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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は
第五話 二五七年 崩壊の兆し
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ここからは膠着状態になったのだが、それは寿春の城の守りの硬さもさる事ながら魏軍が無理に攻める事をせず、包囲を厚くしていると言うのがもっとも大きな原因だと言えた。
それによって、一戦にて魏軍を蹴散らすと言うのも難しくなった事もあり、孫綝の機嫌もみるみる悪くなっていった。
安豊の兵権は朱異亡き後、本来であれば全端に任せられるはずだったのだが、魏軍も安豊との連携を取らせるつもりはないらしく完全に分断されてしまっているので、寿春の城に入った全端達は戻ってこれなくなってしまったのである。
そこで、朱異の兵も含めて全端の子である全禕に預けられる事となった。
全禕も将来を有望とされる期待の若手ではあり、やはり皇族の一員と言う事もあって一時的とは言え預けられる他の候補がいなかったと言う事もある。
そんな時、突然孫綝が本国に戻ると言い出した。
「何やら内乱の兆しがあるらしい。全禕、儂が戻るまでに寿春を解放出来ぬ時には、お前ら親子に責任を取らすぞ。皇族とは言え、軍規は絶対である事を忘れるな!」
孫綝は安豊を離れる時にそんな脅し文句をつけていったが、その数日後に理由も分かった。
本国に残っていた兄弟である全儀が、安豊へ逃げ込んできたのである。
「どうした? 何事だ?」
「分かりません。突然反乱の嫌疑をかけられたのです。おそらく近いうちに兄上にもあらぬ嫌疑を掛けられ、おそらくは死罪となると思われます。兄上、呉はもうダメです。密告と讒言が信用され、もはや腐敗を止める事は出来ません。こうなっては魏に亡命する他ありません」
「魏に?」
「孫綝に睨まれては、呉に居場所はありません。もはや罪状なども必要無いのです。いえ、むしろ陛下に厚遇して頂いている全家は、孫綝にとって目障りなのです。事実無根の内乱の噂も、ひょっとすると孫綝は最初からそのつもりだったのかも知れません」
「……いや、おそらく踊らされているだけだ」
「兄上?」
眉を寄せ険しい表情の全禕に、全儀は首を傾げる。
「とは言え、もはや選択肢も無い、か。止むを得ん。兵も置いていく。この身一つで落ち延びるしかない」
一応この安豊には他に唐咨もいるのだから、全禕がいなくなったからと言ってすぐに魏に奪われると言う事は無い。
むしろ、孫綝が戻ってきた時にどうかと言うところだ。
悩む時間もほどほどに、全禕と全儀の兄弟は身一つで魏の本陣へ向かう。
途中で石苞の部隊に捕捉され、二人は逃げようとせずに捉えられ、そのまま本陣へと連れて行かれる事となった。
「事情はおわかりでしょう?」
捕縛され司馬昭の元に引き出された全禕は開口一番で、敢えて挑戦的に言う。
「さすが、呉きっての智将の息子だ。全てお見通しと言う訳か」
司馬昭は楽しそうに笑うと、全禕と全儀の兄弟の拘束を解く様に指示する。
「では、期待されている事も分かっていると言う事でしょう」
司馬昭の傍らに控える鍾会が、含みのある笑みを浮かべて全禕を見る。
「無論。すぐにでも動けます。兵も必要ありません。紙と筆、弓矢と馬を用意してもらえれば、ご期待に添いましょう」
「話が早いのは助かるが、他の者は何の話なのか分かっていない様でな。出来ればそちらから説明してもらえるか? そうすればこちらもそちらの事を信用出来ると言うものだ」
「離間の計でしょう。これほど見え見えの手に踊らされると言う事は、それだけ閣下と孫綝には差があると言う事。我ら全一族が孫亮陛下に歯向かう理由などないと言うのに内乱を企てると言う誤報一つで、喜び勇んで戦場を放棄する。実際に大将軍が動いた以上、全一族は呉では終わりです。私たちが生き延びるには魏を頼る他無く、その旨、寿春の父に知らせてやりたいのです」
「見事。孫綝如きではなく、そなたら全一族が大将軍として軍権を掌握していれば、この戦、さらなる苦戦を強いられていた事だろう。よし、全禕よ。希望するものを言うがいい。全て用意しよう」
「先ほど伝えた通り、一篇の矢文で全て事足ります。ですが、閣下。一つだけお願いしたい事がございます」
「うむ。なんなりと申してみよ」
「離間の計が成功したあかつきには、我ら全一族は魏にとって不要な一族。であるが故に、この戦が済んでしまえばもはや用済みと相成りましょう。涙を飲んで祖国を捨てた我が一族をお見捨てなきよう、今後魏で重用してくださる事をお願い致します」
「その様な事……」
「その言や良し!」
司馬昭の言葉を遮る様な少年の言葉が響くと、すでに休んでいたはずの皇帝、曹髦がやって来た。
が、全禕と全儀はその正体を知らない為、眉をひそめる。
「呉の将よ、よくぞ申した。口約束に過ぎぬかも知れぬが、そちの希望、朕が確約しようぞ」
「朕? ま、まさか、皇帝陛下?」
「ほう? 呉では朕とは皇帝以外も使う事が許されておるのか?」
「い、いえ! 大変失礼致しました!」
全禕と全儀も慌てて平服するのを、曹髦は助け起こす。
「聞けばそなたらは呉の皇族と言うではないか。朕は皇帝とは言えまだ未熟者である。戦が終わったら、是非呉の話を聞かせて欲しい。そなたらの父君も一緒にな」
「御意!」
思いもよらない言葉に、全禕は心服していた。
一方の寿春城は、守る兵力は充分なのだが中の雰囲気はとてもではないが一緒に戦う者達が集う場所とは言えなかった。
援軍である呉軍の度重なる敗戦や、動かないと思われていた司馬昭が動いた事によって裏をかかれた事などから、諸葛誕が不必要なほど強く呉軍を詰ったのである。
元々不仲な文欽がそれに対して激怒し、あわや一触即発と言う事態になったところを于詮と全端で止める事には成功した。
が、それによって生じた亀裂は深刻であり、今にも諸葛誕に襲い掛かりそうな文欽は于詮に任せて、全端は城壁の見回りに出た。
夜襲こそかけてこないものの、魏軍の包囲は厚く強固なものであり、そう簡単に破れそうなものではない。
それでも何かしらの手を打つのであれば、それは必ず南からだと全端は考えていた。
魏軍内部にこの寿春と同じ様な亀裂が生じていれば理想的だが、さすがにそれを期待するのは無理があるのだから呉軍の動きこそが重要になってくる。
この時すでに朱異は切られているのだが、その事をしらない全端は上手く逃げ延びた朱異が必ず何かしらの手を打ってくると信じていたのである。
だが、全端が現状を知ったのはまったく予想外の方法であった。
諸葛誕ともめていると言う事もあって、呉軍は外周の見張りを任じられているのだが、兵の一人が全端の元に矢文を持ってきたのである。
それは全禕からの連絡であり、敗戦の責任を取らせると言う事で朱異が孫綝から切られた事、さらに本国に残していた一族に内乱の疑いをかけられた事、それを知らせに来た弟の全儀と共に魏に降る事になった事なども記してあった。
「……まさか、呉はここまで堕ちていたとは」
「将軍?」
「私の兵を集めよ。私は魏に降る事にする」
「魏に? よろしいのですか?」
「止むを得んのだ。于詮、文欽に知らせる間も無い。それに二人を不忠の道へ進める事にも成りかねない。兵でも私の意向に従えぬ者には強制はしない。それで良しとする者のみで行動する」
「分かりました」
矢文を届けた兵は全端に従う者であり、南門周辺の呉の兵のうち二千ほどが全端に従う事になった。
全端はすぐに南門を開けて寿春城を出ようとしたが、いかに外周を守るのが呉の将兵であったとしても全てを呉軍に任せている訳ではなく、また門を開けるにしてもまったく無音でとはいかない。
「何をやっている!」
それを見つけたのは、諸葛誕の配下武将である焦彝だった。
「すまぬ。だが、一族の危機ゆえにこの全端、不忠と謗られようと魏に降る事とする。悪く思わないでくれ」
「何を馬鹿な事を! 今すぐ門を閉めよ! なんのつもりだ!」
焦彝は咎めるが、全端は説得を諦めて南門から兵と共に出て行く。
「何だ? 何事だ?」
騒ぎを聞きつけた蒋班と言う武将もやって来る。
「蒋班! 魏軍の内通者だ! 捉えよ!」
焦彝と蒋班は急いで全端を追ったが、そこにはすでに胡奮と胡烈の兄弟の軍が待ち構えていた。
全端の部隊と合流を果たすと、胡奮と胡烈は寿春城になだれ込もうとする動きを見せたので、焦彝と蒋班は全端を追う事を断念して南門を閉じる事にする。
「この戦、すでに決した! 降るのであれば早い方が良いぞ!」
城門が閉じられる寸前に、全端が二将に向かって言うのが聞こえた。
もちろん焦彝と蒋班は諸葛誕の元に報告すると、諸葛誕は于詮と文欽を呼び出すと烈火の如く怒り喚き散らした。
于詮にしても文欽にしても、全端が魏に降る事などまったくの寝耳に水であり、むしろ誤報ではないかと思うくらいだった。
「諸葛誕将軍、全端の行動は単独による者。于詮、文欽の両将軍にはまったく無関係な事。不忠は全端のみです」
あまりに聞くに耐えない罵声に、蒋班が間に入って諸葛誕を諌める。
「いずれにしても、呉の者共は信用に値しない事は証明されたではないか! 戦って勝てず、まして簡単に敵に寝返るとは! 援軍が聞いて呆れる! お前達は何のために戦場へ来たと言うのだ!」
短気で不仲な文欽は今にも切りかからんばかりであり、于詮にしても文欽を止めるのも限界に感じている様だった。
それでも諸葛誕は怒りが収まらず、呉軍を守備から外すと言い出した。
「……それならばいっその事、国に帰してはいかがですか? 戦力外として扱うのであれば、その方が良いと思うのですが」
「ならん! この場に留めておくのであればただの無駄飯食いで済むが、国に帰すと言っても、この不忠不義の連中は魏に協力してこの城と戦利品を奪いに来るつもりだ!」
「そんな事があるか!」
「将軍、いくらなんでも言葉が過ぎるのでは?」
感情的であった文欽だけでなく、于詮までも諸葛誕に険しい表情を向ける。
「その戦意、少しは敵に向けてはどうだ!」
諸葛誕はまったく相手にせずにそう言う。
こうして寿春の城内はさらに雰囲気が悪くなった中で、防戦を続ける事となった。
「将軍、このままでは守るにも支障をきたします。かくなる上は、野戦にて決戦を挑むべきでは?」
余りにも城内の雰囲気が険悪になり過ぎている事もあり、焦彝は諸葛誕に提案する。
「案ずるな。この淮南の川は昔からこの時期になると水かさを増し、氾濫する。そうすれば魏の大軍といえど魚にでもならぬ限り被害は甚大。戦わずして勝てるものを、無理に犠牲を出す必要などない」
「もし増水しない場合にはいかがいたします? 戦意は低く、物資にも不安を抱えているとなればいかに堅城とは言え寿春の城とて持ちません」
「将軍、焦彝の言う事にも一理あります。ここは雌雄を決する決戦の時」
焦彝の言葉に蒋班も同調するが、諸葛誕は二人を睨む。
「この僕が必勝の策があると言っているのに、君達はわざわざその必勝を捨てて城を出て戦えと言うのか? 確か君達は全端が寝返るのを見逃していたが、その時に何か密約でもあったのか?」
諸葛誕にそう言われ、焦彝と蒋班は黙って従う事にする。
「もはや勝敗は決した。あの夜、全端の言った事は正しかったのだ。諸葛誕将軍は変わってしまった」
「確かに。以前は部下の言葉にも耳を傾けて下さる御方だったのだが、この戦を始める少し前辺りから人の話もまともに聞こうとしなくなっていた」
二人にとっても諸葛誕は拾い上げてくれた恩人でもあるのだが、すでに不信感を持たれてしまった以上、今の諸葛誕では栄達も望めなくなってしまった。
「……全端の言った事は正しかった、か。かくなる上は、その全端を見習うしかあるまい」
こうして呉からの援軍であった全端だけでなく、元からの諸葛誕軍の武将からまでも離脱者が出る事になり、その日から寿春城からの脱走兵は増加し続ける事となった。
それによって、一戦にて魏軍を蹴散らすと言うのも難しくなった事もあり、孫綝の機嫌もみるみる悪くなっていった。
安豊の兵権は朱異亡き後、本来であれば全端に任せられるはずだったのだが、魏軍も安豊との連携を取らせるつもりはないらしく完全に分断されてしまっているので、寿春の城に入った全端達は戻ってこれなくなってしまったのである。
そこで、朱異の兵も含めて全端の子である全禕に預けられる事となった。
全禕も将来を有望とされる期待の若手ではあり、やはり皇族の一員と言う事もあって一時的とは言え預けられる他の候補がいなかったと言う事もある。
そんな時、突然孫綝が本国に戻ると言い出した。
「何やら内乱の兆しがあるらしい。全禕、儂が戻るまでに寿春を解放出来ぬ時には、お前ら親子に責任を取らすぞ。皇族とは言え、軍規は絶対である事を忘れるな!」
孫綝は安豊を離れる時にそんな脅し文句をつけていったが、その数日後に理由も分かった。
本国に残っていた兄弟である全儀が、安豊へ逃げ込んできたのである。
「どうした? 何事だ?」
「分かりません。突然反乱の嫌疑をかけられたのです。おそらく近いうちに兄上にもあらぬ嫌疑を掛けられ、おそらくは死罪となると思われます。兄上、呉はもうダメです。密告と讒言が信用され、もはや腐敗を止める事は出来ません。こうなっては魏に亡命する他ありません」
「魏に?」
「孫綝に睨まれては、呉に居場所はありません。もはや罪状なども必要無いのです。いえ、むしろ陛下に厚遇して頂いている全家は、孫綝にとって目障りなのです。事実無根の内乱の噂も、ひょっとすると孫綝は最初からそのつもりだったのかも知れません」
「……いや、おそらく踊らされているだけだ」
「兄上?」
眉を寄せ険しい表情の全禕に、全儀は首を傾げる。
「とは言え、もはや選択肢も無い、か。止むを得ん。兵も置いていく。この身一つで落ち延びるしかない」
一応この安豊には他に唐咨もいるのだから、全禕がいなくなったからと言ってすぐに魏に奪われると言う事は無い。
むしろ、孫綝が戻ってきた時にどうかと言うところだ。
悩む時間もほどほどに、全禕と全儀の兄弟は身一つで魏の本陣へ向かう。
途中で石苞の部隊に捕捉され、二人は逃げようとせずに捉えられ、そのまま本陣へと連れて行かれる事となった。
「事情はおわかりでしょう?」
捕縛され司馬昭の元に引き出された全禕は開口一番で、敢えて挑戦的に言う。
「さすが、呉きっての智将の息子だ。全てお見通しと言う訳か」
司馬昭は楽しそうに笑うと、全禕と全儀の兄弟の拘束を解く様に指示する。
「では、期待されている事も分かっていると言う事でしょう」
司馬昭の傍らに控える鍾会が、含みのある笑みを浮かべて全禕を見る。
「無論。すぐにでも動けます。兵も必要ありません。紙と筆、弓矢と馬を用意してもらえれば、ご期待に添いましょう」
「話が早いのは助かるが、他の者は何の話なのか分かっていない様でな。出来ればそちらから説明してもらえるか? そうすればこちらもそちらの事を信用出来ると言うものだ」
「離間の計でしょう。これほど見え見えの手に踊らされると言う事は、それだけ閣下と孫綝には差があると言う事。我ら全一族が孫亮陛下に歯向かう理由などないと言うのに内乱を企てると言う誤報一つで、喜び勇んで戦場を放棄する。実際に大将軍が動いた以上、全一族は呉では終わりです。私たちが生き延びるには魏を頼る他無く、その旨、寿春の父に知らせてやりたいのです」
「見事。孫綝如きではなく、そなたら全一族が大将軍として軍権を掌握していれば、この戦、さらなる苦戦を強いられていた事だろう。よし、全禕よ。希望するものを言うがいい。全て用意しよう」
「先ほど伝えた通り、一篇の矢文で全て事足ります。ですが、閣下。一つだけお願いしたい事がございます」
「うむ。なんなりと申してみよ」
「離間の計が成功したあかつきには、我ら全一族は魏にとって不要な一族。であるが故に、この戦が済んでしまえばもはや用済みと相成りましょう。涙を飲んで祖国を捨てた我が一族をお見捨てなきよう、今後魏で重用してくださる事をお願い致します」
「その様な事……」
「その言や良し!」
司馬昭の言葉を遮る様な少年の言葉が響くと、すでに休んでいたはずの皇帝、曹髦がやって来た。
が、全禕と全儀はその正体を知らない為、眉をひそめる。
「呉の将よ、よくぞ申した。口約束に過ぎぬかも知れぬが、そちの希望、朕が確約しようぞ」
「朕? ま、まさか、皇帝陛下?」
「ほう? 呉では朕とは皇帝以外も使う事が許されておるのか?」
「い、いえ! 大変失礼致しました!」
全禕と全儀も慌てて平服するのを、曹髦は助け起こす。
「聞けばそなたらは呉の皇族と言うではないか。朕は皇帝とは言えまだ未熟者である。戦が終わったら、是非呉の話を聞かせて欲しい。そなたらの父君も一緒にな」
「御意!」
思いもよらない言葉に、全禕は心服していた。
一方の寿春城は、守る兵力は充分なのだが中の雰囲気はとてもではないが一緒に戦う者達が集う場所とは言えなかった。
援軍である呉軍の度重なる敗戦や、動かないと思われていた司馬昭が動いた事によって裏をかかれた事などから、諸葛誕が不必要なほど強く呉軍を詰ったのである。
元々不仲な文欽がそれに対して激怒し、あわや一触即発と言う事態になったところを于詮と全端で止める事には成功した。
が、それによって生じた亀裂は深刻であり、今にも諸葛誕に襲い掛かりそうな文欽は于詮に任せて、全端は城壁の見回りに出た。
夜襲こそかけてこないものの、魏軍の包囲は厚く強固なものであり、そう簡単に破れそうなものではない。
それでも何かしらの手を打つのであれば、それは必ず南からだと全端は考えていた。
魏軍内部にこの寿春と同じ様な亀裂が生じていれば理想的だが、さすがにそれを期待するのは無理があるのだから呉軍の動きこそが重要になってくる。
この時すでに朱異は切られているのだが、その事をしらない全端は上手く逃げ延びた朱異が必ず何かしらの手を打ってくると信じていたのである。
だが、全端が現状を知ったのはまったく予想外の方法であった。
諸葛誕ともめていると言う事もあって、呉軍は外周の見張りを任じられているのだが、兵の一人が全端の元に矢文を持ってきたのである。
それは全禕からの連絡であり、敗戦の責任を取らせると言う事で朱異が孫綝から切られた事、さらに本国に残していた一族に内乱の疑いをかけられた事、それを知らせに来た弟の全儀と共に魏に降る事になった事なども記してあった。
「……まさか、呉はここまで堕ちていたとは」
「将軍?」
「私の兵を集めよ。私は魏に降る事にする」
「魏に? よろしいのですか?」
「止むを得んのだ。于詮、文欽に知らせる間も無い。それに二人を不忠の道へ進める事にも成りかねない。兵でも私の意向に従えぬ者には強制はしない。それで良しとする者のみで行動する」
「分かりました」
矢文を届けた兵は全端に従う者であり、南門周辺の呉の兵のうち二千ほどが全端に従う事になった。
全端はすぐに南門を開けて寿春城を出ようとしたが、いかに外周を守るのが呉の将兵であったとしても全てを呉軍に任せている訳ではなく、また門を開けるにしてもまったく無音でとはいかない。
「何をやっている!」
それを見つけたのは、諸葛誕の配下武将である焦彝だった。
「すまぬ。だが、一族の危機ゆえにこの全端、不忠と謗られようと魏に降る事とする。悪く思わないでくれ」
「何を馬鹿な事を! 今すぐ門を閉めよ! なんのつもりだ!」
焦彝は咎めるが、全端は説得を諦めて南門から兵と共に出て行く。
「何だ? 何事だ?」
騒ぎを聞きつけた蒋班と言う武将もやって来る。
「蒋班! 魏軍の内通者だ! 捉えよ!」
焦彝と蒋班は急いで全端を追ったが、そこにはすでに胡奮と胡烈の兄弟の軍が待ち構えていた。
全端の部隊と合流を果たすと、胡奮と胡烈は寿春城になだれ込もうとする動きを見せたので、焦彝と蒋班は全端を追う事を断念して南門を閉じる事にする。
「この戦、すでに決した! 降るのであれば早い方が良いぞ!」
城門が閉じられる寸前に、全端が二将に向かって言うのが聞こえた。
もちろん焦彝と蒋班は諸葛誕の元に報告すると、諸葛誕は于詮と文欽を呼び出すと烈火の如く怒り喚き散らした。
于詮にしても文欽にしても、全端が魏に降る事などまったくの寝耳に水であり、むしろ誤報ではないかと思うくらいだった。
「諸葛誕将軍、全端の行動は単独による者。于詮、文欽の両将軍にはまったく無関係な事。不忠は全端のみです」
あまりに聞くに耐えない罵声に、蒋班が間に入って諸葛誕を諌める。
「いずれにしても、呉の者共は信用に値しない事は証明されたではないか! 戦って勝てず、まして簡単に敵に寝返るとは! 援軍が聞いて呆れる! お前達は何のために戦場へ来たと言うのだ!」
短気で不仲な文欽は今にも切りかからんばかりであり、于詮にしても文欽を止めるのも限界に感じている様だった。
それでも諸葛誕は怒りが収まらず、呉軍を守備から外すと言い出した。
「……それならばいっその事、国に帰してはいかがですか? 戦力外として扱うのであれば、その方が良いと思うのですが」
「ならん! この場に留めておくのであればただの無駄飯食いで済むが、国に帰すと言っても、この不忠不義の連中は魏に協力してこの城と戦利品を奪いに来るつもりだ!」
「そんな事があるか!」
「将軍、いくらなんでも言葉が過ぎるのでは?」
感情的であった文欽だけでなく、于詮までも諸葛誕に険しい表情を向ける。
「その戦意、少しは敵に向けてはどうだ!」
諸葛誕はまったく相手にせずにそう言う。
こうして寿春の城内はさらに雰囲気が悪くなった中で、防戦を続ける事となった。
「将軍、このままでは守るにも支障をきたします。かくなる上は、野戦にて決戦を挑むべきでは?」
余りにも城内の雰囲気が険悪になり過ぎている事もあり、焦彝は諸葛誕に提案する。
「案ずるな。この淮南の川は昔からこの時期になると水かさを増し、氾濫する。そうすれば魏の大軍といえど魚にでもならぬ限り被害は甚大。戦わずして勝てるものを、無理に犠牲を出す必要などない」
「もし増水しない場合にはいかがいたします? 戦意は低く、物資にも不安を抱えているとなればいかに堅城とは言え寿春の城とて持ちません」
「将軍、焦彝の言う事にも一理あります。ここは雌雄を決する決戦の時」
焦彝の言葉に蒋班も同調するが、諸葛誕は二人を睨む。
「この僕が必勝の策があると言っているのに、君達はわざわざその必勝を捨てて城を出て戦えと言うのか? 確か君達は全端が寝返るのを見逃していたが、その時に何か密約でもあったのか?」
諸葛誕にそう言われ、焦彝と蒋班は黙って従う事にする。
「もはや勝敗は決した。あの夜、全端の言った事は正しかったのだ。諸葛誕将軍は変わってしまった」
「確かに。以前は部下の言葉にも耳を傾けて下さる御方だったのだが、この戦を始める少し前辺りから人の話もまともに聞こうとしなくなっていた」
二人にとっても諸葛誕は拾い上げてくれた恩人でもあるのだが、すでに不信感を持たれてしまった以上、今の諸葛誕では栄達も望めなくなってしまった。
「……全端の言った事は正しかった、か。かくなる上は、その全端を見習うしかあるまい」
こうして呉からの援軍であった全端だけでなく、元からの諸葛誕軍の武将からまでも離脱者が出る事になり、その日から寿春城からの脱走兵は増加し続ける事となった。
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歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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