。ウチの妻も一枚噛んでるって事は、その嫁は都の女性と言う事でしょう? 本当にいつの間にって感じです」

 鄧艾は極めて多忙と言う事もあって、育児は妻の媛に任せきりだったのだが、その媛も鄧艾の母や杜預に押し付けていたところもある。

 そんな訳で、と言う事でもないのだが、鄧忠に関しては父親である鄧艾より杜預の方が詳しいくらいだった。

 が、今回の事はその杜預ですら知らなかったらしい。

 職務が終わって都にある鄧艾の家に帰ると、そこには既に数人の来客があった。

「あ、士載、おかえりー。先に始めてるわよー」

 数ヶ月ぶりの帰宅なのだが、媛は相変わらずである。

 媛の変わらない態度は、この時代の価値観で言うのであれば失礼極まりないのだが、鄧艾には有難かった。

 いつ戻っても、いつもと変わらない日常に戻れるのは、戦の事を忘れる事が出来た。

「お久しぶりです。お邪魔させていただいてます」

 媛と違って、丁寧に挨拶する人物が二人。

 一人は杜預の妻である司馬氏、もう一人は羊祜だった。

 羊祜は復職した後に下位の政務官に任じられたまま、まだ出世していない。

 羊祜の能力で言えばこの様な下位の政官に置く意味も理由も無く、それ相応の地位につけるべきだと鄧艾は思うのだが、どうやら羊祜の出世を止めている人物がいるらしい。

「士季ですよ」

「まあまあ。私は今の職務も気に入ってますから」

 杜預が苦り切った表情なのに対し、当事者である羊祜はさほど気にした様子は無い。

「叔子を遊ばせるのは考えものよねー」

 媛は杜預の意見に賛成らしい。

「士季はちょっと性格がアレですからねー」

 司馬氏もどうやら鍾会に良い感情は持っていないらしい。

 今の魏での出世頭と言えば、間違いなく鍾会である。

 元々極めて優秀であった事は間違いなく、かつては対呉戦略を司馬懿から課された人物の一人だった。

 後の二人である羊祜と杜預だが、鍾会からすると自身の対抗勢力となると警戒しているのだろう。

 特に二人は司馬一族に連なると言う強力な後ろ盾がある為、出世の道に乗ればそこからは早いのは鍾会でなくても分かる事である。

「ところで叔子まで来ていると言う事は、忠の嫁取りにお前も噛んでるのか?」

 杜預の質問に、羊祜は首を傾げる。

「はい? 私は両奥方様からお呼びいただいたので、のこのこと顔を出させてもらったのですが」

「ありゃ? 忠の事、バレてる?」

 媛が首を傾げている。

「忠の方から宣言しに来ましたよ?」

「あー、それで隠れてるのか。呼んでくるわね」

「あ、お姉さま、私が行きますー」

「お姉さま違うから」

 このやり取り、まだやってたんだな。

 鄧艾は媛と司馬氏を見て思う。

「本当は陳泰将軍もお呼びしたのですが、何分ご多忙との事で」

 羊祜がそう言うと、鄧艾も頷く。

 陳泰も一軍の将軍でありながら、内勤においても非常に重要な人物である。

「まぁ、建前は、ですが」

 と、羊祜は小声で付け足す。

 なるほど、そう言う事か。

 鄧艾もその一言で全てを察した。

 最近では都でも物騒な噂が流れている。

 皇帝である曹髦と、大将軍である司馬昭の間に亀裂があると言う噂だった。

 あくまでも噂だと鄧艾などは信じていたかったのだが、あの秘密主義の司馬昭はそれでなくても疑われる行動が多い。

 その上皇帝の曹髦も若く血気盛んであり、とにかくせっかちなところがあると司馬望が言っていた。

 以前司馬望が皇帝の側仕えも兼ねていた時には、司馬望は城から離れたところに住んでいたらしいが、呼んだ時にすぐに来れるようにと言う事で曹髦から専用の馬車と従者まで与えられていた事があった。

 知恵者でありながら豪放磊落なところもあった司馬師であればともかく、司馬昭ではいずれ大きな問題になるかもしれないと司馬望は心配していたし、羊祜も復職する時にそんな不安を抱いていた。

 鄧艾も今では雍州軍の副司令であり、司馬望や杜預といった司馬一族に連なる者とも近しい立場である。

 そんな中に下位の職である羊祜はともかく、要職にある陳泰がやって来たのであれば無用の誤解の種を与えるだけになる。

 陳泰はその事を考えて、今日のところは遠慮したのだ。

「……つまり、そんな事にまで気を使わなければならない様な事態、と言う事ですね?」

 鄧艾の質問に、羊祜は頷く。

 現在の羊祜は小間使い的な立場であるとは言え、今は亡き司馬師の義理の弟である。

 いかに現在の出世頭とは言え、鍾会が勝手に何か出来ると言う人物ではない。

 しかし、それ以外の力を持たないと言う事で羊祜への警戒は、陳泰ほどではない事もあって行動は多少自由である。

 今の魏はそう言う状態なのだ。

「嵐が来る、か」

「おそらくは」

 鄧艾の言葉に、羊祜は小さく頷く。

 本来であれば皇帝である曹髦に対して、大将軍である司馬昭は服従するしかないのだが、今の司馬昭には皇帝を凌ぐ権威がある。

 問題が起きた時、嫌でも選ばなければならないのだ。

 形だけの大義を貫いて皇帝である曹髦につくか、実利だけをとって司馬昭につくか。

 間違いなく先に動くのは曹髦だと、鄧艾は考えている。

 司馬昭は曹髦の激発を誘うだけで、自分から動く事は無い。

 それくらいの事は、司馬昭なら確実に出来る。

 若く血気盛んな曹髦は、そんな状況を長く耐えられないだろう。

 だが、この策は必ずしも万能ではない。

 もし曹髦がここを耐え凌げば、司馬昭の非道は人心を失う事になる。

 何しろ曹芳の時と違って、曹髦には責めるべき落ち度がない。

 そうなると真っ先に行動するのは、司馬家の重鎮であり軍に強い影響のある司馬孚だろう。

 そこまでくれば、苦境の曹髦は一気に形勢逆転して司馬昭は失脚する可能性が出てくるほど危険を孕んでいる。

「もし陛下に意見を伝える事が出来れば、くれぐれも軽挙せずに耐えてください、と言うくらいでしょうね。念の為、司馬望将軍にも司馬孚様に書状を送っていただきましょう。手元に渡るかどうかは分からないですが」

 鄧艾の言葉に、杜預も羊祜も頷く。

「お待たせー。今日の主役連れてきたよー」

 こちらで話している事の内容を知らない媛は、明るい声で言うと鄧忠とその妻候補と思われる少女が連れてこられる。

 媛や司馬氏が絡んでいると言う事なので、同じ様な天真爛漫な少女かと思っていたのだが、慎ましやかと言うか、媛や司馬氏に完全に呑まれて緊張しているのが一目で分かる。

 いかにも育ちが良さそうな色白でふくよかな少女だが、今は緊張しているせいか攫われてきた令嬢と言う雰囲気である。

「彼女を嫁にする事にしました!」

「うん、まぁ、それについては反対するつもりも無いのだが、どこのお嬢さんだい?」

「私の遠縁に当たる子ですー」

 鄧艾の質問に答えたのは、司馬氏だった。

「と、言う事は司馬一族の?」

「あ、遠縁なので司馬一族と言う訳ではないんですよー。でも、気立てがよくて、とっても良い子ですー」

 司馬氏はそう言うが、言われている当人は今にも卒倒しそうである。

「……これ、人身売買とかじゃないだろうな」

「失礼な事言わないで下さいー。今となっては鄧艾将軍は、魏でも随一の名将と言われているんですよー? だったら、その息子の嫁と言うのも引く手数多なので、変な子に捕まるよりはとお姉さまからも言われて見つけてきたんですー」

 鄧艾も考えていた事を杜預も感じていたらしいが、司馬氏がむくれて反論する。

「ま、司馬家のお墨付きなら問題ないでしょ?」

 媛の方も軽く言っているが、媛はさほどそう言う権威と言うものを重視していない。

 その上でそう言うのだから、媛もこの少女の事が気に入っているのだろう。

 しかし、司馬家でも本家筋と言える司馬氏からの言葉であれば、なかなか断れるモノではないだろう、と鄧艾は思う。

「実はすでに子もいます」

 鄧忠の言葉に、鄧忠とその妻になる少女以外の全員が彼の方を見る。

「……いつの間に」

 それは媛も知らなかったらしく、驚いている。

「これは、私から反対するつもりは無かったのだが、そちらはそれで良いのですか? ちょっと今更な感じは否めませんが」

 鄧艾の質問に、少女は遠慮がちに頷く。

「叔子さんのところの奥様も連れてくれば良かったのにー」

 司馬氏がにこやかに言う。

「いえ、ウチは多少事情がありますので、姉のところに預けてあります」

 羊祜の妻は夏侯覇の娘と言う事もあり、その事も羊祜を攻撃する材料となっていた。

 しかし夏侯一族は今尚皇族の一員でもある事から、いかに蜀に亡命した武将の娘であると言ってもいきなり罪に問われる様な事にはなっていない。

 それはもちろん羊祜の姉が司馬師の妻だった事も関係しているが、実際に羊祜が妻を娶ったのは夏侯覇亡命より前の事であった事も、彼女を救った一因でもある。

「あ、ごめんなさいねー」

「いえ、それより今日は若い二人の門出を祝う席。その事を祝福しましょう」

 羊祜はまったく気を悪くした様子も無く、鄧忠やその妻の少女に席を進める。

「これで母上も祖母になる訳ですね!」

「……そっかぁ。そうなるのかぁ。まったくいつの間に」

 鄧忠は楽しそうに言うが、媛は複雑な表情を浮かべていた。

「お姉さま、いつまでもお若くて美しいですわよー?」

「お姉さま違うから」

 媛はあくまでもそこは認めないらしい。

「そういえば士載、今回物凄く苦戦したらしいわね」

 食事が進んでいく中で、媛が切り出してくる。

「苦戦しました。負けるかと思いました」

「あのね、士載。そりゃ蜀の姜維は手強いって事は、戦に出ない私たちでさえ知ってるわ。でも、士載。あなたは負けてはダメなのよ?」

 媛がらしくない事を言い始めたので、全員が彼女の言葉に耳を傾ける。

「もしあなたが負けてしまったら、ここにいる女性陣は全員未亡人になるんだからね」

「肝に銘じます」

「でも、ただ戦で勝つだけなら、敵にも同じ未亡人を作るのよね。出来ればその事も頭に入れておいて」

 媛は何気なく言ったのだが、それは戦略として理想的な事でありながら智将であればそれを目指さない者はいない勝ち方だろう。

 負ける訳にはいかないが、ただ勝つだけでは恨みを残す、か。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

昆陽伝

畑山
歴史・時代
青木昆陽の物語

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

処理中です...