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第二章 血と粛清の嵐の中で

第二十六話 二五五年 狄道の戦い 後編

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「王経か。昔、曹爽大将軍が高く評価していたが、その時にはその評価に値するか疑問だった。だが、中々どうして優秀な男だ。この状況で城を守ると言うのは、そこまで簡単な話ではない」

 夏侯覇は狄道城を堅守する王経を褒める。

「姜維将軍。ここは何か手を変える時ではないか?」

「それに関しては、もうすぐ私の考えを代弁してくれる将軍が来ますよ」

 冴えない表情で姜維は答えるが、夏侯覇には何の事かわかりにくい返答だった。

 少なくともここまでは蜀軍の、姜維の策が的中して圧倒的優位に戦が進んでいる。

 遭遇戦にて大損害を被った王経が逃げ込んだ狄道城は、確かに守るには適した城であった。

 しかし、敗れた後に逃げ込んだとあっては士気は低下して、いかに堅城と言えども兵が動かず、場合によっては内側から崩壊するものだが狄道城にその気配は無い。

 そう言う意味では敵である王経はよく踏ん張っていると言えるのだが、それで蜀の優位が覆るはずもなかった。

 唯一の逆転の手である魏本国からの援軍だが、数日前に雍州方面軍の拠点に到着したとの報告はあったものの、その軍は雍州の守備に付いている。

 もちろんその判断は正しい。と言うより、常識的に考えてそれしか手がない。

 もしかしたら蜀軍を打ち破れるかもしれないが、万が一にも敗れようものならその損害は雍州だけに留まらず、守備兵のいない長安付近まで一気に蜀軍の侵攻を許す事になりかねない。

 まっとうな武将であれば、その危険は侵さない。

 もしそれでも蜀軍と戦おうと言うのであれば、それはもはや蛮勇であり、勇猛さや戦術の話ではない、ただの近視眼である。
 そう、昨日まではそうだった。

「姜維将軍、話がある!」

「ほら、来ました」

 勢いよく幕舎に怒鳴り込んできたのは、張翼だった。

「もはや一刻の猶予もならぬ! 即刻撤退すべしと進言に参りました!」

「そうですね。そうしましょう」

 あまりにもあっさりと姜維が言うので、聞いていた夏侯覇はもちろん、怒鳴り込んできた張翼もきょとんとしていた。

「……は?」

 夏侯覇がかろうじて姜維に尋ねる。

「撤退です。やむを得ないところでしょう」

「いやいやいや、理由を聞いているんだ! 何故、今、ここで撤退? 確かに予定より粘られてはいるが、圧倒的に優位なのはこちらだ! 退く理由は無いだろう?」

 夏侯覇は理解出来ないと言わんばかりに、まくし立てる。

「それについては張翼将軍から」

「何故俺が?」

「それを進言に来たんでしょう?」

 姜維に話を振られ、張翼は姜維を睨みつけてくる。

「大将軍の役割では?」

「私の思い付きで撤退を決めた訳ではないと言うのを、私以外の武将から言ってもらった方が、夏侯覇将軍も納得出来るでしょう」

 姜維にそう言われ、張翼はため息をつく。

「兵糧不足です。これ以上は空きっ腹を抱えて戦う事になりかねません。そうなっては勝利どころか帰還すら危ういのです」

「兵糧不足? 補給隊が……」

 夏侯覇は言いかけて、事態が変わった事に気づいた。

「……距離か!」

「そう言う事です」

 姜維も頷く。

「これは私の失策です。残念ながら撤退が最良でしょう」

 姜維としても、この勝利を手放すのは惜しいのだがやむを得ない。

 あまりにも上手く行き過ぎたのだ。

 当初の予定より進行が早すぎた為、補給拠点より深く進みすぎたのである。

 古関で魏の武将、王経と遭遇した時点で当初の予定より侵攻が進んでいたのだが、そこからの展開も姜維の予想していた通りだった。

 だが、問題があったとすれば王経が編成もそこそこに即戦に踏み切り、その結果勝負が短時間でついてしまった事である。

 もちろん魏軍に大損害を与えた事は十分過ぎる戦果であり、全滅させる事は出来なかったものの城に閉じ込めた事も悪い結果ではない。

 しかし、本来そこに至るはずだった期間が大幅に短縮されてしまった為に、補給部隊との連携が悪くなってしまったのである。

 姜維の今回の策は速攻が鍵となっていたので、部隊には最低限の物資しか持ち合わせていない。

「だが、あと数日で補給部隊も到着するはずだ。魏の援軍は守りについているのだから、十分ではないか?」

 夏侯覇が言う様に、物資が少なくなってきたとは言え無くなった訳ではない。

 かなりギリギリにはなるが、完全に無くなる前に補給部隊が到着すればこの一帯に確固たる足場を作る事が出来る。
 そうなった場合、次からの北伐はさらに兵力を動員する事も可能になるだろう。

「それは私も考えたのですが、この危険な状況は看過出来ません。相手が凡将であればいざ知らず、陳泰であればこの僅かな綻びに気付く恐れは十分にあります」

「陳泰、か。認めるのは癪に障るが、確かに油断ならないヤツではあるな」

 夏侯覇も頷く。

 前の戦では陳泰の奇策によって迷当大王をそそのかされた為に、羌族との連携が崩れ司馬昭を討ち取る機会を逃してしまった。

 もっとも、陳泰も若い頃から名声が高く、夏侯覇としても一目置いていた人物でもある。

 魏の法律の骨子を作り上げた陳羣を父に、魏の武帝を支えた王佐の才と讃えられた荀彧の娘を母に持つ生粋の文官の家系でありながら、卓越した戦術眼と武勇、何より将器を持ち合わせた稀有な人物である。

 姜維が警戒する様に、確かに陳泰であればこちらの物資不足も見透かしてくる事は考えられる。

 今現在物資が全くないと言う事はないが、すでに兵達もこちらの物資が不足している事は気付いているだろう。

 ここで既に大幅に数を減らしているとは言え陳泰率いる雍州方面軍との戦となれば、確実に兵糧不足になる事も兵は知っている。

 兵糧が足りない事ではなく、この先足りなくなると言う事が兵に伝わった時点で、それは深刻な物資不足と言えるのである。

 ましてここは魏国領内であり、当然蜀に帰るまで飲まず食わずと言う訳にもいかない。

「おそらく一戦には耐えられるでしょうが、それに勝ったとしても城攻めを継続する事は出来ないでしょう。下手すると補給部隊を狙われかねません。勢いに乗り過ぎた私の失策である事は認めます。皆思うところはあるでしょうが、撤退の準備を始めて下さい」

「……止むを得ん、か」

「兵糧も無い状態で敵中に孤立するよりはマシでしょう」

 悔しげな夏侯覇に対し、張翼が説得する様に言う。

 姜維としても、こんな初歩的な失敗に足元をすくわれるとは思ってもいなかった。

 あくまでも結果論でしか無いが、王経が即戦に応じたにしても、もう少し粘って敗走していれば、おそらく別動隊として挟撃を狙っていた陳泰の部隊にも打撃を与える事が出来ただろうし、そこを打ち破っていれば補給部隊も到着してから改めて城攻めに移れたはずだったのだ。

 王経が有能である事は、この状況で城を守っている事からも伺えるが、その有能さをせめてもう少し早く見せてくれていればこの地域一帯を切り取る事も出来たはずだった。

 と、言ったところで仕方がない。

 今であれば兵の士気もさほど下がっておらず、しかも魏軍に対して勝利している状態での撤退である。

 戦略的な勝利こそ得られなかったものの、損害で言えば魏軍の方が遥かに大きい。

 国力に劣る蜀とは言え、魏の回復力も無限と言う訳ではないのだから、この積み重ねは無駄にはならない。

 方針は決まったのだが、撤退も言うほど簡単な事ではなかった。

 狄道城に立て篭る王経の軍は恐らく動けないだろうが、数を減らしたとは言え陳泰率いる雍州方面軍は戦闘に耐えうるだけの数を有している。

 知勇兼備にして実績も十分な陳泰が率いるのであれば、その兵は必ずしも精鋭でなかったとしても油断ならない脅威になる。

 そして、その軍が動けば守りに付いている無傷の魏からの援軍も襲いかかってくる事になり、そうなると物資不足の蜀軍に勝目はない。

「さて、では撤退の方法としてはどうしますか? 今すぐ撤収作業に掛かって即座に撤退しますか?」

「さすがにそれは拙い。そこまで露骨に撤退したのでは、逆に魏の総攻撃を呼びかねない。何らかの策を用いなければ逃げる背を討たれる事になる」

 夏侯覇はそう言って反対したが、撤退を提案する張翼すらそれには頷いていた。

 もちろん姜維も即時撤退を実行しようと思っていた訳ではない。

 兵は神速を尊ぶと言うが、その露骨な撤退ぶりは神速どころかただ慌てているだけで、とても神速と呼べる代物ではなかった。

 今回のような場合に有効なのは、そもそも撤退を匂わせない事である。

 実際に今現在だけで言うのなら、優位は蜀軍にある。

 ただ、このまま戦い続けるのが得策ではないと言うだけで、戦おうと思えばあと一日か二日程度であれば戦う事も出来る。

 ここで重要なのは、蜀軍には退く意思が無いと思わせる事。

 そこで姜維が命じたのは夜襲だった。

 こちらの状況が悪くなったとは言え、向こうの状況が改善している訳ではない。

 何をどう言ったところで狄道城が落城寸前である事に変わりは無く、万が一にも落城させる事が出来れば形勢は逆転するどころか完全に決める事が出来るのである。

 この攻勢の判断に張翼は難色を示したが、夏侯覇は乗り気だった。

 念の為、これはあくまでも撤退の為の下準備なのだから、何が何でも落城させようと言う様な無茶はしないようにだけは夏侯覇に伝えておく。

 攻勢に定評があり、事実蜀を何度も苦しめてきた勇将である夏侯覇だが、戦況も見ずに攻勢のみを考える様な猪武者ではない。

 その事は姜維も十分に知っていたのだが、張翼の手前、そう言っておかねばならなかった。

 夏侯覇自身は皇后の従兄弟と言う事もあり、その人物的にも信頼に値すると姜維は思っているのだが、何しろ魏からの投降者によって大将軍を暗殺されると言う大事件が起きたばかりである。

 縁故はともかく、形だけで言うのであれば夏侯覇も同じ状況であると考える蜀の武将もいる。

 張翼がそうだと言う訳も無いのだが、何分慎重な男で姜維の目指す軍略とは何かと合わないところも多く、今回の撤退の件だけでなくこれまでも幾度かぶつかる事もあった。

 そんな張翼に対して、警戒は緩めていないと言う事を伝えると言う意味もあったのである。

 しかし、魏の動きは姜維の予想より早く鋭く厳しいものだった。

 夜襲を行う場合には光源が必要であり、それによって奇襲を悟られやすいと言う難点もある。
 また、その光源を目印に敵から狙われやすいと言う事もあって、兵法では夜襲は決して上策ではないとされていた。

 夏侯覇が蜀軍の本陣から出撃し、攻城戦を行おうとしたまさにその時、雍州方面軍と思われる魏軍の一軍が蜀の本陣に襲いかかってきたのである。

「狙われていたか。さすがに油断ならないな」

 姜維は下手に抗戦する事なく、攻城に出た夏侯覇にも撤退の指示を出して退却を始める。

 向かってくる篝火の数を見る限りでは、おそらく雍州方面軍の全軍が来たと思われる。

 陳泰も蜀軍の今の弱点に気付いただけでなく、王経の守る狄道城の限界が近い事もわかっていたらしい。

 そうは言っても、この状況は実は悪いばかりではない。

 こちらは物資不足なのは間違いないが、その分身軽で、すでに退却の方針は伝えてあったので撤退命令による混乱は少ない。

 しかもここに全軍を投入して来たのであれば、蜀軍の退路に兵を回す事は出来ないと言う事にもなる。

 すでに損害を出している雍州方面軍が狄道城を蜀軍から解放しようとするのであれば、全軍投入はやむを得ない。

 そうでもしない限り雍州方面軍は返り討ちにあい、城を落とされる事になる。

 分かっていても中々そこまで大胆な手は打てないものだが、そこは名将の誉れ高い陳泰が見事であると認めるべきところだろう、と姜維は思う。

 ここで無理に抗戦しては夏侯覇が戻ってくる前にこちらも致命的な損害を受けかねないし、夜戦による光源の移動は兵の動きそのものなので完全劣勢でありながら王経も城から出て挟撃して来る恐れもある。

 姜維に限らず、攻勢に出ていた夏侯覇も即座に姜維の指示に従って撤退を始めた。

 ここで姜維が急ぐのには訳があった。
 魏軍が夜襲まで仕掛けてきたと言う事は、こちらの物資不足を見越しての事であり、当然の流れとして追撃戦を行うつもりだろう。

 しかしこの辺りは地形が複雑であり、それは伏兵を配置するに適していると言う事でもある。

 姜維が急いだのは、その伏兵に適した場所をいち早く抑え、魏軍の追撃部隊を急襲して撤退する部隊を守る為であった。

 見える篝火から雍州方面軍の全軍と思われるが、少数の別動隊がすでに伏兵として潜んでいる事も考えられる。

 それらの事を考慮した上で急いだのだが、姜維の考える伏兵にもっとも適した場所に魏軍の姿は無く、先にその場所に伏兵を配して魏軍を待ち伏せる事に成功した。

 しかし、魏軍にも余裕は無かったのか追撃の足は突然止まった。

 ある程度までは追ってきていたのだが、魏軍もこの地形であれば伏兵の恐れありと見たらしい。

 また、陥落寸前であった狄道城を解放し王経を救い出す事には成功しているので、それでよしとしたのかも知れない。

 物資が尽きるぎりぎりまで伏兵状態で待ち構えていたのだが、魏軍は進撃する気配を見せず、逆に蜀軍の補給部隊を確認する事が出来た事もあって、姜維は伏兵を解いて補給部隊と合流を目指した。
 蜀軍も限界近く、ようやく補給部隊と合流して食料にありつく事が出来た。

 まさにその時、姜維が伏せていた場所ではなく、蜀軍が補給部隊と合流するであろう場所に伏せていた陳泰の軍が蜀軍に襲いかかってきたのである。

 ようやく一息つけると気が緩み、集中力の切れた状態では大軍も機能しない。

 あの夜襲の篝火は偽装で、あの時攻めてきた魏軍は先発の騎兵のみで、後方の本隊と思われたのはただの水増しだったか。

 と姜維は読みきったのだが、時すでに遅しである。
 これによって蜀軍は当初予定していた拠点よりさらに深くまで撤退せざるを得なくなった。
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