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第二章 血と粛清の嵐の中で
第二十五話 二五五年 狄道の戦い 前編
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「これは士載殿。またご一緒出来るとは、心強い限り」
「胡奮将軍? 司馬昭閣下の元では無かったのですか?」
雍州方面軍の拠点で出迎えてくれたのは、司馬昭直属の武将である胡奮だった。
「実はあの戦以来、ずっとこの雍州方面軍で陳泰将軍の補佐をしておりました。いや、あの方は若いのに優秀だ。色々と教えていただいてます」
胡奮はそう言うと都からの援軍を拠点に留め、司馬望ら武将達を陳泰の元へ案内する。
「援軍、誠にありがとうございます。到着早々で悪いのですが、さっそく軍議に掛かりたいと思います」
「もちろんです。こちらも状況が分からず難儀していたところですから」
司馬望は偉ぶる事無く、陳泰に答える。
その後も、司馬望自ら下座に座り陳泰を立てる姿勢を見せたので、特に大きな摩擦などは起きなかった。
事の発端は、機を見るに敏な姜維が魏の名将毌丘倹の反乱をただ黙って見逃すはずもなく、祁山、石営、金城の三ヶ所から侵攻してくると言う情報が入り、陳泰は対応に追われる事となった。
郭淮と言う知勇兼備の勇将を失い、その後任として新たに雍州刺史として赴任してきた王経と共に、陳泰は迎撃の策を立てた。
王経は三ヶ所全てに兵を配して迎え撃つべきだと主張したが、陳泰はそれを退けた。
姜維がどれほどの名将であったとしても、戦える兵数を唐突に数倍に膨れさせる事などまず不可能である。
つまり、この三ヶ所からの侵攻と言うのはすでに蜀の虚報であり、兵を薄く広く配置させる事が狙いであると読みきった。
それならばわざわざ蜀の誘いに乗る必要も無く、王経に先発させて狄道に兵を配して備えさせ、自身は陳倉を通って蜀軍を挟撃する策によって迎え撃とうとした。
しかし、姜維の策はその時すでに動き始めていた事に、陳泰はまだ気付いていなかった。
念の為にこの時に陳泰は蜀軍侵攻の報を都に伝え、それから兵を出したのだが、当初予定していた合流地点、あるいは戦場となっているはずの場所に王経はもちろん蜀軍も姿が見えない事に陳泰は急遽狄道へと向かったのだが、その時にはすでに王経の軍は敗れ、狄道城に閉じ込められていたのである。
陳泰の策が姜維を相手に裏をかかれた、と言う事ではなく、姜維の軍が陳泰の想定よりはるかに早く行動していたのだ。
それによって先に備えるはずの王経の軍は、古関で蜀軍と鉢合わせしてしてしまった。
お互いに遭遇戦であったのだが、王経の失策はこの時、焦りから即戦に応じてしまった事だった。
王経は若い頃に曹爽からの贈り物を拒否して曹爽陣営に加わる事をせず、その際に職を辞して郷里に帰った事がある。
王経の母親は真面目で厳しい人であり、勝手に職を辞した王経を罰する為に曹爽が官吏を送ったのだが、その官吏が逆に止めるほどに王経の母は厳しく折檻したと言う。
その後に王経は復職したのだが、やはり過去の経緯があって要職に当てられる事が無かった。
そこへ来て、この蜀軍の侵攻である。
失った信頼を取り返すのは、武勲を立てる事が一番であると考えた王経は、この遭遇戦をこそ好機と焦ってしまった。
王経はやる気に満ちていたのだが、それが正しく兵に伝わらないのでは意味が無い。
戦を焦った故に軍の混乱を招き、その事が蜀軍に有利に働いた。
王経の軍が混乱を脱する前に蜀軍の姜維の本隊が到着し、一気に勝負を決めに来たのである。
それでも王経は戦いながら立て直しを図ったのだが、姜維はそこまで生易しい相手ではなく、被害は拡大する一方で、陳泰が状況を把握する頃には大敗を喫して狄道城に逃げ込んだのだった。
そこに今、援軍として司馬望の軍が到着したところである。
「事ここに至っては、もはや狄道を捨ててでも姜維の東進を阻むべきでしょう。急がなければ最悪の事態を招きます。急いで守りを固めるべきでしょう」
鄧艾が敢えてそう意見する。
それはおそらく誰もが考えた事だろうが、それはすなわち仲間を見殺しにすると言う事である。
思っていても中々発言する事が難しい事を、鄧艾は最初に口にした。
陳泰はその提案に一瞬険しい表情を浮かべたが、すぐに薄く笑う。
「士載殿、俺にそんな気遣いは無用ですよ。わざわざ汚れ役を買って出て、俺に花を持たせてくれているんでしょう?」
陳泰は鄧艾の真意に気付いて、全員に言う。
「しかし、士載殿の言い分はもっとも。今は西の守りを固める事こそ最重要なのでは?」
胡奮の言葉に、陳泰は首を振る。
「それこそが姜維の狙い。士載殿はそれを敢えて皆に聞かせたと言う事。今回の出征、姜維の本当の狙いは雍州と言う土地ではなく、雍州方面軍の信頼を失墜させる事。あやうく乗せられるところだった」
陳泰の言葉に鄧艾は頷くが、他の面々は首を傾げているようだった。
相変わらず恐ろしい手を打ってくる、と鄧艾は思う。
姜維は先に軍を動かし、ある程度進軍したところで三路からの侵攻の情報を流したと思われる。
守将の最初に考える対抗策は三路の防備だろうが、もしそうした場合には姜維は速攻をもって狄道城を奪い、後方を遮断して三路の守備隊を各個に撃破していくつもりだったはずだ。
だが、もっとも有効な策は三路を防ぐのではなく、その合流地点に伏兵を置いて出て来る蜀軍を順次撃退する事だろう。
それはまさに陳泰がとろうとした策でもある。
蜀軍の全軍が合流する前に十分な損害を与え、合流した後には別動隊による挟撃をねらったのだが、それさえも姜維は織り込み済みだった。
伏兵を置くところに、逆に蜀軍が伏兵を置くつもりだったのだろう。
陳泰と王経の行動が早かった為に遭遇戦となったが、それも姜維の狙いから大きくずれる様な事は無い。
先手を取って魏軍の一軍を孤立させる事こそ、姜維の狙いだったのだから。
王経も決して無能な武将ではなく、多少のクセと扱いにくさはあるだろうが、その能力は若くして荊州刺史を任じられるほどの英才である。
だからこそ、より深く策に嵌ったのかもしれない。
そして陳泰も、群を抜いた知将であったからこそ姜維によって誘導されてしまったのだ。
大損害を被り狄道城に閉じ込められた王経と協力しても蜀軍を必ず撃退出来るとは限らない。
もし雍州方面軍が敗れる様な事があっては、雍州の四郡は守る兵も無くなってしまい蜀に支配されてしまう。
そうさせない為にも、王経を見捨ててでも雍州を守るべきだ。
これは武将の質を問わず、誰であっても行き着く答えである。
当然、姜維も。
そうして姜維は王経の軍を殲滅した後に、こう言うのだ。
「魏は劣勢になったら、その軍を見捨てるぞ」
雍州には異民族も多い。
郭淮や陳泰の尽力によって好意的な関係は築けているし、逆に蜀軍は先の迷当大王の一件もあってその信用を失いつつある。
が、この一戦、この一報のみでこれまで積み上げられた信頼関係は崩壊してしまう。
何しろ、魏には以前曹爽の蜀征の失敗を異民族に責任転嫁した前例があるのだから、同じ魏の武将ですら切り捨てるのであれば、異民族など言うに及ばずと考えても仕方がない。
つまり、十分過ぎるくらいに対応策を持って待ち構えている蜀軍と、嫌でも戦って勝たなければならないのである。
鄧艾は諸将に、それらの事を説明した。
「では、どの様な策を用いて戦うつもりですか? 数を頼りに戦いを挑んでも損害が増すばかりでは?」
諸葛緒が不安そうに尋ねる。
「勝機はある。だが、危険な綱渡りである事も違いない。今この場で全貌を話す事は出来ないが、司馬望閣下の援軍は雍州四郡の守備をお願いします」
「それはつまり、姜維の策に敢えて乗ると言う事ですか?」
司馬望も不安そうに、陳泰に尋ねる。
「乗ります。少なくとも姜維が策に乗ったと思わない限り、万に一つも勝目は無いのですから。危険は十分承知。ですが、黙って見ていても敗色は濃厚。これを覆すには危険を避けては通れないのです」
「……分かりました。戦の策は秘中の秘。ここで全てを説明して下さいとは申しません。私はどれだけの兵を持って雍州の守りにつくべきでしょうか」
「ほぼ全軍を持って」
司馬望の質問に、陳泰は即答する。
「……ほぼ?」
「はい。司馬望将軍と諸葛緒将軍でその指揮をお願いしたい。以前この地に赴任し土地勘のある士載殿と元凱には、こちらに参加していただきたいのですが、司馬望将軍よろしいですか?」
「もちろん。私如きが口出し出来る事ではありませんので、全て陳泰将軍に従います」
「胡奮も司馬望将軍達と共に守備隊に回ってくれ」
「何故です? こう言うとなんですが、俺の武勇は必要になるのでは?」
胡奮は不満と言うより、不思議そうに言う。
おっとりした外見であるが、確かに胡奮は司馬昭からも認められた猛将であり、以前は鉄狼山にて奮戦した実績もある。
「目立つからだよ」
陳泰からのまったく予想外な答えに、胡奮はきょとんとする。
「目立つ?」
「うん。目立つ。しかも姜維も夏侯覇も胡奮の実力には警戒している。俺のやろうとしている事には姜維の油断は絶対条件で、警戒される程に成功の可能性が低くなる。そう言う意味でも、目立つ胡奮ではなく、地味で目立たない士載殿の方が都合がいい」
「ああ、なるほど。こう言うとなんだが、士載殿は確かにその実力の割りに見栄えがしないからな」
「……褒められていると受け取っておきます」
鄧艾の微妙な返答に、僅かながらも笑いがこぼれて緊張感が多少は緩和される。
これは司馬望や鄧艾の協力もあっての事ではあるが、陳泰の手腕によるところも大きい。
一見すると苦戦している中で不謹慎にも見えるが、陳泰は必勝の策があると言いながらその全貌を伝える事はしていない。
にも関わらず、全員がそれ以上の説明を求めようとせずにそれに賛同させたのだから、陳泰の策がどの様なものか蜀に漏れる事は有り得なくなった。
並の武将が同じようになったところで不満や不安が募るばかりであり、この様に緊張感が緩和する事など有り得ない。
また、緊張しすぎる事も焦りに繋がり実力を発揮する事が出来なくなる事を、陳泰はよく知っていた。
若いのに大したものだ、と鄧艾は感心した。
こうして方針は決した為に、司馬望と諸葛緒、胡奮らは雍州の守りの為に移動して陳泰と鄧艾、杜預は残って作戦を詰める事となった。
「ようやく同じ戦場で戦えますね。まして俺の旗下に加わってもらえるとは。本当に有難い事です」
陳泰は嬉しそうに言う。
何しろ陳泰は無位無官の頃から鄧艾の事を高く評価して、出自などお構いなしに師事を仰いでいたほどである。
「ですが、事態は極めて劣勢と言わざるを得ないでしょう。まったく楽観は出来ませんが、将軍には必勝の策が?」
「必勝、とまでは言えないにしても、今回の姜維の策、極めて恐ろしい手ではありますが、全てを成功させたとしても一つだけどうする事も出来ない欠点があります。実際には欠点と言えるほどのものではないにしても、王経は優秀な男で兵の扱いも上手く、その士気は高い。だからこそ浮かび上がる欠点を攻める事が出来るのです」
陳泰はそう言うと、鄧艾を見る。
「士載殿は誰よりも早く姜維の策を見抜いた。当然その欠点も見えているのでしょう?」
「欠点、とまでは言えないにしても問題が一つある事は分かります。ですが、王経将軍はそれまで持ちこたえられますでしょうか。遅きに失した場合には取り返しのつかない事態になりますが」
「そこにしか勝機はありません。でも、俺は成功すると思ってますよ。俺だって自分を優秀だと思ってますし、苦境にある王経も中々に出来る男です。それに司馬望将軍も、ああ見えて優れた軍才を持っています。その上で士載殿と元凱までいる。知名度はともかく、能力だけで言えば、今の雍州方面軍は魏で最強の軍ですよ。負けるはずがありません」
陳泰の自信に自分も含まれている事が、鄧艾は少なからず誇らしかった。
「胡奮将軍? 司馬昭閣下の元では無かったのですか?」
雍州方面軍の拠点で出迎えてくれたのは、司馬昭直属の武将である胡奮だった。
「実はあの戦以来、ずっとこの雍州方面軍で陳泰将軍の補佐をしておりました。いや、あの方は若いのに優秀だ。色々と教えていただいてます」
胡奮はそう言うと都からの援軍を拠点に留め、司馬望ら武将達を陳泰の元へ案内する。
「援軍、誠にありがとうございます。到着早々で悪いのですが、さっそく軍議に掛かりたいと思います」
「もちろんです。こちらも状況が分からず難儀していたところですから」
司馬望は偉ぶる事無く、陳泰に答える。
その後も、司馬望自ら下座に座り陳泰を立てる姿勢を見せたので、特に大きな摩擦などは起きなかった。
事の発端は、機を見るに敏な姜維が魏の名将毌丘倹の反乱をただ黙って見逃すはずもなく、祁山、石営、金城の三ヶ所から侵攻してくると言う情報が入り、陳泰は対応に追われる事となった。
郭淮と言う知勇兼備の勇将を失い、その後任として新たに雍州刺史として赴任してきた王経と共に、陳泰は迎撃の策を立てた。
王経は三ヶ所全てに兵を配して迎え撃つべきだと主張したが、陳泰はそれを退けた。
姜維がどれほどの名将であったとしても、戦える兵数を唐突に数倍に膨れさせる事などまず不可能である。
つまり、この三ヶ所からの侵攻と言うのはすでに蜀の虚報であり、兵を薄く広く配置させる事が狙いであると読みきった。
それならばわざわざ蜀の誘いに乗る必要も無く、王経に先発させて狄道に兵を配して備えさせ、自身は陳倉を通って蜀軍を挟撃する策によって迎え撃とうとした。
しかし、姜維の策はその時すでに動き始めていた事に、陳泰はまだ気付いていなかった。
念の為にこの時に陳泰は蜀軍侵攻の報を都に伝え、それから兵を出したのだが、当初予定していた合流地点、あるいは戦場となっているはずの場所に王経はもちろん蜀軍も姿が見えない事に陳泰は急遽狄道へと向かったのだが、その時にはすでに王経の軍は敗れ、狄道城に閉じ込められていたのである。
陳泰の策が姜維を相手に裏をかかれた、と言う事ではなく、姜維の軍が陳泰の想定よりはるかに早く行動していたのだ。
それによって先に備えるはずの王経の軍は、古関で蜀軍と鉢合わせしてしてしまった。
お互いに遭遇戦であったのだが、王経の失策はこの時、焦りから即戦に応じてしまった事だった。
王経は若い頃に曹爽からの贈り物を拒否して曹爽陣営に加わる事をせず、その際に職を辞して郷里に帰った事がある。
王経の母親は真面目で厳しい人であり、勝手に職を辞した王経を罰する為に曹爽が官吏を送ったのだが、その官吏が逆に止めるほどに王経の母は厳しく折檻したと言う。
その後に王経は復職したのだが、やはり過去の経緯があって要職に当てられる事が無かった。
そこへ来て、この蜀軍の侵攻である。
失った信頼を取り返すのは、武勲を立てる事が一番であると考えた王経は、この遭遇戦をこそ好機と焦ってしまった。
王経はやる気に満ちていたのだが、それが正しく兵に伝わらないのでは意味が無い。
戦を焦った故に軍の混乱を招き、その事が蜀軍に有利に働いた。
王経の軍が混乱を脱する前に蜀軍の姜維の本隊が到着し、一気に勝負を決めに来たのである。
それでも王経は戦いながら立て直しを図ったのだが、姜維はそこまで生易しい相手ではなく、被害は拡大する一方で、陳泰が状況を把握する頃には大敗を喫して狄道城に逃げ込んだのだった。
そこに今、援軍として司馬望の軍が到着したところである。
「事ここに至っては、もはや狄道を捨ててでも姜維の東進を阻むべきでしょう。急がなければ最悪の事態を招きます。急いで守りを固めるべきでしょう」
鄧艾が敢えてそう意見する。
それはおそらく誰もが考えた事だろうが、それはすなわち仲間を見殺しにすると言う事である。
思っていても中々発言する事が難しい事を、鄧艾は最初に口にした。
陳泰はその提案に一瞬険しい表情を浮かべたが、すぐに薄く笑う。
「士載殿、俺にそんな気遣いは無用ですよ。わざわざ汚れ役を買って出て、俺に花を持たせてくれているんでしょう?」
陳泰は鄧艾の真意に気付いて、全員に言う。
「しかし、士載殿の言い分はもっとも。今は西の守りを固める事こそ最重要なのでは?」
胡奮の言葉に、陳泰は首を振る。
「それこそが姜維の狙い。士載殿はそれを敢えて皆に聞かせたと言う事。今回の出征、姜維の本当の狙いは雍州と言う土地ではなく、雍州方面軍の信頼を失墜させる事。あやうく乗せられるところだった」
陳泰の言葉に鄧艾は頷くが、他の面々は首を傾げているようだった。
相変わらず恐ろしい手を打ってくる、と鄧艾は思う。
姜維は先に軍を動かし、ある程度進軍したところで三路からの侵攻の情報を流したと思われる。
守将の最初に考える対抗策は三路の防備だろうが、もしそうした場合には姜維は速攻をもって狄道城を奪い、後方を遮断して三路の守備隊を各個に撃破していくつもりだったはずだ。
だが、もっとも有効な策は三路を防ぐのではなく、その合流地点に伏兵を置いて出て来る蜀軍を順次撃退する事だろう。
それはまさに陳泰がとろうとした策でもある。
蜀軍の全軍が合流する前に十分な損害を与え、合流した後には別動隊による挟撃をねらったのだが、それさえも姜維は織り込み済みだった。
伏兵を置くところに、逆に蜀軍が伏兵を置くつもりだったのだろう。
陳泰と王経の行動が早かった為に遭遇戦となったが、それも姜維の狙いから大きくずれる様な事は無い。
先手を取って魏軍の一軍を孤立させる事こそ、姜維の狙いだったのだから。
王経も決して無能な武将ではなく、多少のクセと扱いにくさはあるだろうが、その能力は若くして荊州刺史を任じられるほどの英才である。
だからこそ、より深く策に嵌ったのかもしれない。
そして陳泰も、群を抜いた知将であったからこそ姜維によって誘導されてしまったのだ。
大損害を被り狄道城に閉じ込められた王経と協力しても蜀軍を必ず撃退出来るとは限らない。
もし雍州方面軍が敗れる様な事があっては、雍州の四郡は守る兵も無くなってしまい蜀に支配されてしまう。
そうさせない為にも、王経を見捨ててでも雍州を守るべきだ。
これは武将の質を問わず、誰であっても行き着く答えである。
当然、姜維も。
そうして姜維は王経の軍を殲滅した後に、こう言うのだ。
「魏は劣勢になったら、その軍を見捨てるぞ」
雍州には異民族も多い。
郭淮や陳泰の尽力によって好意的な関係は築けているし、逆に蜀軍は先の迷当大王の一件もあってその信用を失いつつある。
が、この一戦、この一報のみでこれまで積み上げられた信頼関係は崩壊してしまう。
何しろ、魏には以前曹爽の蜀征の失敗を異民族に責任転嫁した前例があるのだから、同じ魏の武将ですら切り捨てるのであれば、異民族など言うに及ばずと考えても仕方がない。
つまり、十分過ぎるくらいに対応策を持って待ち構えている蜀軍と、嫌でも戦って勝たなければならないのである。
鄧艾は諸将に、それらの事を説明した。
「では、どの様な策を用いて戦うつもりですか? 数を頼りに戦いを挑んでも損害が増すばかりでは?」
諸葛緒が不安そうに尋ねる。
「勝機はある。だが、危険な綱渡りである事も違いない。今この場で全貌を話す事は出来ないが、司馬望閣下の援軍は雍州四郡の守備をお願いします」
「それはつまり、姜維の策に敢えて乗ると言う事ですか?」
司馬望も不安そうに、陳泰に尋ねる。
「乗ります。少なくとも姜維が策に乗ったと思わない限り、万に一つも勝目は無いのですから。危険は十分承知。ですが、黙って見ていても敗色は濃厚。これを覆すには危険を避けては通れないのです」
「……分かりました。戦の策は秘中の秘。ここで全てを説明して下さいとは申しません。私はどれだけの兵を持って雍州の守りにつくべきでしょうか」
「ほぼ全軍を持って」
司馬望の質問に、陳泰は即答する。
「……ほぼ?」
「はい。司馬望将軍と諸葛緒将軍でその指揮をお願いしたい。以前この地に赴任し土地勘のある士載殿と元凱には、こちらに参加していただきたいのですが、司馬望将軍よろしいですか?」
「もちろん。私如きが口出し出来る事ではありませんので、全て陳泰将軍に従います」
「胡奮も司馬望将軍達と共に守備隊に回ってくれ」
「何故です? こう言うとなんですが、俺の武勇は必要になるのでは?」
胡奮は不満と言うより、不思議そうに言う。
おっとりした外見であるが、確かに胡奮は司馬昭からも認められた猛将であり、以前は鉄狼山にて奮戦した実績もある。
「目立つからだよ」
陳泰からのまったく予想外な答えに、胡奮はきょとんとする。
「目立つ?」
「うん。目立つ。しかも姜維も夏侯覇も胡奮の実力には警戒している。俺のやろうとしている事には姜維の油断は絶対条件で、警戒される程に成功の可能性が低くなる。そう言う意味でも、目立つ胡奮ではなく、地味で目立たない士載殿の方が都合がいい」
「ああ、なるほど。こう言うとなんだが、士載殿は確かにその実力の割りに見栄えがしないからな」
「……褒められていると受け取っておきます」
鄧艾の微妙な返答に、僅かながらも笑いがこぼれて緊張感が多少は緩和される。
これは司馬望や鄧艾の協力もあっての事ではあるが、陳泰の手腕によるところも大きい。
一見すると苦戦している中で不謹慎にも見えるが、陳泰は必勝の策があると言いながらその全貌を伝える事はしていない。
にも関わらず、全員がそれ以上の説明を求めようとせずにそれに賛同させたのだから、陳泰の策がどの様なものか蜀に漏れる事は有り得なくなった。
並の武将が同じようになったところで不満や不安が募るばかりであり、この様に緊張感が緩和する事など有り得ない。
また、緊張しすぎる事も焦りに繋がり実力を発揮する事が出来なくなる事を、陳泰はよく知っていた。
若いのに大したものだ、と鄧艾は感心した。
こうして方針は決した為に、司馬望と諸葛緒、胡奮らは雍州の守りの為に移動して陳泰と鄧艾、杜預は残って作戦を詰める事となった。
「ようやく同じ戦場で戦えますね。まして俺の旗下に加わってもらえるとは。本当に有難い事です」
陳泰は嬉しそうに言う。
何しろ陳泰は無位無官の頃から鄧艾の事を高く評価して、出自などお構いなしに師事を仰いでいたほどである。
「ですが、事態は極めて劣勢と言わざるを得ないでしょう。まったく楽観は出来ませんが、将軍には必勝の策が?」
「必勝、とまでは言えないにしても、今回の姜維の策、極めて恐ろしい手ではありますが、全てを成功させたとしても一つだけどうする事も出来ない欠点があります。実際には欠点と言えるほどのものではないにしても、王経は優秀な男で兵の扱いも上手く、その士気は高い。だからこそ浮かび上がる欠点を攻める事が出来るのです」
陳泰はそう言うと、鄧艾を見る。
「士載殿は誰よりも早く姜維の策を見抜いた。当然その欠点も見えているのでしょう?」
「欠点、とまでは言えないにしても問題が一つある事は分かります。ですが、王経将軍はそれまで持ちこたえられますでしょうか。遅きに失した場合には取り返しのつかない事態になりますが」
「そこにしか勝機はありません。でも、俺は成功すると思ってますよ。俺だって自分を優秀だと思ってますし、苦境にある王経も中々に出来る男です。それに司馬望将軍も、ああ見えて優れた軍才を持っています。その上で士載殿と元凱までいる。知名度はともかく、能力だけで言えば、今の雍州方面軍は魏で最強の軍ですよ。負けるはずがありません」
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