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第一章 武勲までの長い道のり

第二十二話 二四八年 李勝の見た司馬懿

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 司馬懿が事実上引退した事によって、大将軍曹爽はこれまで押さえていた欲望のタガが外れたかの様に遊興三昧だった。

「大将軍、いくらなんでも政務を疎かにしすぎです。遊興に耽るなとは言いませんが、政務を疎かにしては示しがつきません。お父上の曹真様こそ、大将軍として手本とするべきお方。何卒、その背中を追い求めて下さい」

 毌丘倹は再三にわたって曹爽に諫言したが、それによって曹爽から煙たがられて遠ざけられる事となった。

「天下は三分されていると言われていますが、実際には蜀と呉を合わせでもしない限り、魏には到底及びません。こう言う情勢下において、大将軍が余裕を見せる事にこそ国民は安心感を得られると言うもの。大将軍が緊張しては、国民が不安を覚えます」

 毌丘倹が遠ざけられた後、何晏が曹爽にそう伝えていた。

「何晏の言にも一理あるとはいえ、やはりあの司馬懿の動向には気をつけるべきです」

 そう言ったのは、曹爽の信も厚い知恵袋と言われる桓範だった。

「司馬懿? 引退した老いぼれに何が出来る」

「何晏殿、そう言われますが、その引退した司馬懿の元に見舞いに訪れる者は後を絶たないとか。もし何か密談をされているとしたら、それは捨て置けない事態になりかねない」

 何晏とは違い、桓範は慎重で司馬懿への警戒を解こうとはしていない。

「そう言う事でしたら、私が様子を見てきましょう」

 そう申し出たのは李勝だった。

「見舞い客が後を絶たないと言うのであれば、私が出向いたところで特に問題は無いはず。もし私の来訪を好まないと言うのであれば、それこそ何か良からぬ企みがあると思われますゆえ」

「李勝か、うむ、司馬懿の様子を見て参れ。あの古狸が油断ならない事に異論は無い。もし少しでも怪しいところがあったなら、すぐに知らせよ」

「御意に。何晏殿、桓範殿、お二方ともそれでよろしいか?」

 間に李勝が入った事で、何晏と桓範は引き下がる。

 曹爽陣営の頭脳とも言える二人なのだが、とにかく不仲である事は曹爽陣営にとっても悩みであった。

 お互いに能力の高さは認めているものの、とにかく性格に難のある二人である。

 何晏はその出自は秘されているが、噂では漢の皇帝であった劉弁りゅうべんの子でありかつての大将軍である何進かしんの孫と言われている。

 劉弁の子かどうかはともかく、何進の孫にあたる事は間違いなく、その様な名門の生まれで才能豊かと言う事もあって、武帝の子であった曹植とも親しかったと言う。

 また、怪しげな薬や香を好み、衣服も女物を身に付け化粧をしている姿から明らかに常人ではないところが見て取れる為、その評価は大きく割れていた。

 一方の桓範も長く魏に仕える重臣であるが、その性格は強情で傲慢かつ堅苦しいところがある為、言っている事は正しくても中々聞き入れられないところも目立つ。

 曹爽としても、桓範の知恵は頼りにしているのだが、桓範自身の事はさほど好ましく思っていないほどだった。

 何かと問題の多い曹爽陣営ではあるが、今のところは互いの利害が一致している為に協力体制にあるものの、司馬一族と比べてその信頼関係は脆いと言わざるを得ない。

 李勝としても、自身の栄達を第一に考えていた。

 彼は明帝の時代に一度罷免され、親しかった曹爽や夏侯玄のおかげで官職に復帰していたが、先の蜀侵攻の際には大敗を喫して武功を上げる事は出来なかった。

 曹爽陣営が自身の栄達を主目的としている者が多い中、何かしらの功を上げなければ自身の地位も脅かされると言う思いもあり、司馬懿の様子を見る事を提案したのである。

「有益な情報を持ち帰れば、荊州刺史の地位を与えるぞ」

 曹爽からそう言われ、李勝は俄然やる気が出てきた。

 曹爽は気前の良い太っ腹な性格なので、ここで口約束であったとしても実績さえ上げれば本当にその地位を貰える様になる。

 そう言うところは、曹爽は間違いなく大将軍の器であると李勝は思う。

 李勝は荊州刺史に就任する報告と言う事で、司馬懿の元へ訪れる事にした。

 あくまでも成功報酬としての荊州刺史なのだが、何も無いところに曹爽陣営の者が司馬懿を尋ねるのはさすがに不自然極まると言う事でそう言う事にしたのである。

 そうして李勝が訪ねた時、ちょうど司馬懿の見舞いを終えて帰ろうとしている夫妻がいた。

「その方らは?」

 李勝は夫妻に声をかける。

「南安より訪ねてきました、鄧艾と申します」

 男の方が名乗ると、妻の方も頭を下げる。

「ほう、貴殿が鄧艾か」

 李勝は馬上で言う。

 李勝としてはさして興味があるわけではないのだが、この鄧艾と言う名は最近曹爽陣営の中でも耳にする事のある名だった。

 遼東の乱では司馬懿に逆らって淮南へと異動になった人物で、これといって目立った武勲なども無い者であるにも関わらず、毌丘倹や王凌と言った武将達から一目置かれている奇妙な人物だと李勝は記憶していた。

 会ってみても、さほど威圧感のある男ではない。

 武将としても、見るからに猛将と言う文欽や名将と呼ぶにふさわしい毌丘倹、李勝と同じく復帰を果たした勇将である諸葛誕しょかつたんなどの様に、見ただけでその異才を感じさせると言う様な人物ではなかった。

 例えるなら、一介の農政官といったところである。

 それでも司馬懿自らが属官に任命した人物なので、油断は出来ないかもしれない。

「太傅の見舞いか?」

「ええ、ですがあまり長居しては太傅にもよくないと思い退散してきたところです」

「太傅のお加減は悪いのか?」

 丁寧に対応する鄧艾に、李勝は尋ねる。

「お年と言う事もありますが、さすがに以前よりは弱っておいでです。言葉の意味を取り違えておられたり、お薬を戻されたりと言う事もありました」

「ほう、それは心配だな」

 李勝は注意深く鄧艾を見るが、嘘をついていると言う様な素振りは無い。

 妻の方も神妙な表情をしている。

「李勝殿、お待たせして申し訳ない」

 鄧艾夫妻と話していると、司馬懿の私邸まで案内すると言う司馬孚がやって来た。

「それでは司馬孚様、我々はこれにて任地に戻ります」

「士載殿、ありがとうございました。任地でのご活躍、期待しております」

 鄧艾夫妻は司馬孚と李勝それぞれに頭を下げると、その場を去っていく。



「士載、あんたが面白い事言うから、笑いをこらえるので必死だったわよ」

「嘘は言っていませんよ?」

 鄧艾と媛は小声で話していたので、その内容は李勝には届いていない。

「あの李勝ってヤツ、敵なの?」

「相反する陣営に所属していると言う事がすなわち敵、と言う訳でもありませんけど、おそらく敵と言っても差し支えないでしょうね」

「それで士載はあんな面白い受け答えになったって事?」

「後の事は太傅にお任せします。私は太傅がどんな行動であっても言い訳出来る様な受け答えしか出来ませんでしたから」

 もちろん李勝にはそんな話をしているとは知るよしも無く、司馬孚に案内されるままに司馬懿の私邸に向かった。



 位人臣を極めると言っても過言ではない地位である太傅に上り詰めた司馬懿だが、その私邸はその地位にはとても相応しくない地味な、貧相とさえ言える様な私邸に李勝は驚く。

 その私邸には使用人なども極端に少なく、司馬師、司馬昭の兄弟や司馬懿の妻である張氏などが横たわる司馬懿の面倒を見ているといった状況である。

「見舞い客が多く訪ねてきていると聞いていたのですが」

「少し前までは来客も多かったのですが、最近では太傅のお加減次第と言う事もあってめっきり減りました。先ほどの鄧艾夫妻が久しぶりの来客でしたね」

 司馬孚は李勝の質問に答える。

叔達しゅくたつ(司馬孚の字)、誰か来ているのか?」

「都よりの来客で、李勝様がお見えです」

「ほう、李勝殿か」

 司馬懿は上半身を起こすと、李勝を手招きする。

「太傅、この度、荊州刺史を拝命致しましたので、青州よりやってまりました」

「ほうほう、幷州から。それはまた遠いところから」

「閣下、青州です」

「幷州は匈奴も多く、まだまだ安定しているとは言えないから大変だったろうに」

 司馬懿は何度も頷きながら言う。

「李勝殿、父は病のせいで耳も遠くなっております。お伝えしたい事がありましたら、こちらにどうぞ」

 司馬師が紙と筆を持って言う。

 確かにこのままではらちがあかないので、李勝は自身が青州から来た事と荊州刺史に任命された事を記して、司馬懿に見せる。

「ああ、青州であったか。これは失礼した」

 司馬懿はそう言って頭を下げる。

「しかし、荊州とはまた大任であるな。最近では諸葛亮は漢中から攻める手を好むものの、荊州を諦めた訳ではなく、呉の陸遜も合肥を見ていても荊州は狙っておるからの。李勝殿、気をつけられよ」

 司馬懿は本気で言っているが、諸葛亮はずいぶん前に、陸遜にしても数年前に他界している。

 そんな事すらも忘れてしまっているのか、と李勝は心配になってしまう。

「太傅、お食事ですよ」

 妻の張氏が粥を持ってきて司馬懿に食べさせようとするが、口に運んでも上手くそれを含む事が出来ずにこぼれ落ちる。

「太傅もお疲れの様ですし、私はそろそろお暇させていただきます」

 見るに耐えない光景であった為、李勝の方から先にそう切り出す。

「こんな様で、申し訳ない。我が息子の二人は、親の欲目かもしれないがどちらも優秀で、必ず魏の為になります。何卒、曹真大将軍にそうお伝え下され」

 司馬懿は立ち去ろうとする李勝にそう言うが、もはや曹真の後任として自らが大将軍を務めた事すら覚えていないらしい。

 口振りや内容から、どうやら司馬懿は諸葛亮と戦っていた頃まで記憶が遡ってしまっている様だった。

「わかりました。必ずお伝え致します」

 曹真に至っては二十年近く前に他界しているのだが、それを言っても仕方が無いと判断した李勝はそう答えた。

 その後司馬懿は横になって司馬師と司馬昭の二人を指さしたが、そこから言葉が出てこない。

 それは二人に客人を見送れと言っているのか、李勝に二人を頼むと言っているのかが分からず、李勝はただ申し訳なさそうに頭を下げてその場を離れる事にした。

「司馬孚殿、太傅はずっとあのご様子なのですか?」

「ここ数日で随分と弱られましたから」

 李勝は帰り道を司馬孚に送ってもらう時に尋ねる。

「先の鄧艾という者も見舞いに来たと言う事で少し話を聞きましたが、今日のご様子はそこで聞いていた以上でした。何か見舞いの品などを送りましょうか?」

「いえ、見ていただいた通り、太傅も弱られておいでです。殊更に見舞いの品などを送られても、謝意を述べる事すら出来ない恐れもありますので」

「……かもしれません。ここまでで十分です」

 李勝はいたたまれなくなり、司馬孚の送迎を切り上げ、急いで曹爽の元へ戻った。



「どうであった、司馬懿の様子は」

 曹爽の元へ戻った時、曹爽は宴の最中だった。

 独特の匂いの香が焚かれていた事から、今回の宴は何晏のものだと言う事が分かる。

 何晏の用意する香は、独特の匂いだけでなく妙に気持ちが高揚して正常な判断ができなくなるのだが、それが不快ではないと言う不思議な効果があった。

 桓範はそれを嫌っていたので、何晏が来ている時には顔を出さないのである。

 また、桓範はこの香は危険なので取り扱いを禁止するべきだとも曹爽に訴えていたが、この様子を見る限りではそれは受け入れられていないらしい。

「どうもこうも、想像以上の弱り方でとても見ていられませんでした」

 李勝は見てきた様子を、曹爽や何晏、夏侯玄らに話す。

「はっはっは、あの老いぼれ、そこまで弱っておったか。余命幾ばくとあるまいよ」

 何晏は高らかに笑う。

「何晏殿、いささか言葉が過ぎるのでは?」

「李勝、その様なお人好しではいずれ騙されて痛い目に合うぞ?」

 何晏は小馬鹿にした様に言う。

 何晏が重用されないのは、このように人を見下す傾向が強いせいでもあった。

「まあまあ、しかし司馬懿がそこまで弱っていると言うのであれば、もはや心配はいりますまい。魏は安泰ですな」

 普段は慎重で頭脳明晰な夏侯玄もそう言ったので、曹爽も満足して頷く。

 もしこの場に桓範がいれば、また夏侯玄も怪しげな香の影響を受けていない普段の状態であれば、李勝の報告に少なからず疑念を持ったはずなのだ。

 だが、李勝もまた曹爽や夏侯玄から認められた能力の持ち主でもある。

 その事を司馬懿から利用されていたと言う事を、この場で気付ける者はいなかった。
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