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第二章 血と粛清の嵐の中で
第二十三話 二五五年 呉軍を迎え撃て
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鄧艾は司馬師と諸葛誕からの指示もあって文鴦を追っていたのだが、文鴦の武勇はやはり非常識と言っていいほどのものであり、敗走しているはずなのだが誰も近づく事が出来ないほどである。
槍を司馬師に投げているので得物は無いと思い込んでいた追撃隊だったのだが、文鴦は予備武器として鉄鞭を持っていた為、追ってくる者達を次々と返り討ちにしている。
その途中で、鄧艾は同じく追撃の任に当たっていた諸葛緒と合流した。
「将軍、あれは妖怪の類ですか?」
「私もそう思いたいところです」
本気で恐れている諸葛緒に、鄧艾は苦笑いして答える。
春秋時代や楚漢戦争、後漢末期であればそういう豪傑達もいただろう。
鄧艾も幼少の頃には講談師の話に胸を躍らせたものだ。
特に後漢末期、董卓の養子であった呂布と初代蜀皇帝となった劉備とその義兄弟達の戦いなどは、聞く分には楽しかった。
その時代の、作り物としか思えない様な豪傑の理不尽さが今目の前で行われているのが、信じられない。
たった一騎の影響で、大局が掻き回されている。
文鴦にはそれだけの実力がある、と言う事を魏軍の誰も知らなかったのが大きい。
十代の少年と言う事もあっただろうが、一騎当千の豪傑が戦場を荒らす戦い方など、それこそ後漢末期の戦い方であり、今から五十年ほど前の戦い方と言うべき時代遅れの蛮行なのだが、それはそういう蛮行に対処する為の集団戦が確立された事と、そもそもそういう離れ業が出来る人物が減ったと言う事である。
もし文鴦がそれこそ後漢末期に生まれていたら、今とは違った名の残し方をしていただろう。
「このまま、あの化物を追って被害を出すのも考えものですね。どれほど規格外の化物であったとしても、その率いる数は今となっては二千前後。追手を返り討ちにしているといっても、向こうから攻め込んできている訳ではない。それであれば、より大きな問題になりかねない呉軍を迎撃する方を優先するべきでしょう」
「諸葛誕将軍からは寿春方面から呉軍は来るとの事でしたので、肥陽を拠点として守る様にとの事」
「うわ、杜預殿、いつの間に? どうやってここに?」
いつの間にか鄧艾の元に控えていた杜預に、諸葛緒は驚いている。
「走ってきました」
「走って?」
「まぁ、彼はそう言う人ですから。しかし、肥陽ですか。そこはさほど重要拠点でもないし、何より呉軍の侵攻を許す事になります。文欽将軍には打撃を与えたといっても全滅させた訳ではない事を考えても、ここは附亭で迎撃しましょう。司馬師将軍は楽綝将軍にも追撃を命じられていましたし、王基将軍には今回の反乱の拠点攻略を命じられています。短期間でも呉軍を食い止めれば我々の勝利は疑いないのですが、呉が勢いづいてしまってはそれが瓦解する恐れもありますからね」
命令無視になる恐れはあるものの、鄧艾は諸葛誕が指定した場所ではなく別の戦略拠点である附亭に移動すると、そこに拠点をおいて呉軍を迎撃するべく準備を整える。
そこで体勢を整えている間に情報を収集していると、呉軍を率いるのは諸葛恪から大将軍の座を奪い取った孫峻であり、その数は十万と言う事が分かった。
しかもその兵力だけでなく、その配下には呂拠や丁奉、留賛といった呉軍でも十分な実績のある武将達も率いてきている。
「さすが、毌丘倹将軍。ただ遊んでいた訳ではない、か」
情報遮断によって新たな情報を得られなかった毌丘倹だが、ある程度の事を想定して先に呉に援軍を要請していたらしい。
毌丘倹と文欽の実力は、先の合肥新城での戦いで呉軍も知っている。
その時には騙されているので呉軍は動かないかも知れないと鄧艾は期待していたのだが、これが諸葛恪なら根に持って動かなかったと考えられたものの、新任の孫峻であれば手柄を立てる好機であると見たようだ。
司馬師から恐ろしく多方面での仕事を頼まれていた鄧艾だが、その中に呉軍の情報収集もあり、孫峻の事も調べていた。
諸葛恪が合肥新城で敗れて呉に帰った後、この孫峻の手によって殺された。
その地位を奪い取って丞相と大将軍を兼任する事となったのだが、孫峻には諸葛恪ほどの名声もある訳ではない。
その為もあって、孫峻は毌丘倹からの要請に乗って武勲を上げに来たと言う事だ。
呂拠や留賛は先の合肥新城の戦いにも参加している武将であり、丁奉は呉の重鎮である。
「なかなかに戦いづらい武将揃いですね」
「どうしましょうか」
鄧艾と違って、諸葛緒は不安で仕方がないといった表情である。
相手が十万の大軍で、その正面から戦った場合にはさすがに鄧艾と諸葛緒では手に負えないが、事態はそこまで単純ではない。
まず呉は踏み込んできたものの、その地盤を固めている訳ではなく、しかも手引きした毌丘倹はすでに敗北しているので援助も期待出来ない。
一方の鄧艾と諸葛緒は確かに十万の兵力を相手に守るには兵力不足であるが、呉軍が全軍で鄧艾達を突破したとしても、その後ろには諸葛誕や司馬師の本隊があり、しかも別動隊の楽綝や王基といった武将達も呉軍の側面を叩く事になる。
このまま退いてくれればと期待したのだが、それでは孫峻の面目が立たない。
撤退するにも、なにかしらの手土産が必要と言う事だ。
鄧艾は諸葛緒と共に呉の動向に目を光らせていたが、それより早く動きがあった。
楽綝が呉軍の側面を攻め始めたのである。
彼の父親は魏建国の臣の一人であり、五虎大将にも含まれる勇将の楽進。
その勇敢さは息子にも引き継がれていたようで、大軍にも怯む素振りを見せずに呉軍の側面を攻め込むが、いくら何でも単独での攻撃は勇敢と言うより無謀である。
楽綝の攻撃に対して対応している呉の武将は丁奉の様だが、今なら鄧艾の位置からであれば丁奉の側面を攻める事も出来そうだ。
が、そうすると呉軍の正面が薄くなりそうで、そこを突破される恐れがある為、鄧艾は攻めるかどうか悩んでいた。
「将軍、援軍が来ます」
「……どう言う事ですか?」
諸葛緒の言葉に、鄧艾は正しく情報を処理出来なかった。
「あれを見て下さい」
諸葛緒が指さした方向は魏の本隊の方で、後方で待機していた予備戦力の参謀部隊らしく、旗は鍾会のものだった。
それは呉軍とぶつかり合う部隊ではなく、ここで食い止める事を狙った兵力である。
「あれが居てくれれば、こちらも動けますね。私はこれから丁奉の側面を攻めて楽綝将軍を援護します。諸葛緒将軍は回り込んで、呉軍の反対側から圧迫してやって下さい。おそらくそれで呉軍は退く事でしょう」
「了解しました!」
鄧艾と諸葛緒は、それぞれ別方向から呉軍に攻撃を仕掛ける為に動く。
しかし、呉軍の動きが妙に噛み合わない。
丁奉は間違いなく名将であり、呉でも極めて重要な重鎮の武将である事は鄧艾も知っているし、それを疑っている訳ではない。
が、その後の行動が続かない。
本来であれば接近してくる魏軍が一隊であれば、丁奉で受けるのは良い。
硬い守りで動きを止めれば、あとはその左右から攻撃を仕掛けてその部隊を圧迫し、別の魏軍の連携が来る前にその部隊を潰してしまえば、魏軍は少数で分散している事になるので各個撃破する事も出来る。
だが、呉軍の連携は極めて悪い。
命令系統が機能していないのかも。だとすると、丁奉を叩くべきだ。名の通った武将を下げる事が出来れば、それで敵軍の士気も下がる。その後は楽綝と合流して呉軍の後方に回るもよし、二手に分かれて呉軍を混乱させるもよしだ。
鄧艾は見通しを立てると、一気に丁奉の軍の側面に突撃する。
そこからの丁奉の動きは早かった。
鄧艾が参戦してきた事を確認すると、丁奉はまともに戦おうとせずにすぐに後退して呉軍の本隊と合流する動きを見せた。
なるほど、その手があったか。さすがだな。
こちらから攻撃して退却させたのならともかく、自分から相手を誘う様に後退したのであれば士気の低下には期待出来ない。
それどころかこれで少数部隊による奇襲は厳しくなったとも言える。
「楽綝将軍、ご無事ですか?」
「おお、鄧艾か。来てくれると思っていたぞ。そうでなければ全滅していたところだ」
鄧艾が合流した時、楽綝はそう言って快く迎えてくれた。
鄧艾は司馬師直属なので、司馬昭の直属の様に秘密主義に包まれた者達以外との面識を得る事が出来た。
楽綝は父譲りの武勇と剛毅さを持つと評判だったが、先ほどの勇猛ぶりを見る限りではそれも評判通りというべきだろう。
「しかし、弱ったな。これでは打つ手が無いのではないか?」
「むしろ好都合でしょう。これで呉軍の足を止めたのであれば、後は撤退するしか選択肢はありませんから」
「ほう、面白い読みだ。では、追撃に有利な場所取りと行こうか」
呉の総大将の孫峻が何を考えているかは分からないが、丁奉であればこの戦が終わった事は察しているだろう。
魏でも名将と名の通っている毌丘倹を相手にしているはずの魏軍が、ここに兵を集められると言う事は、そちらに兵を回す必要が無くなったと言う事だと丁奉ならば判断出来るはずだ。
まして進撃の勢いを止められては、呉軍としても打つ手がなくなり撤退するしかない。
丁奉はそれが分かって後退したのだが、果たして孫峻は同じ判断をするかどうか。
にらみ合いの気配が漂っている中、まったく想定外のところから動きがあった。
逃走していた文欽と文鴦が、呉軍に合流したのである。
これによって呉軍は気をよくしたのか前進を始めようとしたその時、完全に勝負を決める一手が放たれた。
大回りで呉軍を攻撃する様に移動していた諸葛緒が、呉軍の後方に襲いかかったのである。
魏軍でも予想していなかった奇襲に、呉軍の混乱は魏の驚きを遥かに超えた事態となった。
「どうやら名将揃いの呉軍であっても、それを率いる大将軍はその武将達ほどの傑物では無いみたいですね」
「うむ、我らも祭りに乗るか」
楽綝と鄧艾もそれぞれに呉軍に突撃する。
この方面を守る武将は名将丁奉だったが、丁奉をしても守れるのは一隊のみ。
もしどちらかを守ればどちらかが攻撃すると言う連携が来るのは、何も丁奉でなくても分かる。
諸葛緒には呂拠が対応しているみたいだが、それだけに鄧艾か楽綝かの部隊は自由に相手の側面を狙う事が出来る。
それだけでなく、守りの備えだった鍾会までも動く素振りを見せた為に、呉軍はついに退却を始めた。
呉軍の殿軍に現れたのは、留賛の部隊である。
石苞が言うには歌う大男で呉軍でも最年長の老将のはずなのだが、首から下に老将を感じさせるところは無いと、石苞は言っていた。
何しろ歌いながら戦っているので、これまでにない恐怖を感じた、とも。
殿軍として勇戦している留賛の部隊だが、その歌は聞こえてこない。
「死兵ですね」
鄧艾は留賛軍の戦いぶりを見ながら思う。
この部隊は、もう呉に帰ろうとは考えていない。
留賛を含むこの部隊は、一隊の犠牲で軍全体を逃がそうと奮戦しているのが分かる。
こうなったら、その部隊は強い。
が、それでも多勢に無勢。
それぞれに攻撃をしていた鄧艾が諸葛緒や楽綝と合流した時には、留賛の部隊は壊滅寸前だった。
「……貴将が留賛将軍か」
鄧艾が目の前に現れた老将に尋ねる。
ギラつく目の老将は、息切れしながらも鄧艾を睨む。
「……魏、将、か。よもや、これまで、か」
折れた槍や刃こぼれした剣を手に魏の兵士を蹂躙していた老将は、途切れ途切れの言葉で鄧艾に言う。
異常なほどに顔色が悪く、ただ息切れしていると言うだけでなく、咳き込んだ時には血が混ざった唾が飛んでいる。
怪我もあるだろうが、おそらく病であり、しかも重篤な状態に見える。
歌が聞こえなかったのも、すでにそれすら出来ないほどの状態だったのだろう。
だからこそ死兵になって国に報いる覚悟なのだ。
「お見事です。将軍。呉軍は全軍撤退しました。孤立した将軍は魏に降るより道はありません。どうか、投降して下さい」
「そう、か。撤退、した、か」
そう聞くと、留賛は武器としての寿命を終えた折れた槍と、刃こぼれした剣を手に鄧艾に向かって切り込んでくる。
文字通り満身創痍の老将の、命を懸けた最期の突進だったが、鄧艾は何も一騎で留賛に向かい合った訳ではない。
そこには既に諸葛緒や楽綝の部隊もいる。
弓矢を構えた部隊が留賛を狙っているのは見えているにも関わらず、まったく怯む素振りも見せず突進して来る。
呉の猛将、留賛。
いつも戦場では歌いながら戦っていたと言われたが、最期はそれすらも出来ない状態であったにも関わらず、死の瞬間まで彼は猛将であった。
槍を司馬師に投げているので得物は無いと思い込んでいた追撃隊だったのだが、文鴦は予備武器として鉄鞭を持っていた為、追ってくる者達を次々と返り討ちにしている。
その途中で、鄧艾は同じく追撃の任に当たっていた諸葛緒と合流した。
「将軍、あれは妖怪の類ですか?」
「私もそう思いたいところです」
本気で恐れている諸葛緒に、鄧艾は苦笑いして答える。
春秋時代や楚漢戦争、後漢末期であればそういう豪傑達もいただろう。
鄧艾も幼少の頃には講談師の話に胸を躍らせたものだ。
特に後漢末期、董卓の養子であった呂布と初代蜀皇帝となった劉備とその義兄弟達の戦いなどは、聞く分には楽しかった。
その時代の、作り物としか思えない様な豪傑の理不尽さが今目の前で行われているのが、信じられない。
たった一騎の影響で、大局が掻き回されている。
文鴦にはそれだけの実力がある、と言う事を魏軍の誰も知らなかったのが大きい。
十代の少年と言う事もあっただろうが、一騎当千の豪傑が戦場を荒らす戦い方など、それこそ後漢末期の戦い方であり、今から五十年ほど前の戦い方と言うべき時代遅れの蛮行なのだが、それはそういう蛮行に対処する為の集団戦が確立された事と、そもそもそういう離れ業が出来る人物が減ったと言う事である。
もし文鴦がそれこそ後漢末期に生まれていたら、今とは違った名の残し方をしていただろう。
「このまま、あの化物を追って被害を出すのも考えものですね。どれほど規格外の化物であったとしても、その率いる数は今となっては二千前後。追手を返り討ちにしているといっても、向こうから攻め込んできている訳ではない。それであれば、より大きな問題になりかねない呉軍を迎撃する方を優先するべきでしょう」
「諸葛誕将軍からは寿春方面から呉軍は来るとの事でしたので、肥陽を拠点として守る様にとの事」
「うわ、杜預殿、いつの間に? どうやってここに?」
いつの間にか鄧艾の元に控えていた杜預に、諸葛緒は驚いている。
「走ってきました」
「走って?」
「まぁ、彼はそう言う人ですから。しかし、肥陽ですか。そこはさほど重要拠点でもないし、何より呉軍の侵攻を許す事になります。文欽将軍には打撃を与えたといっても全滅させた訳ではない事を考えても、ここは附亭で迎撃しましょう。司馬師将軍は楽綝将軍にも追撃を命じられていましたし、王基将軍には今回の反乱の拠点攻略を命じられています。短期間でも呉軍を食い止めれば我々の勝利は疑いないのですが、呉が勢いづいてしまってはそれが瓦解する恐れもありますからね」
命令無視になる恐れはあるものの、鄧艾は諸葛誕が指定した場所ではなく別の戦略拠点である附亭に移動すると、そこに拠点をおいて呉軍を迎撃するべく準備を整える。
そこで体勢を整えている間に情報を収集していると、呉軍を率いるのは諸葛恪から大将軍の座を奪い取った孫峻であり、その数は十万と言う事が分かった。
しかもその兵力だけでなく、その配下には呂拠や丁奉、留賛といった呉軍でも十分な実績のある武将達も率いてきている。
「さすが、毌丘倹将軍。ただ遊んでいた訳ではない、か」
情報遮断によって新たな情報を得られなかった毌丘倹だが、ある程度の事を想定して先に呉に援軍を要請していたらしい。
毌丘倹と文欽の実力は、先の合肥新城での戦いで呉軍も知っている。
その時には騙されているので呉軍は動かないかも知れないと鄧艾は期待していたのだが、これが諸葛恪なら根に持って動かなかったと考えられたものの、新任の孫峻であれば手柄を立てる好機であると見たようだ。
司馬師から恐ろしく多方面での仕事を頼まれていた鄧艾だが、その中に呉軍の情報収集もあり、孫峻の事も調べていた。
諸葛恪が合肥新城で敗れて呉に帰った後、この孫峻の手によって殺された。
その地位を奪い取って丞相と大将軍を兼任する事となったのだが、孫峻には諸葛恪ほどの名声もある訳ではない。
その為もあって、孫峻は毌丘倹からの要請に乗って武勲を上げに来たと言う事だ。
呂拠や留賛は先の合肥新城の戦いにも参加している武将であり、丁奉は呉の重鎮である。
「なかなかに戦いづらい武将揃いですね」
「どうしましょうか」
鄧艾と違って、諸葛緒は不安で仕方がないといった表情である。
相手が十万の大軍で、その正面から戦った場合にはさすがに鄧艾と諸葛緒では手に負えないが、事態はそこまで単純ではない。
まず呉は踏み込んできたものの、その地盤を固めている訳ではなく、しかも手引きした毌丘倹はすでに敗北しているので援助も期待出来ない。
一方の鄧艾と諸葛緒は確かに十万の兵力を相手に守るには兵力不足であるが、呉軍が全軍で鄧艾達を突破したとしても、その後ろには諸葛誕や司馬師の本隊があり、しかも別動隊の楽綝や王基といった武将達も呉軍の側面を叩く事になる。
このまま退いてくれればと期待したのだが、それでは孫峻の面目が立たない。
撤退するにも、なにかしらの手土産が必要と言う事だ。
鄧艾は諸葛緒と共に呉の動向に目を光らせていたが、それより早く動きがあった。
楽綝が呉軍の側面を攻め始めたのである。
彼の父親は魏建国の臣の一人であり、五虎大将にも含まれる勇将の楽進。
その勇敢さは息子にも引き継がれていたようで、大軍にも怯む素振りを見せずに呉軍の側面を攻め込むが、いくら何でも単独での攻撃は勇敢と言うより無謀である。
楽綝の攻撃に対して対応している呉の武将は丁奉の様だが、今なら鄧艾の位置からであれば丁奉の側面を攻める事も出来そうだ。
が、そうすると呉軍の正面が薄くなりそうで、そこを突破される恐れがある為、鄧艾は攻めるかどうか悩んでいた。
「将軍、援軍が来ます」
「……どう言う事ですか?」
諸葛緒の言葉に、鄧艾は正しく情報を処理出来なかった。
「あれを見て下さい」
諸葛緒が指さした方向は魏の本隊の方で、後方で待機していた予備戦力の参謀部隊らしく、旗は鍾会のものだった。
それは呉軍とぶつかり合う部隊ではなく、ここで食い止める事を狙った兵力である。
「あれが居てくれれば、こちらも動けますね。私はこれから丁奉の側面を攻めて楽綝将軍を援護します。諸葛緒将軍は回り込んで、呉軍の反対側から圧迫してやって下さい。おそらくそれで呉軍は退く事でしょう」
「了解しました!」
鄧艾と諸葛緒は、それぞれ別方向から呉軍に攻撃を仕掛ける為に動く。
しかし、呉軍の動きが妙に噛み合わない。
丁奉は間違いなく名将であり、呉でも極めて重要な重鎮の武将である事は鄧艾も知っているし、それを疑っている訳ではない。
が、その後の行動が続かない。
本来であれば接近してくる魏軍が一隊であれば、丁奉で受けるのは良い。
硬い守りで動きを止めれば、あとはその左右から攻撃を仕掛けてその部隊を圧迫し、別の魏軍の連携が来る前にその部隊を潰してしまえば、魏軍は少数で分散している事になるので各個撃破する事も出来る。
だが、呉軍の連携は極めて悪い。
命令系統が機能していないのかも。だとすると、丁奉を叩くべきだ。名の通った武将を下げる事が出来れば、それで敵軍の士気も下がる。その後は楽綝と合流して呉軍の後方に回るもよし、二手に分かれて呉軍を混乱させるもよしだ。
鄧艾は見通しを立てると、一気に丁奉の軍の側面に突撃する。
そこからの丁奉の動きは早かった。
鄧艾が参戦してきた事を確認すると、丁奉はまともに戦おうとせずにすぐに後退して呉軍の本隊と合流する動きを見せた。
なるほど、その手があったか。さすがだな。
こちらから攻撃して退却させたのならともかく、自分から相手を誘う様に後退したのであれば士気の低下には期待出来ない。
それどころかこれで少数部隊による奇襲は厳しくなったとも言える。
「楽綝将軍、ご無事ですか?」
「おお、鄧艾か。来てくれると思っていたぞ。そうでなければ全滅していたところだ」
鄧艾が合流した時、楽綝はそう言って快く迎えてくれた。
鄧艾は司馬師直属なので、司馬昭の直属の様に秘密主義に包まれた者達以外との面識を得る事が出来た。
楽綝は父譲りの武勇と剛毅さを持つと評判だったが、先ほどの勇猛ぶりを見る限りではそれも評判通りというべきだろう。
「しかし、弱ったな。これでは打つ手が無いのではないか?」
「むしろ好都合でしょう。これで呉軍の足を止めたのであれば、後は撤退するしか選択肢はありませんから」
「ほう、面白い読みだ。では、追撃に有利な場所取りと行こうか」
呉の総大将の孫峻が何を考えているかは分からないが、丁奉であればこの戦が終わった事は察しているだろう。
魏でも名将と名の通っている毌丘倹を相手にしているはずの魏軍が、ここに兵を集められると言う事は、そちらに兵を回す必要が無くなったと言う事だと丁奉ならば判断出来るはずだ。
まして進撃の勢いを止められては、呉軍としても打つ手がなくなり撤退するしかない。
丁奉はそれが分かって後退したのだが、果たして孫峻は同じ判断をするかどうか。
にらみ合いの気配が漂っている中、まったく想定外のところから動きがあった。
逃走していた文欽と文鴦が、呉軍に合流したのである。
これによって呉軍は気をよくしたのか前進を始めようとしたその時、完全に勝負を決める一手が放たれた。
大回りで呉軍を攻撃する様に移動していた諸葛緒が、呉軍の後方に襲いかかったのである。
魏軍でも予想していなかった奇襲に、呉軍の混乱は魏の驚きを遥かに超えた事態となった。
「どうやら名将揃いの呉軍であっても、それを率いる大将軍はその武将達ほどの傑物では無いみたいですね」
「うむ、我らも祭りに乗るか」
楽綝と鄧艾もそれぞれに呉軍に突撃する。
この方面を守る武将は名将丁奉だったが、丁奉をしても守れるのは一隊のみ。
もしどちらかを守ればどちらかが攻撃すると言う連携が来るのは、何も丁奉でなくても分かる。
諸葛緒には呂拠が対応しているみたいだが、それだけに鄧艾か楽綝かの部隊は自由に相手の側面を狙う事が出来る。
それだけでなく、守りの備えだった鍾会までも動く素振りを見せた為に、呉軍はついに退却を始めた。
呉軍の殿軍に現れたのは、留賛の部隊である。
石苞が言うには歌う大男で呉軍でも最年長の老将のはずなのだが、首から下に老将を感じさせるところは無いと、石苞は言っていた。
何しろ歌いながら戦っているので、これまでにない恐怖を感じた、とも。
殿軍として勇戦している留賛の部隊だが、その歌は聞こえてこない。
「死兵ですね」
鄧艾は留賛軍の戦いぶりを見ながら思う。
この部隊は、もう呉に帰ろうとは考えていない。
留賛を含むこの部隊は、一隊の犠牲で軍全体を逃がそうと奮戦しているのが分かる。
こうなったら、その部隊は強い。
が、それでも多勢に無勢。
それぞれに攻撃をしていた鄧艾が諸葛緒や楽綝と合流した時には、留賛の部隊は壊滅寸前だった。
「……貴将が留賛将軍か」
鄧艾が目の前に現れた老将に尋ねる。
ギラつく目の老将は、息切れしながらも鄧艾を睨む。
「……魏、将、か。よもや、これまで、か」
折れた槍や刃こぼれした剣を手に魏の兵士を蹂躙していた老将は、途切れ途切れの言葉で鄧艾に言う。
異常なほどに顔色が悪く、ただ息切れしていると言うだけでなく、咳き込んだ時には血が混ざった唾が飛んでいる。
怪我もあるだろうが、おそらく病であり、しかも重篤な状態に見える。
歌が聞こえなかったのも、すでにそれすら出来ないほどの状態だったのだろう。
だからこそ死兵になって国に報いる覚悟なのだ。
「お見事です。将軍。呉軍は全軍撤退しました。孤立した将軍は魏に降るより道はありません。どうか、投降して下さい」
「そう、か。撤退、した、か」
そう聞くと、留賛は武器としての寿命を終えた折れた槍と、刃こぼれした剣を手に鄧艾に向かって切り込んでくる。
文字通り満身創痍の老将の、命を懸けた最期の突進だったが、鄧艾は何も一騎で留賛に向かい合った訳ではない。
そこには既に諸葛緒や楽綝の部隊もいる。
弓矢を構えた部隊が留賛を狙っているのは見えているにも関わらず、まったく怯む素振りも見せず突進して来る。
呉の猛将、留賛。
いつも戦場では歌いながら戦っていたと言われたが、最期はそれすらも出来ない状態であったにも関わらず、死の瞬間まで彼は猛将であった。
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