新説 鄧艾士載伝 異伝

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第二章 血と粛清の嵐の中で

第九話 二五三年 合肥新城の戦い 前編

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 春になってから呉軍の侵攻を掴んだ魏だったが、その対策の時間は十分にあった。

 とは言えなかった。

 司馬師としては当然先の敗戦による軍備の補充を最優先に考えていたのだが、皇帝曹芳に近付いていた李豊らによって再三の妨害を受けていたのである。

「まったく、連中は何を考えているんだか」

 当初は怒りを見せていた司馬師だったが、最近ではそれも通り越えて呆れていた。

「どうにも魏の国土を切り分けたい連中がいるみたいですね」

 弟の司馬昭はいつもどおり表情が乏しいので、毒づいていてもそれが本心からの嫌味なのか単なる皮肉なのかよくわからない。
 ただ不快に思っている事だけは伝わってくる。

「とにかく急ぎ合肥新城に援軍を送らなければならないでしょう。いかに名将である毌丘倹将軍であったとしても、小城で大軍を防ぐのは困難です。取り急ぎ石苞を向かわせますか?」

 鄧艾が尋ねると、司馬師は少し考えて首を振る。

「いや、石苞は自身の軍を持ったばかりの上に、少数の援軍では無意味だ。合肥は小城とはいえ守りやすい城。毌丘倹達には守りに徹する様に伝え、大軍勢を持って一気に呉軍を押し潰す。その時間を作らせよう」

「大軍と申されましても、総大将はどなたに?」

「叔父上に行ってもらおう。叔父上であれば実績人望共に申し分なく、合肥の士気も高まるはずだ」

 司馬師の言う叔父上と言うのは司馬孚の事であり、司馬懿の弟なのでかなりの高齢なのだが、王凌や丁奉達の様に自ら切り込む猛将ではなく指揮官として非常に優れた人物であり、今でも軍の重鎮として太尉の地位にあり職務に励んでいる。

「では、急いでその手配を済ませます」

 だが、更なる問題が追い打ちをかけてきた。
 蜀の姜維が諸葛恪の動きに連動して、雍州に攻め込んできたのである。

「姜維か。面倒な時に面倒な奴が動いてきたな。それだけ機を見るに敏と言っておこうか。雍州と言うのであれば、士載に道案内を頼もうか」

「それは構いませんが、私ではそれほどの兵を率いる事が出来ませんが」

「子尚、行けるか?」

「御意に」

 こうして合肥には司馬孚を、雍州には司馬昭を援軍として送る事が決まったのだが、そのどちらもが今すぐと言う訳には行かなかった。

 どちらにしてもそれなりの時間がかかるのだが、陳泰や郭淮のいる雍州にはその守備軍が駐屯しているので時間に余裕はあるにしても、問題は合肥だった。

 取り急ぎ援軍を派遣する準備を進めているものの、どんなに早くても七月くらいまでかかると言う報告が合肥にもたらされた時、合肥の兵に絶望的な空気が漂った。

 呉軍の侵攻が始まったのが四月であり、苦戦しながらも守り続けている。

 しかし三ヶ月以上持ちこたえよと言われると、いかに名将と言われる毌丘倹であったとしても苦しく厳しい戦いになるのを覚悟しなければならなかった。



「最低でも七月、か。夏が来るのが待ち遠しいな」

 毌丘倹は張特や文欽ら諸将を呼んで協議を開く。

「まず重要な事だが、食料や武具は足りているか?」

「そこに関しては心配いらないくらいに、十分に足りています」

 合肥の守将である張特は、城の中の物資の事はしっかりと把握していた。

「なるほど、一番の懸念案件は解決されたと言う訳だな。この上兵糧まで不足するとなっては戦どころでは無くなるところだった。では、呉は大軍なのだが、文欽。敵の兵糧を襲う事は出来るか?」

 毌丘倹に尋ねられ、文欽は息子にして副将の文鴦を見るが、文鴦は静かに首を振る。

「駄目だな。諸葛恪ってヤツはそこまで馬鹿じゃないらしい」

 大軍を相手にする場合、やはり最大の弱点となるのが大量に必要となる兵糧である。
 そこを叩く事が出来れば大軍であると言う事が逆に最大の問題となるのだが、さすがにそこを期待出来る相手ではなかった。

「では、残念だが正攻法で守るしかないか。包み隠さず正直に言わせてもらえば、俺の見立てで守れるのは六月までだろう。そこから援軍が来るまでの期間を何とか伸ばさなければならない。もし何かしら策を思いついた場合、どんな事でもかまわないから報告して欲しい」

 毌丘倹はそう言うと、そこからの守備の全軍指揮を取った。

 自ら城楼に立ち、弓矢を構えて兵を鼓舞し、時には騎馬を率いて呉軍と地上戦も行った。
 さらに文欽に呉軍に横槍を入れたりもしたが、呉軍は揺るがずに圧倒的な兵力を投入してきて苛烈な城攻めを続けてきた。

 それでも毌丘倹は当初の見立て通りに、六月までは守り通したがここで彼も予想していなかった大きな問題が発生した。

 疫病である。

「……ここへ来て、天さえも敵となるか」

 毌丘倹は空を仰いで呟く。

「将軍、これは必ずしも天が敵に回ったと言う事では無いかも知れません」

 疲れ切った毌丘倹に対し、張特が言う。

「呉軍の大軍だけでなく、疫病までだ。戦による戦死者だけでなく、負傷者さえも疫病が奪っていく。本来であれば、怪我が治れば戦場に戻り、魏の為に戦ってくれる者達を失っていく事が、天が敵対しているとは思えないのか?」

「将軍、物事が上手く回っていない時には全てが悪い方に向かっていると思いがちですが、少し考え方を変えて見て下さい。疫病とは、我が魏軍だけが患うものでしょうか」

 張特の言葉に、毌丘倹は考え込む。

「……確かにそうだ。しかし、同じ割合で発病していたにしても被害はこちらの方が大きい。先日はついに城壁の一部まで破壊され、文欽達も友軍としては使えずに防衛に回さねばならなくなった。これ以上は全滅か降伏かしか無い」

「どちらにしても浮かばれないですな」

 張特としては毌丘倹を励ますつもりで言ったのだが、彼ほど聡明であれば気休めにもならなかったらしい。

「……降伏?」

 しかし、張特はふと何かに思い当たった様に呟く。

「毌丘倹将軍、我々は開戦してどれくらいの日数を守ってきましたか?」

「二、三ヶ月だが?」

「いえ、出来ればもう少し正確な日数を知りたいのですが」

 張特の考えが読めず、毌丘倹は眉を寄せる。

「四月の始めからもうすぐ六月も終わると言う事を考えると、九十日程度か。それがどうかしたのか?」

「……では、この張特があと十日ほど時を稼いで見せましょう。その間に呉軍からは見えない様に城壁を補修し、兵を休め、病の者達を医師に診せておけば、そこから司馬孚様が到着されるまでさらに守る事も出来るのでは無いでしょうか」

「出来るのか? その様な事が」

「この張特にお任せ下さい」

「何か必要なモノはあるか? 全て用意させるぞ」

「必要なものは私の方で揃えておきます。毌丘倹将軍と文欽将軍は、総攻撃の為の鋭気を養っておいて下さい。それに表向きは降伏を装う事になりますので、城門など目に見える範囲を女官達に清めさせておいて下さい」

「……なるほど、見えてきたぞ。分かった、手配しよう。しかし、使者の責任は重大だぞ?」

「それは私が引き受けます。部下を危険な目に合わせる訳にはいかないですから」

 張特は無理にでも笑顔を浮かべて、毌丘倹に請け負ってみせた。



 この時、圧倒的優位に立っていた呉軍でも、問題が発生していた。

 楽勝と思われていた合肥の小城を約三ヶ月経っても落とす事が出来ず、被害が大きくなるばかりであった。

 それに、呉の軍勢でもやはり疫病が蔓延し、魏軍より猛威を奮っていた。

 こうなってはむしろ呉軍の方が、士気の低下が問題になって来たのである。

「丞相、ここは合肥新城に固執せず目標を近くの石頭城に向けてはいかがですか? 今の魏軍は合肥の防衛で手一杯。とても石頭城を守る兵力など無く、難なく落とす事が出来るでしょう」

 朱異の提案に、諸葛恪は眉を寄せる。

「石頭城、だと?」

「今のまま攻めたところで、合肥を落城させるのは難しいでしょう。このまま浪費するのは、呉にとっても損失です。それであれば、せめて石頭城だけでも落として手柄として兵を引き上げるべきでは?」

「兵を引くだと? 正気か?」

 諸葛恪は朱異を睨むが、朱異はその程度で怯む様な人物ではない。

「間も無く合肥は落ちる。それを捨てて、石頭城だと? その様な僻地の城を取って何とするのだ?」

「落ちないではありませんか。間も無くと言い続けて、もう一月が経ちます。兵にも疫病が蔓延し、士気も低下しています。丞相は詐術を用いて兵を騙しているだけではありませんか」

「朱異、言葉が過ぎるぞ!」

 留賛が朱異を止めたが、それは少し遅かった。

「この私が詐術を用いているだと! 兵を騙していると、貴様は言うか!」

「事実だろう! この大軍を用いて合肥の小城一つ落とせていないではないか! 丁奉将軍の言われた通りだったが、口車に乗った俺が馬鹿だった!」

「朱異、よさんか!」

 留賛は朱異を抑えて、諸葛恪から引き剥がそうとするが、その時には諸葛恪の忍耐がすでに耐えられる許容範囲を超えていた。

「たかが一武将の分際で、この丞相への暴言、自分の立場が分かっているのか!」

「実績を出せずして何が丞相か、笑わせるな!」

「誰か、この者を切れ!」

 諸葛恪は机を叩いて叫ぶ。

「丞相、朱異の暴言は確かに聞くに耐えないかもしれませんが、朱異には十分な武勲があります。ただの言葉で功ある者を切っては、軍の今後に関わります」

 留賛だけでなく、呂拠も朱異の助命を嘆願する。

「もう良い! 朱異、貴様の兵権を剥奪する! 単身、建業に戻り謹慎しておれい! 処罰は追って沙汰する!」

「喜んで待っている。せいぜい首だけにならない様に気をつける事だな。それではどの様な言葉も吐けなくなるぞ!」

「もうよせ、朱異! これ以上は、この儂が許さんぞ!」

 怒りが収まらない朱異に対し、留賛が強い言葉で止める。

 そう言う混乱があった中で、呉軍に魏から投降の意思を伝える使者が来たと伝わってきた。

「はっはっは! 見ろ! 魏軍は我々より追い詰められていたのだ! 朱異の如き凡将には分からないのだ! 魏の使者を迎え入れるぞ! 準備しろ!」

 諸葛恪は勝ち誇って指示する。

 呉の諸将はそれを不快には思ったが、それで戦が済むのであれば良しと考えたのか、指示通り魏の使者を迎え入れる準備をする。

「魏国合肥新城の守将、張特と申します。呉軍の総大将、諸葛恪殿。この度はこちらの申し入れを受け入れて頂き、誠にありがとうございます」

 魏の使者としてやって来た張特を、諸葛恪と呉の諸将は迎え入れた。

 が、それは当然無条件に、と言う訳ではない。
 これが偽りの投降であれば、その場で切り捨てる準備も出来ている。

「張特殿、勇戦は認めるところではあるが、それは総意なのか? それとも貴将の独断か、あるいは我々を罠に嵌める策か」

 諸葛恪は恫喝する様に言う。

「魏ではまず名乗り、それから要件を伝えます。それでなければ相手に失礼となるからです。呉での作法が違う場合には、この限りではありませんが」

 張特は恐れを見せずに言う。

「これは失礼した。呉軍の総大将であり、丞相の諸葛恪である。何分田舎者故、無作法は許していただきたい」

「こちらこそ御無礼いたしました。此度の投降は私個人の意見ではなく、毌丘倹将軍を含む合肥を守る諸将の総意です」

「ふむ。ではすぐにでも開城して頂こう」

「そこなのですが、一つ呉軍の方々にお願いがございます」

「聞こうか」

「魏では百日間城を守る事が出来れば、それ以降に敵国に投降しても国に残る家族が罰せられる事が無くなります。我らが合肥を守りはじめて、あと十日もせずに百日となります。それまで待っていただけないでしょうか」

「随分と都合の良い話ではないか」

 難色を示したのは呂拠だった。

「投降すればお前達は助けてやると言うのだ。それで十分ではないか」

「ですが、家族を人質に取られる事になります。今の魏の権力者である司馬一族の非道の数々、呉にまで伝わっているのではありませんか? あと十日程度で、それらの非道から家族を守る事が出来るのです。どうか、お聞き届けください」

 張特は泣き落しするかの様に言った後、切り札として持ってきた物を出す。

「これは合肥の戸籍や兵具、兵糧などを記したものでございます。投降した後に必要となるでしょうから、前もってお持ちいたしました」

 張特が用意したこれらの書類は合肥を支配する上で必要になる書類なのだが、今の呉軍にとって強い興味があったのはむしろ合肥の守備軍の現状だった。

「張特とやら、この書に偽りは無かろうな」

「もちろんです。こちらの誠意を示すためにも、何一つ書き漏らす事なく、また事実を隠匿する様な事はしておりません」

 留賛が凄むのに対し、張特ははっきりと言い返す。

 留賛が疑ったのは、魏の守備軍でまともに戦える兵士の数が、呉の体感や目算より大幅に少なかった為である。

「……この様な寡兵で守っておったのか。敵とはいえ、見事と言うしかあるまい」

「私は守将ではありますが、全軍の指揮を取っているのは毌丘倹将軍です。将軍は今の魏では随一の名将と評されるお方」

「その名は、呉でも聞こえてくるがこれほどの逸材であったとは」

「別動隊を率いる文欽と言うのも、相当な猛将ですよ」

 呂拠も書類に目を通しながら言う。

「苦戦させられた甲斐もあると言うものだ。張特よ、そちらの申し入れ、受け入れよう」

「有り難き事。ではさっそく城へ戻り、将軍方の受け入れの準備をさせます。十日の後にお越し下さい」

 張特は諸葛恪に礼を述べると、すぐに合肥新城へと戻った
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